【思ったこと】
980222(日) [一般]言葉と文化、どっちが先か(その3) 2月19日の続き。 初めに、前回の日記で 個々の言語の形成過程は、その社会内部での生産様式や気候条件などのほかに、周辺の別の社会からの影響・圧力を受け多様に発達していくものと思われる。それは、自然環境の中で動物が多様な進化を遂げてきたことと同様であろう。と書いたことについて、「言語は必ずしも進化しない」というような御意見をいただいた。ここは、単に、社会のニーズに合わせて変容したという程度に書くべきであったかもしれない。じっさい、100年前や1000年前の言語に比べて、現代の言語は複雑多様化した部分もあるだろうし、逆に簡略化した部分もあるだろう。もっとも、動物の進化も同様で、必ずしも「発展」「高度化」することが進化とは言えないところもあるように思うが...。 さて、きょうは、もう少し話題を「言葉と文化」の問題に近づけてみたいと思う。「言葉が先」という主張に立てば、例えば、敬語が発達した言語では身分差別が生じやすくなるし、男性的な表現と女性的な表現がはっきりわかるような言語では、ジェンダーの問題が起こりやすいということになるだろう。一方、それに対して、やはり、社会変化が先に起こって、そのニーズに合わせて言葉遣いが変わってくるという主張もありうる。 私は、基本的には後者の主張が有力であろうと思うが、近年、英語の単語で「--man」を「--person」に変えようとする動きなど見ていると、ある程度は、言葉の改革から文化を変えようとする逆向きの効果もありうるのかなあという気がする。 これと関連するかどうかは分からないが、英語では「肩凝り」に相当する単語がない、と聞いたことがある。いちおう辞書では「stiffness in the shoulders」なんていう訳語があるようだが、日常表現ではあんまり使わないということなのだろうか。もしそうであるとすると、生理的には同じ症状でも、対処の仕方、治療の仕方が変わってくるという可能性もある。 「肩凝り」がないとすれば、サロンパスとかピップエレキバンとか電動マッサージ機なんていう商品はアメリカでは売られていないのだろうか。ついでながら、使い捨てカイロなんていうものはどうだろうか。アメリカ在住の方、どなたか教えてください。 このほか、同じ日本語でも「をかし」や「あはれ」が使われなくなったことによって物の感じ方が変わってしまったのかなあなどとも思うが、そういう感じ方をする人が少なくなったために言葉が死語化してしまったとも考えられる。 少し前に「日記猿人界」でも取り上げられた話題に「バカ」、「アホ」地域というものがあった。これに限らず、特定地域でしか使われない言葉には独特の形容表現があるようだ。東京の実家から京都に下宿するようになったとき、「しんきくさい」、「えげつない」といった言葉の実感が分からずに苦労したものである。京都には15年も住んだけれど、体の状態を表す「えらい」、「しんどい」、「きつい」なんていう形容表現の違いも、「〜しはる」、「してはる」という表現がどの程度の丁寧表現にあたるのかも、結局分からずじまいだった。 前回も述べたように、私は基本的には「社会が先」であると思うけれども、上の例などを思い浮かべると、同一環境にあっても使用する言語の違いによって感情変化に微妙な違いが出る可能性はあるかなあなどと思ってもみたりする。 |
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