【思ったこと】
980306(金) [回想]赤い靴の思い出 ちらほらと桃の花が咲き始めた。この季節になると、「桃のお花も、きれいに咲いて、...」という歌詞で終わる「思い出のアルバム」の歌が自然に浮かんでくるものだ。そこで、今日と明日は2回シリーズで、幼稚園の思い出のことを書いてみたいと思う。きょうは、たまたま「ドラえもん」で「赤い靴の思い出」を再放送していたので、私の「赤い靴の思い出」などを少々。 あれは年中組の時だったと思うが、私はおたふくかぜにかかって長いこと幼稚園を休んでいた。それが治って数週間ぶりに登園してみると、色白で目が茶色のお人形のような女の子と隣り合わせの席になっていた。名前は「N子ちゃん」といい、お父さんのお仕事の都合で転校してきたのだという。隣の席ということで、何かしら世話をやいたと思うのだが、さすがに40年も前のことは覚えていない。とってもおとなしくて、自由時間にも園舎の片隅で寂しそうにしていた姿だけが記憶に残っている。 N子ちゃんは、その後数ヶ月たって、私が風邪で休んでいる最中に再び引っ越していってしまった。 そのまますっかり忘れかけていたが、さらに1年ほどたったある日、家族で横浜の「港の見える丘」を散策していたところ、とつぜん母親が「あらっ」と叫んだ。向こうの高級住宅地のほうから歩いてくる母子がN子ちゃんとそのお母さんだったのだ。母親どうしで二言三言会話を交わしていたが、儀礼的な挨拶だけで、そのまま分かれた。N子ちゃんとは一言もしゃべっていない。 N子ちゃんが色白で茶色の目をしていたことと、横浜の山の手で会ったことなどから、小学校時代、しだいに想像上の「N子ちゃん像」ができあがっていった。それはまさに「赤い靴履いてた女の子」のイメージであった。 この話はこれで終わりではなかった。麻布中学の入試に落っこちた私は、第二志望の某国立大附属中学に入学したのであるが、何と、N子ちゃんも同じ中学に入ってきたのであった。しかし、「想像上のN子ちゃん」を余りにも素晴らしく描きすぎていたせいであろうか、高校進学後も含めて6年間同じ学校に通ったものの、現実のN子ちゃんとは、少なくとも恋愛に類するような付き合いは一切しなかった。しいて言えば、大学受験前にZ会の通信添削問題を一部解いてもらったぐらいだろうか。彼女のほうが遙かに成績がよかったのである。しかし、どこの大学に入学したのかさえ覚えていない。個人的な関心を全くいだいていなかった証拠であろう。 この話は、まだ続きがある。大学生の頃、百万遍近くの裏通りで、N子ちゃんにバッタリ出会ったことがある。なんでも京都に一人旅に来ているとのことだった。私のほうが家庭教師のアルバイトに行く途中であったので、二言三言あいさつを交わしただけで連絡先など知らせることなく分かれた。N子ちゃんは、やつれた顔をしていて妙におばさんぽく見えた。 この話はさらに続きがある。大学院生のころ、高校の同窓会の新しい名簿を見て驚いたのだが、N子ちゃんは何と、吉田中大路の同じ町内に姓を変えて住んでいたのであった。あとで聞いた話だが、何でも京都に一人旅に行った時に、理学部の大学院生にナンパされて、そのまま結婚してしまったのだという。 つい先日、中学の同窓会から卒業30周年記念パーティの案内をもらった。開催日が4月中旬ということなのであっさり欠席の通知を出してしまったが、無理してでも東京まで行くべきだったかなあ、などとちょっぴり後悔してみたりする。その同窓生の中でも、N子ちゃんほど奇妙な出会いが続いた人は珍しい。同時に「縁がなかった」とはこういうことを言うのかなあなどと思ってみたりもする。 |
【ちょっと思ったこと】 |
【新しく知ったこと】 |
【リンク情報】
|
【生活記録】
|
【家族の出来事】
|
【スクラップブック(翌日朝まで)】
|