【思ったこと】980412(日)
[心理]心理学の実験で分かること分からないこと(5)因果モデルと「小さな理論」
きょうは、昨日の補足のみ。「大きな理論」、「小さな理論」は調査研究を含め、因果モデル構築と密接な関わりをもっている。豊田(1998)[豊田秀樹 (1998). 構造方程式モデル−−共分散構造分析・入門編−−. エーアンドエー.]は、まず、「このため因果律は人間の思考に属しており、人間の視覚や思考から独立に実在するものではない。(p. 157)」とした上で、因果モデル構成にあたっての次のような点に留意する必要があると指摘している。
- データはモデルを積極的に確認しない。
- 因果律は常に不定であり識別できない。
- 因果モデルは要請の範囲で構成される。
豊田(1998)は、「因果モデルは要請の範囲で構成される」ということに興味深い事例を挙げている。昨年10月頃の日記で一度紹介させていただいたことがあるが、ここに、B.ラッセルからの次のような引用を再掲させていただく。
養鶏場で生まれたあるニワトリは、毎朝、農夫が目の前を通り過ぎて納屋に行くと餌がもらえるという事実に気がついた。生まれてこのかた例外なのない確固たる「因果関係」であった。しかし、ある朝、農夫は納屋から餌ではなくヒモを持って来て、そのニワトリは絞められてしまう。
ここで問題となるのは、「農夫が近づく→餌」という因果モデルの妥当性である。このモデルは、農夫がやってきて自分を絞め殺したという現象を説明できない。もし「農夫は自分を食べるために餌を与えている」という本当の因果モデルがあれば、毎日の現象と絞め殺される現象の両方を説明することができるが、賢いニワトリがいて毎日ケージの中で「農夫が近づく」ことと「餌が与えられる」関係について詳細なデータを収集しても、「本当の因果モデル」にいきつくことはとうていできない。
じつは、「農夫は自分を食べるために餌を与えている」にしても、究極の因果モデルであるという保証は全くない。もしかしたら、この地球は、というかこの宇宙全体は、ある宇宙人が実験のために作り上げた飼育ケージの中にすっぽり埋め込まれているのかもしれない。そして、農夫がニワトリを絞め殺す直前に、実験終了となって、宇宙全体が突然破壊されてしまうかもしれないのである。しかし、どんな賢い地球人も、そこで飼われているニワトリも、観察から得られたデータだけからは、「実験終了による突然の宇宙の崩壊」を予測することはできないはずである。
となると、そもそも観察データからは、絶対根本の因果モデルなど作れないということになる。そこで、「因果モデルは要請の範囲で構成される」という豊田氏の主張が意味をもってくる。
- 【実験研究では因果関係を積極的に示せても、相関的研究では分析者が想定した因果関係と矛盾しない状態が示されるだけである」との】主張は「実験的研究ではライバル仮説を排除する手立てが提供される可能性が高い」と言い換えるべきである。実験研究・相関研究にかかわらず、データは因果関係を積極的には示さず、常に分析者が想定した因果関係と矛盾しない状態が、少なくとも一つはあることが示されるだけだからである。
以上の指摘は、いずれも「小さな理論」の立場を示すものと言える。上記の留意点、共分散構造分析の立場から指摘されたものであるが、じつは、行動分析学も「因果律」について同じ立場をとっている。行動分析学的にみれば、科学的認識は、広義の言語行動の形をとるものだ。人間は、普遍的な真理をそっくりそのまま認識するのではなくて、自己の要請に応じて、環境により有効な働きかけを行うために秩序づけていくというのが、基本的な視点となっている。この点に関しても、昨年10月頃の日記に関連記述があったので再掲させていただく。
自然界には確かに法則のようなものが人間から独立して存在する。それは、人類の誕生前から存在し、人類が滅亡した後でも、宇宙の構造が質的に変わらない限り、同じように存在するだろう。しかし、それを人間が認識するとなると話は違ってくる。「科学的認識は、広義の言語行動の形をとるものだ。人間は、普遍的な真理をそっくりそのまま認識するのではなくて、自己の要請に応じて、環境により有効な働きかけを行うために秩序づけていくだけなのだ。」というのが、行動分析学的な科学認識の見方と言えよう。佐藤(1976)[佐藤方哉 (1976). 行動理論への招待. 大修館書店]は、この点に関して、科学とは「自然のなかに厳然と存在する秩序を人間が何とかして見つけ出す作業」ではなく、「自然を人間が秩序づける作業である」という考え方を示している。
<以下、不定期更新で続く>
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