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昨日の日記

4月25日(土)

【思ったこと】
980425(土)[心理]心理学の実験で分かること分からないこと(7)
  • 多数の要因の同時関与
     刺激そのものの及ぶ効果が安定していたとしても、別の刺激が同時に多数関与していれば、その単一の効果を検出することはきわめて困難となる。
     これに関して、豊田(1998)は、次のような難しさを指摘している。 [豊田秀樹 (1998). 構造方程式モデル−−共分散構造分析・入門編−−. エーアンドエー.]
     「実験的研究ではライバル仮説を排除する手立てが提供される可能性が高い」と述べたが、論理的には、非常に高次なベクトル空間のほんの1点において、そのきわめて近傍に位置したライバル仮説を排除しているにすぎない。非常に多くの要因が影響している研究領域では統制による実験的方法のみで因果関係を導くことは難しい。
  • 定義のあいまいさ
     物理学や化学に比べると、行動科学における刺激や行動の定義は、研究者によってマチマチであり、ときとして不明確なままに論じられることさえある。もちろんどんな分野でも、ある概念に含まれるかどうかの境界には多少の不確定部分があるだろう。しかし、「H2O」の定義に比べると、上記の「援助行動」はもちろん、「劣等感」、「創造性」、「不安」など、どれもこれも遙かに多種多様な定義が可能である。ある研究で「不安」について何らかの法則が得られたからと言って、異なる形で定義された「不安」にもそれが当てはまるという保証はない。
  • 極度の単純化、人工化への警鐘
     心理学実験では、実験がきわめて人工的な状況や課題で行われること、扱う要因と反応が極度に単純化されている場合がある。
     中谷(1985)は、記憶研究を例にあげてこの問題を指摘している[中谷和夫(編).(1985).パーソナル・コンピュータによる心理学実験入門. ブレーン出版.]。そこでは、かつて記憶研究が単純な無意味綴りを実験材料として行われてきたために「現実の記憶場面で重要な役割を果たしている記憶方略の問題、記憶の構造化や体制化の問題などがむしろ見落とされる結果となり、人間の記憶があたかも機械的な反復のみによって形成されるかのようにとらえられてしまった」という弊害が指摘されている。
    もちろん、単純化、人工化がすべて悪いというわけではない。実験的行動分析の中で伝統的に対象とされてきた、ネズミのレバー押しやハトのキーつつきは、単純かつ人工的な環境の中で測定される反応ではあったが、強化スケジュールでは、こうした単純化が功を奏し、日常生活行動の労働パターンと強化量との関係を質的・量的に解明するうえで大きな役割を果たした。
【ちょっと思ったこと】
980425(土)[言語]七五調の謎(1)

 よろずやさんの4/24付けの日記に「五七五の謎」についての話題があった。これに関して書棚を探してみたところ『七五調の謎をとく:日本語リズム原論』(坂野信彦著、大修館書店, 1996年 ISBN4-469-22127-9)という本があった。「あった」というのは、以前に興味をもって買って見たものの、暇がなくてそのまま書棚に飾ってあったという意味である。
まだ十分目を通していないが、最初のほうの部分で興味深かった点を列挙しておく。
  • 日本語の発話の最小単位は二音である。それゆえ、「目見て」は「めーみて」となる。
  • 名詞などの自立語には二音・四音のものが多く、それを受ける助詞には一音が多いことにより、文節の切れ目に自動的にポーズが入る。
  • 現代語の四割ちかくが四音語。カタカナ表記も、四音になるように省略されていく。
  • 二音のつぎは四音、四音のつぎは八音というように倍々の表現が構成されていく。八音は四字熟語のほか、「ふんだりけったり」「びんぼう暇なし」といった慣用句やことわざに、さらに八音の組み合わせとして「ごんべが種蒔きゃカラスがほじくる」、企業の宣伝文句ができあがっていく。
  • 日本語律文は八音・六音であるが、詩歌の主流は七音、五音の組み合わせとなる。
 このあと七音・五音の必然性とか、四三調結句忌避の過程などが豊富な資料をもとに論じられている。「字余りは必ず句の中途に『あいうえお』の母音を含む』という指摘も興味深い。
 日本語は、欧米語のように単語と単語のあいだにスペースを置かなくても判読できるしくみになっている。口語ではその判別を助けるために何らかのリズムが発達した可能性はある。もし外来語が四音に省略されやすいとすると、以前ちょっと議論になった「長音符号省略」の問題と関係してくるかもしれない。もっとも「コンピュータ」「ユーザ」「メーカ」などは四音ではないけれど...。

 著者は慶應義塾大卒、元中京大学教授となっているのですでに定年を迎えられた方かと思ったが、1947年生まれとある。あれ? 私より5歳年上なだけだ。現在どういうお仕事をされているのか、畑違いのためよく分からない。「1947」が誤植ということはないのだろうか。どなたかお教えいただければ幸いである。
 この話題、おもしろそうなので、不定期連載で思ったことを書き続けていきたい。
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