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昨日の日記

5月9日(土)

【思ったこと(1)】
980509(土)[日記]「じぶん更新日記」一周年(4)一周年記念クイズ
 きょうはクイズのフォームづくりに時間がかかった。こちらをよろしくお願いします。
【思ったこと(2)】
980509(土)[教育]修学旅行は必要か
 5/9の朝日新聞「天声人語」に、“大阪府松原市の中学校が、来年の修学旅行先に沖縄を選んだら、市の教育委員会から「待った」をかけられた。”ことについての論評があった。米軍基地を遠望する場所をコースに組み込んでいたことが「偏った価値観を押しつける」恐れありと判断されていたらしい。事実をありのままに直視することと、都合の悪い事実を覆い隠すことのどちらが「偏った価値観」の形成につながるのか、今後、歴史教育のあり方や全国各地の戦争資料館の展示内容をめぐる論議と合わせてじっくりと考えてみる必要があるように思う。

 ただ、そうした議論はさておくとして、私はむしろ、今の時代に、中学校や小学校が修学旅行をすることにどれだけの意義があるのか、そのこと自体に疑問を感じた。
 修学旅行が必要かどうか、といった議論はずいぶん昔からあるようだ。というのも、今から30年ほど前、私が中学生の頃に、確かフジテレビ系列の番組で「修学旅行は必要か否か」といったディスカッションをやっていた。私の中学から私を含めて5人ほどがテレビ局に招かれて一言ずつ「会場の中学生からの意見」を求められた。私自身の最初のTV出演だったことから、このことはよく覚えている。
 私が子供の頃はまだ戦後の復興期で、気楽に旅行ができるほど経済的余裕が無い時代であった。家庭の事情で修学旅行への参加を見合わせるという子供がいたり、旅行費用を捻出するために友達どうしでお金を出し合ったら親が怒って受け取らなかったというような映画を観た記憶もあるけれど、現実には、家族で京都や大阪に行かれない家庭であっても、せめて子供一人分ぐらいの旅行費用ぐらいは何とか工面できた。そういう点では、中学生のうちから日本の歴史文化にゆかりのある事物に直接対面することにもそれなりの意義があったのではないかと思う。

 しかし今の時代、不況が深刻になってきたとは言え、その気になれば、ディズニーランドに行く代わりに、家族全員や友達どうしで奈良や京都を巡ることもできるはずだ。時間に追われながら団体でゾロゾロ歩くよりもよっぽどじっくりと歴史文化にふれることができるのではないだろうか。沖縄への旅行なんかも、基地や戦跡を避けて首里城と玉泉洞と東方植物園と琉球村を巡るぐらいだったら(←あっ、これは一昨年に私がまわってきた所)、何も学校として行く必要はない。行きたい若者はアルバイトでお金を稼いで勝手に行くだろう。

 修学旅行にはもうひとつ、集団生活や集団行動に慣れさせるというような目的があったかもしれない。しかしそれだけを目ざすならば、キャンプとか、農作業体験のほうがよっぽど成果をあげられるはずだ。観光バスで神社仏閣や博物館などをまわったところで、身につくのはせいぜい行列からはぐれないように注意して歩くことぐらいだろう。

 手元に資料が無いので、そもそも修学旅行が教育上どのように位置づけられているのか、外国でも同じような取り組みがあるのか全く分からないけれど、現実に行われている修学旅行の中は、ただ「指導要領に決められているから」という惰性で、例年通りの場所をまわるだけのところが多いように思われる。

 確かに、例年と旅行先を変えるというのは相当に勇気のいることだ。松原市の中学校の場合は今年の長崎から沖縄に変更しようとしたことが「待った」のきっかけになったそうだが、このように生徒や父母の希望を取り入れて行き先を変える学校は珍しい。こういう時にはその年の旅行を平穏に終わらせたいという事なかれ主義が何よりも強くはたらくはずだ。従来と異なるコースを提案してもし事故にでも遭ったら提案者は責任を取らざるを得ない。そのことを覚悟でコースの選定を真剣に検討する学校はそんなには多くないだろう。
 仮に行き先を変える場合でも、ほとんど旅行代理店の提案どおりになるだろう。そして旅行代理店のほうも、代表的な観光ポイントと、博物館、遺跡、戦跡などを組み合わせて、無難なコースを設定せざるをえない。(余談だが、ちょっと前に社会問題となった、地方議員の海外視察なんかも似たところがある)。まあそういった事なかれ主義と妥協の産物が多くの学校の修学旅行として定着しているように思えてならない。

 修学旅行のあり方について、中央レベルでどういう見直しが行われているのか、この機会に調べてみたいと思う。ただ、現実に「廃止」を打ち出すことは、観光業界からの圧力があって難しいところがあるかもしれない。教育「改革」に熱心な政治家たちも、観光業界に損失を与えるような改革にはそう簡単に取り組めないだろう。

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 とは言ってみたが、生徒たちもそんなにバカではないから、行き先がどうあれ、それなりに独自の楽しみ方をするだろう。私の高校の修学旅行では伊勢神宮がコースに含まれていて、行く前には「なぜ学校として伊勢神宮への参拝を強制するのか」といった疑問が出されていたようだが(※)、実際には、伊勢神宮に行くことで信仰に目覚めたという同級生は一人も居なかったようだ。むしろ、宿舎の女子風呂の入り口のガラスが透けて見えた(私は迂闊にもそのことを知らなかった、念のため)とか、夜中に猥談をした(←あっ、これは私も参加した)ということのほうが印象に残っているという友人が多かったように思う。この際、教育上の意義なんぞを云々せずに、単なる親睦旅行ぐらいに考えてしまったほうがよいのかもしれない、と思ってみたりもする。(←そう言えば、30年前のTV出演の時にも同じことを発言したのだった)
※これについて学校側は「参拝は希望者だけとする。数年前から宿舎の予約をしているので今さら変更はできない」と回答したように記憶している。

<追記>斉藤久典さんからさっそく情報をいただいたので、一部をご紹介させていただく。
 松本は小学校は名古屋・知多半島方面、中学は京都奈良だったと思います。戦後の作文を見ると、地元選出の代議士先生のお世話で東京の国会議事堂に行ったという記述も見られます。政治家のサーヴィスに組み込まれていたのは、今の感覚からすると驚きです。

 日本で最初の修学旅行は、確か東京高等師範の付属校で行われたと記憶しております。戦前の一部上流階級の師弟から広がったみたいです。

 最近の関心は、私立の学校が生き残りをかけて、海外旅行とかを修学旅行に組み込んでいることです。全国の坊ちゃん嬢ちゃんが通う学校の修学旅行は、いまどうなっているのか。古い名門私立は、授業料も高いですが、それに輪をかけて高いのが給食費とか、制服代などです。この点は、公教育と私立との違いの報道でも、あまり見かけません。

 ちなみに私の高校には、修学旅行はありませんでした。
ついでながら、私の小学校の修学旅行(林間学校)は箱根、中学は奈良・京都、高校は、伊勢神宮・奈良・京都でした。いずれも東京にある学校です。
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