【思ったこと】
980916(水)[一般]信仰について(その4):普遍的真理と科学的認識 9/10の日記の続き。この連載の第一回の9/8の日記で、宗教は、世界観と人生観に分けてその意義や弊害を考えるべきだと述べた。これまで「人生観」に関して述べてきたので、このあたりで、「世界観」のほうに目を移したいと思う。ここでいう「世界観」とは、「世界とは」「宇宙とは」「物質とは」など。宗教的世界観の大部分は、神によって宇宙や人間、さらには自分という存在が作られたという考え方をとっているのではないだろうか。 この問題を考えるには、そもそも普遍的真理なるものが存在するのか、かりに存在するとして、我々はそれを先験的にそっくりそのまま認識できるのかということから出発しなければならないと思う。 まず、普遍的な真理が存在するかどうかと問われれば、私は、あるだろうと答える。それは、我々の住んでいる世界になにがしかの秩序があり、したがって予測可能性があり、かつ、その秩序は地球やその近隣の宇宙において共通性をもち、しかも安定しているという意味での「真理」である。そしてそのような真理は、人類の誕生以前、宇宙の誕生以後極めて短時間の後から現在を経て何十億年か後に至るまで安定しているものと予想される。人類誕生以前から存在していたという意味では、普遍的な真理は意識と独立して存在する、と言ってよいだろう。 問題はここからあと、つまり真理の認識についての捉え方である。小学校高学年から大学に入るまでの私は、「科学とは、初めから存在している普遍的真理をどうにかして見つける努力」であるとずっと思ってきた。しかし、この考えからを押し進めると、地道な実験研究などしなくても、ある日の突然の閃きで普遍的真理に到達できることがあるかもしれないという可能性も出てくる。 これに対して、大学入学以降、まったく別の見方があることを知った。それは、 科学的認識は、広義の言語行動の形をとるものだ。人間は、普遍的な真理をそっくりそのまま認識するのではなくて、自己の要請に応じて、環境により有効な働きかけを行うために秩序づけていくにすぎないというものの見方である。時間が無いので、その理由は明日以降に述べるけれど、いまの私自身は、この後者のほうの科学観を妥当なものであると考えるようになっている。 |
【新しく知ったこと】
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【夕食後の夫婦の散歩】第11日目:妻の歩数で2995歩。
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【生活記録】
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【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。【 】部分は簡単なコメント。)】
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