じぶん更新日記

1999年5月6日開設
Y.Hasegawa
[今日の写真] 農・薬学部西の銀杏並木。昨年このうちの1本だけ、なかなか葉が落ちないものがあった。今年は早めにチェックしてみたところ、画面左のようにまだ青々と葉をつけている。遺伝的特性によるのか、土壌によるのか、それとも何らかの薬物によるものか不明。

11月9日(火)

【思ったこと】
991109(火)[一般]「非設計物 対 設計物」、「二元論的一元論」から「心の豊かさ」まで

 11/9の午後、文学部会議室で、吉田民人先生の講演を拝聴した。吉田先生は、京大文学部のご出身の社会学者。東大の文学部長をつとめられ、御退官のあと現在は中央大学に籍を置かれているという。高名な学者の講演を居ながらにして拝聴できるのはまことに有り難いことだ。

 吉田先生のご専門は社会学であるが、それは実は世を忍ぶ仮の姿であって、本当は科学哲学者だと冗談半分に言っておられた。じっさい、この日の話題はDNA論や分子生物学から始まって、「設計論的自然観」とか「プログラム科学」、さらには「二元論的一元論」に関する話。講演時間が1時間余りと短く、その中で次々と聞き慣れない述語が飛び出してきたこともあって、私の脳はパンク状態。このWeb日記では時たま、拝聴してきた講演会の内容を私自身の言葉に置き換えて感想を述べることにしているが、今回はちょっとお手上げといった感じである。以下、疑問に思ったことをいくつか述べるにとどめたい。

 氏の講演によれば、物理科学は物質科学であり法則科学。自然の唯一の根元的要素は「物質エネルギー」であり、「法則」がその唯一の秩序原理であるという根本仮説にささえられている。。氏が否定される既存のパラダイムではこの唯物論と法則科学イデオロギーがすべてを統括し、生命や心や精神、宗教、人文科学などの対象もまた、最終的には物質エネルギー現象に還元され、それぞれを支配する法則が定立されると期待されている、という。しかし、私自身がこれまでに受け入れてきた行動分析学的科学観は、法則をこういうふうには見なしていない。この日記でも何度かとりあげたように、「科学的認識とは、人間の側で外界をどのように秩序づけるか」というのが基本だ。もちろん、自然界は無秩序ではなく、人類が誕生する前から、そしていずれ人類が滅び去った後でも同じような法則性をもって変化していくにちがいない。しかし人類は法則性をナマのままで受け止めることはできない。弁別学習とかルール支配行動というように、あくまで人間行動の形態の一環として秩序づけ利用していくだけにすぎない。そういう意味で、果たして物理科学の根元的要素は「物質エネルギー」であり、「法則」がその唯一の秩序原理とみなしてよいものかどうか、そのこと自体に疑問を感じざるをえない。ここで納得できないと、氏が強調している「設計論的自然観」とか「プログラム科学」との対比ができないから、私の思考は停止してしまう。

 氏の講演の中で興味深かったのは、プログラムの選択エージェントが当該システムの外部に存在する「外生選択」(exogenous selection)と、当該システム自体をエージェントとする「内生選択」(endogenous selection)の区別。選択様式はまた、プログラムの現実の作動結果に基づく「事後選択」(ex post selection)と、プログラムの仮想的な作動結果に基づく「事前選択」(ex ante selection)とに分けられるという。そして、
  • 自然選択:事後の外生選択
  • 権力による抑圧:しばしば事前の外生選択
  • オペラント学習:事後の内生選択
  • 意思決定:事前の内生選択
であるという。このあたりで「オペラント条件づけ」の話が出てきてドキッとしたものであるが、ここで吉田先生が考えておられるオペラント学習というのは、行動随伴性とか三項随伴性という概念が定着する前の、「行動が結果によって増えたり減ったりする」という単純な随伴性のことに限定されているような印象を受けた。例えば、鉢花が枯れないように水を与えるとか、ソフトクリームが床に落ちないようにバランスをとりながら歩くというような「阻止の随伴性」に基づく行動は現実の作動結果に基づく「事後選択」の範疇には含まれない。せっかく吉田先生が来られたのだから、このことだけでもお伝えしておけばよかったと悔やまれる。

 講演の最後のほうで吉田先生は、物の豊かさから心の豊かさへの転換をすすめる中での文学部の役割を強調しておられた。このことは大いに共感するものであるが、問題は何をもって心の豊かさとするかということだろう。

 行動論的人生観に立つならば、
生きがいとは、好子(コウシ)を手にしていることではなく、それが結果としてもたらされたがゆえに行動することである

つまり「物の豊かさ」とは「好子を獲得したことによって得られる豊かさ」、「心の豊かさ」とは「結果的に好子が随伴するように行動すること自体によって得られる豊かさ」。したがって、「心の豊かさ」を高めことは、かならずしも好子の質を変えることではない。好子は何であれ、とにかくそれによって強化される能動的な行動を多様化し、その出現機会を保障することが必要であるというのが私の主張であるのだが...。
【新しく知ったこと】
  •  11/10の朝日新聞家庭欄で「車の給油口って右?左?」という話題が取り上げられていた。日本自動車工業会としては特に左右の比率を調べたことがないが、メーカーによっては「軽のワンボックス車1車種を除いて全部右」(富士重工)、「全部左」(本田技研)、メルセデス・ベンツやBMWなどの外国車は全部右というように偏りがある。

     記事によれば給油口の左右の位置は、マフラーから遠い側に作るという慣例、FF車とFR車による違いなどによって決まってくるというが、法例上はマフラーと同じ側に作っても問題ないという。我が家の車について言えば、昨年まで乗っていたスズキのアルトが左、トヨタのライトエースは右。昔乗っていたホンダのシビックについては記憶がないが上記のメーカーの回答からみてたぶん左だったのだと思う。

     ユーザーとしてどっちが便利か、ちょっと考えてみた。
    • 将来、セルフ式の給油が普及するようになれば、運転席と同じ側にあるほうが近くて便利かと思ったが、ドアが開けにくくなるというデメリットもある。
    • ワンボックス車の場合、後ろの席の乗客は左側のドアから出入りするので、左側に給油口があると、給油中にトイレを借りるために車から出るのが不便ではないかと思う。常に左側にあるというホンダ車はどうしているのだろう。
    • 記事にもあったが、ガス欠で路上停車している場合は、歩道側(=左)に給油口があったほうがいくらか安全。


    余談だが、この記事の最後に、レバーを上下させて水道を出す規格が来年一本化されると書かれてあったが、はて、どっちに統一されるのだろう。上下といえば、私が子供のころにあった手動の井戸のことを思い出す。これも汲み上げの構造によって、押し上げた時に水が出るタイプと、押し下げた時に水がでるタイプがあった。押し下げた時に出るタイプは大気圧を利用しているため深い井戸には使えなかったと記憶している。
【本日の畑仕事】
小松菜、ミニトマト、トマトを収穫。気温が下がってきたため、トマトが色づかなくなってきた。そろそろおしまいか。
【スクラップブック】