じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
5月からずっと咲き続けている「赤花夕化粧」という草花(もともとは園芸植物だが、いまや雑草化している)の中に、白花があるとの情報が同僚から伝えられた。上京などの用事が重なってなかなか実物を見ることができなかったのだが、6/7の朝やっと確認。これって、どのぐらいの希少価値があるのだろうか。後方は普通の赤花。 |
【思ったこと】 _10607(木)[心理]象牙の塔と現場心理学(13)単一被験体法再考(その2)最後は一人に戻る 昨日の日記で、一人で(を)実験すること、すなわち「単一被験体法」の実験は、 一般には、被験者が少ない場合や個体差が顕著な場合に「やむを得ず」行われるもののように思われがちであるが、本来はもっと積極的な意義がある。そのことを考えた上で技法的な問題を論じなければ、入門者はそれを正しく活用することができない。と述べた。今回は、どういう点に積極的な意義があるのかを掘り下げてみることにしたい。 単一被験体法の意義を検討するにあたっては、そもそも心理学の法則、あるいは行動の原理と呼ばれるものが何のためにあるのかを考えておく必要がある。芸術作品のように額縁に入れて「ああ美しい法則だ」と鑑賞するためだろうか。 昨年9月12日の日記でふれたように、科学はおそらく「救うための科学」的なものと、それ自体に価値を有する「科学のための科学」がある。しかし、ピタゴラスの時代ならともかく、いまの時代、額縁に入れて「ああ美しい法則だなあ」などと鑑賞するために研究を進めるほどの余裕は少なくとも心理学には無い。身近に様々な課題が山積している現在、大部分の心理学はやはり救うための科学として機能しなければならないと私は思う。 「救うための心理学」にとって重要なことは、
従来、「一般性のある法則を見つけること」は基礎心理学と呼ばれ、「その法則が実際にどう働くかを調べること」はその応用であると考えられてきた。前者は大学の研究者が「象牙の塔」の中でシコシコと追究し学術雑誌に公表され業績として評価されるもの、後者は、教育や臨床の現場で実践されるべきものとして棲み分けが行われてきた。ところが、実際には、前者は必ずしも現場に役立たない。これは、保健管理センターの専任臨床心理士から大学の心理学の教員に転職した経験をもつ下山(1997、臨床現場と大学の狭間で.[やまだようこ編『現場心理学の発想』. pp.53-62.])が、 大学で行われている心理学は,建前としては人間の現実を理解するための学問であるのだろうが,実際は現実を理解するのとは異なったこと,時には現実を理解するのに障害となることをしているのではないかとの危倶さえ覚えることがある。と述懐しているところにも見られるし、精神科の医師でもある和田秀樹氏(和田、2000、『痛快!心理学』)が、 心のメカニズムを探る分野を「実験心理学」、不健康な心を治そうとする分野を「臨床心理学」と呼ぶことにします。というように二分し、「『万能の心理学』なんて、どこにもない」として、前者が臨床現場に役立たないことを暗に示唆した点にも見ることができる。 では、一般的な法則をさぐる心理学と、現場に役立つ心理学は目的や方法面において根本的に異なるのだろうか。私はそうは考えない。むしろ、上記の「一般性のある法則を見つけること」と「その法則が実際にどう働くかを調べること」をうまくリンクさせずに前者ばかり埋没していったところに問題があったのではないかと思っている。となると、後者はどのようにして検討されていくべきか。ここに、「この個体において、この原理はどのように働いているのか」という検証を得意とする単一被験体法の意義が浮かび上がってくるのではないかと思う。次回に続く。 |
【ちょっと思ったこと】
赤い満月と火星 昨日の日記で、地震予知の話題を取り上げたが、6/7は月齢がほぼ15、梅雨時には貴重な晴れ間の中に満月に近い月(満月は前日の午前10時39分)を眺めることができた。 何度か書いたことがあるが、夏至に近い満月は南の空低い位置に見える。太陽の高度(正確には赤緯)が高くなるぶん、その反対側にある月の高度が低くなるのが当然であり、北極周辺ではこの時期の満月を眺めることができない。 高度が低いこともあって、この夜の月は妙に赤く見えた。ちょうど、中接近間近の火星、さらに右側に蠍座のアンタレスが並び不吉さが漂う。一昔前に「大地震は満月や新月の前後に多い」という俗説が流布されたこともあって多少気になったが、これまでのところ、そのような情報は報じられておらず、富士山が噴火したという話も出ない。とりあえず一安心である。ちなみに、月の高度(赤緯)は6/8の午後2時前後に最南(マイナス23.5度前後)となる。6/8の晩も赤い月が見られそうだ。 |