【イランで思ったこと(6)】 990824(火)[旅行]皆既日食:1秒4000円で直接体験を求めた理由 今回の皆既日食の継続時間は、私たちの選んだ観測地点(イスファハン郊外のムバラケ公園)で100秒程度であった。旅行費用は、旅行代理店に支払う代金、成田空港までの往復、現地での買い物なでひっくるめて一人約40万円。もし日食見物だけを目的に参加したとすると、1秒ごとに4000円を支払った計算となる。いまの時代、コロナを見るだけだったらTVやネットのライブ中継だってある。果たしてこれだけのお金をつぎ込んで直接見物に行く意味があるのだろうか? こうした疑問に対して私が答えられることは、皆既日食の本当のすばらしさは言葉や写真では決して伝えることができないから、ということに尽きるかと思う。 どんな体験でもそうだと思うが、送り手と受け手の間に何らかの類似体験が無ければ、言葉や映像をどのように駆使してもその感動を伝えることはできないものであると私は思う。そして、類似体験による例え話にも限界がある。何かに似ていると伝えることは、本物を伝えたことにはならない。 例えば、酷寒の地で遭難し凍傷にかかりながら空一面に広がるオーロラを眺めやっとのことで救出された人が、ジャングルで原始的な狩猟生活をしている人々に自分の体験を伝えることができるだろうかと考えてみる。ジャングルで生活している人も一度や二度は道に迷って助け出された経験があるかもしれないから、苦しさについては共感できるところがあるだろう。またオーロラの美しさは、ジャングルで眺めた雷や虹に類似させることもできるだろうし、凍傷の痛みは火傷の痛みに類似させられるかもしれない。しかしそれらは所詮例えにすぎない。 話が飛躍するけれど、将来、ある宇宙探検家が別の銀河の宇宙人を訪れることが可能になったとする。この場合も、その宇宙人の生活が地球人そっくりであれば言葉や写真でその様子を伝えることができるが、もし全く別のぷよぷよ形で、個々人の概念なしに融合や分裂を繰り返していたとしたら、その生活や人生観、価値観などを伝えるのは至難のわざであろうと思う。 日食はどんなふうに見えますかと問われれば、「急に日が沈んだように暗くなる」とか「青空に突然真っ黒い雲が現れて太陽を覆った感じだ」などと答える。しかしそう答えるのは、他に似ているものが無いのでしようがないから例えているだけのことであって、実際に体験される皆既日食は何ものにも例えようがない神秘的・宇宙的なものであった。自慢話になってしまうけれど、どんなに素晴らしい写真を撮っても、言葉を巧みに駆使しても、共通体験の無い受け手にはその感動は伝えられないというのが今回の率直な感想であった(ま、世の中には言葉や映像だけでは伝えられない体験機会が無数にあるので、皆既食だけを殊更に賛美するというものでもあるまいが...)。 ※写真左は、皆既食直前の空の様子(写真内左下が私が全自動カメラで撮影したコロナの写真)。右側は、皆既食終了後の同じ場所の景色。 |