じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
【思ったこと】
980930(水)[心理]ふたたび血液型性格判断(5):なぜ「無い」から出発するのか 1998年9/29の日記に提示した留意点のうち帰無仮説の問題について考えてみたいと思う。 帰無仮説というのは、複数の群の間、もしくは個体内での条件差などについて「群間(条件間)には差が無い」という仮説をたてておいて、t、F、χ2などの値が一定以上の大きさに達したときにこれを棄却するという統計的検定の原理に出てくる言葉である。 帰無仮説が棄却された時の一般的な結論は、「ここで生じた差が偶然に生じる確率はきわめて小さい」ということであり、これを根拠にして何らかの効果の存在を確認していくことになる。血液型性格判断について言えば、特定の行動傾向や性格についての血液型の比率の偏りに有意な差が見られた場合には、「偶然によってそのような偏りが生じる確率はきわめて小さい」と主張することがこれにあたる(但し、具体的な特性について安定した有意差が得られない限りは、直ちに「その特性に関して血液型と性格の間には何らかの関連がある」との結論を出すわけにはいかない。念のため。) この手法で、帰無仮説が棄却されなかった時の正しい結論は、「ここで生じた数値上の差が偶然であるという可能性は捨てきれない」ということであって、「効果がないことが実証された」ということには決してならない。棄却域を分布の両端(片側検定では片端)に設定する以上、こういう結論しか出せないのはいわば宿命であって、言いかえれば、通常の統計的検定は原理的に「偶然性」を積極的には主張できない、血液型性格判断に関して言えば、「ゼッタイに関係が無い」などとということは実証できないということを意味している。 よく、心理学者は「血液型と性格は絶対に関係が無い」と否定していると言われるが、みなが「絶対に無い」と主張しているわけではない。また、これもよく誤解されるが、「血液型性格判断はなぜ当たっていると思われるか」という研究が「関係が無い」という前提が無ければ進められない研究だというのは、ハッキリ言って誤り。まったく次元の違う問題である。「人間の行動には性差が無い」という前提が無ければ性差別、ジェンダーの問題は研究できないのか。そういう意味では、一部の心理学者が“完全に「無い」”ことを前提にしているかのように決めつけることには問題がある。
では、立場を変えて、「関係が無い」が実証できないのだから、「これも有る」、「あれも有る」と言いたい放題でよいのか。言論の自由という点からは許されるとしても、これは科学的態度としてはふさわしくない。「無い」を出発点として、偶然とは言い難い関係性を地道に探索していくのが科学であって、直観やフィーリングだけで血液型人間「学」なるものをうち立て、「血液型の違いは一目でわかる」(例:能見正比古, 1973の目次)とか、「血液型これだけ知ったら嫌われる」(能見俊賢氏の1984年の著書)というように、本を売ることを優先するような「血の商人」的な態度は許されない。いや、占いなら大いに結構。勝手にやってくれればよい。しかし、いやしくも科学を口にするのであれば、まずは有意差が確認された特性についてだけ、その一般性や安定性を地道に検討すればよいのであって、それ以外の「本を売るための宣伝」は一切取り下げるという態度に貫くべきであろう。心理学者たちの多くが「血液型人間学」を標榜する人々を批判してきたのは、「血液型と性格は関係がない」からではない。こういう商業主義優先の似非科学の「研究」態度を批判してきたのである。 |