じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

10月6日(火)

1985年の日本教育心理学会総会の発表論文集と、3年後の長崎大学医療技術短期大学部紀要に発表した論文の最後の考察部分を以下に転載する。いずれも、元の論文を保管したワープロ・ファイルが見あたらないので、後者についてはOCRで、前者は印字が不鮮明でOCR認識が困難であったので長谷川がコピーを読み上げ音声で認識させることで再掲した。このため、句読点等の一部が原文と異なっている可能性があるのでご了承いただきたい。
  • 長谷川芳典 (1985).「血液型と性格」についての非科学的俗説を否定する.日本教育心理学会第27回総会. [東京都千代田区・国立教育会館]
    以上、二つの調査を通じて、血液型は、各人の行動特性を予測するうえでほとんど役に立たないということが分かった。それを信じる人々が多いのは、(1)記述があいまいで、検証のアミにかかりにくいこと、(2)誰にでも当てはまるような記述を、表現を変えて各血液型にちりばめていること、(3)都合のよいケースばかりを集め、まことしやかな事後解釈をしていること、などのためであろう。なお「性格型+血液型」という形で行動特性の予測を試みている著作も見受けられるが、性格型のみの分類と比べて血液型を付加することは本当に冗長でないと言い切れるのか、大いに疑問が持たれる。
     今回のデータのうち都合の良い部分だけに絞って検定を行えば、あるいは血液型の違いによる有意差が見られるかもしれない。しかし、もし有意差が得られたとしても、そこから、個人の行動特性までわかると考えるのはとんでもない飛躍である。仮に、ケチな人が、A型の60%、B型の30%を占め、両者の比率に有意な差があったとしよう。だからといって、あるA型の一個人がケチであるとは限らない。A型の40%はケチでなく、またB型には30%のケチがいるからである。行動科学の諸研究が明らかにしつつあるように、一人一人の人間の行動は、現在の環境、その人の経験の歴史、その人のもつ遺伝的特性など、多くの要因の相互作用によって生じるものである。「○○型だから、どのように行動したのだ」といった形の事後解釈的な「説明」は、行動の予測と制御を目指す行動科学の地道な努力に対する誤解を助長し、その普及を妨げることにもつながる。
     なお、本発表は、決して、血液型と行動特性が全く無関係であると主張するものではない。この問題についての科学的研究を妨げようとするものでもない。じっさい、Beardmore & Karimi-Booshehriが指摘しているように、特定の行動特性に影響を及ぼすような遺伝子が血液型遺伝子と連鎖不均衡にあるかもしれない。しかし上に述べたように、このことと個々人の行動の予測をすることとは別の問題である。いずれにしても、血液型と性格について真に科学的な研究を志すならば、まず客観的資料公表し、それに根ざして、検証のふるいにかけられるような主張をしていくという姿勢が必要であろう。
    【追記:Beardmore, J. A. & Karimi-Booshehri, F. (1983). ABO genes are differentially distributed in socio-econimic groups in England. Nature, 303, 522-524】
  • 長谷川芳典 (1988). 血液型と性格 −−−公開講座受講生が収集したデータに基づく俗説の検討,長崎大学医療技術短期大学部紀要, 1, 77-89.
     今回実施した諸調査からは,「血液型人間学」の主張あるいは「血液型と性格」の関係を支持するような明確なデータはなに1つ得られなかった.「血液型人間学」の書物が多数の人々に買い求められているのは,「血液型さえわかれば,初対面の相手の行動特性や自分との相性,あるいは相手の適性などがある程度予測できる」といった実用性に起因しているように思うが,少なくともこうした実用的観点から見るかぎりは,「血液型人間学」は何の役にも立たず,むしろ無意味な先入観や差別を助長するだけであると思う.
     「血液型と性格」の問題を論じるにあたっては,もちろん,上記の実用的観点とは別に,基礎科学的な観点からも検討を行なう必要がある.この観点から見れば,今回の調査は,血液型と性格の関係を全面的に否定する資料としてはまだ不十分である.そのような証明を行なうためには,はるかに多数のサンプルが必要であるからだ.たとえば,ある行動特性に合致するA型者が,日本人の平均的なA型者の分布より1%だけ多かったとしよう.その妥当性を調べるために500人のサンプルを抽出したとしても有意差が検出できるかどうかは疑わしい.もっとも,だからといって莫大な研究費を投じて何万人もの規模の調査まで行なう必要があるかとなると,これもまた疑問に思う.能見氏が私財を提供するならともかく,少なくとも公的な研究費を投じて大規模な調査を行なうにはなんらかの見通しをもつ必要があるが,これまでに得られた資料や関連分野の研究からはそのような見通しがまったく得られていないからである.じっさい,生物学的・医学的にみて,血液型が性格に差異をもたらすと根拠はなく(中原・富塚《15》など),しかも能見俊賢自身が認めているように(大西《5》,pp126-127),血液型のなかでABO式血液型だけを問題にしなければならぬ理由はどこにもない.ABO以外の種々の血液型が性格になんらかの影響をもたらすとすると,血液型の組合せは日本人の人口をはるかに上回ることになり【10】統計的検証は到底不可能になってしまう.また,能見父子らが集めたと称する「何万人ものデータ」も,見通しを与える根拠としてはあまりにもいいかげんである.彼らの「データ」の大部分は愛読者アンケートといった,「血液型と性格」に関して先入観が形成された人々から得たものである(大西《5》,pp109〜110).しかも,能見父子は,具体的質問項目や結果をほとんど公表していない.いずれにしても,印税や出演料等で大儲けをしている者たちが,彼らの主張に不利なデータまでをフェアに公表できるかどうかは疑わしい.
     血液型と性格のあいだにごく微妙な相関関係が確認されたとしても,それによって血液型と性格との因果関係が証明されたことにはならない点に留意する必要がある.日本では,北にB型者が多く南はA型者が多いなどと言われており(森本他《11》,pp 80-81),もし北と南の出身者が同数からなる集団に対してなんらかの気質調査を行なえば,「地域的な気質の差」を「血液型の気質の差」として誤って解釈される恐れがある.たとえば「スキーが好きか」という質問に対しては,北日本の出身者の方がより多くYesと答えるであろう.すると,僅かながらB型者でYesと答えた者の比率が高くなる.しかしこのことからB型気質がスキーの好みの原因となっていたなどと解釈できないのは明らかである.
     「血液型人間学」が「当たっている」と受けとめられる原因の1つとして,少人数の標本のなかで偶然的に生じた偏りに対してなんらかの意味を見い出そうとする傾向をあげることができる.調査4からも示されたように,少人数の血液型分布に対しては見かけ上の偏りを感じやすい.したがって,専門職業やスポーツ別に何百通りもの標本を集め,その中から見かけの偏りが大きいものだけを拾い出して自分の主張に都合のよいように適当な事後解釈を施せば,いとも簡単に「血液型人間学は当たっている」と思わせることができる.また,もしのちの調査で自分の解釈に都合の悪い偏りが報告された場合には,「時代の変化」などと言ってごまかすことができる(大西《5》,pp146).そのほか,血液型分布が,A型者:B型者:O型者:AB型者=4:2:3:1という日常生活ではあまりなじみのない比率になっていることも目分量による判断を難しくしているように思う.もし,4つの血液型が25%ずつの比率であったなら,人々は日常経験などと手がかりに,どの程度までが偶然的変動の範囲内であるかについて,より正確な判断ができたかもしれない.
     調査2のような質問紙法性格検査では,これまでにも「血液型人間学」に対する否定的結果が得られているが(《7》,《11》),能見俊賢はこの種の結果への反論として,「あなたは几帳面な性格ですか?」というような価値観が入る質問項目で血液型分布を調べても意味がない,などと言っている(大西《5》,pp146).しかしこれは,質問の表面的妥当性と因子的妥当性の違いを理解していないことから生じた誤解あるいは曲解である.科学的な手続を経て作成された質問紙法性格検査では,特定の質問にYesと答えたからといって,その質問の意味内容に一致する性格傾向を有するとは判定されない.たとえば,「新聞の社説を毎日読みますか」という質問にYesと答えたからといって几帳面な性格ということにはならない点に留意する必要がある【11】.
     能見俊賢はまた,神経質,几帳面,明るい,暗いといった言葉は,安易な性格表現であるなどと述べているが(大西《5》,pp165),これも,質問の表面的な意味・印象と,その項目が真に測ろうとしている性格因子との関係を理解していないために生じた誤解あるいは曲解であると思う.たしかに,心理学の諸概念は,しばしば日常生活用語と重複している.しかしYG検査で測定される「気分の変化」,「劣等感」,「協調性」などの因子は,いずれも因子分析的手続の中で抽出されたものであり,日常生活用語とは独立した概念である点に留意する必要がある.もともと,能見正比古は,「なるだけ価値評価の入らない日常生活での好みや行動の傾向を(アンケートで)答えていただいた・・・・」という方法で,血液型別の基本気質を探っていったという(大西《5》,pp110).その過程で,質問の表面的妥当性と因子的妥当性をどう区別したのか,あるいは性格因子や気質因子をどのような客観的基準に基づいて抽出していったのであろうか.じじつ,血液型人間「学」者が用いる性格用語の大半は,それらがどういう基準や手法で選ばれたものであるかが全く明らかにされていない.たとえば,能見(《14》,pp64-65)は,「親分のO型,リーダーのA型,親方のB型,大黒柱のAB型」,「ごますりのO型,ごもっともA型,たいこもちB型,調子いいAB型」などと述べているが,これら血液型別の性格表現がそれぞれどう異なるのかまったく明らかにされていないのである.能見父子らの性格表現のほうがよほど安易で幼稚であることはもはや明らかであると思う.
     「血液型と性格」の関係を論じること自体には,心理学の検討課題としての意義はほとんど認められないかもしれない.しかし,現実に多くの人々が俗説に惑わされ弊害がおこりかねない事態になっている以上,今後も,様々な角度からこの問題に関する具体的なデータを集め,それらを基に科学的な心理学の考え方を普及していくことが必要であると思う.
    ※引用文献表は次回に追加します