じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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2004年版(2)

目次
【思ったこと】
_41013(水)[心理]血液型差別番組を考える(10)「僅かな」と「顕著な」の判断基準

 これまでの考察の中で、ひとくちに「血液型と性格」と言っても

レベル1:統計的には有意であるが実用的には役に立たない程度の僅かな差

を問題にする場合と、

レベル2:実用的価値があるほどの顕著な差

を問題にする場合では、扱い方が大きく変わってくると述べた。

 そこで私が言いたいのは、2つのレベルでは肯定や否定の根拠となる証拠の採用の仕方が質的に異なるという点である。もちろん「僅かな差」と「顕著な差」の間は連続しており明瞭な境界があるわけではない。昨日の日記で述べたように、2つのレベルのどちらに属するかは、単なる絶対的な差の大きさではなく、むしろ

(a)差を考慮した場合のメリット、デメリット
(b)差を無視した場合のメリット、デメリット
(c)努力によって変えられる要因であるか

という別の基準に左右される。なお、以上とは別に、

レベル3:生まれつきの属性(性別、血液型、人種など)と結びつけて他人を判断してしまうことの不当性

という第3のレベルの問題があるが、ここではしばらく、触れないことにする。というのは、レベル3だけでレベル1やレベル2の議論を無条件に停止させてしまうことは、地動説に対する宗教的弾圧のように受け止められかねないし、レベル3だけで差別・偏見の危険性を訴えただけでは、レベル2の段階で「血液型ステレオタイプ(=テレビ番組などの一方的な情報によって固定観念を受け付けられてしまうこと)」に陥っている人たちを心の底から納得させることはできないからだ。つまり「血液型性格判断は差別につながるから口にしてはいけない」だけでは血液型ステレオタイプは打破できない。やはりレベル2の段階で、いかにインチキな「実験」や誇大解釈が行われているのかをきっちり指摘することが必要ではないかと思っている。




 さて、いわゆる「血液型肯定論」と「血液型否定論」との論争がいつもすれ違いに終わるのは、レベル1とレベル2の取り違え、もしくは意図的な論点のすり替えに起因していることが多いように思う。

 たとえば、「心理学者は血液型と性格の関連を否定している」などとよく言われるが、これは、レベル2における否定論であって、レベル1の「僅かな差の可能性」を頭ごなしに否定しているわけではない。

 「血液型と性格は関係があるかもしれないが、人間の行動はそれだけで決まるものではない。他の多種多様な要因が複雑に働いている以上、血液型だけでタイプ分けするのは間違っている」と主張する場合も同様である。この場合も、レベル1における「僅かな差」については肯定も否定もしていない。レベル2における否定論を展開しているのである。

 これに対して「血液型肯定論」の人たちのなかには、レベル1に関する免疫学やら脳やらの「研究」のうち肯定論に都合のよいデータだけを引用して、「否定論」は間違っていると主張する人がいる。ところが、レベル1でいかにも厳密な科学的態度をとっているように見える肯定論者が、レベル2になるとたちまち「批判的態度」を失い思考停止に陥る。明らかにヤラセとわかるような「実験」であっても、血液型による違いに肯定的な結果が得られている限りは「また1つ、肯定論の証拠が増えた」といって無批判に受け入れているのである。そしてそのことを批判されると、「これは、みんなで楽しむためにやっているのです」と居直る。これこそダブルスタンダードというやつだ。最近のテレビ番組の中にもこれと同じ論調が見うけられるように思う。


【思ったこと】
_41014(木)[心理]血液型差別番組を考える(11)血液型コダワリ主義と血液型クリティカルシンキング

 これまでの考察で、「血液型と性格」の議論は

レベル1:統計的には有意であるが実用的には役に立たない程度の僅かな差
レベル2:実用的価値があるほどの顕著な差
レベル3:生まれつきの属性(性別、血液型、人種など)と結びつけて他人を判断してしまうことの不当性

という3つのレベルに分けて考えるべきだと主張してきた。但し、昨日も述べた理由によりここでは今しばらくレベル3に触れないで、レベル1や2について考えていくことにしたい。

 さて、レベル1やレベル2を実験や調査によって検証する上で大切なことは、
  1. 一致法や差異法の併用(一致法や差異法については、こちらに概説あり)。
  2. 上記1とも関係するが、実験的に比較する場合は、血液型以外の要因はできるだけ揃えて比較すること。
  3. 血液型というのは無作為に割り付けできる要因ではない。血液型の比較を行うことは、厳密には、実験研究ではなく観察研究である(こちらの3.6.「無作為な割付に絡む問題」を参照)。
 「血液型」テレビ番組ではしばしば、幼稚園児に血液型別に色を変えた帽子やエプロンをつけさせ、血液型別にグループに分けた上で別々のテーブルにつかせ、スイカを食べさせたり、料理を作らせたりする「実験」をやっている。しかし上記の2.や3.を考慮するならば、あんなのは全く実験には値しない。

 血液型別に違う色の帽子やエプロンをつけさせるというのは、運動会で言えば、赤組、白組、青組、というようにグループ分けして競わせるようなものである。当然、それぞれのグループ独自の特徴が出やすくなる。出てきた特徴の中から自説に一致する結果だけを抜き出せば、いくらでも後付けで都合の良い解釈ができるものだ。

 同じテーブルで園児たちにスイカを食べさせた場合も、サンプルの独立性という点で問題が生じる。グループ内の一人が種を撒き散らせば他の子どもたちもその真似をする。逆に、リーダー格の子が行儀良く食べれば他の子もその影響を受ける。もちろん中には、個々バラバラの振る舞いを見せるグループもあるだろうが、大切なのは、グループ内の一人一人はもはや独立したデータではないということだ(こちらの2.2.6.参照)。

 さて、先日の「発掘!あるある大事典2 秋の芸能人血液型スペシャル」(10月11日の日記参照)では
各血液型者男女各1000人、計8000人にQ1「相性の良い異性の血液型は?」、Q2「相性の悪い異性の血液型は」という質問を行い、「相性が合う」回答数と「合わない」という回答数の差をランキングに使った。
という調査が行われたそうだが、これも、実施方法、結果のまとめ方、解釈、いずれの面においても重大な問題点を含んでいる。人数が多ければよいなどと考えたら大間違いだ。




 昨日も述べたが、「血液型肯定論」の人たち(の一部)のいちばんの問題点は、少しでも差異が見つかると無批判にそれらを「血液型の違いがもたらした証拠」として受け入れてしまう点である。

 これに対して、「血液型否定論」、少なくとも私が唱えるところの「レベル2血液型否定論」は、決して頭ごなしに血液型と性格の関係を否定するものではない。上記の「相性調査」の結果を解釈するにあたって、まずは「血液型の影響は無い」という作業仮説から出発し、見かけ上の「差異」について、他の人為的要因や偶発的要因が関与する可能性をしらみつぶしに検討していくのである。つまり、ここでいう「否定論」とは、クリティカルシンキング:
  • 物事を一面的ではなく、多面的に見たり考えたりする
  • 問題を解決するのに、いろいろなやり方を考え、試そうとする
  • 自分の考えに固執せずに、論理的な正しさや客観性を重視する
という態度を保持しながら事実に向かおうということなのである。

 というように考えていくと、いわゆる「血液型肯定論」、「血液型否定論」はむしろ次のように呼び方を変えたほうが適切であるかもしれない。
  • 血液型コダワリ主義(※1):なんでもかんでも「血液型と関係があるかないか」に結びつけてしまう人。
  • 血液型クリティカルシンキング(※2):自分の考えに固執せず、血液型以外が関与する可能性も幅広く考慮に入れられる人。


 次回は、「血液型クリシン」の立場から、先日の「相性調査」を多面的に考察する予定。

※1追記]
当初「血液型教条主義」と呼んでみたが、少し硬すぎる表現でしっくりこないので「コダワリ主義」に改めた。呼称として何が適切かは、依然として思案中。

※2追記]
 クリティカルシンキングについての最近の考察はこちらにあり。

【思ったこと】
_41017(日)[心理]血液型差別番組を考える(12)血液型相性判断をクリティカルな目で捉え直す(その1)

 これまでの考察で、「血液型と性格」の議論は

レベル1:統計的には有意であるが実用的には役に立たない程度の僅かな差
レベル2:実用的価値があるほどの顕著な差
レベル3:生まれつきの属性(性別、血液型、人種など)と結びつけて他人を判断してしまうことの不当性

 という3つのレベルに分けて考えるべきだということを繰り返し主張してきた。そして、10月14日の日記では、少なくともレベル2の議論に限っては、「血液型肯定論」、「血液型否定論」という対立軸を設けるのは誤りであり、むしろそれらは、
  • 血液型コダワリ主義:なんでもかんでも「血液型と関係があるかないか」に結びつけてしまう人。
  • 血液型クリティカルシンキング:自分の考えに固執せず、血液型以外が関与する可能性も幅広く考慮に入れられる人。
と呼ぶべきであると主張した。このうち「血液型コダワリ主義」は当初「血液型教条主義」と呼んでみたが、少々硬すぎる表現であり、今回は「コダワリ主義」に改めてみた。これ以外にも、「血液型固執論」、「血液型コジツケ論」などいろいろ浮かぶが、今ひとつピンと来ない。「コダワリ主義」という呼称はあくまで仮称であり、最善の呼称については依然として思案中であることをお断りしておく。

 さて、先日の「発掘!あるある大事典2 秋の芸能人血液型スペシャル」(10月11日の日記参照)では
各血液型者男女各1000人、計8000人にQ1「相性の良い異性の血液型は?」、Q2「相性の悪い異性の血液型は」という質問を行い、「相性が合う」回答数と「合わない」という回答数の差をランキングに使った。
という調査を行ったという。「血液型コダワリ主義」の人たち、あるいは番組制作者や司会者は、そこで見られた違いを何でもかんでも血液型の違いに起因するものであると解釈してしまう。これに対して「血液型クリティカルシンキング」の立場は、
  • 物事を一面的ではなく、多面的に見たり考えたりする
  • 問題を解決するのに、いろいろなやり方を考え、試そうとする
  • 自分の考えに固執せずに、論理的な正しさや客観性を重視する
という立場から、「血液型による違い」には何らかの歪みやアーティファクト、別の原因などが働いているのではないかと、多面的な分析を行おうとするのである。

 この「クリシン」の立場からとりあえず考えられる問題点は、10月11日の日記にすでに記してある。やはり、一番可能性が高いのは、
回答者はおそらく、自分の身の回りの人たちとの相性を周到に分析したのではなく、「血液型ステレオタイプ」に基づく「性格類型」、つまり、実際の血液型者ではなく、ステレオタイプに植え付けられた「血液性格型」への相性について答えている可能性が高い。
という点だ。例えば、過去のテレビ番組、雑誌記事、単行本などの影響により「血液型X型」について何らかの悪いイメージが植え付けられてしまっている人は、生身のX型者との相性ではなく、「X型イメージ」に対する好き嫌いによって相性についての回答をしてしまう。そして、同じ先入観をもって初対面のX型者に接し、実際とイメージが矛盾した時には「あなたの血液型はX型だが、X型にはとうてい見えない」というようなステレオタイプ丸出しの反応をしてしまうのである。

 ネットで検索したところこちらの方がすでに同じことを指摘しておられるが、まさにその通りである。
 発掘!なんとか大事典で、8000人にアンケートしたなどというから何かと思えば、なんとばかげた調査もあったものである。それで分かったことは、8000人分のステレオタイプの集積であって、なにか8000人も使って検証したのではなかった。
「血液型による相性について人々が持っているある種の信念」についての調査である。なにがばかげているかって、8000人もそろえても、8万人いや8億人そろえても、相性についての何かを検証するデータにもなりはしないであろう。
 では、その可能性を証明するにはどうすればよいか。クリシンの練習として、次回までにぜひ一緒に考えていただきたい。

【思ったこと】
_41018(月)[心理]血液型差別番組を考える(12) 血液型相性判断をクリティカルな目で捉え直す(その2)

 昨日の日記の続き。先日の「発掘!あるある大事典2 秋の芸能人血液型スペシャル」(10月11日の日記参照)で
各血液型者男女各1000人、計8000人にQ1「相性の良い異性の血液型は?」、Q2「相性の悪い異性の血液型は」という質問を行い、「相性が合う」回答数と「合わない」という回答数の差をランキングに使った。
という調査が行われたことについて、クリティカルシンキングの視点から見直しを進めていきたいと思う。

 まず、この「調査」に関しては実施方法に一部不明な点がある。いくら「血液型」好きの日本人といえども、8000人全員がそんなふうにして相手を見ているとは思われない。中には、「血液型では相性は分からない」あるいは「そのような調査には答えられない」という人たちだって居たはずだ。いったい8000人のうち何%がちゃんと回答したのか、あるいは、「血液型と相性は関連がある」と思っている8000人だけを寄せ集めたのか、このことを明示しないと、結果を正しく解釈することはできない。

 それから、

「相性が合う」回答数と「合わない」という回答数の差をランキングに使った。

という集計方法も大いに疑問が残る。例えば、X型者1000人がY型者との相性について答える場合、

(a)相性が合う200人、相性が合わない100人、どちらとも言えない700人、差し引き100人のプラスで「相性が合う」

という場合と

(b)相性が合う550人、相性が合わない450人、差し引き100人のプラスで「相性が合う」

では、中立的な回答の比率が大きく異なっており、同質のデータとしてランクづけするわけにはいかない。また、重要なことは、上記(a)や(b)はいずれも、単に差し引きの絶対値について述べているだけであって、何かの傾向を示唆するものではない。(a)や(b)のような結果が得られた時の正しい結論は、

●(X型者からみた)Y型者には、相性の合う人もいれば、相性の合わない人もいる。少なくとも実用レベルで、相性のよしあしを判断することはできない。

ということである。このことに限らないが、何が何でもランクづけしてそれに意味をもたせるようとするのは、クリティカルシンキングの精神に明らかに反している。




 では、上記の疑念が晴らされ、血液型の違いによる相性に顕著な差が出た場合はどう考えたらよいのか。その場合でもまずは、「血液型ステレオタイプ」の影響を考えるべきだ。

 回答者が自分の身の回りの人たちとの相性を周到に分析できる状況にないとするならば、まず第一に考えられるのはテレビ番組、雑誌記事、単行本などの影響である。「血液型X型」について何らかの悪いイメージが植え付けられてしまっている人は、生身のX型者との相性ではなく、「X型イメージ」に対する好き嫌いによって相性についての回答をしてしまう可能性が高い。

 この影響を調べる一番よい方法は、どこか別の国で、特定集団内の相性を調べ、それとは独自に、個々人の血液型データを取り寄せて、血液型による違いがあるかどうかを検証することである。この比較研究により、もし日本人だけで血液型による違いが顕著であるとすると、これはもはや「血液型別相性」の証拠ではない。むしろ、日本人がいかに血液型ステレオタイプに汚染されているのかという証拠になるだろう。

 これまでの考察で述べたように、「血液型と性格」の議論では、

●レベル3:生まれつきの属性(性別、血液型、人種など)と結びつけて他人を判断してしまうことの不当性

についても真剣に考えていかなければならない。日本人が血液型ステレオタイプに汚染されていることが事実として確認された場合は、差別や偏見を解消するための具体的な手だてが直ちに必要となる。

【思ったこと】
_41019(火)[心理]血液型差別番組を考える(14) 最近気になる「B型者への偏見」

 昨日の日記で、
日本人が血液型ステレオタイプに汚染されていることが事実として確認された場合は、差別や偏見を解消するための具体的な手だてが直ちに必要となる。
と述べた。

 最近このことで非常に気になるのが、B型者に対する偏見である。10月5日の日記で言及したように、

●「能力探検!ホムクル!!ABOAB血液型性格診断のウソ・ホント! 本当の自分&相性のすべてがわかるスペシャル」/放送日時 2004年6月5日 19:00〜20:50

という番組が批判を受けたことに対してTBSは、
 この問題に関してTBSに寄せられた抗議の大半はB型の人からでした。具体的には「B型に対して何故あんなにひどいコメントや偏見ばかりの結果を出したのですか」「B型だけが悪く言われる意味がわかりません」などという内容で,この事から差別に繋がるという懸念を示す御意見もありました。こうした御意見が多数寄せられる内容になってしまった事について、私たちは深く反省致しております。
と釈明している(この記述は、こちらのサイトに掲載されていたが、10月13日時点ではすでに削除されていた。)。

 「TBSに寄せられた抗議の大半はB型の人からでした。」と書くこと自体が波紋を呼ぶことにこの回答者は気づいていないようだが、それはそれとして、とにかく、この番組を視て傷ついたり不快に思ったB型者が少なからずおられたことは事実である。




 少し前に、Web日記仲間で、「B型度チェック」なるWeb診断の結果を公表する人たちが何人か現れた。当該のサイトには、15個の質問項目があり、「はい」または「いいえ」のどちらかにチェックを入れて結果ボタンを押すと、回答者の「B型度」がどの程度であるのか「診断」されることになっている。

 あくまで批判資料として最低限の引用にとどめるが、この診断モノには、
  • 10人以上の列に並べない
  • 図々しい人と言われたことがある
  • ルールは有って無いようなものだ
  • カッとなり人を殴った事がある
  • 地球は自分の為に回っている
というように、「YES」と答えると一般に社会的に望ましく無いと思われるような項目が多数含まれていた。そこで試しに、私の主観で、社会的に望ましくないと思われるほうにYESまたはNOにチェックを入れたところ、なっなんと「あなたのB型度は 極B型 です/あなたのB型度はカリスマ級です」と判定されてしまった(←じつは、ソースを拝見すると、作成者がどのような「判定基準」を持っているのかは一目で分かる)。

 ちなみに、この制作者の独り言ページには「”B型度チェック”評判悪いので廃止しました。」と記されているがリンクは生きているようである。

 作者自身は、別のところで
どの血液型がよい悪いではなく、いろんな性格の人と知る合う事に楽しみがあり、違う考え方も出てくるし、第一同じ性格の人ばかりじゃつまらないと思います。
とも述べておられるので、当人に悪気が無いことは十分理解できるのだが、そうはいっても、「B型度」という呼称は、どう考えたって「どれだけB型に近いか」という意味にしかとれない。それを、社会的に望ましくないと思われているような質問項目から測ろうというのは、いくらゲームであると言っても、やはり、B型者へ偏見の表れであるとの誹りは免れないように思う。ちなみにこの方は、「血液型推測」なるWeb診断も開設しておられるが、必ずしも当たっていないようだ。反面教師という言葉があるが、こういう推測テストは、むしろなるべく多くの人が受けたほうが、血液型ステレオタイプがいかに的はずれであるのかを体験的に理解する上で役立つかもしれない。




 ところで、世の中には、「わたしはB型だがそれで不利益を受けたと感じたことがない」とおっしゃる方も居られるし、B型有名人を賞賛しながら自分がB型であることを誇りにしている方もおられる。クリティカルシンキングの精神から言っても、少数の事例だけから「B型者差別」と断定することは望ましくないとは思う。

 とはいえ、差別というのは多数決論理(=ここでは、多数が認めたらそれを受け入れろという考え方)ではない。B型者100人中99人が「自分は不快ではない。いいよ。構わないよ」と言っても、残りの1人が「傷つけられた」と表明し、かつそれが、「レベル3:生まれつきの属性(性別、血液型、人種など)と結びつけて他人を判断してしまうことの不当性」を訴えているのであれば、それはやはり差別。断固として排除しなければならない。というか、100人中100人が「いいよ」と言っても、10年後に初めて出現する1人が差別を受ける可能性があるなら、我々はそれを未然に防ぐ義務がある。

【思ったこと】
_41020(水)[心理]血液型差別番組を考える(15) 自己体験から血液型偏見が生まれる一因

 昨日までの日記では、テレビ、雑誌、単行本、Webサイトなどの影響を受けて、各血液型者の性格や相性についてのステレオタイプな決めつけや偏見が助長される恐れのあることを指摘してきた。

 しかし、中には、

●自分は、テレビの影響など受けていない。あくまで自分自身の経験に基づいて、血液型による違いがあることを確信している。

という方もおられるに違いない。今回は、なぜそのような「確信」が形成されるのかについて、1つの可能性を考えてみたいと思う。

 まず、その前提であるが、自分の周囲の人たちが何型であるのか分からない時代には、そのような「確信」は生まれようが無い。ところが、猫も杓子も「血液型」、一国の総理大臣までが首相官邸オフィシャルサイトのプロフィールで血液型を公表している時代になると、その気になれば特に苦労しなくても周囲の人の血液型を知ることができるようになる。言わば、各血液型者が、赤、白、青、黄の鉢巻きをつけてウヨウヨしているような世の中である。

 ここで問題となるのが、各血液型者の比率である。日本の場合、A型者、O型者、B型者、AB型者の比率は、概ね、40、30、20、10%程度であると言われている。つまり、我々は、各血液型者を均等にサンプリングしているわけではない。20人の知り合いが居る人にとっては、概ね8人はA型、6人はO型、4人はB型、2人はAB型という内訳になる。

 だいぶ昔に“目分量統計の心理と血液型人間「学」”(詫摩武俊・佐藤達哉(編) 現代のエスプリ324 『血液型と性格 その史的展開と現在の問題点』,pp. 121-129. )にも書いたことがあるが、データというのは、数が少なければ少ないほど偏りが出やすいものだ。赤、白、青、黄の鉢巻きをつけた人が、それぞれ8人、6人、4人、2人、合計20人居たとすると、人数の多いために全体の特徴が見出しにくい赤い鉢巻きの人たちに対しては、どうしても「平均的」、「個性が無い」という印象を持ちやすくなる。いっぽう、人数の少ないために偏りの出やすい青や黄の鉢巻きをつけた人たちに対しては、「個性がある=マイペースだ」、「バラツキがある=二重人格的だ」といった印象を持ちやすくなる。

 要するに、自分の体験に基づくと言っても、日常の自然な接触の中では、均等にデータをサンプリングしたり観察できる状況には無い。血液型別の相性を考える時などには、このことをもっと自覚すべきである。

【思ったこと】
_41026(水)[心理]血液型差別番組を考える(16)ジェンダーと血液型差別/テレビ朝日の血液型好き嫌いアンケート

 26日夜、学内で開催されたジェンダーに関する研究発表会に参加した。「ジェンダー」自体については別の機会にまわすこととし、ここでは、血液型差別とジェンダーの関係について少しだけ考えてみたいと思う。

 今回の研究会の配付資料の中に、「生物学的決定論」についての言及があった。これは、「生物学や解剖学が運命を決定するという考えを指す言葉」であり、そこから「男性と女性は生物学的に異なっているから、要求も能力も異なり、それが社会的役割に反映される」という考え方が過大に扱われ、性差別主義を擁護する論拠として使われてきた経緯がある。

 もちろん、男性と女性では、染色体、身体の構造、ホルモンなど、生物学的には大きな違いがある。しかし、現代社会における制度、慣習、役割分業の多くは、そうした生物的差異の自然の現れではなく文化的に作られたものである。ジェンダー概念はそのようなところから成立している()。


ジェンダー概念を使用することには批判もある。“「生物学的性別」とは異なる「文化的・社会的性別」という定義を流通させることによって、逆に生物学的性別は不変のものであり、しかもジェンダーに先行するという因果関係を肯定しつづけることになる。つまり、生物学的決定論は斥けたにもかかわらず、生物学基盤論は残っている。”という批判だ。要するにジェンダーの対象とは、「ふたつのジェンダー」ではなく差異化という行為そのもの。


 少々脱線したが、日常行動の差異や相性を何でもかんでも血液型に結びつけるという「血液型こだわり主義」の人たちは、しばしば、「生物的決定論」を誇大解釈している。要するに、

●血液型が異なるというのは生物学的な違いである。生物学的に違う以上は、行動の差に何らかの影響を与えるはずだ。

という強い確信だ。もちろんそういう問題意識を持って、純粋に学問研究を行うことは何ら問題ではない。問題は、そういう地道な努力をせず、見かけ上の差が現れた時に何でもかんでも「血液型の違いが反映している証拠だ」という一面的な態度で物事をとらえてしまうところにある。

 最近、「男性脳vs女性脳」というような、いかにも医学的・脳生理学的な研究を誇大解釈したような俗説が流布され、新たな性差別に利用されていると聞く。血液型の場合も同様であり、
実は近年、世界中の科学者がこの「血液型」に注目し驚きの研究報告が続々と発表されているのです! ( あるある大事典紹介サイトより)
などと誇大解釈し、なんでもかんでも血液型に結びつけ、それを娯楽ネタにして視聴率稼ぎに使おうというテレビ番組が後を絶たない昨今である。




 なお、性差別の場合は、人々の固定観念にある「男らしさ、女らしさ」にとどまらず、すでに制度や慣習上の差別をもたらしている点が血液型差別とは大きく異なっている。しかし、昨今のテレビ番組や、番組サイトのアンケートなどを見ていると、今まさに、ジェンダーに匹敵する血液型差別偏見「文化」が作られようとしているのではないかという危惧の念をいだかざるをえない。

 例えばこちらのサイトに寄せられた情報によれば、テレビ朝日 これが日本のベスト100では、血液型アンケートなるものを実施しているが、その中には
  • Q7.あなたが恋人にしたいと思う異性の血液型は何型ですか?
  • Q8.あなたが結婚したいと思う異性の血液型は何型ですか?
  • Q9.あなたが友達にしたくないと思う血液型は何型ですか?
  • Q10.あなたが上司にしたくないと思う血液型は何型ですか?
  • Q11.あなたが部下にしたくないと思う血液型は何型ですか?
  • Q13.あなたが相性がいいと思う血液型は何型ですか?(男女問わず)
といった、血液型差別・偏見を助長しかねない質問項目が多数含まれている。こういうアンケートを実施し、同調者だけからの回答を集計して公表することが社会的にどういう影響を与えるのか、もっと慎重に考えてもらいたいものだ。

【思ったこと】
_41027(水)[心理]昨今の血液型論議(1)差異化とステレオタイプ化

 昨日の日記で、「ジェンダーの対象とは、「ふたつのジェンダー」ではなく差異化という行為そのもの。」という考えに言及した。これは上野千鶴子氏の『差異の政治学』で論じられているそうだが、私自身はまだ勉強不足でコメントできる立場にはない。これに関連して「差異化 ジェンダー」というキーワードで検索するといろいろなコンテンツがヒットする。中には、血液型にも言及したコンテンツもあった。

 「差異化 血液型」で検索してもいろいろなサイトが見つかった。このうち、幻想血液型人間学研究サイトでは、「架空の人物に血液型をつけてどんな意味があるか?」について興味深い考察をされていた[ ]。
11/9追記]
上記の件について「どのような点が興味深いのか」というお問い合わせをいただきましたので、追記します。私の興味は、もっぱら「血液型ステレオタイプ形成の歴史」を示す資料という観点からの興味です。開設者の御趣旨に反するかもしれませんが、「架空のキャラクターに血液型の設定をつける」ことが有用となるのは、作者と読者間、あるいは読者どうしで共通の血液型ステレオタイプが形成されている場合に限ると私は考えています。なお、これ以上の突っ込んだ内容については、いずれ時間的余裕のある時に 連載の続きとして執筆させていただく予定です。


 同じく「差異化 血液型」でヒットした栖原憲司のつぶやき試論(1999.10.31)では、各種の占いを考察するなかで、血液型占いに関して
...共同体内のルールや血縁のしがらみの論理では対応できない多様な未知の人達一人ひとりを相手に、個別に性格を読み取りそれへの対処を創出していくのはいままでの共同体的なやりかたでは殆ど不可能に近い。「血液型」は本来多様であるはずの他者をたったの四つに類型化し、それぞれの行動特性と対応方法を教える。未知の、時として不気味な他者に出会っても、血液型さえ判れば既知の四つのパターンのどれかとして理解可能な存在となり、また四つの対応法のどれかをとれば相手は安心な存在になるのだ。
「血液型」は未知のコミュニケーション領域に臨んで竦んでしまった日本人に与えられた、一時しのぎの便法だった。
仮説的な、バーチャルなコミュニケーションメソッドとはいえ、かつてのコミュニケーション様式に変わるスキルがこれ以外に存在しなかったために、恐ろしい勢いで血液型は「常識化」していくことになった。皆が信じれば「本当のこと」として流通してしまうのだ。自分や相手を血液型によって理解し対応する、という現在普通になった思考法はこうして「都市化した社会」の成立と深く関係している。
と論じておられる。もっともこの考察は1970年代に大ブレイクした血液型占いについて論じたものである。「赤信号みんなで渡れば怖くない」ならぬ「血液型、みんなで叫べば怖くない」のごとく、この半年余りのあいだに、大民放各局がこぞって血液型ネタを取り上げている現象までは説明できていないように思う。




 さて、「差異化」というと、漢字上の意味から、なんとなく、

●本来同じに扱うべき対象を違うように扱う

という意味に捉えがちであるが、実際はゼンゼン違う。血液型に関して言えば、

●本来多様な対象を、無理やり類型化して、同じものとして扱う

というところに本質的な問題がある。つまり、類型化することは差異化であるが、類型されたあとの集団内部ではむしろ多様性が否定され、ステレオタイプ化が進められるのである。

 このことは、統計的検定によって血液型性格判断の正しさを検討しようという議論にも大きくかかわってくる。統計的検定それ自体は現象の多様性を否定するツールでは決してない。しかし、実際に有意性を検定する時には、多様な要因のうちの1つだけに注目して、平均や比率の差が偶然の範囲を超えるものかどうかを計算するのである(←多変量解析についてはここでは触れない)。この日記では
  • レベル1:統計的には有意であるが実用的には役に立たない程度の僅かな差
  • レベル2:実用的価値があるほどの顕著な差
  • レベル3:生まれつきの属性(性別、血液型、人種など)と結びつけて他人を判断してしまうことの不当性
という3つのレベルにおいて血液型論議が必要であることを繰り返し主張してきたが、レベル2における議論では、単純な有意差検定は必ずしも有用なツールにはなりえない。なぜなら、統計的検定それ自体は、多様性の存在を積極的に肯定しないからである。

 もちろん多様性といっても、ただ「いろんな違いがあります」という消極論ではダメだ。多様性の原因となる諸要因とそれら相互の関係を明らかにし、その法則化で、行動の予測や制御が何%可能になるのか、実績を示していく必要がある。それが100%に近づけば、他の無用な要因は必然的に排除される。血液型論議も最終的には、「そんなものウソだ」ではなく、「そんなもの不要だ」という形で排除されていくべきものかと思う。

【思ったこと】
_41028(木)[心理]血液型差別番組を考える(17)ランキングの心理

 10月26日の日記で、血液型好き嫌いアンケートに関連して、テレビ朝日のこれが日本のベスト100という番組紹介サイトにリンクをはった。この番組については、7月15日の日記でも取り上げたことがある。ランキングと言えば、日記才人でも今月の得票ランキングや、累計得票ランキング経験値ランキングなどがあって、私自身も参加している。また最新のニュースでは、1位デンマーク、42位日本、北朝鮮167位(最下位)というランキングもあった。これは、非政府組織「国境なき記者団」が発表した「報道の自由ランキング」だそうだ。そもそもランキングとはどういう意味を持つのだろうか、これを機会に考えてみたいと思う。

 まず、統計学的に言えば、ランキングというのは、数量データを順序尺度上で並べ、上位から1、2、3という整数を対応させる操作である。これには3つの目的がある、

 1つは、大小以外の比較が本質的にできないデータを扱う場合だ。岩石の硬度、震度(←最近では機械的な測定に委ねるようになっているが、震度というスケール自体は順序尺度)、スポーツ競技の順位などがこれに相当する。

 2つめは、データ自体は間隔尺度や比例尺度であるが、分布に大きな偏りがある場合。この場合は変数変換という手法を使うこともできるが、順序尺度として扱って統計分析(ノンパラメトリックな検定、順位相関など)したほうがより的確な結論を導き出せる場合がある。

 3つめは、情報を簡潔に記述するという目的で順位だけを公表する場合。例えば、宴会の席で、最初の挨拶は最年長者に、乾杯は2番目の年長者、最後の挨拶は3番目の年長者にお願いするという慣習がある場合、それぞれが何歳であるかという情報はとりあえず必要無い。




 次にランキング表示がもたらす効果について。いっぱんにランキングは、競争の目安として使われる。オリンピックのメダル争い、野球のペナントレース、相撲の番付、歌番組でのランキングなどのほか、「大学ランキング」、「○○大学合格者高校別ランキング」、「司法試験合格者ランキング」など各所で使われている。時には、上位に上がること自体が目的化し、種々の弊害をもたらす場合もある。

 もう1つの大きな特徴は、統計的には意味のない(=偶然的変動の範囲)差であっても、ランクづけすると何となくそこに意味があるように錯覚してしまうという効果があることだ。こちらのランキングによれば、宝くじが当たりやすいランキングでは「みずがめ座1位、うお座2位、....」などとなっている。どのように考えても、宝くじの当たりやすさが星座によって決まるとは考えにくいが(←しいて言えば、それぞれの星座人口の違いは反映するだろう)、何となく意味がありそうだという錯覚をもたらす。

 ちなみに、このランキングの血液型関係では、「社長に多い血液型ランキング」、「ご長寿な血液型ランキング」「一流スポーツ選手に多い血液型ランキング」、「アテネオリンピック日本人メダリストの血液型ランキング」などで、いずれもA型とO型が上位を占め、B型が3位、AB型が最下位となっているケースが多いが、日本人の血液型者の比率が、おおむね4:3:2:1である以上、比率の高いA型者やO型者が多数派を占めるのは当たり前だ。

 より最近公表されたこちらのランキングでも、血液型者の比率の違いが反映していると思われる「データ」は多いように見える。但し「各血液型の人口差を補正し」と但し書きがつけられているものもある。いずれにせよ、血液型偏見助長の証拠資料として保管しておく必要はありそうだ[]。


各血液型者を1000人ずつ選んだとしても、それぞれの人が接している人たちの血液型分布が4:3:2:1という偏りを持っていることには変わりない。この件に関しては、10月20日の日記参照。



2004年版(3)へ続く