じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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1月30日(月)

【思ったこと】
_60130(月)[心理]私はなぜ冬ソナにハマったのか(2)冬のソナタ第二部のシナリオを考える/異文化交流のステップ

 1月28日の日記で、
...そう言えば、たまたま、1月29日夜に輪舞曲−ロンド−「哀しい約束〜はじめての涙…」というチェ・ジウさん主演のドラマがあるそうだ(すでに2回分終了)。.....もし、同じようにハマったら、チェ・ジウさんの個人的魅力が冬ソナにハマる原因の1つになっていたと言えるだろう。
と書いたが、その輪舞曲−ロンド−「哀しい約束〜はじめての涙…」をとりあえず録画して、チェ・ジウさんが登場する最初のシーンだけを視た。

 チェ・ジウさんが作ったキムチや鍋が辛すぎるとか、トマトに砂糖をかけるものではないといった内容であったが、前後の文脈を知らずに視たため、何の話かさっぱり分からなかった。チェ・ジウさんご自身のお顔を、ちょうどユジンがイ・ミニョンを見つめるように念入りに拝見したが、どこからどう視ても、冬ソナのユジンさんには似ていなかった。それぞれの芝居で別人のように見えるというのは、役者としてさすがだと思う。

 俳優としてのチェ・ジウさんには、いろんな役を演じて活躍してほしいとは思うが、せっかく日本に来られて仕事をするのであれば、やはり冬ソナの第二部、つまり、不可能の家で再会というラストシーンからあと、ユジンとチュンサンがどのように生きたのかを描くようなドラマに出演してほしかったと思う。

 ということで、先日のシナリオ書き換えの試みにつづいて、私なりの続編シナリオを描いてみたのであるが、なにせ卒論締切直前の慌ただしさの中で、それをテキスト化することは到底不可能。明日以降、いくらかゆとりができた時に追加したいと思っている。ちなみに続編の基本的なコンセプトは、
  • 完全に視力を失ったチュンサンが、当初は、ユジンのお荷物になるのではないかと自信を失うが、あることをきっかけに、中途障害者として肯定的に生きる道をみつけ、ユジンと協力して、ある素晴らしいものを作り上げる。
  • その際には、「障害受容」や「障害克服」といった単純な発想ではなく、田垣氏がこちらで述べられているような、多様な視点を取り入れる。
  • 第一線の建築デザイナーとして、ユジン力強く活躍する姿を描く。
  • 第二部のラストシーンは、カン・ミヒ(チュンサンの母)とチュンサンを登場させて、真の母子愛を確認したところでハッピーエンドとする。
 文才が無いので、三文小説にも及ばないシナリオしか書けないが、自分としてはこういう展開で満足できると思っている。




 ところで、言うまでもなく、「冬のソナタ」は韓国のテレビドラマである。韓国の文化について最低限のことを知っておかなければ、本当の感動は得られないことは私も承知している。例えば、
  • 韓国の結婚制度。特に、両親の同意を得ることの意味
  • 雪に対するイメージの違い
  • 祖先、血筋、運命についての考え方の違い
などは、原作のストーリーの展開に大きな意味を持たせているのではないかと思う。このあたりは、こういう本やその他の関連書を読むことで、ある程度理解できるのではないかと思っている。

 但し私は、異文化交流は、文化の違いを理解することからではなく、まず、共通して感動できることを探すところから始めるべきだと考えている。その上で、一緒に協力できることは何かを探す。そして最後に、そういう共同作業を進めていく上で障壁となる文化的な差違や、歴史的な問題について、相互の理解を深めながら取り除いていく努力をするというステップに進む。実際には一本道を進むのではなく、行きつ戻りつの繰り返しで螺旋状に展開していくことになるだろうが、とにかく出発点は、「差違」ではなく「共感」から始まらなければならない。

 現在、日本と韓国の間には、過去の歴史についての認識の差違などさまざまな困難があることは承知しているが、交流の出発点からいきなり障壁を取り除こうとしてもなかなか先には進まない。これは、人間関係一般についても言えることだ。親密な関係は、まずは共通の感動体験、そして、共同協力関係の推進、最後は、障壁の克服という過程で構築されていくべきもの。スタート時点でいくら障壁を無くしましょうと言ったところで、先に目ざすものが無ければ進むはずがない。

 そういう意味では「冬のソナタ」は、異文化を超えて、韓国人にも日本人にも(あるいはさらに別の国の人々にも)共通の感動を与えてくれたという点で最大の価値があったのではないかと思っている。