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日本行動分析学会創立30年記念事業「熊野集会」〜生活と行動分析学〜2013年3月10日(日) 新宮地域職業訓練センター |
【思ったこと】 130315(金)日本行動分析学会「熊野集会」(1)高齢者と共に生きる(1) 2013年3月9日〜11日に、日本行動分析学会創立30年記念事業「熊野集会」〜生活と行動分析学〜が和歌山県・新宮市で開催された。この集会がなぜ新宮市で行われたのか、どういう趣旨であったのかについては、リンク先に、 日本行動分析学会創立三十年記念事業の一つとして、2013年3月に熊野集会(和歌山県新宮市)が開催されることになりました。新宮市は、当学会の創立メンバーであり、第2代理事長として、学会の発展に大きな貢献を遺した佐藤方哉先生のゆかりの地です。熊野集会は合宿形式で開催され、同じ時間帯に別のプログラムを重複させることはありません。参加者には同じテーマについて考え、課題を共有し、議論を深めていただきたいと思います。いくつかの社会的な課題について、今後、行動分析学の適用範囲を広げていくための契機となるようなイベントにし、会員同士のさらなる交流の輪を広げたいと思います。と記されている。もっとも私自身は、都合により3月10日のワークショップのみ参加させていただいた。 ワークショップの最初の話題は「高齢者と共に生きる」であり、私自身が、企画・司会者となっていた。トップバッターにご指定いただき、まことに光栄であった。 ワークショップではまず、私のほうから、スキナーの基本的な考え方を紹介させていただいた。当日は時間の制約があったので、より詳しく引用させていただく。
【思ったこと】 130316(土)日本行動分析学会「熊野集会」(2)高齢者と共に生きる(2) ワークショップでは、私自身の企画趣旨説明に続いて、芹澤隆子・日本ダイバージョナルセラピー協会理事長による話題提供が行われた。ダイバージョナルセラピーについてはこの日記で何度も取り上げているとおりであり、芹澤さんのお話も毎年複数回拝聴しているが、今回は特に、行動分析学との類似性・共通性に力点を置いてお話していただくよう事前にお願いしてあった。ご多忙のなか、私の勝手な注文を快く引き受けてくださったことに、まずは感謝を申し上げたい。 さて、話題提供ではまず、ダイバージョナルセラピーの発祥の地であるオーストラリアの高齢社会の実態が日本と比較された。日本とオーストラリアでよく似ているのは平均寿命が長いことであり、2011年の統計では日本は83歳で世界1位、オーストラリアは82歳で世界2位となっている。なお、ネットで最新情報を調べたところでは、この数値はほぼ変わらないが、サンマリノ、アンドラが、日豪とトップ争いを演じているデータもあった。また、東日本大震災の影響などもあって、最新の数値では、日本人女性は香港に次いで世界2位、日本人男性は、世界第8位まで下がっているという。孫引きになるが、厚生労働省が昨年発表した平成23年度簡易生命表では 男性 1.香港80.5 2.スイス80.2 3.アイスランド79.9 4.スウェーデン79.81 5.イスラエル79.7 6.シンガポール79.6 7.オーストラリア79.5 8.日本79.44 9.イタリア79.4 10.オランダ・ノルウェー79.0ま、いずれにせよ、人口の多い国の中で、日本とオーストラリアが世界のトップに位置していることは間違いなさそうだ。 次に、日本とオーストラリアの著しい違いとしては、高齢化率(日本は23%、オーストラリアは13%)、自殺率(10万人あたり日本は24.4人、オーストラリアは8.2人)が挙げられる。また、GDPは日本が3位、オーストラリア13位で日本のほうが順位が高いが、一人あたりGDPでは、日本が18位、オーストラリア6位というように逆転してしまう。そして、「住みやすい国」ランキングでもオーストラリアは1位、日本は36位という、日本にとっては残念なデータが示されていた(こちらのデータでは、オーストラリアはフランスに次いで2位、日本は36位)。 話題提供ではそのあと、オーストラリアの高齢者の権利憲章や高齢者ケアの基準監査、ダイバージョナルセラピーの概要、レジャーの意義などが取り上げられた。これらについては2011年6月5日や2011年11月21日の日記(およびその翌日以降)で取り上げているのでここでは割愛させていただく。 【思ったこと】 130318(月)日本行動分析学会「熊野集会」(4)高齢者と共に生きる(4) 話題提供の後半では、ダイバージョナルセラピーの実践プロセスについての説明があった。
なお、以上は、当事者本位の実践プロセスであったが、施設などで新たな取り組みを推進する際の合意形成プロセスとしては、ASI(Accelerated Service improvement technique)や、RAIDのほうが良いという見方もある(2012年10月30日の日記参照)。 ダイバージョナルセラピーや、種々の福祉レクリエーション援助のプロセスは、行動分析学の厳格な評価・検証プロセスに比べると種々の点で曖昧さが残り、主観や思い入れが混入する恐れは十分にある。とはいえ、その分、実践者の豊富な経験に裏打ちされた形で全人的・複合的で当事者本位の評価・検証が実践できるという優れた面も見逃すわけにはいかない。 【思ったこと】 130320(水)日本行動分析学会「熊野集会」(5)高齢者と共に生きる(5) 順序が前後するが、話題提供の終わりのほうでは、ダイバージョナルセラピストの役割について紹介があった。
芹澤さんの話題提供にもあったように、「一人で新聞を読むことも、花を育てることも、の人の身体的、感情的、社会的、スピリチュアルによい影響をもたらすなら、それは“セラピー”といえる。」というのがダイバージョナルセラピーの基本。よって、「一般的効果が検証されているから実施、検証されていないのはインチキだから実施しない」という画一的な適用は禁物。アセスメントを十分に実施した上で、他の人にとってはどうでもよいことかもしれないが、この人にとっては意味があるという行動が見つかれば、それを支えていくのがダイバージョナルセラピーの仕事ということになるのではないかと思う。 もちろん、当事者が「こうしなければ絶対ダメだ」という固定観念に囚われていて、そのことによって健康を害していたり、ギャンブルに依存していたり、カルト宗教にマインドコントロールされていたり、悪徳商法から金を搾り取られているような場合は、もう少しクリティカルシンキングの目で、幅広く選択をしていただくようにオススメすることは必要かと思う。しかし、そういう例外を別にすれば、基本的には、当事者本位で、当事者にとって意味のある行動が強化されるように支援をするのがDTの重要な役割である。であるならば、その行動が適切に強化されていくようにサポートする上で、行動分析学の基本原理を学ぶことは必要不可欠ではないかというのが私の考えである。 【思ったこと】 130321(木)日本行動分析学会「熊野集会」(6)高齢者と共に生きる(6) 昨日の日記でダイバージョナルセラピスト(DT)の役割について述べたが、オーストラリアでは実際に
では、日本国内ではどうかということになるが、まず、そもそもDTの養成機関が存在していないため、現状では、短期間の養成講座を開催し、DTではなくDTW(ダイバージョナルセラピーワーカー)という形で資格認定を行う段階にとどまっている。但し、最近では一部の大学で、DTWの要件に合致するような一部の授業科目も開講されるようになったと聞いている。 いっぽう、DTWが実際に活躍する場は、現状では一部の高齢者施設に限られており、それも、法的・制度的な保障があるわけではなく、DTに理解のある理事長や職員の手で、自主的に取り入れられているのが現状であるように思われる。 ではどうすれば日本でも普及、定着していくのか? まずは、「単に衣食住環境が満たされているだけでは幸福とは言えない。人類の最大の権利は、行動して強化される権利である。」という理解を広めること。そして、高齢者施設の認証評価にあたって、そういう項目を加えることが求められる。もちろんそのためには、スタッフの拡充、設置基準の見直しも必要となってくる。また、もし、団塊世代による施設利用のニーズが一段落して、高齢者の実数が減少していることになれば、ダイバージョナルセラピーを実施しているような施設に入居希望者が集まり、何も実施していないところは経営困難になって閉鎖される、という自然の淘汰がかかるかもしれない。もっとも現実には、順番待ちで希望施設になかなか入居できない方が大勢おられるようで、将来的に、競争原理によって質の向上がはかれるなどと考えるのは非現実的かつ無謀であるかもしれない。やはり、活動の輪を広げ、できる範囲でできることを実施し、体験の交流をはかるという地道なやり方が一番良いのかもしれないとは思う。 【思ったこと】 130322(金)日本行動分析学会「熊野集会」(7)高齢者と共に生きる(7)普遍的な効果検証よりも、その人にとって最適のセラピーを 昨日までの日記でダイバージョナルセラピーの話題を取り上げてきた。その中でも「高齢者と共に生きる」という本題からみて私が一番大事ではないかと思うのは、3月20日の日記で取り上げた個性の尊重という視点である。「一人で新聞を読むことも、花を育てることも、その人の身体的、感情的、社会的、スピリチュアルによい影響をもたらすなら、それは“セラピー”といえる。」と言われているように、その人にとって何がセラピーになるのかということは、事前評価なしには決められない。 そう言えば、最近、NHKのニュースなどで、ドッグセラピーが認知症の進行を緩和させるというような話題が取り上げられていた。もちろん、専門的な治療行為として行われる動物を介在させた補助療法としてのドッグセラピーの場合は、(全員ではないにせよあるタイプの人たちには有効という程度での)効果検証が必要であろう。なぜなら、もし全く効き目が無いのであれば、当事者にとって無用な時間となるばかりか、それを導入するために投じたコストまでもがムダになってしまうからである。しかし、それとは別に、犬好きの高齢者に対してAAA(Animal Assisted Activity、動物介在活動)の機会を提供し動物とのふれあいのサポートをすることは大いに意義深いことである。 これは、私自身も学会員となっている園芸療法についても言える。学会では、治療行為の補助療法としての園芸の効用を説く発表もあるが、私個人としては、そういう研究成果にはあまり期待していない。確かに、園芸活動を行う前と後、あるいは、何ヶ月にもわたる園芸活動行事への参加によって、ある種の生理指標やQOL指標が改善されるということはあるとは思う。しかし、療法的効果があるから導入しましょうということになってしまうと、園芸活動は目的ではなく手段になってしまう。要するに、健康増進、認知症進行緩和といった目的を達成するための手段として園芸を行うことになってしまうのである。 そういう形で、「アニマルセラピーは健康に良い」、「園芸療法は健康に良い」、「この食べ物は健康に良い」、「集団で歌を歌うことは健康に良い」というように、すべての活動が手段化してしまったら、高齢者は一日の大半を、健康という目的を維持するための手段的活動に費やすことになる。それでもって維持される健康とは一体何なのだろうか? もちろん、不健康なことは止めたほうがいいし、結果として健康増進に役立つならそれも悪くないが、「健康に良いからやる」という発想は本末転倒。手段と目的が逆になっているのではないかと私は思う。高齢者施設で動物の飼育を検討するとしたら、それは決して治療行為の補助というような手段であってはならない。個別のアセスメントを経た上で、動物の世話をすることが生きがいになるような入居者さんがおられれば、それ自体が目的でなければならない。園芸活動も同様で、植物の世話をすること自体が目的であるべきで、それが健康維持にどこまで有効かというような議論は二の次である。 であるとすると、多種多様な「○○セラピー」なるものは、効果の程度や普遍性で優劣を競うべきではない。自然科学的な発想をする方々の中には、「普遍的な効果を科学的に検証する」ことが唯一の研究の課題であると思っておられる方も少なくないように見受けられるが、そういう効果検証は、狭義の医療行為や薬物の作用の研究の枠内にとどめるべきであろう。それよりもはるかに重要なことは、アセスメントの中で当事者個人個人にとって何が意味のあるセラピーであるのかをしっかりと把握するための科学、そして、当事者がその活動を持続するためにどういう手助けが必要なのかを系統的に提供できる科学である。これらを最も得意としているのは行動分析学ではないかと私は思っている。 【思ったこと】 130325(月)日本行動分析学会「熊野集会」(8)地域と共に生きる〜地域通貨〜(1) 今回の熊野集会・ワークショップではこちらの日程にある通り5つのテーマと懇親会、さらに翌日の「まとめ」集会が行われたが、私自身は別の用事のため、1日目の午後までしか参加することができなかった。また一部のテーマについては、個人情報保護のためブログ等でコメントすることが困難な内容もあった。ということで、ここでは、私自身が企画・司会を仰せつかった「高齢者と共に生きる〜ダイバージョナルセラピー〜」の他に、もう1つだけ「地域と共に生きる〜地域通貨〜」についてメモと感想を記すことにしたいと思う。 今回紹介されたのは、地元新宮市内で流通している2つの地域通貨(「エコマネー壱神」と「TANKAKUエコマネー」であり、地元の新聞でもその一部が伝えられていた。ワークショップでは、地元の地域通貨の紹介に先だって、企画・司会の浅野先生のほうから、動物実験を含めたトークンの効用について簡単な解説があった。 ちなみに、私自身は京都心理学セミナーで ことばと体験をつなぐもの〜心理療法からエコマネーまで〜 さらに、日本行動分析学会第20回年次大会で 地域通貨と行動分析 という企画をしたことがあるが、最近はすっかりご無沙汰している。「エコマネー」が一般名詞化しつつあるわりには、地域通貨は定着しておらず、かつて全国から注目されていた地域通貨においても「当初の目的を達成した」との理由で活動終了となった地域が少なくないように受け止めている。であるからして、今回のワークショップでも、単発的な地域通貨の紹介に終わらず、地域通貨で何ができるのか、なぜうまくいかないことが多いのか、といった問題も議論する必要があるとは思った。 【思ったこと】 130326(火)日本行動分析学会「熊野集会」(9)地域と共に生きる〜地域通貨〜(2) 行動分析学の視点から地域通貨を捉える場合、最低限、
私が聞き取った範囲では、新宮市内で導入されている2つの地域通貨は以下のような仕組みになっていると理解した。なお「→」以下は長谷川のコメント
ということで、国家通貨との交換はできないが、当該の商店街で買い物する限りにおいては、国家通貨と同等の価値を持つ(商品が裏付好子になっている)という特徴があった。また、有効期間が定められているという点で、「保存(貯蔵)機能」や「増殖機能」を有していない。いずれにせよ、地域限定という点では広義の地域通貨の要件を満たしていると言える。 【思ったこと】 130327(水)日本行動分析学会「熊野集会」(10)地域と共に生きる〜地域通貨〜(3) 3月26日の日記で述べたように、「エコマネー壱神」と「TANKAKUエコマネー」はいずれも、地域限定という点では広義の地域通貨の要件を満たしているように見えた。またいずれも、商店街への顧客獲得、常連客拡大という点では一定の成果を上げているようであった。 そのいっぽう、本来の地域通貨、あるいは当初提唱されていた頃の「エコマネー」の理想から言えば、その効果はかなり限定的であるようにも思える。 いくつかのサイトに「残骸」が残っているように、当初提唱されていた頃の「エコマネー」は
もとの話題に戻るが、まず「エコマネー壱神」では、美化清掃活動に対して「エコマネー壱神」が支払われるという仕組みであった。もし、そのような活動を強化するということが目的であるならば、行動分析学的な効果検証が必要であろう。すなわち、まず、一定期間、美化清掃活動のベースラインを測定。続いて、「エコマネー壱神」導入後に、参加者数や清掃活動時間が増加したのかどうかを測定。その後、ABABデザインに基づいて、第二ベースライン期間を設定することが求められる。 もっとも、神社境内の美化清掃は、本来、
もう1つの「TANKAKUエコマネー」のほうは、地元商店街によるボランティア団体への補助金という性格のものであると理解した。但し、単なる寄付金と異なり、地元商店街以外では必要物品の購入ができない。その分、地元との絆を深める効用があるとは言えよう。とはいえ、ボランティア団体に参加している人たちの個々の行動に対して支払われる通貨ではないので、企画・司会の浅野先生が前振りで言及されたトークンの効用とは直接関係なさそう。悪く言えば「ひもつき補助金」、よく言えば「ボランティアと商店街とのコラボ」(←スライドにもあった)ということになる。 【思ったこと】 130328(木)日本行動分析学会「熊野集会」(11)地域と共に生きる〜地域通貨〜(4) 3月27日の日記でも述べたが、地域通貨には、制約つきで国家通貨と交換可能なタイプと、全く交換できないタイプがある。今回紹介された地域通貨はいずれも、地元商店街で商品と交換できるということであったので、前者のタイプであった。商店街は福祉や環境のコミュニティではなく、国家通貨と商品を交換する場であるからして、前者のタイプとなるのは必然とも言えよう。 しかし、前者のタイプでは、他の商店街や近隣の大型ディスカウントストアとの競合を避けて通るわけにはいかない。交通の便や品揃え、アフターサービスなど種々の条件はあるが、基本的に200円相当の地域通貨が行動を強化する機能を発揮できるのは、それを使ったほうが安く買えるという一点に絞られる。例えば、地元商店街でトイレットペーパーのパックが1000円で売られていたとする。200円相当の地域通貨を使えば、この商品は800円で買えるのでお得となる。しかし、近隣のスーパーで同一商品が700円で売られていたとすると、そちらのほうがさらにお得であり、200円相当の地域通貨は好子(コウシ)としての効力を失う。 いっぽう、「国家通貨と全く交換できない」という後者のタイプは、基本的に、お金では買うことのできないサービスの互恵、具体的には「地域社会で環境、介護、福祉、コミュニティーなどについて、新たに相互扶助的な人間関係を創造し、互恵のシステムを構築する媒介として活用」することを目ざすものである。 エコマネーが提唱された頃からこれら2つのタイプは混在していたが、いずれも、一部の地域で一定期間存続しただけで終わってしまったように思う。 前者のタイプでは、大手スーパーと地域商店街のどちらが、流通コスト削減、安定供給、品質維持などの点で消費者を呼び込めるのかにかかってしまう。もちろん、大手スーパーが常に有利というわけではなく、いろいろな付加的サービス(高齢者向けの注文配達サービス、訪問出張サービス、産直、街並み景観、...)により活性化に成功した商店街もあると聞いている。しかし、その場合には、地域通貨は必ずしも有用な手段にはなっていない。 いっぽう、後者のタイプについては、地域コミュニティの中で、個々人が「提供できるサービス」と、個々人が「必要とするサービス」に齟齬があり、互酬関係がうまく構築できないといった問題が指摘されているようだ。要するに、サービスを提供できる人はたくさんの地域通貨を受け取るが、期限までにそれを使いたくても、求めるサービスが見当たらない、といった事情である。また、ボランティアベースでサービスを提供している限りは、どうしても、提供者自身の仕事や個人的な都合が優先してしまう恐れがある。さらに、私有財産制、近代資本主義経済のもとでは「まずは国家通貨」が原則、つまり、「お金が無ければ何もしてもらえない」、「お金さえあれば何でもしてもらえる」がまかり通っており、いくら善意や絆を大切にしても、衣食住や雇用や医療や介護の基本はお金(国家通貨)に頼らざるを得ないという事情もある。 【思ったこと】 130330(土)日本行動分析学会「熊野集会」(12)地域と共に生きる〜地域通貨〜(5)お金とは何か ワークショップの際にも発言させていただいたが、地域通貨について考えていくと、結局、お金とは何かという問題につきあたる。見方を変えれば、地域通貨は、お金とは何かを考える格好の教材であるとも言える。 何かの活動に対してお金を支払うという部分だけに注目すれば、お金は、トークンであり、般性習得性好子で間違いない。前振りで浅野先生が解説された通りである。しかし、ある集団、さらには国の経済という規模では、もっと別の行動随伴性を考える必要がある。人々がなぜお金を求めるのかという問題は、決して、習得性好子として機能しているから、だけでは済まされない。フロアからも発言させてもらったが、もし、お金が、習得性好子として絶対的価値を持つならば、国民全員に1億円を配ればみんなハッピーになるはず。しかし、現実にそんなことをしたら1億円はタダの紙切れと化してしまう。お金がお金として機能するためには、もっと別の必要条件がある。 では、お金とは何か? 池上彰さんの番組ではよく「みんながお金だと思うのがお金」というようなことを言われているが、これは、ある国の通貨が「お金」として機能するための条件を述べたものであって、お金の本質を定義したものではない。また、一般に、お金には「交換の手段」、「価値の尺度」、「価値の貯蔵手段」などがあると言われているが、これではまだ不十分。また小学校では、物々交換では不便だからというお金が誕生したとも言われるが、これは、生産者が、相互に余剰物を交換し、不足物を補うというレベルの話であって、現代社会では通用しない。 というようにいろいろ議論はあるが、私自身の考えは、2009年1月24日の日記やその続編で述べた通りであり、一口で言えば、「お金とは、自分のために他人を動かすツール」ということである。
私がよく挙げるのは、老後の資金でマンション経営をするという事例。若い時にコツコツと貯めたお金で老後の生計を守ろうということは何ら悪いことではないが、そのお年寄りがマンションという土地と住居空間を占有することで、そこに住む若者は、家賃を稼ぐために働かなければならなくなるという「好子消失阻止の随伴性」に拘束されることになる。若者の労働は回り回って、結局はそのお年寄り自身へのサービス提供という形で還元されていくのである。 農家と消費者の関係も同様である。農家の人たちは一生懸命働いて生産物を都会に供給する。しかし見方を変えれば、農家の人たちは、農地と生産手段を占有していると言えないこともない。もし、都会に住む人たちが一軒一軒広い土地を持っていて、家庭菜園だけで自給できる環境にあるならば、農家の人たちがいくら農産物を作っても、お金に換えることはできなくなってしまう。 過去日記の繰り返しになるのでこのあたりで終わりとさせていただくが、とにかく、私有財産制のもとでの国家通貨というものは、人を働かせるツールとして機能する。しかし、地域通貨には、人を「好子消失阻止の随伴性」で動かすほどの力は無い。閉じたムラ社会であれば互酬は成り立つであろうが、これだけ人々の日々の移動、複数の集団間の入れ替わりがある現代では、きわめて限定的と言わざるを得ない。 とはいえ、世の中、国家通貨では買えない大切なものもたくさんあり、ボランティア通貨のような地域通貨がそれらの交流を活性化する手段として活用される可能性はまだまだ残されているとは思う。また、今回、新宮市で紹介されたような、商品と交換可能な割引クーポン的な地域通貨も、環境問題への意識啓発や地域交流の手段として、一定の成果をもたらす可能性は残っていると思う。 |