心理学会会場のある池袋には渋谷から生まれて初めて埼京線を利用しました。世田谷生まれの私にとって、池袋に行くと言えば渋谷から山手線に乗って7つ目というのが当たり前になっていました。渋谷の次が新宿、その次が池袋というのは画期的なことであり、運転席のすぐ後ろに立ってはしゃぎながら景色を眺めていました。
立教大学は、池袋のど真ん中にありながらたいへん静かでミンミンゼミの声さえ聞こえていました。煉瓦づくりの建物が美しい大学でした。英語では“Rikkyo University”と呼ばずに、確か“St.Paul's University”と書かれてあったところが興味深い。
学会に参加していつも感じることですが、シンポジウムやワークショップは、あまりにも時間が短すぎて、十分な討議ができないうちに時間切れになってしまいます。また同じ時間帯に参加したい企画が2つも3つもあって、どれに出るか迷うことがあります。インターネットの時代になっても、果たして高い交通費を払って会場に足を運ぶ意義はどこにあるのか、むしろ学会は研究業績の登録機関(特許受理機関のようなもの)に徹し、研究発表はすべてインターネット上で公開し、そこで議論を深めるほうがよいのではないかという気さえしています。
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Date: Wed, 18 Sep 1996 21:20:17 +0900
長谷川@岡山大学文学部心理学教室です。
ワークショップではたいへんお世話になりました。
このWSは、3年前にネットニュースfj.sci.psychologyで提案させていただき、呼びかけに応じていただいた松井孝雄さん、望月要さんの3人で細々と始めたものだったのですが、橘さん、南風原さん、服部さん、...と、話題提供者に恵まれ、ここまで発展させていただくことができました。
話題提供者ばかりでなく、フロアでも、昨年は池田央先生、今年は柏木先生や柳井先生など、統計解析の大御所の先生から積極的な御発言をいただきました。企画者としては、シロアリの巣をつついていたら象が飛び出してきた、あるいはちょっと焚き火にあたって談笑するつもりが山火事になってしまった、といった感じです。
さて、柏木先生の御発言の中で、“どれを選ぶかに客観的基準はない、あなたが自分で決めなさい、ただし周りを納得させなければなりませんよ、一流の雑誌に投稿してレフェリーを納得させるんだ”というようなお言葉がありましたが、“納得させる”ための具体的な筋道がいまひとつわかりませんでした。政治的圧力で納得させるわけではないことは私にもわかるのですが、その時代の流行とか主流派の見解に流されるおそれはないんでしょうか。
それから今後のことですが、インターネットの時代ですから、これからは、このメイリングリストが議論の主体となり(松井さんご苦労様です)、ワークショップそのものは“顔見せ”になっていってよいのではないかと思います。もちろん“顔見せ”と言えども、話題提供が面白くなければ人は集まりませんが。それとこのメイリングリストは、統計解析ばかりを話題にするのではなく、実験計画とか研究法全般についても議論する場であったはずなので、その方面での御発言も期待したいと思います。
私自身が最近感じるのは、“何で、個体差ばかりを説明したがるのか”ということです。9月末の卒論題目提出期限を前に、私のところによく学生が相談に来るのですけれど、たとえば“適当にDIETをしている人と本気でDIETをしている人の差はどこから来るのか?”といった問題の立て方をします。もちろん時と場合によっては、個体差を分析することが行動の原因の解明に役立つこともあるとは思いますが、...。
まあ、こういったこともfprの話題になるのではないかという一例として申し上げました。
【以下略】
前日のワークショップのあと、司会者をつとめていただいた市川伸一さんに、このシンポジウムについて、“そもそも創造性はあるのかというような議論はなされるのでしょうか”と聞いてみたのですが、あまりなさそうだというお返事でした。案の定、そういう議論は出なかったように記憶しています。私がこの問題になぜこだわるのかについては、5.3にある Baerの書評をごらんください。
本題から外れますが、市川さんがこのシンポの指定討論をされている最中に、けっこう大きな地震がありました。30秒ぐらい揺れていたと思います。しかし、東京の人は地震馴れしているせいか、意外と落ち着いていて誰も逃げだそうとは(あるいは机の下に隠れようとは)しませんでした。
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このポスター発表の趣旨は、個体識別をすることによって全体の平均値の変化だけ追っていてはわからないような原因が見えてくるという実例を示すことにあります。
それと、駐車違反行動を維持している強化因(あるいは“ルール”)は個体によって多様であるため、それに対応した多様な随伴性を設定しなければ現状の改善にはつながらないということです。
会場で、社会心理学を専門とする方とディスカッションしましたけれど、私は、“どういう意識の違いが違反行動の規定因となっているのか”と考える代わりに、どういう行動随伴性が行動を変えるのか(そして同時に意識を変えるのか)、という問題の立て方をしています。
つまり“意識”を行動の原因であるとは考えない。かと言って、(ここがよく誤解されるのですが)意識を否定しているわけではない。意識は、(行動随伴性によって)行動とともに変わるものである、変化の原因ではなくて、変化の結果なのだと考えるわけです。
よくあげる例ですが、落語を聞いて笑うという行動は、話の文脈の面白さを原因としています。“おかしい”という意識の変化が笑いをもたらしたのではない。落語家がもたらす言語刺激が、笑うという行動の変化をもたらし、同時に“おかしい”という意識の変化をもたらしたと考えます。
なお、今回の発表の詳細は、近日中に6.データベースで公開する予定ですので、ご参照いただければ幸いです。
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会場は立ち見も出るほどの大盛況でした。オウム真理教の事件のほか、当日の朝に、日本ハムの上田監督の御家族の統一教会に絡む問題が報道され、この問題に対する心理学者の関心の高さが示されました。もっとも、単に江川さんの顔を見たくて参加した人もいたかもしれません(私もその一人?)。
江川さんの話題提供の内容は、最近のオウム信者の様子を紹介した程度で、それほど新しい情報はなかったように記憶しています。どなたかが、“数量的分析はやっているのか?”などという質問をしておられましたが、これはちょっと量的分析至上主義に毒されているのではないかと感じました。阪神大震災の時もそうでしたが、心理学者が行った質問調査主体の量的分析よりも現場からの迫力のあるリポートのほうが遙かに真実を伝えていたのではないかと指摘する人も多いです。
心理学の学会としてマインドコントロールを扱う場合には、やはりこの概念についての明確な定義が必要になってくると思いますが、紀藤正樹弁護士は、そういうことで机上の議論をやっているよりも、まず被害にあった人たちの現実を直視し、その中から帰納的に、マインドコントロールという名前で総称されるところの諸現象を分析していく態度が必要だと言っておられました。私もこのアプローチには賛成します。
マインドコントロール自体は、行動分析でいうところのルール支配行動の特殊なケースであろうと思います。西田公昭さんが“マインドコントロールとは何か”で詳しく論じられている“永続的マインドコントロール”を、直接的行動随伴性と間接的行動随伴性、そしてルールを維持している随伴性というような視点から分析を進めるともっと明快になると思います。カイザーの“あやつられる心”では、“パブロフの条件づけではなくオペラント条件づけの手法によって影響されたことは明らかである”というような記述がありますが、ルール支配行動の概念なくしては明快な説明は難しいでしょう。
もうひとつ、マインドコントロールについて書かれた本の中には行動分析学をひどく誤解、曲解しているものがあります。望月要さんが、行動分析学会ニュースレター“J-ABAニューズ”の創刊号の中で指摘しておられますが、リチャード・キャメリアン著の“洗脳の科学”という本は、原題が“行動修正:精神抹殺の技術”となっており、内容はもちろん原題だけを見てもスキナーの理論を極端に誤解・曲解していることがわかります。
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Date: Tue, 17 Sep 1996 17:13:56 +0900
長谷川@岡山大学文学部心理学教室です。
【中途略】
興味深く拝聴させていただきました。今後はやはり輪を広げる工夫をされたらよろしいのではないでしょうか? 内容は面白かったのですが話題提供者から指定討論者までが全員“クリティカルシンキング”の訳者で固められてしまうと,オール与党の議会みたいになってしまって何か筋書きどおりの芝居を見ているような感じになってしまいます。
一般教育の心理学と言えば,国立大学の教養部の教官の協議会のようなものがあったはずです(私が滋賀医大で非常勤講師をやっていた頃に,当時の委員長の鹿取廣人先生の名前で案内をもらったことがあります)。
教養部解体が進むなかで,同じ協議会が今もあるのかどうかわかりませんが,もしあればその会長さんをお呼びするのもよろしいのではないかと思います。
あるいはアグネスチャンとか旧姓川嶋紀子さんをお呼びするとか...
Date: Tue, 17 Sep 1996 17:13:56 +0900
【略】
話題は変わりますが,“クリティカルシンキング”の本を読ませてもらいました。
私も似たような内容のものをプリントにして授業で配布しておりましたがこの本のほうがはるかに内容が充実しているので,後期の“行動科学概論”の長谷川担当分のなかで教科書として使わせてもらうことにしました。
ざっと目を通した範囲での感想ですが,原因帰属や確率判断などをクリティカルシンキングの視点から統一的に論じてあるので,単に“面白い話題”としてではなく,“自分を変えよう”という積極的・能動的な視点から読み進むことができる点が優れていると思いました。
第2章では,“十分原因”と“必要原因”に分けて考えることが説かれております。確かに我々は,必要原因の中の目につく出来事だけを唯一の原因として誇大視する傾向があるので,ここに述べられている警告は重要ではあると思います。しかし,だからと言って,十分原因をすべて把握することは不可能であるし現実的でないような気がします。むしろ,必要原因の大半は,原因と名付けるよりは“機会条件”としてひっくるめておいて,何が操作可能な“必要原因”になりうるのかに焦点をあてるべきではないでしょうか。例えば,ダウン症の子供が算数の問題をうまく解けなかったしましょう。“解けない”ことの必要原因として,その子供がダウン症になった遺伝子的要因を列挙することはできるでしょうが,問題は,“どういう働きかけをしたら,改善に有効か”という変革の視点から有効な要因を探ることにあると思います。
それから,これも行動論的な見方になりますが,因果関係の3つの基準のうちの“時間的順序”は,行動の原因をさぐる上では必ずしも成り立たない場合があると思います。なぜなら,“行動はその結果によって変わる”からです。つまり,一直線上の時間関係で因果関係をとらえるばかりでなく,螺旋状につながった“直前条件−行動−結果”の連鎖の中で行動の原因を探る必要があるのではないかと思います。
もうひとつ,行動には1回限りの“判断”や“決意”と,日常的に反復持続する行動があります。ラジオの英会話の勉強を例とすれば,“これから英会話の勉強をしよう”と決意して本屋で1年間のテキスト購読予約をすることが前者であり,実際に毎日ラジオを聞き続けるのが後者です。もちろん,結婚や転職のように判断や決意が一生を左右する重大な結果を招く場合もありますけれど,私はむしろ行動を持続させる要因は何かということに関心があります。
確率判断も同じで,13日の“不確実性研究会”でも少々話題になったのですが,認知的アプローチでは,ある事象についての確率を数値で答えさせることが多いようですが,実際の生活場面では,もっと反復的な選択行動の中で,言語化されない持続的な確率判断がなされているように思います。それに,“あの人が犯人である確率は何%であると思いますか”と聞かれた場合,その数値には確率計算の結果と“自信の度合い”が混在してしまう恐れもあるように思います(“明日,雨が降る確率は何%?”と聞かれた時,自信のない予報官はあるいは30%とか50%と答えるのではないでしょうか。詳しくは述べませんが,0%と答えるのは“100%晴れる”という意味になってしまって責任重大なので,両軸の0%と100%は避けられる傾向があるのではないでしょうか。まあ,要するに,純粋な確率判断のほかに,自信とか,確実性,信頼性といった別の次元の判断が引っかかってくるのではないかというのが私の見解です)
【以下略】