じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa



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1999年度の卒論研究をふりかえる

2000年2月19日〜
【思ったこと】
_00219(土)[心理]ことしの卒論をふりかえる(前編):Eメイル上と対面状況で形成された対人印象の差異

 18日は、朝からずっと卒論試問。19日は3回生主催による卒論研究発表会、夕刻からは卒業生を送り出す予餞会が開催され、今年度の卒論指導も無事終了となった。今年の卒論生は全部で16名。特徴としては女子14名に対して男子2名と圧倒的に女子の比率が高かったこと、もう1つは半数にあたる8名が長谷川ゼミに所属したため行動分析学的視点からの研究が多かったことであった。

 うちの教室では、1篇の卒論を指導教官を含めて3人の教官が査読。試問時にはまず卒論生がA4用紙2枚のレジュメを基に5分間で概要を説明。その後査読者を中心に質疑応答、全員の試問が終了した時点で、5人の教官の合議により成績評価が行われる仕組みになっている。

 今年度の卒論のうち長谷川ゼミの8人分については、一定の加筆修正を指示したうえでPDFファイルとして保管、ネット上でも公開する予定にしている。ここでは、長谷川ゼミ以外の卒論生が取り組んだテーマについていくつか印象に残ったことを述べてみたいと思う。なお念のためおことわりしておくが、以下に述べるのは、提出された卒論のタイトルや基本的な方法を拝見した上で連想として生じた考えを気ままに述べているにすぎない。その卒論についての公正なリビューではなく、関心をひいた点だけに注目している点にご留意いただきたい。

 さて、私が査読した卒論の中に、Eメイル上と対面状況で形成された対人印象の差異を実験的に検討した研究があった。予備的調査に引き続いて、お互いに面識のない大学生16名を4名ずつに振り分け、4週間にわたって自由に交信、その後他のメンバーに対する印象評価を求め、さらに了解が得られた被験者について実際に対面をさせ、対面直後と会話後に同様の印象評価を求めるというのが骨子であった。それにより
  • 対面後の印象変化があったことから、メイル上で形成される印象は美化されたものになっているかもしれない
  • メイル上の人間関係と現実の世界での人間関係は別物と考える被験者が多かった
といった結果が得られたのは興味深かった。

 この論文を読んで連想したことを挙げれば、
  1. CMC(Computer-Mediated Communication)の一形態としてEメイルに注目した点は評価できるが、いまの時代、ネット上での交流は、Web日記やWeb掲示板、チャット、ポストペットなど多種多様。面識の無い男女が何のニーズも無い状態でメイルだけで交信をするという状況設定は少々不自然ではないか。
  2. 実際に対面したときの印象が現実であるとは限らない。そのあたりの解釈をどうするか。
  3. Eメイルの利用を始めるためには、パソコン購入、プロバイダ 加入、メイルソフトの設定.....というようにかなり手間をかける必要がある。それゆえ、電話機のような汎用の伝達手段と異なり、現実には先に何らかの目的があって利用を開始するケースが多いのではないかと思う。今回の研究では「とりあえずメイルが利用できる」という環境の学生が調査対象となったが、商用目的、学術研究目的、「出会い」目的など、明確な目的をもってEメイルを利用している人の場合には結果が全く異なってくる可能性がある。
  4. 本研究は「実験研究」とされているが、どの変数を操作したと言えるのだろうか。「自由に発言させる」という程度のものであれば、組織的観察研究と呼ぶべきであるように思う。
  5. もし綿密な実験研究を行うのであれば、例えば、(さくらの)同一の発信者から条件により異なる内容の送信を行いそれによって印象がどう変わるかを調べたり、話題を統制してみたり、頻度を統制してみるといった、より積極的な介入が必要。
 このうち1.に関して個人的体験を述べるならば、私自身がEメイルで面識の無い方のパソコン通信をやっていたのはおおむね1996年の春頃まで。それまで私は、MS-DOSからtelnetを使ってメイルの送受信をしており、fjなどのネットニュースグループ、特定のBBS、メイリングリストなどに顔を出していた。その後、自分でHPを開設し、さらに近年のようにネット掲示板を通じた交流もできるようになってくると、Eメイルによる通信は大半が事務連絡のみ。この日記に関連して情報を寄せていただく場合、それとメッセージを伴わない空メイルボタン押しもあるけれど、かつてのように一対一で「文通」をすることは全く無くなってしまった。

 いま述べたことは私自身の年齢やネット環境、時間的制約などの特殊性を反映しているかもしれない。とはいえ、面識の無い特定の相手に、何の必要性もないのに私生活の諸情報や雑感を垂れ流すというのはどう見ても自然とは思えない。そういう点では、まずWeb日記などを通して自分の日々の生活や考えを不特定多数に向けて発信し、そこに集まった読者と個人的な情報交換をする中から新たな人間関係が形成されていくことのほうがはるかに自然であるように思える。

 「ネット上と対面状況で形成された対人印象の差異」を一番感じさせるのはオフミであろう。もっとも、これもネット上でのおつきあいがどのぐらいの期間に及んでいたかによってかなり変わってくるように思える。

 今回取り上げた卒論のように、4週間程度、それも交信回数が10〜20回程度ということであれば、ネット上での発信者はあくまで「仮面を被った姿」、直接対面した時にその仮面が剥げるというケースもあるかもしれない。

 ところが、1年2年というように長期間にわたってWeb日記などを拝見していると、初めて直接お会いしても内面的なギャップはあまり感じられないように思う。もちろん、どのWeb日記でもある程度は自分を飾り、本音の一部はカットされているものと思うけれど、どんなに文章を飾っても、どこかにその人の本質的なものが現れているはず。その延長上で会話が始められていくので殆ど違和感は出てこない。むしろ意外性が感じられるのは外面的な特徴。これについては昨年11月21の日記でふれたことがある。

 このほか、今後同じようなテーマで研究を進める場合には、より綿密な実験操作が必要になってくる。とはいえ、この場合には倫理的な問題が大きく絡んでくる。例えばさくらを使った実験で誤った印象が形成されてしまった場合、実験終了後にどう釈明してもそう簡単に消し去ることはできないはずだ。となれば、すでに現実にEメイルを活用している人たちにインタビューをする方式のほうが生産的な結論が得られやすい可能性もある。来年度以降にどういう取り組みがなされるか、期待したいと思う。
【思ったこと】
_00220(日)[心理]ことしの卒論をふりかえる(後編):Eメイル上での対人印象形成(続き)/老年期と現代青年の自我同一性

 昨日の日記の続き。まず、昨日取り上げた「Eメイル上と対面状況で形成された対人印象の差異」についての補足から。

 この卒論研究ではEメイルと対面場面のみが比較されていたようだが、Eメイルのどういう特徴が特異的な効果をもたらしたのかについてもう少し突っ込んだ検討がなされればよかったと思った。
  • 単に顔を見せずにコミュニケーションをするというだけだったら、足長おじさん風の文通でも変わりない。
  • では、即時性に特徴があるのか。しかし、一日中ネットに張り付いて仕事をしている人ならともかく、通常はリアルタイムで私信のEメイルを着信している人はそうは居るまい。とすると、即時性よりも、留守番電話的な利便性のほうに本当の特徴があることになる。じっさい私なども、「あとで電話します」などと言われた時に「電話ではなくてEメイルで」とお願いすることがある。あとで電話などと言われると、その部屋で電話を待っていなければならない(←私は携帯電話は使っていない)のでどうしても行動が制約されてしまう。Eメイルであれば夜中でも早朝でも時間のある時にまとめ読みして、その場で返事が出せるというメリットがある。
  • 電話が音声を使うのに対してEメイルはテキストもしくは画像を伝えるという違いがあるかもしれない。
いずれにせよ、ただ単に自由に交信させるのではなく、Eメイルの本質的特徴を反映しているような条件を操作しない限りは、「Eメイルを使った結果としての印象形成」なのか「Eメイルを使ったが故の印象形成」なのかを区別することができない。

 Eメイル関連の話題はここまでとして、別の話題にうつる。今年度は「現代青年の自我同一性....」、「自我同一性と心理的離乳...」、「老年期の自我同一性...」というように「自我同一性」を題目に入れた卒論が3篇もあった。「自我同一性」については私は現時点では勉強不足のためコメントを保留しているが、能動的な働きかけがどう強化されているかという現環境を軽視して、人生における不可欠な発達課題であるかのように決めつけてしまうとしたらちょっと問題ではないかと思う。

 少々脱線するが、この日記で不定期連載している『受験勉強は子どもを救う:最新の医学が解き明かす「勉強」の効用』(河出書房新社、1996年)で和田秀樹氏は、精神科医の立場から、旧人類型日本人をメランコ人間(躁鬱病型)、新人類型日本人をシゾフレ人間(分裂病型)として区別し、前者は心の世界の主役が「自分」(=妄想のタイプが「自分は悪いことをしている」「自分は正義の味方だ」など)、後者では主役が「周囲」(=妄想のタイプが「周囲が自分の悪口を言っている」など)となり[p.82-84]、後者では病的でないにせよ「自分のない」感覚が強いと指摘しておられる[p.99]。和田氏の御主張にはまだ納得のいかない点が多々あるのだが、それはそれとして、もし現代の若者がメランコ人間からシゾフレ人間に変化してしまったとしたら、かつてメランコ人間が多数を占めていた時に標準化された諸々の自我同一性関連尺度なども、物差し自体が使えなくなってしまっている可能性がある。

 ところで上記3篇の卒論のうち、私が査読を担当したのは「老年期の自我同一性の再体制化」をテーマとしたものであった。老年期は、退職に伴う人間関係の変化、身体的な衰え、配偶者の死亡、子供の独立など、さまざまな喪失に遭遇する。その変化に適応するための再体制化が起こるというのが執筆者の仮説であった。

 じっさい、この種の変化には多くの高齢者が遭遇するものであろうが、青年期のように首尾よく再体制化が達成される高齢者がどの程度の比率を占めているのか、疑問が残るところがある。修行を積んだ高僧であれば宗教と関連づけながら再体制化をはかれるに違いない。しかし大概の高齢者は、再体制化を図ろうともがいているうちにさらに別の喪失に出会い、最後は病床に伏す。となると、再体制化の視点から高齢者の生きがいや「老化への心理的適応」を分析しても、あまりにも空しいような気がする。それと、この論文では、エリクソンの心理社会的課題及び危機の諸側面に関する質問項目、ほかに自我同一性SCT(文章完成テスト)スコアリングマニュアルの質問項目が用いられていたが、こういう言語的な質問が実施できる年齢にも限界があるだろう。あまり年を取ってくると某テレビ番組(※追記: ”さんまのからくりテレビ”の”ご長寿クイズ”)で鈴木史郎アナの質問に答えるお年寄りのように、分析不能の答えばかり返ってくる恐れがある(←あの番組は、質問が聞き取れないかヤラセではないかという疑いを持っているけれど)。

 ではどうすればよいか。高齢になり介護を必要とするようになっても外界に対して何か働きかけをすることが残るはずだ。そのリパートリーを出来る限り多様化し、それぞれに具体的な結果が伴うような環境を保障すること、そのリパートリーの出現可能な範囲で随伴性環境の統合を目ざすことがミニマムの再体制化に結びつくのではないだろうか。要するに「再体制化」は心の中で図られるものではなく、随伴性の整備によって結果的に出来上がってくるというのが私の考えなんだが、どうだろうか。