じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
【思ったこと】 _10312(月)[心理]「高齢者介護の実践と行動分析学からの提案」(その1) 3/11に慶應義塾大学(三田)で行われた公開講座「高齢者介護の実践と行動分析学からの提案」(主催:日本行動分析学会、後援:日本老年行動科学会)に参加した。この公開講座では、特別養護老人ホームの介護施設職員が3件の事例報告を行い、それぞれに対応して行動分析家がコメントするという形で検討が進められた。 2000年4月1日からの介護保険制度実施にともない、在宅のほか、各種の施設で介護を受けるお年寄りの数が増えつつある。しかし、金銭面での手当がいくら充実したとしても、生身の人間のケアについての十分な対策がとられば本当の福祉とは言えない。今回、このような形で、現場の職員と行動分析学の研究者が一同に介したことは非常に大きな意義があったと言えよう。 もっとも、実際の講座の内容には、いまひとつ物足りなさを感じた。いちばんの問題点は、介護施設職員の言語報告(タイムラダーやケア記録)が唯一の資料であったため、コメントをする行動分析家側としても、最も得意とするはずの随伴性に基づく分析が推論の域を出ず、結局は一般論として、具体的な行動記録や結果の把握の重要性を訴えるだけに終わってしまったことにあるのではないかと思う。時間的に難しかったのかもしれないが、できれば、各コメンテーターがそれぞれの現場に出向き、直接観察や介入を行った上で報告をしてほしかったと思う。 また、今回はいずれも介護施設職員からの「お悩み相談」的な事例ばかりであったが、入所者の能動的な行動がどのようにうまく強化されているかというような成功事例を1つぐらい取り上げてもよかったのではないかと思った。だいぶ前のTV番組であるが、東京八王子の至誠老人ホームでの取り組みをTVで拝見したことがあった。そこでは入所者自身による食事の準備とか、入所者が得意とする着物の着付け指導などを求める働きかけが行われ、在宅時には部屋の隅でじっとしていたような痴呆のおばあちゃんが、見違えるように明るく振る舞うようになっていた(99年1月12日の日記参照)。あるいは、99年11月14日の日記に記した「縛られない介護」についての成功事例もある。次回の公開講座ではぜひ、「環境に能動的に働きかけ、結果として好子を受け取る」という幸福観(こちらの紀要論文参照)と関連づけながら各種施設における成功事例を集め、どういう随伴性が功を奏したのかという検討を行ってもらいたいものだと思う。 |
【思ったこと】 _10313(火)[心理]「高齢者介護の実践と行動分析学からの提案」(その2):お年寄りでも周りの人と仲良くする必要があるのだろうか 3/11に慶應義塾大学(三田)で行われた公開講座参加の感想の続き。特別養護老人ホームの介護施設職員から行われた事例報告の1件目を要約すると..... ◆◆「特定の人に対して繰り返される暴言や暴力の対処」◆◆
これに対して、行動分析家の杉山尚子氏からは問題解決のステップとして
杉山氏は、2番目の「本当に問題か」に関連して、入所者の急激な体重増加が問題化した事例を紹介された。施設職員が車椅子移動の際に「このごろ重くなってた」と実感し問題化したのだが、じつはその入所者の入所時の体重はもっと重く、その後U字型の減少・増加のカーブを辿っていることが分かった。このように、きっちりした測定に基づいて問題を捉え直すと、じつは問題が別のところにあることに気づく場合がある。 本事例について杉山氏は「問題行動は過去の経験によって知らず知らずに身についていくもの」という原則論から、暴言・暴力行為の原因として「施設職員が対応(=相手をする、かまう)」ことによる強化があるのではないかと示唆されたが、決定的な解決策は提示されなかった。昨日も指摘したように、データが介護施設職員の言語報告(タイムラダーやケア記録)だけでは、行動分析家も陸の上の河童のようなものだ。得意の「随伴性に基づく分析」といっても推論の域を出ず、原則論や一般的な留意点を訴えるだけに終わってしまってもやむを得ないところがあった。 発表後にチャンスがあったので、私は、 お年寄りの場合、対人関係の改善はどこまで必要だろうか。 という質問を投げかけてみた。その趣旨は
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【思ったこと】 _10314(水)[心理]「高齢者介護の実践と行動分析学からの提案」(その3):お年寄りが自己中心的性格であることは間違っているのだろうか 3/11に慶應義塾大学(三田)で行われた公開講座参加の感想の続き。特別養護老人ホームの介護施設職員から行われた事例報告の2件目について取り上げることにしたい。まず事例を要約すると..... ◆◆「思うようにならないと適応困難になる入居者への援助」◆◆
この事例に関して私がまず思ったのは、掻痒感へのコントロールだろう。施設側では外用薬を塗る時間を1日2回とし統一対応として定時での対応を図るが、出血するまで掻き壊してしまい要求が多くなるという。専門家ではないので無責任な発言になってしまうかもしれないが、少なくとも画一的な対症療法に終始するのは間違っていると思う。皮膚科の専門医の指導のもとに、薬を変えるとか、薬湯を使うとか、下着の繊維を変えてみるとか、もっと多様な試みがあってよいはずだ。皮膚科の専門医側のこれまでの対応にも、画一的な薬の処方をするなどの問題があったのではないか。 余談だが、私個人もけっこう皮膚が弱く、年に何回か、腕や足の関節付近が接触性皮膚炎になることがあった。ところが、何かのテレビ番組をヒントに、石けんを使う回数を減らしてみたところ、以後、皮膚炎が全く起こらなくなった。たぶん、石けんで擦りすぎていたことに一因があったようだ。ちょっとした試みが予想外の好結果をもたらすこともある。 次に、「昼夜マット(おむつ)対応」が本当に必要であるかどうかという問題。介護記録には「マット交換時、非協力的で荒々しい言動、ベッド柵を投げ飛ばし周囲の利用者より苦情がある」など、交換に伴う不適応行動がいくつか見受けられる。食事自立、歩行も車椅子にて自立という人に、なぜ24時間おむつを着用させる必要があるのだろうか。トイレで排泄してもらうための訓練は試みられていないのであろうか。 もう1つ、この事例報告には何カ所か、対象者が「自己中心的」であるとの記述があった。しかし、そもそもお年寄りにとって「自己中心的」とはどういう行動のことを言うのだろうか。入所後の不自由についていろいろと要求を出すことは、よりよい老後の実現にとって不可欠であり、決して「自己中心」とは言えまい。その要求に応えられないとしたら、施設側のほうが自己中心であるかもしれない。 もともとお年寄りはわがままだと言われるし、和田秀樹氏(1/28の日記とその翌日分参照)などは、“「わがままな老人」でいいじゃないか”と繰り返し主張されている。少なくとも施設側の都合、既存の倫理観念だけで「自己中心は悪」と決めつけるべきではなかろう。お年寄りの「自己中心的性格」を「協調的性格」に「改善」するのではなく、お年寄りの「自己中心的」行動を最大限に活かせるように施設側で対応すべきではないか。 |
【思ったこと】 _10315(木)[心理]「高齢者介護の実践と行動分析学からの提案」(その4):「縛られているかどうか」ではなく「縛られた状態で何を自発できるか」こそが重要 3/11に慶應義塾大学(三田)で行われた公開講座参加の感想の最終回。特別養護老人ホームの介護施設職員から行われた事例報告の3件目について取り上げることにしたい。まず事例を要約すると..... ◆◆「失語症で不穏状態、転倒を繰り返す人とのコミュニケーションと支援」◆◆
この事例では、第一に、車椅子の抑制ベルトが問題になるかと思う。会場ではもっぱらベルトの着用のさせ方が話題になっていたようだが、私はむしろ、車椅子使用が本人の能動的な行動とどう関係しているのかに着目すべきではないかと思った。 我々が車を運転する場合を考えてみればよい。日本ではシートベルト着用が原則的に義務化されている。着用をうっかり忘れたり面倒がる人は多いが、束縛されるのがイヤだからという理由拒否するという人は居ないだろう。 シートベルト着用自体を束縛と感じないのは、車を運転するという能動的な行動が先にあって、その付帯条件としてそれが義務づけられているからに他ならない。同じことは、航空機利用の際のシートベルトや絶叫マシンの安全具についても言える。要するに、物理的に体を動かせない状態になることが束縛なのではない。体が固定されても、外界に能動的に働きかける機会が保障されている(オペラント行動が強化されている)限りは、人間は自由であると感じるものである。 そう考えてみると、車椅子を使うことで能動的な移動が広範囲に保障されている限りは、車椅子に縛り付けられてもそれほどの不自由は感じないはずだ。逆に、いくら自分の意志で着脱できても、移動範囲が制約されていたり、介護者の指示通りにしか移動できないならば、不満は高まるはずである。要するに、「縛られているかどうか」ではなく「縛られた状態で何を自発できるか」こそが重要なのだ。 第二に、ベッドの柵はずしの件だが、そもそも、長年畳の上で布団を敷いて寝ていたお年寄りを無理やりベッドに寝かすこと自体に問題があると思う。なぜ、畳の上では介護ができないのか、結局は医療側のエゴではないか。ベッドで寝起きすることが当たり前となった今の若者が高齢化した時ならともかく、少なくとも昭和30年代生まれが高齢化する頃までは、畳を主体とした生活環境を最優先で整備していく必要があると思う。 もう1つ、このケースでは「将棋やオセロが好きだということだが入所後は殆ど行っていない。」という記述がちょっと気になった。痴呆が進んで対戦が困難になったという可能性もあるが、ひょっとして、「殆ど行っていない」ではなく「将棋やオセロで遊ぶ権利が奪われている」ということではないのか。もしそうだとするなら、入所者のために対戦室を用意するとか、パソコンソフトに、お年寄り用のタッチパネル付き液晶を用意するなどの配慮があってもよいのではないかと思った。 以上、4回にわたって感想を述べた。全体を通じて、「高齢者介護の実践と行動分析学からの提案」という大きなタイトルを掲げた割には、個別的な問題行動の改善ばかりに焦点が当てられてしまったのではないか、もっと他に目を向けるべき部分があるのではと、強く感じた。 医療目的の病院であるならば「病気無し」をもって最良するのもそれで良かろう。しかし高齢者施設が同じ発想で「問題行動無し」を最良と考えていたのでは困る。「問題行動無し」は死んだ人でもできるお墓の世界である。本当に大切なのは、入所者の「能動的に働きかけ、結果として強化される」機会をどれだけ多様に保障できるかということにあるのだ。 今回の事例報告にも記されていたが、特別養護老人ホームの入所者はしばしば、買い物(売店、近くのデパートへの買い物ツアー)を楽しみにしているという。それは何故なのだろうか? もし自分の物が増えことが楽しみであるならば、プレゼントを貰うのと同じことだ。もしそうでなく、買い物特有の生きがいがあるとするならば、それは、「買う物を選ぶ」という能動的な選択の機会が与えられているからに他ならない。同様に、散歩、小旅行、園芸療法、動物療法、(自ら演奏したり歌ったりする)音楽療法、パソコンやインターネットの活用などにも、もっと目を向けていく必要がある。要望が多いから実施、少なければ中止というような消極的な対応ではなく、能動的な働きかけの機会をいかに増やすかということを真剣に検討してもらいたいと思う。限られた介護予算と人手の中でどこまでそれが実現できるかは心もとないけれど.....。 [※]抑制についてはこちらの2.1もご参照願いたい。 |