|
【思ったこと】 _10824(金)[心理]行動分析学会年次大会(1)痴呆性高齢者をめぐるシンポジウム 痴呆性高齢者をめぐるシンポジウム 大会2日目の夕刻に表記のシンポが開催された。シンポでは、まず、「もの忘れ外来」で有名な山田達夫先生(福岡大学医学部)から、アルツハイマー病(AD)について医学的見地からの小講演をいただいた。 医学の専門的なことはよく分からなかったが、私が理解した範囲では、アルツハイマー病は
ある程度の高齢に達した人が痴呆にならずに亡くなる場合と、重度の痴呆を伴って亡くなる場合で、どちらが幸せな最後にあたるのだろうか。目標をもち、計画的な人生を送ってきた人にとっては、過去をきっちりと総括し、近親者や知人に感謝の言葉を述べてから死ぬことで初めて人生を全うできることになる。そういう人にとっては痴呆は最悪の障壁となる。しかし、痴呆になったからといって何から何までマイナスということでもあるまい。ある意味では死の恐怖や、家族との離別の悲しみから逃れられることもある。ポジティブに考えていくほかはないだろう。 以上、山田先生の御講演と若干の感想を述べた。山田先生はさらに、痴呆の諸特徴をふまえ
このほか山田先生は御講演の最後のところで「生涯現役社会」の重要性を強調しておられた。真の親切とは、本人に成り代わって要求を満たしてあげることではない。本人の能動的な行動に対して適切に結果が随伴するように若干の手助けをするという姿勢こそが、「行動分析的親切」の本質と言えるだろう。 シンポでは引き続き、現場での観察や実践についていくつかの話題提供があった。特に気づいた点を2つだけメモしておきたい。
|
【思ったこと】 _10827(月)[心理]行動分析学会年次大会(2) 2日目午前中の口頭発表 最初は、“学校現場で発達障害児のリテラシー獲得を支援する:「等価関係」成立のためのコンピューター支援指導”(山本淳一氏ほか)という長いタイトルの発表だった。タイトルにも含まれている「等価関係」は重要な視点ではあると思うが、漢字のように複数の読みが存在し、文字よりも熟語として意味をなす性質のものについては、固定的な一対一対応関係を作らないほうがよいという気もした。また、これは私自身がかつて『行動分析学研究』掲載論文のなかでも指摘したことでもあるが、発達障害児の場合、漢字熟語と事物との対応は比較的学習しやすいが、書き取りは苦手というケースも多く見られる。「読み書き万能」よりも、学習可能なスキルを最大限に伸ばしたほうが良いと思うのだが、現場ではどう考えられているのだろうか。 このほか、コンピュータを用いることによる、機械的な対応関係だけの学習に終わってしまう恐れもあるのではないかと思う。日常生活で直接接することのできる事物を中心に、自ら操作することと言葉で表現することを関連づけて学習させていったほうが効果があるようにも思った。 4番目の“セキセイインコの反応変動性の分化強化”(真邉一近・河嶋孝氏)は、私自身がかつて発達障害児やサルを相手に実施した「行動可変性response variability」の実験と密接に関連しており、興味深く拝聴した。実験では、パネルをつつく位置について、「直前と異なる位置をつついた時に強化される」という「1-back」の随伴性と、「直近2カ所のいずれとも異なる反応をした時に強化される」という「2-back」の随伴性のもとで、被験体がどのような反応パターンを形成するのかが検討された。 最初から位置や数が固定されている反応キーと違い、この実験では、四角いパネルのどの部分も自由につつくことができる。にも関わらず、「1-back」では2カ所、「2-back」では3カ所(主として三角形型)に反応位置が収束してしまうという所が面白かった。動物は無駄な変化はしないということである。 なお、表題の「反応変動性」という点に関しては、ここで形成された反応パターンが必ずしも変動性を高めたことになるかどうか疑問が残る。発表者ご自身も指摘しておられたように、反応のシークエンスは「1-back」(左右交代型)でも「2-back」(三角形の頂点をぐるぐる回る)でもきわめて固定的であり、variabilityの増大とは必ずしも言えない。反応リパートリーの増加、もしくは等頻度性の保障という変化はあったと思うが。 最後の“行動分析は生活習慣改善に向けてどのように生かせるか”(小関唯未氏ほか)は、実践報告もしくは体験談に近い内容であった。フロアからは、発表の内容自体ではなく、一般的な生活習慣改善に関する発言がいくつか出された。その中で、ダイエットがある程度軌道に乗り体重が安定して維持されるようになると、「体重減少」という成果(=好子)の随伴が無くなってしまうことの問題が指摘された。それに対して、杉山尚子氏から、阻止の随伴性(「○○しないと、体重が増えてしまう」)による自己管理の重要性について貴重なコメントがあった。 |
【思ったこと】 _10830(木)[心理]行動分析学会年次大会(3)スキナーの言語行動論にもとづいたコミュニケーション指導 2日目午前:ジャネット・トゥワイマン氏(Dr. Janet S. Twyman)の特別講演 今回の講演タイトルは「スキナーの言語行動論にもとづいたコミュニケーション指導 違いはどこにある?」というものであった。彼女はまず、
ついで、スキナーが1957年に刊行した『Verbal behavior』に沿って、マンド、タクト、イントラバーバル、オートクリティック、自らを聞き手とした話し手行動などに分けて、指導の具体例が紹介された。 1時間という短い時間の中では無理であったとは思うが、できれば、「行動分析に基づかないコミュニケーション指導」との違いを現場に即して対比してもらいたかった。 そして、結局のところ、行動分析の視点を取り入れることの是非は、その成果によって評価されることになる。発達障害児施設で応用行動分析の手法が多く取り入れられているのは、「理論的な正しさ」が納得されたためではない。目に見える形の成果が確認されているためである。 先日、大学の図書館で、第二言語習得の理論を解説した本が新着棚に置かれているのが目にとまった。そこでは脳生理学の知見なども引用されていたが、残念ながらスキナーの言語行動理論についての記述は見当たらなかった。 念のためお断りしておくが、スキナーの『Verbal behavior』は言語行動についての理論書であって、言語学習についての理論書ではない。言語学習に応用するためには、スキナー以後の諸研究の蓄積を活かす必要がある。早い話、行動分析の理論に基づいた、より効果的な外国語教育が開発されれば、理論上どういう論争があろうと、その優越性は多くの人々に認められることになるはずだ。 |
【思ったこと】 _10831(金)[心理]行動分析学会年次大会(4)ネットを利用した大学教育〜行動をいかに強化するか〜 2日目午後:シンポジウム「ネットを利用した大学教育〜行動をいかに強化するか〜」 このシンポは長谷川自身が企画したものであり、パネリストとタイトルは
企画主旨は ネットを利用した大学教育についてはすでに多くの場で議論が行われているが、教員と学習者のあいだの行動に焦点をあてたものは少ない。いくら設備を充実しても、あるいはいくら講習会を実施しても、適切な利用行動が強化されなければ教育方法として機能しない。本シンポは、ネットを利用した教育において、教員と学生間、あるいは学生どうしのコミュニケーションを活性化するために、何をどう強化すればよいのかを考える目的で企画された。となっており、初めに長谷川のほうから、15分ほどの補足説明を行った。その中では、学部教育におけるネット利用に関して
河嶋孝・真邉一近氏(日本大学)の話題提供では、1999年に開設された通信制大学院教育におけるネット利用の現状と問題点が報告された。Eメイル送信やディスカッションルーム(ネット掲示板)書き込みにはかなりの個体差が見られること、特に非専任でEメイル返信の割合が低い教員が見られることなどが指摘された。 2番目の向後千春氏(富山大学)は、ちはるの多次元尺度構成法(日記)の執筆者の、ちはるさんであった。話題提供者の御紹介の際にも、日記才人の画面を投影しながら「向後さんとはこれまで4回ぐらいしかお会いしたことは無いが、Web日記のおかげで、何をしておられるのかが毎日わかる」と、ネット利用の有用性(有害性?)を強調させていただいた。 実際の話題提供内容とフロアからの反応については、ちはるさんの日記(8/24分)に記されているのでそちらをご参照いただきたい。ちはるさんが紹介された授業風景、あるいは佐藤方哉先生のコメントにもあったが、。PSIというのは、教材作りの面でも運用面でもかなりの負担を強いられるような印象を受けた。Web化により機械化できる部分があるとはいえ、事前の準備はもちろん、学ぶ側の行動と、教える側の個別対応行動の負担はそれほど軽減されない。(一部重なる面もあるが)通常の教材を使った少人数グループ学習との効率性比較も必要になってくるのではないかと思った。 最後の、望月氏による指定討論は、ネット利用の本質に関わる重要内容を含むものであった。望月氏によれば、コンピュータやネットを利用することには2つのタイプがある。長谷川自身の言葉でこれを解釈すると次のようになるかと思う。
確かに今のうちは、「目新しさ」だけで強化される面が多い。このシンポを含め、最近ではパワーポイントを使う講演者が増えてきた。最初のウチは、内容に多少不備があっても、スクリーンのカラフルな画面、効果音、背景、文字の動きなどの目新しさに救われて何となく素晴らしいプリゼンテーションであるかのように錯覚されてしまうことが多い。しかし、発表者の全員がパワーポイントを使うようになった時点では、結局のところは、発表の内容性、ロジックの妥当性などが物を言うようになる。 パソコンを利用した教育の場合も同様であり、例えば、幼児向け教材でいくら動画やインタラクティブな機能を増やしても、それだけで売り上げを伸ばすことはできない。けっきょくは教材が充実した内容を含んでいるかどうか、学習行動を適切に強化できる仕組みが備わっているかどうかが物を言うことになろう。ビデオゲームも、種々の案内サイトも同様である。 今回のシンポを契機に、ハード面での目新しさや機能性ばかりでなく、利用者側の行動面での強化の問題に、より多くの関心が向けられるようになることを期待したい。 |
【思ったこと】 _10904(火)[心理]行動分析学会年次大会(5)強化と強化スケジュール 1日目午後:行動分析学の点検:強化と強化スケジュール(1) このシンポは、学会の研究委員会が企画したものであり、企画者は坂上貴之氏と山本淳一氏。話題提供者には、平岡恭一氏、吉野俊彦氏、井上雅彦氏、指定討論者には久保田新氏と山本淳一氏という、まことに豪華な顔ぶれであった。 特に印象に残ったのは、冒頭に行われた、坂上氏による企画主旨説明であった。坂上氏は、行動分析学の最も基本的な概念である「強化」に関して、循環論をどう克服すべきか、特にプレマックの原理[Premack, D. 1962. Reversibility of the reinforcement relation. Science, 136, 255-257. ;Premack, D. 1965. Reinforcement theory.In M. R. Jones (Ed.), Nebraska Symposium on Motivation: 1965 (pp.123-188), Lincoln: Univ of Nebraska Press.] で「強化の相対性」が明らかにされて以後、新たな概念体系の構築が行われていった経緯について説明が行われた。 強化の循環論をめぐっては、私自身、98年11月17日の日記で少しだけ考察したことがある。その中で特に強調したのは、
今回の坂上氏の説明では、上記のうち1.が、プレマックの原理(例えば、輪回しと水飲みという2つの行動が遮断化という確立操作によって、強化する側にもされる側にもなりうるという相対原理)によって必ずしも普遍性をもたなくなり、それを克服する形で反応遮断化理論が作り上げられ現在も支持されている点が強調された。 なお、強化の循環論を克服する試みとしては、坂上氏は、他に
雑多に生じる日常生活行動は、それぞれ対応する好子(強化子)が個別に随伴して独立的に強化されているわけではない。競合する場合もあるが、一方の行動が手段、他方が目的として強化随伴関係になることもあるし、目的であった行動が手段化してしまうこともある。 99年10月10日の日記で取り上げた伊達公子さんの例のように、「もともと遊びの延長上で」始めたテニスが、国際舞台で活躍するようになって手段化し、再び子供を相手にすることで楽しみに戻ることがある。あるいは家庭菜園で楽しみのために野菜を作っていた人が、農業に転じて日々畑仕事に出るようになると、収穫を減らさないために義務的に働くようになることがある。これらは「好子出現の随伴性」が「好子消失阻止の随伴性」に転じることによって説明可能ではあるが、では、どういう状態が続くと「阻止の随伴性」に変わるのかという点については何も予測できない。こういう場面で予測性を高め、せっかくの楽しい行動が義務化しないようにするにはどこに注目すればよいのか、こういう点で、坂上氏が紹介されたような強化相対性や反応遮断化についての考え方が役に立つ分野が広がるのではないかという気がした。 |
【思ったこと】 _10905(水)[心理]行動分析学会年次大会(5)行動分析学の点検(2) 1日目午後:行動分析学の点検:強化と強化スケジュール(2)対応法則 1番目の話題提供は、平岡恭一氏の「強化と選択行動理論」であった。平岡氏は、まず、ソーンダイク(1913)の「効果の法則」からHerrnsteinの「対応法則(マッチング法則)」[Herrnstein, R. J. (1970) . On the law of effect. Journal of the Experimental Analysis of Behavior, 13, 243-266. ]へと発展させられた中で何が付け加わったのかという点を説明された。 ここで念のため、ソーンダイクの「効果の法則」を確認しておこう。 満足するような結果をもたらす反応は強められ、不満足あるいは嫌悪を伴う反応は弱められるこの「法則」の循環論的記述に関わる問題は、9/4の日記ですでに述べた通りであるが、この「法則」は ●行動はその結果によって変わる という行動随伴性の基礎に関わる原理のほかに、 ●有用な結果をもたらす行動は増え、有害な結果をもたらす行動あるいは何の役にも立たない行動は減る。 という意味を含蓄している。しかしこの原理だけでは、有用な行動は無限に増えていくことになる。果たして動物はそれだけで環境に適応できるだろうか。「対応法則(マッチング法則)」は、それらに対して、「ただ際限なく反応を増やすのではなく、最適な遂行をめざす」ということを示唆するものであった。平岡氏は
以上が平岡氏の話題提供の概要であった。「対応法則」は、実は私自身の卒論のテーマであった。
|
【思ったこと】 _10906(水)[心理]行動分析学会年次大会(6)行動分析学の点検(3) 1日目午後:行動分析学の点検:強化と強化スケジュール(3)反応を抑制する罰と、促進する?罰/強化概念の天動説、地動説 2番目の話題提供は、吉野俊彦氏の「反応を抑制する手続としての罰、促進する?手続としての罰」であった。吉野氏は、罰手続に反応を抑制する効果があることを説明する代表的な2つの理論として、
ここで念のためお断りしておくが、 罰刺激(あるいは嫌子、負の強化子)は、普通、 行動後にそれが出現すると行動が起こりにくくなるような刺激事象として定義される。マロットの教科書(杉山他『行動分析学入門』)では、これと並行して 嫌子とは、我々が接触を最小にしたいと望むものであるとも定義している。いずれの場合も、何が罰となるかは行動の起こり具合を観測して初めて判断できるようになるものであり、そのような行動的定義に立脚する限りにおいては、なぜ罰が抑制効果をもつかというような疑問は出てこない。しかし吉野氏も指摘しておられるように、副次的な効果を考えるときにはこれは重要な問いになる。 吉野氏は最近の御自分の実験研究を引き合いに出しながら、競合反応理論がより適切な罰理論であること、また、罰は副次的な効果として、罰せられる以外の反応を間接的に強化すること、これらから、 罰が単純に反応を抑制する効果を持つだけでなく、反応を促進する効果を持つ手続であることを考慮する必要を強調した。 以上は全体として量的なデータに基づく推論であるように思われた。吉野氏の抄録の中では「応用・臨床場面においては重要な意味をもつと考えられる。」という記述があったが、時間があれば、具体例を挙げてもう少し詳しく説明していただきたいところだった。 さて坂上氏の「強化相対性」(9/4の日記)や今回の吉野氏の「促進する?手続としての罰」などという話を聞くと、「嫌子」(「負の強化子」)という概念はかなり相対的であるように思われてくる。じっさい、それらの呼称は、モノの機能をそう呼ぶだけであって、地球上に存在するモノそのものではない。さらに言えば、モノの機能と言っても、本当のところは、生活体側がそのモノによってどう影響されるのか、どう反応するのかを言い表す概念ということになる。例えば、 ●ある事象が習得性好子になる というのは、 ●ある事象が習得性好子としての機能を獲得する と言い換えてもよいが、その事象をどのように物理的・化学的に分析しても「習得性好子」という性質は出てこない。それは、生活体側の変化を意味する概念だからである。 そのことを承知で、「○○は好子である」、「○○は条件刺激になった」、「○○は弁別刺激である」などと呼ぶのは、地動説の立場を承認しながら「秋分とは太陽の黄経が180度になった瞬間のことである」というように、便宜上、天動説の視点から天空を眺めるようなものと言えよう。生活体の行動を予測したり変容をサポートしていくためには、「条件づけ操作によって生活体内部で起こる変化」を「外界の事象の機能の獲得」として捉えたほうが議論がしやすいからである。 上記の「天動説」的視点を前提とした上で、刺激事象の機能が文脈や相対関係によって逆転する現象が頻繁に見られるとするならば、「モノ」的把握よりも「コト」的把握のほうが優れたとらえ方ということになる。現時点ではどちらが有用かは分からない。 いずれにせよ、罰や嫌子をめぐる議論においては、進化の中で培われた根本的特徴: 有害なものは避けるを軽んじるわけにはいかない。となると現実的な課題は、 ●長い目で見た時には非常に有害な結果が出現するような事態 において、 ●如何にして目先の利益による強化を克服し、将来の有害な結果の出現を阻止するか に注意をはらうことであろう。具体的には環境保護問題、食品添加物の問題、核兵器廃絶の問題などがこれにあたる。 |
【思ったこと】 _10909(日)[心理]行動分析学会年次大会(8)行動分析学の点検(4) 1日目午後:行動分析学の点検:強化と強化スケジュール(4)強化概念の天動説、地動説(2)「行動の原因」の2つの意味 前回も述べたように、例えば「習得性好子」となる事象は、それをどのように物理的・化学的に分析しても「習得性好子」という性質は出てこない。生活体側の変化を意味する概念だからである。同じことは、レスポンデント条件づけの条件刺激についても言える。メトロノームの音を聞いてヨダレをたらす犬が居る。メトロノームの音はその犬にとって、ヨダレを誘発する条件刺激となるが、音自体をどのように精密に分析しても、条件刺激なる成分は全く出てこない。犬が勝手に行動を変えただけなのである。 では、習得性好子も条件刺激も、生活体側の「認知の変容」に置き換えてしまってよいのだろうか。 この問題は「原因」の2つの意味を区別することによって明らかになる。
車の運転を考えてみよう。車が動き出したり、スピードを上げたりする原因は上記の2.に関する問題である。いっぽう1.はガソリンがどのようにして動力に切り替わるかという問題である。1.はさらに、なぜガソリンはポテンシャルなエネルギーを蓄えているのか、それが太陽エネルギーの化石であるとすると、太陽エネルギーはどのようにして生じるのか....という問題へと発展していく。しかし、車の安全運転の徹底や、車の故障の原因を解明する際には、エネルギーの根源的な問題に言及する必要はない。 家庭内の調理も同様。半熟の卵を作る時に、卵を熱する時に使うガスがなぜエネルギーをもたらすかについて言及する必要はない。どのような温度で何分茹でればよいかが関心事となる。 行動の原因を考える場合にも同様である。「行動が何を原因として生じるのか」という問いに対する徹底的行動主義の立場は
人間や動物は、行動を自発することを本質として備えた存在である。自発される行動のリパートリーは、進化の過程の中で系統発生的に形成される。 と答えるしかない。いっぽう2.については、確立操作、強化、弱化、行動随伴性といった概念が用意されている。 ここで、念のため「行動随伴性」と「行動の変化原因」について確認をしておきたいと思う。「行動分析は、行動の原因を外部に求める」とよく言われるが、行動変化(強化あるいは弱化)は、
そもそも無生物の世界では行動は生じないから1.は絶対に必要。生物は真空中を浮かんでいるわけではない。歩くときには地面が、木を登る時には枝が、肉食獣では獲物の存在というように2.がなければ働きかけは起こりえない。3.も同様である。そして通常、1.から3.は、いずれも一目見ただけで存在が確認できる。原因というよりは、前提条件と言うべきものかもしれない。 では1.から3.だけで十分なのだろうか。否である。もし環境側が全くデタラメにしか変化しなかったら、あるいは、全く変化しなかったら、行動を自発しても生存可能性は高まらない。幸いなことに、地球上の環境は、自発された行動に対して一定の規則性をもった変化が生じるようにできている。だからこそ、行動を自発するような生物が繁殖してきたのだとも言える。 自発された行動と結果との関係性はモノそのものではない。しかし、その規則性は環境側(外部世界)の物理的・化学的性質に依存している。「行動の原因を外部に求める」とはそういうことを言っているのである。次回に続く。 |
【思ったこと(2)】 _10917(月)[心理]行動分析学会年次大会(9)行動分析学の点検(5) 1日目午後:行動分析学の点検:強化と強化スケジュール(5)強化概念の天動説・地動説(3)能動表現と受動表現/言語に依存した概念的枠組 9/6の日記で、強化概念の天動説、地動説という話題をとりあげた。強化概念は、モノの機能のように表現されるが、モノの機能と言っても、本当のところは、生活体側がそのモノによってどう影響されるのか、どう反応するのかを言い表す概念ということになる。そして、敢えてモノ側からの作用として動詞の能動形で表す理由については、 天動説の視点から天空を眺めるようなものと言えよう。生活体の行動を予測したり変容をサポートしていくためには、「条件づけ操作によって生活体内部で起こる変化」を「外界の事象の機能の獲得」として捉えたほうが議論がしやすいからである。と述べた。 このことをさらに押し広げてみると、我々が使っている動詞表現そのものがしばしば天動説的な視点に立っていることに気づく。
以上は能動態を受動態という切り口から捉えてみたわけだが、日本語は必ずしも受動態志向というわけではない。岩谷宏氏の『にっぽん再鎖国論』(1982年)は、次のような例を挙げている。
行動分析の概念的枠組みは、大部分、英語を母国語とする研究者によって構築された。それに引きずられて、本来は、コトとコトの連関を表すような状況においても、モノが舞台で振る舞うような表現になってしまった。このことを肝に銘じておく必要があると思う。 |
【思ったこと】 _10918(火)[心理]行動分析学会年次大会(10)行動分析学の点検(6) 強化の因果性 昨日の続き。このシンポのまとめ。 1日目午後:行動分析学の点検:強化と強化スケジュール(7)まとめ/強化における因果性の見直し いろいろ脱線してしまったが、「行動分析学の点検:強化と強化スケジュール」というシンポについて、考えをまとめておきたいと思う。 このシンポでは、もう1件、井上雅彦氏による「応用行動分析における強化に関する研究経緯と課題」という話題提供があった。そのなかでは、臨床家にとっての強化の課題として、 訓練室内で対象児との2者間の反応形成にかかわる問題だけでなく、日常生活場面において対象児の当該行動が強化されるためのシステム自体を設計すること[表現は長谷川が一部変更]の重要性を強調された。これは各種依存症の治療や非行においても言えることだろう。治療施設内でいくら行動が改善されたとしても、その人の現実の生活場面での随伴性環境が変わらない限りは、復帰後に再び同じ問題が発生することは避けがたい。 このほか、「choice making」つまり、「強化を行動形成の手段から目的へ」、「活動選択の機会設定」というような議論が印象に残った。前にも書いたことがあるが、高齢者介護施設では、特定の行動を形成する手段として強化を用いることよりも、高齢者が能動的に働きかけを行う多様な機会を保障することのほうが大切ではないかと思う。 そのほか、指定討論で久保田新氏が「強化関数の逆関数は可能か」という発想を披露された。これは、時系列上での反応生起の様子から、いつ強化があったのかを逆に推定するというような視点であったと思う。 最後にまとめ。 ある反応事象が「強化する側」になったり「強化される側」になるというような強化相対性がある以上、実験方法の紹介で「強化子を○○回提示した」などと記述するのはおかしいのではないかと思った。なぜなら、提示するものが実験中にずっと強化子であり続ける保証は無いからである。「強化回数」とか「強化率」というのも、その事象の強化力が刻々と変化する中では、独立変数の記述概念としては非常に奇妙であると思う。このようなことをフロアから発言したところ、小野会長から、「強化子の提示」という表現に代えて「ミルクペレットの提示」とか「穀物の提示」というような表現が推奨されているとのフォローをいただいた。 さらに根本的な問題であるが、強化というのは、「生活体側が勝手に自発する反応」と「生活体側からの働きかけに対して、一定の規則性をもって応じる環境側の変化」の両方を前提として初めて成り立つ概念であることを確認しておく必要があると思う。いっぱんに心理学では、「独立変数=刺激、外界の変化」、「従属変数=反応」であると受けとめられがちであるが、オペラント強化の場合には、反応と結果が相互に影響しあって初めて一定の行動現象が生まれるのである。どんなに巧みに強化随伴性を設定したところで、生活体側が全く反応しなければ何の行動も生まれないことを見れば、その関係は明らかであろう。「対応法則(マッチング法則)」に象徴されるように、強化についての法則は因果法則というよりも、均衡点の記述と言うべきかもしれない。「刺激、外界の変化」を独立変数としてとらえるのは、あくまで操作可能性という切り口で現象をとらえることが有用であるからにすぎないのではないか。 |
【思ったこと(2)】 _10920(木)[心理]行動分析学会年次大会(11)21世紀への展望(1) 1日目午後:21世紀への展望〜行動分析学の現在・未来(1) 8/23の13時から14時10分の間に行われた佐藤方哉先生の記念講演について感想を述べさせていただきたいと思う。 今回の講演はわずか1時間10分という短いものであったが、非常に内容が濃く、21世紀最初の年次大会の記念にふさわしい方向性が示されていたと思った。 講演ではまず、行動分析学の創始者スキナーの活動が年代を追って紹介された。長谷川のほうで別の文献を頼りに主なポイントをまとめると、
佐藤先生は次に、行動分析学の特徴として
●行動の原理がどう働いているのか の研究に重点が置かれるべきであると指摘された。そして、マロットの教科書を引用しながら、行動分析が今後
スキナーの『Science and human behavior』ですでに予言されていたように、21世紀に入って、自然科学と行動科学のアンバランスはますます拡大し、その弊害は至る所に現れているように私は思う。昨日の日記でもちょっと書いたが、大学の研究は今なお自然科学に重きが置かれている。もちろん我々はその恩恵を最大限に受けているわけだが、反面、科学技術が進歩したことによって、地球温暖化や核戦争など新たな危機を招くことになった。それらを救うためには、
ちょっと考えてみれば分かることだが、
|
【思ったこと(2)】 _10922(土)[心理]行動分析学会年次大会(12)21世紀への展望(2) 1日目午後:21世紀への展望〜行動分析学の現在・未来(2) 佐藤方哉先生による講演の後半では、
学問的課題は、人間行動分析学と比較行動分析学に大きく分けられるが、今回は前者の問題として、「言語」、「発達」、「個人差」が特に詳しく取り上げられた。 いずれの場合も、閉じた分野として研究するのではなく、他の心理現象(例えば知覚)にどう影響するのかといった関連づけが必要であること、また、1970年頃までにほぼ確立した「三項随伴性(弁別刺激→オペラント→強化/弱化/無結果)」という枠組みでの分析を進めることの重要性が強調された。 特に興味をひいたのは「見本合わせは条件性弁別か?」、「継時弁別は刺激弁別だが、同時弁別は反応分化である」といった問題提起であったが、専門的になりすぎるのでこの話は別の機会にゆずりたい。 講演のいちばん最後では、「行動分析からみたパーソナリティ」という興味深い話題が取り上げられた。
以上、12回にわたり、8月23日〜24日に行われた年次大会に参加した感想をまとめてみた。前回も少し書いたが、科学技術が人類の幸福に貢献できる可能性はほぼ限界に達している。もちろん、難病の克服、発展途上国における飢餓や疫病の克服、地球環境に優しいエネルギー資源の確保などまだまだ課題は多いが、これからはむしろ、80年余りの人生において、皆が前向きに楽しく学べる教育環境をどう作っていくか、働きがいのある労働環境はどうあるべきか、生涯現役をつらぬきながら生きがいのある老後を送るには何が必要か、自然との共生を保ちながら循環型の消費の中で不自由を感じさせないためには何が必要か、といった問題に重点的に取り組んでいく必要がある。そうした研究を進めるにあたって、人間の能動的な働きかけそのものを対象とする行動分析学が果たす役割はますます大きくなってくるのではないかと感じた。 |