じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa



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人間・植物関係学会2002年大会

2002年6月1日〜2日
福岡市
【思ったこと】
_20601(土)[心理]人間・植物関係学会(1)

 人間・植物関係学会2002年大会に参加するため福岡へ。1日目は、松尾英輔会長(九州大学大学院農学研究院教授)の基調講演と、パネルディスカッション。松尾会長は、人と植物の関わりを多面的に論じられた、教育面では特に「自分と違った生き物を相手に、相手のために何をしてやれるかを学ぶ」ことが大切であると指摘された、次のパネルディスカッションのテーマは、「植物の不思議パワーのいろいろ」。植物をキーワードに6名のパネリストが登場、貴重なお話を伺うことができた。以下、備忘録代わりに印象に残った点を記す。
  • 都市と農村との交流グリーンツーリズム事業に取り組んでいる役場職員T氏
    年に4回、米作りに参加することで消費者も高い値段で米を買ってくれるようになる。こうした交流の大切さがよく分かった。


  • 九州で7割のシェアを誇る大手園芸関係会社の社長N氏
    お仕事柄、花を見る目が「綺麗」という純粋な目でなく、「儲かるか、儲からないか」の目になってしまうという自己紹介が面白かった。花市場というのはけっこうトラブルが多いとか。そういう相手との応対を、花いっぱいの応接室で行うと言葉が丁寧になるとか。花苗の売れ筋としては、赤道直下の植物→ヨーロッパで品種改良された植物→南半球の植物という傾向があるとか。このほか、園芸関係の一戸あたりの支出額は、鹿児島県がトップで約2万円、福岡県は8000円程度。鹿児島が多いのは、ご先祖のお墓に花を供える習慣が強く残っているためらしい。


  • 栄養科学部のM教授
    中国南部の長寿村の食生活を調査。薬食同源の思想。眺めるばかりでなく食べるということの意義などがよく分かった。私の食心理学の授業にも活かせそう。


  • 薬用植物ご専門のS教授
    最近の学生は植物のことを知らなさすぎるという。総合力が無いことも問題だとか。全植物の1〜2割が毒草あるいは薬草であるという。


  • 作業療法ご専門のY教授
    我々の生活は「何も気づかずに生活」、「養生生活」、「療養生活」、「治療生活」という4段階からなるという。植物が人に関わる時は押しつけが無い。育ってくれる、当てにされるといったところに植物を育てる時の特徴がある。


  • 県の教育長の幹部K氏
    中学校での栽培活動の成果がよく分かった。モットーは「Think globally, act locally」だとか。体験を通じて「種を蒔いた花は大切になる」、「学校がきれいになれば地域から信頼感」、「教師と生徒の信頼感」、「単に作業だけではダメ」ということもよく分かった。このほか雑談として、夏の花にはメキシコ原産が多いというのもなるほどとと思った。


 フロアとの質疑ではちょうど花の名前のことが話題になっていたので、私自身も、「今の園芸品種はカタカナが多すぎ、しかも覚えにくい」、「お年寄りのためにも、昔の花を提供してほしい」、「花苗のグローバル化が進み、日本全国どこの花壇でも同じような花が植えられているのは残念」などと発言した。

 あと、この種の会議ではしばしば話題になることだが、花を育てることと、野菜を育てることの効用の違いについていくつか発言があった。公共の場ではどうしても花優先にならざるを得ないが、特に高齢者が対象の場合には、昨日の日記でもふれたように、やはり菜園の確保のほうが意義が大きいようにも思われる。
【思ったこと】
_20602(日)[心理]人間・植物関係学会(2)幸せは、脳波や心理テストでは測れない

 人間・植物関係学会2002年大会の2日は、九州大学農学部で口頭発表が行われ、私も座長として参加した。九大は15年ほど前に心理学関係の学会(箱崎地区)で訪れて以来である。当時は水不足が深刻でトイレの水さえ出ない有様だった。今回訪れた貝塚地区は緑豊かで落ち着いた雰囲気があったが、時折、すでに車輪を出して着陸態勢に入っている大型ジェット機が上空をかすめる。岡大に比べるとずいぶんと騒がしいところだというのが第一印象であった。また、移転が予定されているのだろうか、発表会場の大講義室の壁面には、床から天井まで縦に何本かひびが走り、阪神淡路大震災級の大地震があればひとたまりもなく崩れ去りそうな雰囲気であった。

 午前中の研究発表は2会場に分けて行われる盛況であった。参加者は農学・園芸学の研究者のほか、医師、看護師、作業療法士、福祉施設職員、花市場の社長さんなど多彩であり、さすが学際的な学会という印象を受けた。中には、園芸活動に関する個人体験の感想を述べた程度の発表もあったが、いろいろな分野の人たちが、人間と植物の関係という1つのテーマをめぐってさまざまな知恵を出し合い、意見を交換しあうことにはそれなりの意義があると思う。

 そんななか、私が座長を仰せつかった発表は、どちらかと言えば、厳密な実験的統制を要求されるようなものであった。例えば、園芸活動に参加した実験群と、何もしなかった対照群に、心理テスト、脳波(α波やβ波の総含有量や割合)、筋電図などの測定を実施、その平均値の差を検定するというスタイルである[←あくまで仮想の事例]。この種の実験研究に関する一般性のある問題点を敢えて指摘させてもらえば、
  1. 脳波などの生理的指標測定は、実験室のような不自然な環境で被験者を拘束するという問題に加えて、(園芸に限定されないような)単に体を動かすことの影響も受ける。現実に、これはスゴイ!と思わせるような有意差が見い出せないことからみても安らぎや癒し効果の客観指標として有用かどうか、大いに疑問。
  2. ある種の心理尺度(←何かを測る物差し)を構成する各質問項目は、全体との内的整合性等を考慮しながら機械的に組み入れられたものであって、質問の意味内容をそのまま調べているわけではない。例えば、「新聞の社説を毎日は読まない」という質問は、新聞を読む習慣や几帳面さを測る質問のように見えるが、実際は虚構性(自分を飾る傾向)を測る尺度の1つに組み入れられている。そういう背景を考慮せず、ある種の心理テストの質問の一部を勝手に取り出してきて、社会通念や意味内容だけでスコアの変化を分析することには問題が多い。
  3. こちらの論文の3.1.1.にも記したように、セラピーの効果は100人中100人に有効であるとは必ずしも言えない。例えば、室内に生花のバラを置いた場合と造花のバラを置いた場合、100人中80人は生花、残りの20人は造花のほうがリラックスすると考えるかもしれない。そういう多様性を受け入れ、その上で、「なぜ20人は造花のほうを好んだのか、そういう人たちには共通した行動傾向があるのか」を追及するのが本来の研究のあり方であり、「生花と造花とどっちが有効か」という「万能性」を前提にして100人全員の平均値を有意検定しても、生産的な情報はあまり得られないように思う。
  4. これもこちらの論文などで繰り返し指摘している点であるが、実験的方法で確認できるのは、実験者が恣意的に設定した1点およびその近傍に限られているのである。ある条件のもとで、造花より生花のほうが癒しの効果が大きいと実証されたからと言って、造花の形や色をちょっと変えた時に同じことが言えるという保証はない。「一事例を示した」とは言えても、一般的法則を実証したとは到底言えない。
というようなことを考えれば考えるほど、実験的方法、特に、脳波や筋電図を使った実験や、質問紙・アンケートを使った調査で、効能を実証するということには限界があることが実感される。では、どうすればよいのか。最近私が思うのは、やはり、
  • 対象者が、「それをしてもしなくてもよい」という自由な時間の中で、どのくらいの時間、どういう園芸活動に従事しているのか
  • その活動は、どういう随伴性によって強化されているのか
を個別に調べることである。能動的な園芸活動が自発され、ポジティブに強化されているということはそれ自体が生きがいなのであって、それを改めて脳波の何タラ成分が増えたとか、心理テストのスコアが増えたなどという形で色づけする必要は全くない。肝心なことは、義務的あるいは日常習慣的に行われている活動の中から能動的で行動内在的に強化されている成分を客観的に抽出することではないかと思う。