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日本行動分析学会第20回年次大会


2002年8月22日(木)〜8月24日(土)
日本大学生物資源科学部(神奈川県・藤沢市)


以下の参加報告は、出席者である長谷川の聞き取りに基づくものです。発表者やパネリストの講演内容を正確に伝えているかどうかは保証できません。長谷川が関心をもった部分のみを扱ったコメントとしてお受け止めください。以下の内容についてのご意見、誤りのご指摘などありましたら、こちらに記したアドレス宛てにメイルをお送りください。一般性のある内容に限り、このコンテンツ上の追記としてお返事させていただきます(従って、メイルをお送りくださる場合は、ここで引用あるいは転載されることを前提としてお書きください)。


目次
  1. 20周年記念講演
  2. 刺激性制御研究の未来を探る
  3. 地域通貨と行動分析
  4. 「行動」とは携帯電話?/オペラント、レスポンデントは中国語で何というか?
  5. スキナーの『罰なき社会』論と、強制収容所のカポ
  6. 「森の生活」と「第二ウォールデン」/「生か死かは、もはや最大の問題ではない」と叫ぶ能
  7. 社会的随伴性をめぐるGuerinの理論
  8. 母親役割の獲得とは?
  9. PTSD〜行動分析学による理解と治療〜
  10. これからの年次大会について考える(前編)
  11. これからの年次大会について考える(後編)



_20822(木)[心理]日本行動分析学会第20回年次大会(1)20周年記念講演

 神奈川県藤沢市の日本大学生物資源科学部で、日本行動分析学会第20回年次大会が開催された。初日の9時50分頃には羽田に着いていたのだが、乗り換えなどに手間取り(羽田〜京急〜上大岡〜横浜市営〜湘南台〜小田急〜六会日大)、会場に到着したのは結局11時すぎになってしまった。

 最初に拝聴したのは、山口薫・東京学芸大学名誉教授による「応用行動分析:わが国における発展と課題」という演題の記念講演であった。行動分析というと創始者のスキナーの主張ばかりが取り上げられがちであるが、日本に好意的に紹介されるきっかけとなったのは、むしろビジューのほうが先かもしれない(スキナーの著作自体、たとえば『学習理論は必要か?』やファスターとの共著『強化スケジュール』は、吉田先生などによって1950年代から批判的に紹介されていたと記憶している)。ビジューのもとには、その後も多数の日本人研究者が集まり、特に、特殊教育の分野の研究と普及に大きな貢献があった。

 特殊教育の分野でなど応用行動分析の手法が大きな成果を上げていることは確かであり、例えば、ダウン症の幼児にポーテージ法を週に40時間実施した群は、週10時間、あるいは全く実施しなかった群に比べて、SQを大きく伸ばす効果があるという。しかし、万能な効果をもたらす手法というのは実証されていないようだ。あくまで、それぞれの対象者の特性を考慮した、個体重視の介入が求められているということであろう。今述べた効果が、青年期や大人になってからも持続されているかどうかについての追跡調査が今後の課題になっているとのことだ。




 次に、佐藤方哉・帝京大学教授(慶応大学名誉教授)による、「日本行動分析学会20年のまとめと今後の展望」という記念講演が行われた。講演ではまず、この学会が、「行動分析研究会」としての会合や、世話人会の積み重ねの中で成立した経緯についてふれられた。次に、今後のことについて
  • 学問的発展
  • 社会的発展
という2つの側面から種々の検討課題が提唱された。

 学問的な課題として挙げられた中でなるほどと思ったのは、「用語の使用を厳密にしよう」という御指摘であった。これは決して行動分析だけの問題ではない。心理学一般の用語においても、日常語と学術語が厳密に区別されていなかったり、同じ用語が2通りの意味に用いられているなどの混乱がある。具体例として挙げられた、モチベーション、弁別刺激、消去、セルフ・コントロールなど、確かに問題があるようだ。

 備忘録代わりに1つだけメモしておくと、「セルフ・コントロール」という用語は
  • 自分の「ある行動」により自分の「他の行動」を制御すること
  • 直後に少ない強化がもたらされる行動ではなく、遅延後に大きな強化がもたらされる行動
という2つの意味で用いられるが、両者は本質的に異なった概念と言えよう。後者のほうは、ダイエット(目先の誘惑に負けずに減量する)、禁煙(目先の欲求に負けずに、健康を守る)長期にわたる努力(目先の成果は上がらないが、ちりも積もれば山となって大きな成果が期待できる)といった行動をいかに形成するかという差し迫った課題が多いので注目されがちであるが、それらは必ずしも自分一人でコントロールすべきものでもない。強いて言えば、「セルフ・マネジメント」に統一すべきであろうか。

 このほか、学問的な課題に関連して、日本でなければできない研究を推進する必要が協調された。私自身が行った『3歳児における漢字熟語の読みと生成』(行動分析学研究,1990, 4巻, 1〜18.)が実践例の1つとして挙げられたのはまことに光栄であった。

 行動分析学の社会的普及のためになすべきことに関連して、「技法」、「知見」、「理論的枠組としての行動随伴性」、「方法論としての単一事例法」、「哲学としての徹底的行動主義」という階層型の「普及パック」のようなもの(←ラジカルに言えば、武装セット)が提唱された。このうち、特に哲学面での普及が求められるとのこと。そのためには、スキナーの古典を正しく紹介することや、私的出来事や言語行動に関する主張を正確にとらえることがぜひとも必要ではないかと感じた。

8/25追記]上記の御講演のうち、佐藤先生のパワーポイントファイルは、こちらに公開されていた。

_20824(土)[心理]日本行動分析学会第20回年次大会(2)刺激性制御研究の未来を探る

 一日目午後は、記念講演に引き続いて、研究委員会企画シンポが行われた。

 研究委員会企画シンポは「行動分析学の点検」という継続企画であり、今年度の話題は「刺激性制御研究の未来を探る」というテーマであった。14時すぎから16時すぎまで行われたが、後続する私自身が企画したシンポの打ち合わせを行うため15時前には退席せざるをえなかった。

 最初の友永氏(京大・霊長研)による話題提供はかなり「挑発的」なもので、最近の実験研究の動向をふまえながら
  • 動物を対象とした「行動研究」は、単なるヒトのモデルとしての存在を超えなくてはならない
  • 刺激性制御の行動分析的研究は、その分析の軸として「系統発生的随伴性」を導入すべき
といった主張を含んでいた。

 話題提供のスライドの中では、ヒトやチンパンジーやオランウータンは自然界で道具を使うが、ボノボやゴリラや小型類人猿は使えない。しかるにゴリラでも、実験室で訓練すれば道具を使えるようになるという事例が挙げられていたが、全体の主張との関連が少々わかりにくかった。それから、ここでいう道具使用行動というのは、おそらく、外界のオペランダムを自ら加工しそれにオペラント的に関わることで好子を獲得していくような行動のことを言うのだろう(それゆえ、木の枝をたぐり寄せて果実を採集する行動は「木の枝」を道具とした行動とは言えない)が、鳴き声、求愛の際の贈り物、巣作り、あるいは実験室でのレバー押しなどを含めて、何をもって道具使用と見なすのかは、単純に操作的基準で分類されるものではあるまい。いっぱんに比較心理学の研究で、A条件とB条件でどちらが速く学習できるのかというような不等号の向きを比較することはたやすいが、「A条件で学習できるかどうか」だけを独立課題として検討することは非常に難しい。道具使用の有無を論じることは、後者の検討を含むだけに困難が伴う。

 ラットを被験体とした場合、音や光(←長谷川の聞き取りによるため、いずれであったか忘れてしまった)ではラーニングセットは起こらないが、食べ物のニオイでは可能。但し、食べ物と無関係の人工的香料では起こりにくいという事例も紹介されていた。この話題は、かつて1970年代に盛んに議論された「学習の生物的制約」を思い出させるものだった[例えば、Seligman & Hager(1972). Biological boundaries of learning. New York: Appleton-Century-Crofts]。また、行動分析学者の中でも、系統発生についての議論があった[例えば、Herrnstein (1977). The evolution of behaviorism. American Psychologist, 32,593-603.]。これらを歴史的に辿った上でいま現在の方向性を示していただけると有り難かったのだが、中途退席したため、そのような議論に進んだのかどうか、フォローできなかった。

 もう1つ、友永氏は、Epsteinが行ったハトの「自己認識」の研究にふれ、抄録の中で「Epsteinの抱いた夢は今は昔である。現在では、そのような知見をそのままの形でヒトに外挿することは不可能である。みなそれなりに、種の違いというものを認識しているはずである。.....」と述べておられた。Epsteinの研究については、私自身、『スキナー以後の行動分析学:(4)よく知られた心理学実験を再考する』(岡山大学文学部紀要, 1994年, 21巻)の中で取り上げたことがある。この研究は「自己認識」ではなく「洞察」に関するものであったが(Epstein, Kirshnit, Lanza, & Rubin (1984). “Insight”in the pigeon: Antecedents and determinants of an intelligent performance. Nature, 308, 61-62.)、ヒトや霊長類特有の高度な認知機能と受け止められてきたものを、ハトを被験体としてシミュレーションした点では変わらない。私自身は、Epsteinらの研究の意義は、決して、ハトでも巧妙な訓練を重ねれば人間と同じようなことができるという証拠を挙げたわけでもないし、人間の真似事をハトにさせる中でヒトの高度な認知機能が解明できるというような「外挿」を開始したわけでも無かったと考えている。ではどういうところに意義があったのかと言えば、ケーラーが報告した「チンパンジーの洞察」のようなものは、必ずしもチンパンジーの沈思熟考の成果にはならない、という反例を示したことであったと私は考えている。

 ケーラーのチンパンジーが居室や運動場、あるいは施設入所前に育った自然環境のもとでどういう行動が生じていたのかも併せて見ていかなければならない。実験場面で試行錯誤無しにある行動が閃きのごとく出現したからといって、必ずしも「洞察」の証拠にはならない。Epsteinの研究は、ハトでさえ、周到に訓練を重ねれば、いっけん「洞察している」と錯覚するような行動の形成が可能であることを示した点で大いに意義があると考えている。




 2番目の大河内氏(大阪教育大)「刺激性制御とルール支配行動」という話題提供であった。ここで取り上げられたルール支配行動は「語(words)を含む先行刺激によって制御される行動」というCatania(1998)の定義に基づくものであり、マロットの「ルールとは行動随伴性を記述したタクトが生み出す言語刺激」という定義に比べると遙かに広い内容を含んでいた。大河内氏は、ご自身の実験研究成果なども交えながら、広義のルール支配行動を再整理された。また抄録には、ルール支配行動がもともと、随伴性形成行動では記述できない行動を示す概念(Skinner, 1969)であったことに関して、そのことにも関わらず、単なる刺激般化と見なせる場合があることを指摘された。

 個人的には、ルール支配行動は、未体験の随伴性に対して初っ端から適応する機能(例えば、「米国や中国では車は右側通行」)、あるいは、行動の累積的な成果が長期間の後に現れるような行動(例えば「いま一生懸命勉強すれば将来は指導者になれる」)を維持するために有効な行動であろうと考えている。しかしいずれの場合も、純粋なルール支配行動だけで当該行動が十分に遂行されることは稀である。

 つまり、より現実的な課題は、「ルール支配行動はなぜ可能なのか」ではなく、むしろ、ルール支配行動が維持されにくい状況において、それを補完するためにどのような付加的随伴性を用意するべきかというテクニカルな問題にあるように思う。後続するシンポの打ち合わせがあったため大河内氏のご発表が終わる前に退席せざるをえなかった。今述べたようなディスカッションが行われたのかどうか定かではない。

 もう1つ、ルールは時として、非常に強力に人間行動を支配することがある。カルト宗教団体によるマインドコントロールや自爆テロがこれにあたる。これらの解明と防止策に取り組むことも将来の重要な研究課題になるだろう。

8/25追記]上記の話題提供のうち、友永氏のパワーポイントファイルは、こちらに公開されていた。
 

_20825(日)[心理]日本行動分析学会第20回年次大会(3)地域通貨と行動分析

 大会初日の夕刻には、私自身の企画・司会による「地域通貨と行動分析」というシンポジウムが開催された。こんかいこの企画を行ったのは
  • 地域通貨は、特定の行動(個人が行うサービスなど)に対して具体的でタンジブルな結果(=価格の明示された紙幣のようなものや、通帳への記帳)を与えるという点で、発想自体がきわめて行動分析的であること
  • 地域通貨については、いろいろな誤解があること。
  • 開催地の神奈川県では、地域通貨の取り組みが活発であること
に考慮したものであった。

 大会会場となった藤沢市では特に、善行(善行)地区で「善」というエコマネー(=加藤敏春氏の提唱する地域通貨の一種)の取り組みが活発に行われている。「地域の人と人とのコミュニケーションを深め、地域住民の助け合う、支え合う活動で生き生きとしたコミュニティを育て、近年失われた地域社会の再生を目指す」という趣旨のものであった。今回はそのエコマネー研究会の会長の宮田英夫氏から直接、活動の御紹介をいただくことができた。[「善」の活動内容は、こちらのサイトに紹介されているのでご覧いただければ幸いです。]

 さて、ボトムアップ型のボランティア活動が基本の地域通貨ではあるが、地域でそれなりの役割を担うためにはやはり行政との連携、あるいは行政から一定のサポートを受けることがどうしても必要となる。そこで今回は、前回トップ当選を果たし、長年にわたりエコマネーネットワークにも参加されている松尾崇・鎌倉市会議員より地元あるいは全国における、エコマネーと行政との関わり合いについて、話を伺った。[松尾議員の個人サイトはこちらにあります。]松尾氏によれば、地域通貨には、「行政主導型」、「行政支援型」、「行政とは無関係」の3タイプがある。行政側は特に、福祉面(介護保険の隙間を埋める)、商店街活性化、緑地保全の点で期待を寄せているという。しかし行政主導が強すぎると失敗(不活発、一過性の流行)にも繋がる、やはり、現場でどういうニーズがあるのかを「できること」「してもらいたいこと」リストを通じて表に出し、行政はあくまでサポート役に徹するのが良さそうだ。

 地域通貨は、居住地域ばかりでなく大学キャンパス内でも活用することができる。今回は、岡大大学院の藤田益伸氏が「心理学教室内学生の交流を促進するゼミマネーの効果」について、簡単な事例紹介を行った。同じ研究室内にあっても、最近の学生は交流が少ない。特に、上級生・下級生間の互助活動はどうしても遠慮がちになる。そこで、「ゼミマネー」を導入して、学生同士が気軽に話しかけられる雰囲気を作るというのが目的であった。この取り組みは、一般の実践活動と異なり研究の一環として行われたものであるため、交流の内容や頻度がきめ細かく記録された。ありがちなことではあるが、
  • アクティブな参加者はごく一部に限られる
  • サービスの提供ばかりする人や、サービスを受けてばかりの人が出てくる
といった事例が客観的に把握された。行動分析のツールを使ってこれをどう改善していくかが今後の課題となるだろう。

 最後に長谷川自身が、行動分析学からみた地域通貨の概念的枠組みについて考察した。その詳細はこちらにあるので御高覧いただければ幸いです。

 要点としては、加藤敏春氏が論じているように、地域通貨は
  • 貨幣経済か「ボランティア経済」か
  • 「債権債務関係」か「信頼関係」か
という対立軸の中で4通りに分類できること、但し行動分析的には、それらに関与する行動随伴性をより細かく検討する必要があること。

 また、地域通貨というと、トークンあるいは般性習得性好子としての側面が強調されがちであるが、自分が提供できるサービスを登録することで、行動リパートリーが言語的に確認できるという面も重要。また、「マネー」を振込んだり振込まれることで、「認められる」、「感謝」に相当するような社会的強化がなされることも忘れてはならない。

 今回のシンポは、同じ時間帯に別のシンポ「行動倫理学に向けて」が開催され、さらに江ノ島水族館見学ツアーも行われたため、当初見込んだ50人に対して、会場スタッフを入れて20〜30人程度しかご参加いただくことができなかった。事前の宣伝不足を大いに反省している。しかし、少数とは言え、何人かの会員が強い関心を寄せていただいた。翌日の理事会で数人の理事から質問を受けたほか、Web日記仲間のidaさん(8/24付)からも
行動分析学の考え方を社会的現象に適用する、というのは私にとって非常に興味ある分野であった。とくに今回のシンポジウムは研究者のみでなくエコマネーを実践している方(藤沢市善行地区の主催者グループの代表者)や、行政側(鎌倉市議)の活動や意見を直接聞くことができて大変に勉強になった。これは個人の行動をより広い社会的枠組みで考えるという意味でも、他の領域(経済学、社会学、行政等等)ばかりでなく心理学にとっても重要な領域になると思う。
というコメントをいただき、大いに元気づけられた。

_20826(月)[心理]日本行動分析学会第20回年次大会(4)「行動」とは携帯電話?/オペラント、レスポンデントは中国語で何というか?

 2日目午後は、日本行動分析学会20周年を記念して「アジアにおける行動分析学の現状と今後の課題」というシンポジウムが開催された。司会は愛知大学教授の浅野俊夫氏、話題提供は、台北師範大学助教授のWei-Chen Lan氏、ABA中国支部代表のDavid Peng氏(現在、米国在住)、韓国行動分析学会副会長・中央大学校教授ののJoon-Pyo Hong氏、それと、日本行動分析学会前会長・吉備国際大学教授の小林重雄氏であった。

 それぞれの話題提供を拝聴して強く感じたのは、東アジア地域では、行動分析の基礎原理あるいは哲学としての徹底的行動主義にはあまり関心がなく、もっぱら、発達障害児にとって有用な訓練を行うためのツールとしてのニーズが強いということだった。この事情は、東南アジアや中央アジア、西アジア諸国でもおそらく同様であろう。じっさい、基礎的な研究に予算をつぎ込むほどの余裕は無いのかもしれない。

 となると、多少不本意ではあっても、まずは、応用行動分析を前面に出してその有効性、有用性を強調することのほうが普及に繋がる。単一事例法でも群間比較でもよいから、とにかく効果のあったことを客観的に示していけば政治家も教育界も納得してくれるはずだ。

 ところで、日本、中国、韓国と言えば、漢字文化圏という点で深い絆がある(ハングル主体の韓国で現在どの程度漢字が使われているのかは分からないが)。そこで、英語のテキストを翻訳する際にもできる限り、共通の漢字表記を用いることが推奨される。この点は以前から強い関心があったので、さっそく質問させていいただいた。

 まず、これは2000年12月に台北で行われた国際会議のタイトル:

●International Congress on Behaviorism and the Science of Behavior(行為主義曁行為科学国際會議)

にも掲げられおり、長年疑問に思っていたのだが、中国語では「Behavior」は、「行動」ではなく「行為」と訳さないとしっくりこないようだ。念のため『新明解』で意味を確認したところ

●行為:人間がなんらかの目的で、ある結果を伴うことをすること
●行動:[動物一般が]何かをしようとして、実際にからだを動かすこと。

というように区別されていた。行動分析でいうところの行動には、目に見える筋肉反応を伴わないような行動(例えば一部の言語行動)も含まれるし、行動随伴性という観点から言えば、「ある結果を伴うような行動をすること」が強化の前提となっている。となれば、むしろ日本語でも「行為主義」あるいは「行為分析」としたほうが誤解が避けられたようにも思える。「行動主義」という訳語は、おそらくワトソンを紹介する中で初めて使われたものと思われるが、どなたの訳が定着したのだろうか。

 ではそれ以外の訳語はどうだろうか? 日本語で強化子あるいは「好子」と訳されるreinforcerは「増強物」となるらしい。それから、今、上に述べた「行動」だが、台湾では、名刺に携帯電話番号を記す際に「行動 1234-5678」という使い方をするという。これは驚きであった。

 当日夜の懇親会で、台湾の先生に「中国語でオペラントは何と言いますか?」と英語で尋ねたところ、「歌劇」と言われてビックリ。いくらなんでも「オペラント行動」が「歌劇行為」にはなるまいと聞き返してみたところ、どうやら、オペラントとオペラを取り違えられたようだった。で、結局聞き出した訳語は

●オペラント:操作制約
●レスポンデント:古典制約

というものだった。上記で「制約」がついていることからもわかるように、「オペラント行動」の場合は、「操作行為」ではなく「操作制約行為」と訳さないとしっくりしないらしい。「レスポンデント=古典」というのは、パフロフ型の条件づけが英語で「classical conditioning」と呼ばれていたことに起因するもののようだが、せめて「応答制約」とでも訳せないものか、次回お会いした時にさらに尋ねてみたいと思っている。

_20827(火)[心理]日本行動分析学会第20回年次大会(5)スキナーの『罰なき社会』論と、強制収容所のカポ

 2日目夕刻には、上田邦義・日本大学大学院教授による「シェイクスピアと能と行動分析」と題する興味深い特別講演が行われた。講演時間はわずか1時間であったが、きわめて密度が濃く、おまけに、『英語能・ハムレット』の実演(主演:上田教授、能管:小野浩一・日本行動分析学会会長)まであり、大いに堪能した。

 上田氏は、まず、昨年9月にアメリカで起きた同時多発テロにふれ、多くのアメリカ人が報復攻撃を支持する中で、少数ながら異議を唱えた有名人として、チョムスキーと坂本龍一氏の名前を挙げられた。そしてもし存命であればスキナーも報復に反対したであろうと、次の一節を引用された。
.....When we look at the world today with its war, terrorism, and violence in so many places, a non-punitive society seems "utopian" in the sense of impossible And, indeed, we are not likely to arrive at a peaceful world in the immediate future by applying the experimental analysis of behavior to international diplomacy. In any case, peace in the simple sense of the absence of violence is no solution to the problem. Like the permissiveness which some countries have recently explored it offers no effective alternative to punitive measures. Perhaps our best opportunity will be to start below the level of international affairs. If, because of positive consequences alone, people can acquire knowledge and skills, work productively treat each other well, and enjoy their lives, those who deal with international affairs may be able to use non-punitive measures more effectively. It is the unhappy and the frightened who resort to war. International negotiations among happy nations should be more successful. .............
 じつはこの段落は、私が各種論文や授業でしばしば引用する
When we act to avoid or escape from punishment, we say that we do what we have to do, what we need to do, and what we must do. We are then seldom happy. When we act because the consequences have been positively reinforcing, we say that we do what we like to do, what we want to do. And we feel happy. Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed. The rich soon discover that an abundance of good things makes them happy only if it enables them to behave in ways which are positively reinforced by other good things.
という段落(下線は長谷川による)の直前に位置するものであり、スキナーが慶應義塾大学で1979年9月25日に行った講演録として1990年発行の『行動分析学研究』(5巻, 98-106)に掲載された論文から取り出されたものであった。そういえばこの論文のタイトルは『The non-punitive society. 』というものであった。言語行動をめぐって激しく対立したスキナーとチョムスキーであるが、もしスキナーが存命であればひょっとして、スクラムを組んでアフガン報復爆撃に反対していたかもしれない。




 ここで少々脱線するが、宿泊先のホテルで当日(8/23)の夜に、「カポ」を取り上げた番組を視た(NHK-BS)。「カポ」というのは、ナチスドイツの強制収容所で、囚人長やブロック長として、結果的に虐待や虐殺に荷担してしまったユダヤ人たちのことである[]。ナチスは直接ではなく、収容者のユダヤ人たちを「カポ」に任命して間接支配を行った。「カポ」の中には、動きの遅い囚人を金属棒で殴りつけて骨折させたり、多数の女性を裸にして長時間不自然な状態で跪かせて苦痛を与えるといった虐待を行った者もあった。もし、ナチス親衛隊が日常的に虐待を繰り返せば、ユダヤ人たちは一致団結して決死の反乱を企てたに違いない。しかし、囚人たちの中に中間支配者と服従者の階層を作ることによって、憎悪の矛先は囚人の内側に向けられることになった。
8/28追記]こちらの映画紹介によれば、「カポ」=「ドイツ人の刑事犯」とされているが、今回番組ではそのような説明は無かった。番組の紹介サイトはこちら。但し、期間限定の模様。

 カポの生き残りの一部は戦後にイスラエルで裁判にかけられることになった。しかし、虐待や虐殺荷担の事実があったわりには、多くは無罪、あるいは、そもそも被告にすらならなかったという。ドイツやオーストラリアに移住したカポも居た。その背景には、「同じ状況に置かれたら自分でもそうせざるを得なかったのではないか、という判事たちの迷いがあった。番組でも語られていたが、

●絶望の中にあって、少しでも生き延びる道をさぐるのか

それとも

●他人を犠牲にしてまで生きながらえるのか

という迷いが、判決にも反映したようだ。私なども、平時には「自分は、他人を犠牲にしてまで生きながらえるような人間ではありたくない」と明言できるが、収容所送りになった時にその信念を貫けるかどうかは自信が持てない。




 カポの行動、あるいは強制収容所内でユダヤ人たちが支配されていった事実を見ると、人間は罰的に統制されやすい動物であることが分かる。つまり「罰的統制が有効かどうか」という議論だけをするならば結論ははっきりしている。問題は、そういう苛酷な統制が続くと、支配する側も服従する側も、もはや人間ではなくなってしまうという恐ろしい結末にある。だからこそ、罰的統制は否定されなければならないのである。

 なお、念のためお断りしておくが、一般に我々が「罰的統制」という中には
  1. 行動のあとに嫌子を提示することでその行動を弱める(嫌子出現随伴性による弱化)
  2. 行動のあとで好子を除去することでその行動を弱める(好子消失随伴性による弱化、「ペナルティ」など)
  3. その行動をしないと嫌子が提示される(嫌子出現阻止随伴性による強化、「回避」)
  4. その行動をしないと好子が除去される(好子消失阻止随伴性による強化、「仕事を完成しないとクビになる」)
というようにいろいろな随伴性が含まれている。それらの中には
  1. 目的がどうあれ、ゼッタイに使ってはいけない方法
  2. 差し迫った目的を達成するため、緊急避難的に用いることが許される方法(例えば、激しい自傷行為を緊急避難的に弱化する)
  3. 可能な限り転換をめざすべきもの(「働かないと食えないという好子消失阻止の随伴性」を「働くという行動に必然的に伴う好子で行動内在的に強化」に転換する)
  4. 自己管理の一環として、自分自身を好子消失阻止随伴性に晒してみる(「ダイエットしたらご褒美」ではなく「ダイエットしなければ何かを失う」という義務的な随伴性に晒さないと体脂肪を減らすことはできない)
というものがあり、適用のしかたや弊害については、今なお点検を続けていく必要があることを強調しておきたい。

 時間が無くなったので、本題の「能」についての感想は次回以降に。

_20828(水)[心理]日本行動分析学会第20回年次大会(6)「森の生活」と「第二ウォールデン」/「生か死かは、もはや最大の問題ではない」と叫ぶ能

 前回に引き続き、上田邦義・日本大学大学院教授による「シェイクスピアと能と行動分析」と題する特別講演の感想。『罰なき社会』に続き、上田氏はスキナーの著作からもう一編『第二ウォールデン』を紹介された。

[今日の写真]  『第二ウォールデンWalden Two』というのはスキナーが書いたユートピア小説であり、日本では『心理学的ユートピア』という訳書が刊行されたことがあるが、現在では絶版になっている[左の写真上部参照]。古本屋さんで見つけたらぜひ購入していただきたい。オークションで高値がつくはずである。

 この本のタイトルが『第二』あるいは『Two』となっていることから示唆されるように『元祖ウォールデン』は別に存在している。上田氏は、“元祖”を著したH.D.ソロー (Henry David Thorea)に言及された。じつは私自身はソローの作品を読んでいなかった。昨年、飯田実氏による新訳が刊行されたそうなので、これを機会に注文してみた。メモ代わりに記しておくと
  • 書名『森の生活(上・下)』、岩波書店
  • 上巻 本体 1,200円 2001年1月16日発行 ISBN4-00-007178-5 C0398
  • 下巻 本体 1,300円 2001年1月16日発行 ISBN4-00-007179-3 C0398
となっている。

 スキナーは『第二ウォールデン』のその後の様子を報告した短編「]を書いているが、『第三ウォールデン』には発展しなかった。上田氏がそれを執筆されるとのことだ。
]“News from nowhere, 1984”(Skinner, 1985, The Behavior Analyst, 8, 5-11./岩本隆茂先生他による訳書『人間と社会の省察』、勁草書房, 1996年に“『ユートピア便り』と『一九八四年』”として収録されている)




 上田氏は、さらに、ご自分が創設された国際融合文化学会(ISHCC : International Society for Harmony & Combination of Cultures)の活動や、いくつかの人生観について語られた。1つの生き方として、「一時に1つの世界(長谷川の聞き取りが正しければ“One world at a time”)」という生き方がある。これは、来世や輪廻転生を信じる信じないに関わらず、いま自分が生きている世界でベストを尽くすということであったと思うが、軽く触れられただけだったので上田氏御自身の人生観とどう関わるのかは分からなかった。少なくともスキナーはこういう生き方をしたし、私自身もそれを目ざしている。

 この人生観と対立するのか、さらに深めたものなのか聞き逃したが、上田氏は、過去・現在を未来に活かすというスタイルを重視しておられるようだ。そして、「人類の進化の方向が分からないと、自分の人生が人類に貢献している度合いも分からない」と述べておられた(←長谷川の聞き取りのため不確か)。これは、おそらく「世の中に役立つ仕事をしようと思うなら、まず、世の中はどういう方向に進むべきかを正しく理解しなければならない。それによって初めて、役立っているかどうかが正当に評価できる」という意味ではないかと思う。

 この人生観は論理的には正しいし、経験豊富な上田氏御自身であれば実践できると思う。しかし、私のような若輩者の立場から見れば、「世の中はどう発展すべきか」という問いは、そう簡単に答えを出せるものではない。つまり、その答えが見つかるまで、自分の行為は正しいのかどうか評価できない。死ぬまで思い悩み、臨終間際になって「私の人生は間違いだった」と気づくかもしれぬ。やはり、「当面の課題に最善をつくす」生き方をとったほうが気楽で、結果的に間違いも少なくて済むように思うのだがどうだろうか。




 さて、だいぶ前置きが長くなってしまったが、特別講演の最後には、『英語能・ハムレット』のダイジェスト版が、小野・日本行動分析学会会長の笛(能管)とともに上演された。

 このハムレットは、原作を忠実に再現したものではない。「生きるか死ぬか、それが最大の問題」と叫んだハムレットが、オフィーリアの霊に出会う。オフィーリアはハムレットを許し、祝福をして消える[左上の写真下部参照。右は小野会長]。ハムレットは
To be or not to be, is no longer the question.
To be or not to be, is not the question.
The readiness is all.
と、ついに悟りを得たのである。

 ちなみに、この能の最後は
Flights of angels sing thee to thy rest!
Flights of angels sing thee to thy rest!
という地謡で閉じられるが、ダイアナ妃の葬儀で聖歌隊によって歌われた節でもあったそうだ。

 能や狂言については、7月の教員の相互授業参観の時にたまたまお話を伺ったことがあった[7/5の日記参照]。そこでは

●西洋のリアリズム演劇と異なり狂言は、登場人物への感情移入には基づかない。
●能では、舞台上には登場人物は居ない。俳優の身体と地謡の声から観客が再構成するもの。

といった特徴が語られていたと思う。もっともそれらは演じ方の違いであって、原作のテーマに普遍的なものがあれば、それは能でも西洋劇でもそれなりに表現することができる。但しそのことだけでは必ずしも融合に到達したとは言えない。なにをもって「融合」となすのか、このあたりは、国際融合文化学会で修行をつまないとなかなか分からないのかもしれない。

_20829(木)[心理]日本行動分析学会第20回年次大会(7)社会的随伴性をめぐるGuerinの理論

 年次大会最終日は、10時から口頭発表、昼は総会、そのあとPTSDについての特別講演、ワークショップという順で行われた。今回は、その中から、宮崎氏による「社会的随伴性に対する新しいアプローチ」を取り上げてみたい。宮崎氏はニュージーランドのワイカト大学で、Guerin教授に師事しておられる。Guerin氏は、

●Guerin, B., & Foster, T. M. (1994). Attitudes, Beliefs, and Behavior: Saying you like, saying you believe, and doing. The Behavior Analyst, 17, 127-129.

の論文で知られるように言語行動、態度、信念、社会的強化などの面で鋭い視点を提供しており、私のゼミや講読でも数編を参考文献に挙げている。

 さて、我々の日常生活行動の大部分は三項随伴性による社会的制御で制御されているが、これを分析しようとすると
  1. 社会的随伴性の多くは観察困難
  2. 社会的随伴性は、多くの異なった結果と結びついた複雑な並立スケジュールの形態をとる
  3. 観察者は、行動に随伴する結果のうち、直後に出現する観察容易なもののみに注目しがちになる
  4. 社会的随伴性の記述が「規範」などの形態をとる場合、それが実際に作用している随伴性を隠蔽してしまう
といった難しさが伴う(Guerin、2001、宮崎氏の抄録から一部省略して抜粋)。これらは、実験的行動分析よりも、社会学、文化人類学、歴史人口学、ゲーム理論などの方法論を援用し、個人に作用する個々の随伴性ではなく、社会や共同体における随伴性システム全体を分析する必要があるというわけだ。宮崎氏ご自身のお考えなのか、Guerin氏も含まれるのかは聞き逃したが、

●やまだようこ編 (1997).『現場心理学の発想』.新曜社.

の視点も取り入れられているようだ。ちなみに上記の出典は、

●Guerin, B. (2001). What makes human social behavior look so special? Putting psychology into social sciences. Mexican Journal of Behavior Analysis, 27, 263-284.

に掲載されているということだが、私自身は未だ入手していない。メキシコに行動分析の専門家がたくさん居ることは承知しているが、講読するほどの予算的余裕は無い。もう1つ紹介のあったGuerin(2002)というのもunpublishedだというが、できれば、ネット上で公開してほしいものである。

 Guerin氏はさらに、社会的随伴性の分析において、資源と人口、資源の社会的交換が基本的な要素となることを主張している。すなわち、資源と人口は相互依存的であり、資源の欠乏をめぐる対立は、内部で資源の交換を行う集団の形成により解決される。一般的な社会交換には、時、状況、社会行動の種類、人を超えた交換という4つの形態があるという(Guerin、2001)。このことに関して、エコマネーのように、人と人との間で交換されるサービスはどうなのか、ふと疑問に思った。物質的な資源は人口が増えれば欠乏するが、サービスは人に比例して増大する。時間的な制限はあるとはいえ、無限に近い可能性を秘めている。さっそくフロアから質問させていただいたが、Guerin自身の理論の中では、サービスの問題はまだ十分に位置づけられていないように思えた。

 このほか、Guerin氏がかつてから主張しておられる言語行動の社会的役割、「事実」の社会的構築機能などが紹介された。

 Guerin氏のアプローチは、「行動はその結果によって選択されるという点では同じ」だが、行動分析学が実験的方法に基づいて行動の予測と制御を目ざすのに対して、Guerinのアプローチは、研究方法を固定せず、現象の解釈や説明を目ざすものであるという。実験的方法や「現場」に関連する私の考えは、こちらの論文で述べたことがあるが、Guerin氏の論文を拝読した上で、いずれ続編を出してみたいと思っている。
【思ったこと】
_20830(金)[心理]日本行動分析学会第20回年次大会(8)母親役割の獲得とは?

 年次大会最終日の口頭発表なかからもう一件、尾関氏による「母親役割の獲得と行動分析」という発表について感想を述べることにしたい。

 この研究で紹介された事例は、18歳の女性であり、高3の春に妊娠発覚。出産後、子供と二人で閉じこもることが多く、育児行動が不十分。また当初、本人の口からは、「子供のせいで遊びにいけない」、「【子供が】かわいくない」、「夫をとられた」、「こんな子いらない」などの発言が見られたという。

 発表者は、保健婦としての立場から対象者への支援を開始。種々の育児行動を「ほめる」、保育所に入所した子どもの成長を園長より伝えてもらうなど、多面的なサポートを行った。

 この発表に対してはフロアから「ほめる」ことの意味を問う質問があった。私自身も思ったことだが、「ほめる」という付加的な強化随伴性よりも、この母親が育児についての種々のスキルを獲得しそれを成功させること自体による行動内在的強化があったのではないだろうか。

 それから、ほんらい(←という言い方は行動分析的で無いかもしれないが)、子どもを産んだ女性は、自分の子どもをかわいく思うはずであるし、子どもの成長はそれ自体、強化的であるはずだと思う。当初、「子供のせいで遊びにいけない」、「かわいくない」、「夫をとられた」などの発言があったということは、母親がまだ若すぎたために、同じ世代の女性ならごく普通に楽しめるはずの「遊び」が育児行動と競合していたということが十分考えられる。そのバランスをどう保つかについての支援を進めるとともに、子育てに伴う結果が行動内在的好子として十分に働くような確立操作を行うことも必要かと思う。具体的には、感動的な子育てを描いた映画やTV番組を見せるとか、同じ年代で子育てに取り組んでいるヤングママたちのサークルに入り情報交換をするなど.....。

 「行動分析」というと、第三者が「ほめる」ことで具体的なスキルを獲得することばかりに目を向けられがちであるが、生活全般の行動のバランスに配慮したり、結果の強化力を高めるような確立操作を行ったり、付加的強化を行動内在的強化に転換する工夫をすることもまた、重要な支援内容になると思う。

 なお、発表抄録の中で「あかちゃんの手を引っ張るという行動消去のために」という記述があるが、これは「行動弱化のために」とすべきかと思う。
【思ったこと】
_20901(日)[心理]日本行動分析学会第20回年次大会(9)PTSD〜行動分析学による理解と治療〜

 大会最終日の14時から15時まで、ウェスタンミシガン大学のリチャード・スペイツ(Richard C. Spates)博士による「Posttraumatic Stress Disorder: A Behavior Analytic Interpretation of the Disorder and Its Treatment/PTSD(心的外傷ストレス障害)〜行動分析学による理解と治療〜」という特別講演が行われた。私自身は、飛行機の予約の関係で15時ちょっと前に退席したため、講演の全体を理解することはできなかったが、一口で言えば、この種の障害も条件づけ(特にレスポンデント的な条件づけ)であるゆえに適切な消去のプロセスが必要であること、また、治療プロセスを比較分析する中で、一般に有効と信じられている一部のプロセスが不要であることが示されたというのが前半の内容であったと思う。この講演内容は加筆修正の上、活字化されるらしいので、それを拝見した上でまたコメントさせていただきたい。

 ちなみにスペイツ博士は、日本国内でのPTSD、あるいは日本が世界に誇る「森田療法」についても関心をお持ちであった、前日の懇親会の際に個人的にお話しする機会があり、森田療法のことを聞かれたが、私は専門家ではない。とりあえず、
全くの素人なので正確なところは分かりませんが、患者さんにとって望ましい行動を形成するための一プロセスとして、いったん患者さんを隔離することで日常の随伴空間から断ち切り、その日常空間のもとで強化されていた望ましくない行動が強化されない環境を作るということは大いに有効であろうと思います。
と考えを下手な英語で述べたところ、賛同していただけたようだった。




 今回の年次大会参加報告はこれで終わりだが、じつは、来年度の大会は、なっなんと、岡山大学が開催校になることが理事会で決定された。懇親会や総会で、
ネットが普及した時代、大会のあり方についても点検をする必要があると思います。会員が高い交通費や宿泊費を払って集まることによって【ネットではできない】何が可能になるのか、考えていきたいと思います。
と挨拶させていただいたが、せっかくお引き受けする以上、ネット時代に対応した特色を1つでも2つでも出せたらよいなあと思っている。この点についての現時点での考えを、明日以降の日記に記してみたいと思う。

9/2追記]スペイツ先生のご講演の際のパワーポイントファイルがこちらに、また、岡大・瀧本靖子さんらによる翻訳ファイルがこちらに残っていた。8/31時点ではアクセスできなかったので削除されてしまったのかと思ったが、鳴門教育大のサーバーが停止していただけだったようだ。
【思ったこと】
_20902(月)[心理]日本行動分析学会第20回年次大会(10)これからの年次大会について考える(前編)

 昨日の日記で述べたように、行動分析学会の次期年次大会は岡山大学で開催されることになった。これを機会に、ネット時代に対応した学会活動のあり方について考えてみたいと思う。

 もともと学会というのは、同じ分野や研究方法に関心をもつ研究者たちが、その学問の普及や相互研鑽、研究発表の機会(論文掲載や口頭発表)を得ることを目的として設立されるものであった。

 私が参加したのは、今から30年近く前の日本心理学会37回大会(国立教育会館)が最初であったが、当時は、まだ電話と封書以外に日常的な情報交換の手段が無く、乾式コピーすら簡単にできない時代であった。年次大会は、他大学で行われている研究を知る最善の機会だったのである。

 それが今や、メイリングリストや掲示板上で瞬時の意見交換ができる。かつては困難だった映像や図表も送ることができる。ホームページ上からの発信も自由自在だ。そういう時代にあって、なぜ、多額の交通費や宿泊費を払って年次大会にやってくる必要があるのか、問い直してみる必要が大いにあると思う。




 上記のことに関して、私は少し前まで、個人発表(ポスター発表や口頭発表)は全廃し、ネット発表に切り替えたらどうかという考えを持っていた。ディスカッションは付属の掲示板で行えばよい。そのほうが時間は十分にとれるし、閲覧者全員で知識を共有できるからだ。

 しかし最近、このやり方はたぶん定着しないだろうと思いつつある。その理由として、
  1. 研究者の大部分は、(ごく一部の著名な発表を除き)他者の発表にはそれほど関心を持っていない。あくまで自分の研究をアピールするために学会に参加。そのついでに他者の発表を聞きかじっておこうという程度。
  2. 年次大会は、情報交換の場ではなく、自分の研究の区切りとして機能しているのではないか。
という可能性が考えられるからだ。かなり居直った、挑発的な見方かもしれないが、どうもそんな気がする。

 今回の年次大会では、発表論文集(抄録)の原稿がPDFファイルとして事前にネット公開されていた。しかし、それらを事前に精読し質問内容を整理した上で大会に臨んだ参加者は何人ぐらいおられただろうか。現実には多くの人は、発表の準備や研究の続行、(大学教員であれば)前期末の成績評価等に追われて、他者の発表内容まで精読する余裕はない。題目を見渡すのが精一杯ではないかと思う。

 となると、極言すれば、他者の発表を聞くという機会は、大会会場に足を運び、その空間と時間に自分を拘束することによって初めて可能になる。もしこれが正しいならば、ネットがどのように普及しても、「ネット上での発表+掲示板での意見交換」という方式は活性化できない可能性がある。

 もう1つ上記2.の点だが、我々が続けている研究というのはそう簡単には完結せず、また、他の校務、雑務に追われる中ではしばしば先延ばし(procrastination)の対象となりやすい宿命を背負っている。しかし、毎年、いくつかの学会の発表締切が設定されておりそれが動かせないものであると分かると、とにかくそれに間に合うようにデータをまとめようとする。しかも、そうやって頑張ったことは結果的に、研究成果として強化されるのだ。こういう機能もまた、ネット上ではなかなか実現しにくいものだと思う。なぜなら、全国から大勢が集まる大会で、生身の人間に向かってエエ加減な発表はできないし、発表取り消しをすれば目立つ。2.の点は、分厚い問題集を前にした受験生が
  • 自力ではできないが、同じ問題が通信添削会社から送られ、締切までの提出が促されるとできるようになる。
  • 自室ではやる気が起こらないが、図書館閲覧室なら可能。
という行動を示す傾向にあるのと似ているかもしれない。

 このほか学会年次大会は、大学院生が他大学の研究者に顔見せをするデビューの場でもあるし、いろいろな意味でプリゼンテーションのスキルを磨く場にもなっている。要するに、

●ネット上でできることを年次大会でやるのは無駄だ

という発想ではなく、

●年次大会開催によってもたらされる各種随伴性のうち、研究活動の活性化に有用と考えられるものは保持していこう

という姿勢で、改革に取り組むことが必要ではないかと考えつつある。では具体的にどうすればよいのか。次回に、いくつかアイデアを述べてみたい。
【思ったこと】
_20903(火)[心理]日本行動分析学会第20回年次大会(10)これからの年次大会について考える(後編)

 昨日の日記に引き続いて、これからの年次大会のあり方について考えてみることにしたい。ネットが普及するなかで、

●ネット上でできることを年次大会でやるのは無駄だ

と考えたくなるが、実は

●年次大会開催によってもたらされる各種随伴性のうち、研究活動の活性化に有用と考えられるものは保持していこう

という姿勢が大切ではないかというのが昨日の主張であった。具体的にどのような随伴性が有用であるのかについては、できれば今年度参加者・次年度参加予定者にアンケートをとって調べてみたいと思うが、何はともあれ、年次大会に参加したことで、「じぶんがどのように更新されたのか」という行動内在的な好子を得ることが最も大切ではないかと思う。

 Web日記を始めたあと、私自身は、種々の年次大会、シンポジウム、講演会などに参加した感想を、こちらや、こちらにまとめてきた。その中で固まってきたのは
  • 参加した以上はメモをとり、新しく得た知識や、それによって「自分を更新」できた点を、できるだけ早い時期にWeb日記にまとめる。
  • そういう意欲がわかない催しには、最初から参加しない。
という姿勢だ。今回の年次大会の中で開催された総会で、私は

●年次大会に参加するという行動を内在的に強化するための一例として、「この大会に参加して何がよかったか、何を新しく身につけたか」ということを言語化するための感想文を提出していただきWeb公開するという方策が考えられます。そのお手本として、理事の先生方全員に感想文提出を義務づけるというのはどうでしょうか?

という冗談っぽい挨拶をしたが、これが実現し、さらに感想文の中の記述について議論が交わされればより生産的な大会になるのではないかと思っている。




 もう1つ、これからの年次大会では、非会員や隣接分野との交流を重視することも大切であると思う。

 公式サイトによれば、今回の大会の参加者数は、会員176名、非会員132名、合計308名であり、これまでの年次大会の中で最高記録だったという。500名を超える行動分析学会会員のうち176名しか参加がなかったというのはちょっと気になるが、その一方で非会員132名参加というのは大きな成果であったと思う。これを機会に入会する方があれば会の発展につながるし、また非会員のままであっても、他の分野との交流を増やすことになる。

 そういう意味からも、次年度は、公開シンポ(非会員でも資料代程度の参加費で出席できるシンポ)を増やし、理学療法や作業療法、医療・看護・介護・福祉関係者、教育現場、地元の経済界などとの交流を重視できたらと思っている。この種の交流はネット上でもできるのだが、最初はやはり、生身の人間どうしが顔を合わせるきっかけが必要だ。先方の御都合もあるのでどこまで実現できるか分からないが、リハビリテーション分野、園芸福祉、学校教育関係者、岡山を発祥の地とする生きがい療法、グループホーム、近隣のエコマネー実践団体などから講演者やパネリストをお招きし、交流を深めることができればと考えている。