日本ダイバージョナルセラピー協会設立セミナー2002年12月1日(日) 大阪桜宮・大阪リバーサイドホテル |
【思ったこと】 _21202(月)[心理]日本ダイバージョナルセラピー協会設立セミナー(1)DTは他のセラピーとどこが違うのか? 12月1日に大阪・桜宮の大阪リバーサイドホテルで行われた、日本ダイバージョナルセラピー協会設立記念セミナーの参加報告。 ダイバージョナルセラピー(Diversional Therapy、以下DTと略す)というのは、オーストラリアの高齢者施設で理学療法や作業療法などとリンクしながら広く行われている「セラピー」であるが、これまで日本では、オーストラリアに留学・研修等に行ったことのある研究者や福祉関係者によって断片的に紹介されているにすぎなかった。 一昨年の6月、健康福祉情報研究所の芹澤隆子氏により、DTのセミナー(アデレード)を取り込んだ研修ツアーが企画され、日本からも高齢者福祉施設の経営者や現場責任者などが参加した。私自身もこれに加えさせていただいた(その時の報告がこちらのサイトにあり)。その時の参加者、さらには本年6月に、同じく芹澤氏によって企画されたクイーンズランド方面への研修ツアーの参加者が中心となって、NPO法人としてのDT協会が組織され、今月中には正式に認可されるはこびとなった。今回のセミナーには、オーストラリアの総領事(写真右上)も挨拶に来られ、100人以上の参加者で会場は満員となった。 さて、それではDTは他のセラピーとどこが違うのか? あくまで私見であるが、次のような決定的な特徴があるように思う。
しかし、例えば、みんなで歌うというイベント1つとっても、それが上記の精神に基づいて計画的に実行されているのか、それとも、単に「みんな退屈そうにしているから、とりあえずやってみよう」ということなのかでは根本的に異なる。 先月とりあげた「アメリカではの守」による大学改革にも共通することであるが、日本では、外国をお手本に改革を進めようとする時、内容や意義を十分に理解せず、「型」ばかりを取り入れてしまう悪い癖があるようだ。そういう意味ではDTも「オーストラリアではの守」であってはならない。実際に行われるイベントは、盆踊りでもよいし、着物の着付けでもよい。重要なことは、上記の精神をどう実現するかという点である。次回は、この点について、既存の「セラピー」とDTとの違いについて考えを述べる予定である。 |
【思ったこと】 _21203(火)[心理]日本ダイバージョナルセラピー協会設立セミナー(2)個の尊重の意義 昨日の日記で、あくまで私見であると断った上で、ダイバージョナルセラピー(Diversional Therapy、以下DTと略す)には次のような決定的な特徴があるように思う、と述べた。
まず1.だが、アデレードの州立高等教育機関「Douglas Mawson Institute of TAFE」の教室にこんな言葉が記されていたことを思い出した(こちらの報告参照)。 要するに、高齢者にとっての楽しみはあくまで個人本位でなければならない。音楽療法が良いから全員で歌うとか、園芸療法が良いから全員で花を育てる、という画一的、平均値人間型のとらえ方は捨て去らなければならない。もちろん、歌が好きな人や園芸の好きな人は居るであろうし、そういう人にとっては紛れもなく生きがいになる。しかしだからといって、嫌いな人にまで義理でそれらに参加させたり、不参加の人をほったらかしにするようなことがあってはならない。 また、このことから求められる視点は、高齢者のセラピーは多様であるべきだということ。「万能な医療効果」の実証にエネルギーを費やすより、質の高いアクティビティの実現そのものに価値を見出すことのほうが大切であると思う(こちらの論文参照)。 今回のセミナーで聞いた話だが、国内のある高齢者施設で、音楽療法士の指導のもとで合奏が行われた。熱心にタンバリンをたたいていたお年寄りが居たので後で感想を聞いてみると、本人は別にそれを楽しんでいたわけではない。ここ(施設)に置いてもらっているし、せっかくエライ先生が来てくれたので、じつは義理でそれに参加したのだという。あるいは照れ隠しにとういう発言をされたのかもしれないが、とにかく、ある人が楽しいことが全員にとって楽しいということなどあり得ない。個人個人のニーズを十分に聞き取り、それを実現する形で行われるというのがDTの基本である。 次に2.だが、自立というのは、身辺の自立、さらには精神的な自立という意味にもとられる。TV番組ではしばしば、グループホームの痴呆症のお年寄りたちが、自分たちのできる範囲で料理を作ったり、買い物に出かけたり、盛りつけの手伝いをしたりするシーンが紹介されている。これは、別段、人手不足だから入所者を雑用に駆り出しているわけではない。若い頃に得意だったことを再現する機会として、そして、誇りをもって暮らすためにセラピーの一環として取り入れていると言ってよいだろう。その証拠に、そういう自立的な活動に参加することで笑顔が戻り、いろいろな能動的はたらきかけが増えたという事例がいくつも報告されているという。 おそらくDTの一環としても、日常生活を支える行動の一部として炊事に参加する行動が取り入れられているに違いない。但し、これも上に述べたように、家事がセラピーであり続けるとしたら、それはあくまで「しなくてもよいが、してみると楽しい」というレベルにとどまる。それをしなければご飯が食べられなくなる、というような阻止の随伴性で制御されるべきではないと思う。 以上、「個の尊重」について述べてきたが、こちらの報告にあるように、アデレードの州立高等教育機関「Douglas Mawson Institute of TAFE」の教室には No person is absolutely independent; we are all social beings and thus dependent on others to varying extents and in various ways throughout our lives.というスローガンも掲げられていたことを付記しておく。セミナーでも指摘されていたが、いま入所しているお年寄りの大半は教育勅語世代であり、どちらかと言えば「個」を抑え、他人に世話をしてもらうことを申し訳ないと考える人が多い。戦後世代の数が増えれば入所者のニーズは多様化し、個人主義的な傾向が強くなってくる可能性もある。 |
【思ったこと】 _21207(土)[心理]日本ダイバージョナルセラピー協会設立セミナー(3)「できること」探しの意義 12/1に行われた表記のセミナーの感想。あれからもう1週間が経ってしまった。年をとったせいだろうか。このところ、セミナー等の参加報告を一週間以内に書き上げることが難しくなってきた。さて、12/3の日記では、あくまで私見であると断った上で、ダイバージョナルセラピー(Diversional Therapy、以下DTと略す)には次のような決定的な特徴があるように思う、と述べた。
昨年6月にオーストラリアで話を聞いた時にも思ったことだが、DTの発想は行動分析と非常に似たところがある。それは、あくまで個人本位で「できる行動」探しに取り組み、その行動が強化される環境を設計するという視点であった。今回のセミナーでも、次のようなフレーズが使われていた。
もっとも、発達障害児と高齢者の場合では事情は相当に異なる。障害児の場合はライフステージとしてはまだ出発点にあり、自立のための準備がどうしても必要となる。多少ガマンをしても望ましい行動を増やしていったほうが、けっきょくは本人にプラスになるだろう。従って、そのプロセスでは、状況に応じて、キャンディやガムのような好子を付加的に随伴させて、行動を強化してやる必要も出てくる。 これに対して、高齢者の場合、特に痴呆症のお年寄りの場合には、何十年も先のための準備のために努力することはあまり意味が無いだろう。それよりも、「今」に少しでも価値を見出すことが大切だ。従って、適応や自立のために「望ましい」行動かどうかではなく、当人が本当に楽しめる(=行動内在的な好子となっている)行動を探し出し、それが適切に発せられる環境を工夫することが大切になる。上記の「目的を持った遊び」というのはそういうことを言うのだと思う。 さて、12/3の日記でも述べたことだが、グループホーム入所者が、買い物、料理、配膳、後かたづけ、掃除、洗濯などの雑事に参加することはどう位置づけられるのだろうか。画一的に論じることはできないが、オーストラリアを含めて欧米的な労働観からは、、雑用的な仕事は個人の自由を束縛する行動であり、そのような時間を最小限に減らして余暇を楽しむところに価値を見出すという考えが出てくるかもしれない。しかし、日本の場合は、しばしば、痴呆症のお年寄りが家事に参加してから快活になったというような事例がしばしば伝えられている。周囲の世話にならずに自立した生活をしていることを誇りにしている方も多いことを考えると、歌やゲームよりは、「役に立つ」ことが示せるような活動のほうが効果的ではないかという気もしてくる。 もっとも、仮に10人中9人は家事を楽しむが、1人は自分の趣味に興じたいという気持ちを持っていたとして、その1人が、家事をせず、かつ他の9人に気兼ねせずに趣味ばかりやっていられるかという問題もありそうだ。 |
【思ったこと】 _21211(水)[心理]日本ダイバージョナルセラピー協会設立セミナー(4)全人的な視点 12/3の日記で、あくまで私見であると断りつつ、ダイバージョナルセラピー(Diversional Therapy、以下DTと略す)の特徴を次のように列挙した。
「全人的な視点」という言葉は、学校教育の世界では昔から使われてきたが、ネットで検索すれば分かるように、最近では特に、医療分野でしばしば登場するようになっている。医療技術の発展によって、身体内部の局所的な疾患に対する治療は格段に進歩した。しかしそれだけでは人間全体を治すことはできない。また、どんなに進歩しても、人は最終的には治癒が不可能な状態に陥る。その際の緩和ケアでは、直接的な痛みや倦怠感などへの対処のほか、心理面や社会面での全人的なケアが必要になってくる。 「全人的な視点」ということは、セラピーの対象となる人の個人的な事情にも関わってくる。12/7の日記でも述べたように、DTの対象は主として高齢者、それもしばしば痴呆症のお年寄りが多い。ライフステージの出発段階に立ち、自立のための準備行動がどうしても必要な発達障害児とは明らかに異なる。 発達障害児を対象とする場合には、将来の自立のために、望ましい行動や問題行動を具体的に把握し、それらを強化あるいは弱化することによって、質の高い行動リパートリーを増やし社会的生活を充実させることに主たる関心が向けられる。もちろん、全人的な視点が求められることは変わりないけれど、その中心は「将来に活かせる手段的な行動」の形成にあると言えよう。 これに対して、DTのほうは「できること」に本質的な意味を見出し、それが何であれ、その行動をサポートし、適切に強化されるように環境を整えることに関心が向けられているように思う。つまり、「手段的な行動の形成」ではなく、「行動すること、それ自体が目的」となりうるのである。「目的を達成するための遊び」ではなく、あくまで「目的を持った遊び」なのだ。 これまで行動分析の研究者は、どちらかと言えば発達障害児に関わる人が多かった。それゆえ、高齢者福祉を障害児教育の延長上で同じようにとらえてしまいがちなところがある。このことは、昨年3月に行われた公開講座「高齢者介護の実践と行動分析学からの提案」(主催:日本行動分析学会、後援:日本老年行動科学会)に参加した時に強く感じたことである。そこでは
施設職員が限られている中では、個別の問題行動の解決は緊急を要するし、切実な願いではあることは分かるのだが、入所者のQOLを高めるために何が必要なのか、といった、高齢者福祉の将来を見通した全人的視点からの議論が必要ではなかったかと思う。 縁あって、その後DTの存在を知る機会があったわけだが、オーストラリアで現実に行われているDTにはまだまだ不備が多いとはいえ、少なくとも目指している方向性は間違ってはいないと強く感じるこのごろである。 |
【思ったこと】 _21212(木)[心理]日本ダイバージョナルセラピー協会設立セミナー(5)事前調査と事後評価 12/1に行われた表記のセミナーの感想の最終回。今回は、 ●「assessment(事前調査、審査、生活史や欲求についての調査)」→「planning(計画・設計)→「implementaiotn(実行)」→「valuation(事後評価)」という4段階のシステマティックな反復 というDTの根幹をなすプロセスについて考えを述べたいと思う。 第一段階のassessment(事前調査)で、セラピストは、対象者(居住者)が
次のplanning(計画・設計)では、
そして、それぞれの区切りごとに、プログラムの有効性や欠点について全人的な視点からvaluation(事後評価)がなされる。そこでは
DTが実際にやっていることを断片的に見学しただけでは、施設がサービスとして行う年中行事や、外部からの慰問などとあまり変わらないように見える。しかし、「他施設で評判がよかったので私のところでもやってみました」というだけでは、DTには全くなっていないことは明らかであろう。例えばクリスマスパーティを企画しても、一個人がそれにどう関わり、どう楽しみ、それによってどう変わったのかが事後評価されなければ、やりっぱなしに終わってしまうわけだ。 現実にはスタッフの限界もあるし、全人的と言っても対象者のプライバシーの問題もあるだろうから理想通りにはいかないとは思う。しかし、入所者(居住者)個々人のアクティビティの質を高めていくという精神は守っていかなければならない。繰り返し言うが、問題行動が起こっていないという状況だけでは、墓場と何ら変わらない。かつて楽しんでいたことに興味を示さなくなったのは、「興味」という物質が頭のなかから抜け出したためではない。興味があっても、働きかけがうまく強化されないために消去されてしまったと考えるべきである。 どんなに衰えても、どんなに痴呆が進んでも、能動的な働きかけを活発に保ち、かつそれらに対して最大限に応えられる環境作りをめざすことが求められる。 以上5回にわたり、設立記念セミナーの感想を述べてきたが、何よりも特筆すべきなのは、100人を超える参加者があったということだろう。この種のセラピーは、現場に関わる人がいかに参加できるかという観点から輪を広げていくことが大切である。大学の研究者が研究会や学会を設立していくら論文を発表したところで、現場とのコラボレーションが無ければ何の役にも立たない。まずは、現場に関わる人たちの能動的なネットワークが構築され、必要に応じて研究者がアドバイスさせていただくという方式のほうが普及が早いように思った。これは、地域のコミュニティを主体とする地域通貨の活動、人間と自然との共生を考える活動についても言えることだ。今回のセミナーは、学問と実践との連携を考える上でも大いに参考になった。 いっぱんに、あるツールが現場で有効に機能するかどうかを実証する際、研究者はまず先行研究にあたり、いくつかの仮説を立て、人工的な環境(実験室など)を使ってこれを検証しようとするだろう。そして、そのツールを導入した条件のもとで測定された諸指標が、導入しない対照条件よりも有意に望ましい方向に変化した時には、有効であったと宣言するのである。 しかし、それを検証する場が人工的な環境であればあるほど現場からは乖離する。いくら理論的に有効であると検証されても、現場の多様なファクターにマッチしなければ実用的価値は無い。 これに対して、理論的枠組みは漠然としていても、とにかく現場で導入し、種々の試行錯誤を重ねながら実践を続けていく限りにおいては、現場との乖離はあり得ない。新薬のように人の命に関わる問題であるなら事前の試験が必要であろうが、ある程度失敗が許される現場であるならば、「いろいろやってみる」こともそれなりの価値がある。そのさい、多様性を許容した複数の団体が相互に体験を交流していけば、不適な方法は淘汰され結果的に最適な方法が確立していくだろう。要は、「これが正しい」という固定観念に縛られないこと、また、常に、「これでよいのだろうか」「もっとよい方法はないか」という、クリティカルで前向きな姿勢で臨むということだろう。 このように考えてみると、少なくとも福祉やセラピーの現場においては、初めに「基礎的研究が必要」という姿勢はかならずしも正しくない。極言すれば、基礎的研究によって「このセラピーは有効かどうか」が二者択一的に実証されるなどということはあり得ないと思う。基礎的学問が役立つのは、実践場面における点検や改善のツールとしてのみであるかもしれない。 |