高齢化社会における共生の知恵日本社会心理学会・第48回公開シンポジュウム 2004年10月30日(土)13:30〜17:00 場所:岡山大学創立50周年記念館(多目的ホール) |
【思ったこと】 _41030(土)[心理]高齢化社会における共生の知恵(1)はじめに 10月30日の午後1時半から4時半頃まで、岡山大学創立50周年記念館で、日本社会心理学会・第48回公開シンポジュウム「高齢化社会における共生の知恵を探る〜加齢(エイジング)をめぐる社会心理学〜」が開催された。私自身は社会心理学会会員ではないが、高齢者福祉に関して私自身も関心を持っていること、岡大の心理学関係者が関与していること、などから非会員として参加させていただいた。 ところで会場となった多目的ホールは、収容人員 409名となっている。座席がたくさんあるため、100〜150人規模の催しを行うと、着席行動の習性を反映して前のほうの席がガラガラになり、何となく盛り上がっていないような印象を与えてしまう。しかし今回は、開場後しばらく中段にロープを張って「これより後ろの着席禁止」の措置をとっていた。入場者はやむを得ず、前のほうに詰めて座るようになる。講演者の近くに人がたくさん集まるので雰囲気も盛り上がる。当たり前と言えば当たり前だが、着席行動への配慮があった点はさすが社会心理学だと感心した。 さて、シンポは、4人の話題提供者と2人の指定討論者から構成されていた。案内サイトとは若干異なる部分があったので、ここに再掲させていただく。
さて、1番目の“映像の中に描かれた高齢者と若者の交流」では、具体的事例として、「黄昏」、「バウンティフルへの旅」、「コクーン」、「田舎の日曜日」、「八月の鯨」が取り上げられていた。しかし、私はどの映画も一度も観たことがなく、一口で紹介されても何のことかよく分からなかった。このうち「コクーン」と「コクーン2」はかなり面白そうな映画だったので、DVDでも借りて観てみたいと思っている。 2番目の高千穂夜神楽を取り上げた福島明子氏については、司会者から、「大学卒業後、海外放浪、ツアーコンダクター、フリーライターなどを経験」されたという紹介があり、「海外放浪」とはスゴイ表現だと思ったが、こちらの個人プロフィールにも同じことが書かれてあり、司会者のユーモアではないことが判明した。 話の内容は、宮崎県高千穂の各村での神楽伝承の取り組み、時代変化に伴う「民主改革」、小中学校の児童・生徒たちの参加などについてであった。なお、指定討論の後で、女人禁制と関係についてフロアから質問があった。小学生までは男女とも参加しているが、中学生以上では依然として女人禁制が続いているということであった。大相撲優勝力士の表彰や、大峰山一帯の女人禁制などと合わせ、伝統とジェンダーとの関係で検討すべき点はいろいろあるようだ。 |
【思ったこと】 _41101(日)[心理]高齢化社会における共生の知恵(2)地域統合ケア/共生とは何か シンポの3番目は、原英二氏(岡山県保健福祉部長寿社会対策課)による ●行政が取り持つ高齢者との地縁 −ノーマライゼーション推進型地域統合ケアについて− という話題提供であった。 原氏によれば、岡山県では「地域統合ケア」を推進する施策が進められているという。これまで福祉対策は、「高齢者デイサービス」、「障害者デイサービス」、「母子デイサービス」、「児童保育」、それぞれが縦割りで別個に行われていたが、これを、住民参加と利用者相互のふれあいを活かした地域統合ケアに転換していくというものらしい。 この種の施策は、富山県で「構造改革特区」として実施されているが、富山の場合の対象者は、高齢者、知的障害者、障害児に限られていた。岡山県は、限定的な規制緩和としての特区ではなく、地域再生構想の手法のもとで、高齢者、障害者(身体・知的・精神)、子どもを含んだ、広範かつ普遍的な仕組みづくりを目ざすという。 では実際はどのように進められるのかということだが、さすが行政の発想である。要するに、補助金の交付基準を優遇することで、趣旨にあった事業を育成・活性化しようという目論見らしい。これまでに10例ほどが実現しているという。 その後のディスカッションの中でも強調されたが、この構想は、単なる福祉保健目的ではなく、町おこし、村おこしを目的に広く進められるものらしい。その中では、「環境」も1つのテーマになるということだった。このあたりは、エコマネーやコミュニティビジネス構想(こちらやこちらを参照)とも繋がりがあるように思えた。 さて、今回のシンポのテーマである「共生」という考え方については、もう少し掘り下げて考えてみる必要がありそうだ。『新明解』では「共生」は ●共生:二種の違った生物が一緒にすむこと。 と記されている。また、ネットで「共生とは」を検索したところ
「高齢化社会における共生の知恵」という時の「共生」についても、まずその概念を明確にし、「共生」が望ましいということを主張するのか、他に道が無いのでやむを得ず選択するのか、といったことを含めて議論していく必要があると思っている。 |
【思ったこと】 _41102(火)[心理]高齢化社会における共生の知恵(3)高齢者とのおつきあいスキル シンポの4番目は、田中共子氏(岡山大学文学部)による ●高齢者とのおつきあいスキル −交流の中で見つけるソーシャル・スキル− という話題提供であった。 田中氏は、まず「若者とお年寄りの間で、おつきあいが進まない原因」を予備調査した。その結果、おつきあいが進まないのは、必ずしも相互に関心が無いからではなく、その一因が「高齢者とのおつきあいスキル」の不足にあるということが示唆された。そこで本調査で、日頃地域のお年寄りと上手におつきあいをしている19人(民生委員やヘルパー、ボランティアなど)に半構造化面接調査を行い、KJ法によりカテゴリー化した。抄録にはその結果に基づいて作成された「お年寄りとのおつきあいスキル チェックリスト」34項目が紹介されていた。 田中氏の話題提供内容は、一連のソーシャルスキル研究の枠組みで行われたものである。ディスカッションの時に出された言葉を借りるならば、「水に入って遊ぶには、まず泳ぎ方を身につけなければ」ということであり、我々に必要な知恵であると言えよう。 しかし、これを「共生」あるいは「交流」という枠組みでとらえる場合には、さらにつっこんだ議論が必要であるように思った。 まず、そもそも交流に必然性があるかどうかということ。もちろん、介護施設職員やセラピストのようにサービスを提供する側の人々にとってはソーシャルスキルは欠かせない。しかし、世代間の交流を促進するためには、スキルの習得だけでは不十分である。南の島に住む人々にラクダの乗り方を教えても役に立たないし、砂漠で暮らす人々にカヌーを教えてもやはり役に立たない。 また、仮に海の近くに住む子どもに泳ぎ方を教えたからといって、それだけで泳ぐ行動が活性化されるわけではない。行動分析の立場から言えば、行動を強化する仕組みを作らなければ、長続きさせることはできないのである。なおこの件に関して、田中氏は、研究の目的はあくまで限定的であってこれだけで十分というわけではないこと、この研究を含めた諸成果の集積が必要である(←あくまで、長谷川の記憶に基づく表現)というような回答をしておられた。 「共生」や「交流」を前提とする以上、高齢者側にもソーシャルスキルが求められるのでは?という声も出てくるかと思う。もっとも、ここでいう高齢者には、痴呆症や寝たきりのお年寄りも含まれている。痴呆症のお年寄りに「もっとソーシャルスキルを身につけなさい」と要求しても限界があることは分かり切っている。ま、このことに限らず、一口にお年寄りといってもかなり多様であり、あまり万能なスキルを目ざすと、お年寄りを子ども扱いしかねないという心配も出てくる。 |
【思ったこと】 _41103(水)[心理]高齢化社会における共生の知恵(4)交流の必然性 10月30日に行われた日本社会心理学会・第48回公開シンポジュウム「高齢化社会における共生の知恵を探る〜加齢(エイジング)をめぐる社会心理学〜」の感想の4回目。 今回は話題提供内容から少し離れて、「異なる文化を持った集団間の交流」についてまず考えてみたいと思う。 仮に、1つの島に、異なる文化を持った3つの民族が生活していたとする。すべての島民が平和に暮らすことを前提とした場合、少なくとも3つの主張が存在しうる。
上記では、「3つの民族」を挙げてみたが、「3つの宗教」や「3つの家族」に置き換えて考えることもできる。もちろん、置き換えることで結論も変わりうるだろう。 さて、高齢者福祉の問題を考えるにあたっても、1.から3.のどの立場をとるかによって方策が変わってくる。もし、世代による価値観の違いを尊重しようとするならば、交流の活性化は必ずしも必要ない。大都市では、そういう不干渉になりがちだ。しかし、いくら不干渉といっても、地震や台風災害に見舞われれば、大都市住民であっても世代間の協力は不可欠となる。これは2.の立場となる。さらに、社会というものは本質的に世代間の交流を前提として成り立つものだと考えれば、2.あるいは3.の立場に立つことになるだろう。 次に、交流の中味について考えてみたい。介護やセラピーも若者と高齢者との交流の場の1つではあるが、この場合は、あくまで、サービスを受ける側と提供する側というように役割が固定されており、本当の意味での対等で双方向の交流とは言い難い。では、お年寄りは常にサービスを受ける側(take)、若者はサービスを提供する側(give)に立たざるを得ないのだろうか。 これについては2つの考え方がある。 まずは、一対一の関係の中でも双方向のサービスが成り立つという考え方。お年寄りに子守や留守番をお願いしたり、昔の出来事を語ってもらうというのは、お年寄り側からのサービス提供の一例となる。 もう1つの考え方は、人間はみな年を取るのだから、いつかはサービスを受ける側に回り、次の世代からサービスを受けることになる。いっぽう、いま一方的に介護サービスを受けているように見えるお年寄りも、かつて若い頃には、もう1つ上の世代を助けたり、また今の若者の子育てで苦労してきた。つまり、生身の二者間におけるサービスは一方通行的であっても、何十年にもわたる時間のスパンで考えれば結局、「give and take」で相殺されるという考え方である。 前者は、クリンなどに見られるコミュニティ通貨、後者は、「将来に備えて、元気なときにサービスをして点数を貯め、寝たきりになった時に点数を使って、介護をしてもらおう」というような時間預託の考え方がある。 以上、今回のシンポと直接関係ない話題をいろいろ取り上げてきた。11月1日の日記で取り上げたように、これらの問題は、究極的には、共生とは何かと問題と関係してくる。「共生」や「交流」は望ましいものであり活性化しなければならないという前提で出発してしまうのはやはり危険である。 |
【思ったこと】 _41104(木)[心理]高齢化社会における共生の知恵(5)世代間の長期的・継続的交流を可能にするための条件 さて、今回のシンポでは“「個人的−組織集団的」な関わりの軸と、「人為的−自然発生的」な関わりの軸の2軸を想定して、これらが交差する2次元上に各種の世代間交流の試みを位置づけて整理”ということを目ざしておられたようだが、指定討論の中で小林江里香氏 (東京都老人総合研究所)は さらに ●一時的 vs 長期的(継続的、日常的) という第三の軸が必要でないかと指摘された。あくまで私の理解であるが、これは生活の場をどこまで共有するかというと深く関わっているように思えた。 例えば、三世代同居家族であれば、高齢者と子どもは家の中では日常的に交流できる状況にある。しかしその分、他の家の高齢者との交流の機会は少なくなる。 いっぽう、高齢者施設に入居されている場合は、家族や幼稚園児が訪問する時以外は、世代間の交流は無い。但し、すでに述べたような地域統合ケアもあるので、別空間で生活しているというわけでは必ずしもない。 小林氏は、第三の軸において、世代間の長期的・継続的交流を可能にするための条件として、
小林氏はさらに、
小中学生にはまず、元気で、社会の役に立っている老人に会わせ、尊敬やあこがれを懐かせるような教育を進めるべきではないか。「おじいさんやおばあさんから教えてもらう」体験なしに福祉施設を慰問したって、「おじいさんやおばあさんは退屈で可哀相だから歌や劇をやって慰めてあげました」という感想しか生まれてこないのは当然だ。という視点が大切であるように思う。 さて、今回のシンポは、一般市民や学生を対象とした公開いう位置づけであったこともあり、各シンポジストとも、話題提供の内容に苦心されたようであった。心理学関連学会の会員向けシンポのほうが、最初に理論的枠組みが提示される分、かえって分かりやすいところがある。社会心理学会が公開シンポを継続されていることには敬意を表するが、多種多様な聴衆を相手に「話を聞きに来てよかった」というインパクトを与えるのはなかなか大変なことであると感じた。 余談だが、私個人は、何かのシンポに参加した時は記憶の鮮明なうちにWeb日記に感想をまとめることにしている。不十分ながら、今回も何とか一週間以内で完了してよかったよかった。 |