日本理論心理学会第50回大会【招待講演&シンポジウム】2004年11月6日(土)13:00〜18:00 場所:東京大学駒場キャンパス数理科学研究棟 |
【思ったこと】 _41106(土)[心理]日本理論心理学会第50回大会(1)はじめに 日本理論心理学会第50回大会が、東京大学駒場キャンパスで開催された(11/6〜11/7)。私は大学院生・オーバードクターの頃にこの学会の会員であったが、当時いろいろな学会に入りすぎていて会費を払い続けることができずに退会した経緯があった。そのうしろめたさもあってずっと遠ざかっていたが、今回、心理学のメイリングリストを通じて、 ●招待講演「Behavioural Genetics: What Use To Psychology?」 司会:安藤寿康氏 (慶應義塾大学) 講師:Kerry L. Jang氏(ブリティッシュ・コロンビア大学) ●シンポジウム「日本発の理論を考える」 司会:繁桝算男氏 (東京大学) パネリスト
会場に来てまず驚いたのは、参加者の少なさであった。ここでは数は記さないが、私の教室のゼミ合同発表会の人数より少なかったのは確かである。そんなこともあって、シンポの終わりのところで、「9月11日に開催された日本質的心理学会第一回大会には530人以上の当日参加者があり、立ち席はもちろん会場に入りきれないほどに人があふれていたのに対して、この理論心理学会の参加者がXX人しか居ないことについてはどう思われるか」などと余計な質問をしてしまった行きがかりで、6日夜の懇親会にも参加せざるをえない状況に追い込まれてしまった。 もっともそのおかげで懇親会では、行動遺伝学の司会者や講演者と、血液型性格判断の話題を含めて歓談させていただくことができた。また、心理学界の重鎮の先生方や、新進気鋭の竹○氏や寺○氏とも親しくお話させていただくことができて、まことに有意義な一日であった。 |
【思ったこと】 _41107(日)[心理]日本理論心理学会第50回大会(2)第三世代の行動遺伝学(その1) 昨日に引き続き、日本理論心理学会第50回大会の感想。今回は、 ●招待講演「Behavioural Genetics: What Use To Psychology?」 司会:安藤寿康氏 (慶應義塾大学) 講師:Kerry L. Jang氏(ブリティッシュ・コロンビア大学) について感想を述べたい。 講演に先立って挨拶された安藤氏によれば、行動遺伝学はいまや第三世代に入っているという。すべて英語で話されたので一部聴き取れないところがあったが、第三世代のキーワードは「molecular」と「sophisticated」にあるようだ(←あくまで長谷川の聞き取りによる)。そして、心理学や精神医学の定説にも果敢に挑戦する。但し、この研究はかなりのお金を使うという点でいろいろと困難があるらしい。 ここで少々脱線するが、懇親会の席で、日本語の「遺伝子」は中国では「基因」と呼ばれているというような話が出た(真偽は未確認)。そう言われてみれば、「遺伝」という言葉は、素人目に見ても、誤解を招く表現であるような気がする。 さて、招待講演者のKerry L. Jang氏は中国系のカナダ人。懇親会で伺ったところでは、「Jang」は「鄭」という漢字にあたるとのことであった。もっとも、祖父母がカナダに移られたのは1890年頃の「清」の時代。Jang氏自身は完璧なネイティブスピーカーであり、しかも相当早口の(←というか、ネイティブとしては普通のスピード)英語で話されたことと、専門用語も多かったため、聴き取れない部分もあった。せめて録音させていただくべきだったと、少々後悔。 講演の内容は、事前に公開されていた発表要旨にほぼ近い内容であったので、内容を正確に知りたい方は、私の感想ではなく、そちらのほうをご参照いただきたい。但し、一部順序が入れ替わっていたり、殆ど言及されない部分もあった。 抄録にも示されているように、伝統的な心理学の諸理論は、観察された行動のレベルで検証されることが多かった。行動遺伝学は、一卵性双生児と二卵性双生児の比較、あるいは親子間の相関や遺伝子の構成様式の研究を通じて、遺伝的要因と環境的要因が行動に及ぼす相対的な度合いを調べたり、見積もる方法をとっている。これによって、行動レベルでは発見できないような「原因」を探索することが可能になるというわけだ。 かつての行動遺伝学では、特定の遺伝的要因1つについて行動に及ぼす影響を検討することも行われてきた。(もちろん講演では言及されていないが)これは、血液型の違いがどういう行動に影響を及ぼすのかどうかを調べようとするのと大して変わりない。しかし、最近では、多変量の解析法を駆使して、2個あるいはそれ以上の要因の連関が遺伝的要因に基づくものであるかどうか、また複数の要因の連関のパターンに遺伝的要因と環境的要因がどの程度影響を及ぼしているのかということも明らかにできるようになってきたようだ。 遺伝的要因と環境的要因の相対的な影響の度合いは、対象となる要因が遺伝的にどの程度の度合いで受け継がれるものであるのかを比較することによって推定される。双生児の研究では、一卵性双生児の類似度が二卵性双生児より高いことは遺伝的影響の関与を示す証拠となる。しかしこの比較だけでは、双生児の特別な生活環境(=生まれた時から一緒に暮らす。ベッドや両親も常にshareしなければならない)を取り除くことはできないのではないかとちょっと思った。もちろん、中には、両親が離婚したり戦争や事故のために別々に育てられるということもあるだろう。しかし「双生児であるが別々に育てられる」というのは、かなり特殊な条件であって、「別々に育てられる」ことの論理的帰結として2人のうち少なくとも1人は両親と一緒に暮らせないわけだから、かなりストレスフルな状況で育てられる可能性があると推測せざるをえない。そういう意味では、一緒に育てられた双生児と、別々に育てられた双生児を比較することには、想定外のファクターが働く可能性がある。 たまたま11月3日のYahooニュース(共同通信)で、関西医科大医学部などのグループが日本児童青年精神医学会総会で発表した、強迫性障害と「きょうだい」構成についての研究が紹介されていた。それによれば、強迫性障害と診断された4-18歳の56人のきょうだい構成を分析した結果、一人っ子は9%、2人が63%、3人が20%、4人が7%であり、きょうだいを持つ子供の診断数が多く、強迫性障害は一人っ子に多いという従来の説とは異なる結果が示された。記事では「特に同性のきょうだいを持つ長子に多く、「親が他のきょうだいと比較する」などライバルを持つ葛藤(かっとう)が原因とみられる」という解釈も紹介されていた。サンプル数が少ないこともあり、その新解釈がどれだけ妥当であるかは分からないが、かりに「きょうだい」構成と強迫性障害との間に何らかの相関があるとするならば、精神障害に関して、双生児比較研究だけから一般化するのは危険が伴うように思えた。もっとも懇親会の席で講演者や司会者にこのことを尋ねたところ、私のような疑問はすでに解決済みであり、双生児以外との比較研究もちゃんとやっているのだというお話であった。 |
【思ったこと】 _41108(月)[心理]日本理論心理学会第50回大会(2)第三世代の行動遺伝学(その2) Jang氏は、行動遺伝学の内容が
ここで私がいだく素朴な疑問は、一卵性双生児と二卵性双生児では「Shared Environment」にもかなりの違いがあるのではないかということ。日常生活場面でその違いを数量的に表現するのは難しいであろうし、人為的に環境を変えて2人を育てることには倫理的な問題が伴う。このあたりはひとえに私の勉強不足によるものと思われるが、自分自身の宿題としてここに記しておく。 遺伝的要因の関与についてのこれまで得られた知見では、その度合いは、パーソナリティ全般で45〜50%、知能で60〜70%、統合失調で70〜80%、アルコール使用で45〜50%となっており、けっこう高い値を示している。その一方「Parental Bonding」が0%であるというのは興味深い。Jang氏はさらに、30〜70%の度合いを示す「うつ」について、行動遺伝学に基づく新しい知見を紹介された。発表抄録にも記されているが、行動遺伝学の研究成果によれば、「うつ」は単一の病気ではない。従来のDSM-IVの診断基準ではこのあたりが大ざっぱになっており見直しが必要ということであった。ちなみに、「うつ」の「Depressive Sympton Factors」13通りのうち遺伝性が確認されたのは7要因だけ。その内訳は「Insomnia 35%」、「Guilt & hopelessness 30%」、「Loss of Libido 22%」、「Loss of Appetite 20%」、「physical anxiousness 20%」、「Positive Affect 18%」、「Suicidal Ideation 18%」となっていた。このうちの「Positive Affect」は「Positive Affect喪失」ではないかと思えたが質問する機会が無かった。 精神障害については全くの素人であり専門用語の一部は聞き取れなかったが、行動遺伝学の知見に基づいて診断基準が改訂され、それぞれに合ったきめ細かい治療法が開発されることは望ましいことであろうという印象を受けた。 |
【思ったこと】 _41109(火)[心理]日本理論心理学会第50回大会(4)第三世代の行動遺伝学(その3) 講演では、精神障害の遺伝性に引き続いて、社会的態度について興味深い話題提供があった。サバイバルに必要な態度を除き、いっぱんに社会的態度は、学習(=環境的要因)によって形成されるものと考えていた。この学習モデルには、社会的学習理論、古典的条件づけ理論、オペラント条件づけ理論、diathesis-stress model(←定訳があるかどうか調査中)がある。それぞれの理論では、遺伝的要因と、環境sharedの要因、環境がnon-sharedであることの要因の相対的な大きさが異なるように予測される。一卵性と二卵性、同環境双生児と異環境双生児の比較で検証しようという試みであるようだ。 このあたりの話はだいぶ昔にどっかで聞いたことがあると思ってネットで検索したら、内容は少々異なるが、守先生のサイトに、7年ほど前のディスカッションが掲載されていることが分かった。司会の安藤氏の話では、あの頃は「第二世代」の研究ではなかったかと思われるが、これを機会にもういちど勉強してみたいと思う。 このほか講演では、古くからの懸案「パーソナリティの基本次元はいくつか?」についても新しい情報があることを紹介しておられた。最近では、ビッグ・ファイブなどと言われるが(こちらに、私の所の学部生(3回生)がまとめた報告が掲載されているので参照されたい)、行動遺伝学の知見からはもう少し違った見方ができるようだ。 このほか、講演の中で「Significance testing does not reflect the true state of nature----The Central Limit Theorem. Anything will be significant if you collect enough data!」というフレーズが印象に残った。但し、その意味内容を誤解している可能性もあるので、もう少し勉強してから別の機会に考えを述べたいと思う。 何はともあれ、最先端の研究に取り組んでいる新進気鋭の行動遺伝学者のお話をナマで拝聴できたことはたいへん有意義であった。残念だったのは、聴衆の平均年齢がたぶん60歳以上と高齢であったこと。上記の守先生や豊田先生が来られていて、半日かけてディスカッションしたら、ずいぶん盛り上がったのではないかと悔やまれる。 |
【思ったこと】 _41110(水)[心理]日本理論心理学会第50回大会(5)第三世代の行動遺伝学(その4) 昨日の日記の最後のところで「守先生や豊田先生が来られていて、半日かけてディスカッションしたら、ずいぶん盛り上がったのではないかと悔やまれる。」と書いたが、日記をアップしたあとで掲示板をチェックしたら、なんと、その豊田先生から書き込みをいただいていたことに気づいた。まず、その部分を転載、紹介させていただく(改行部分は一部改変)。 >ここで私がいだく素朴な疑問は、一卵性双生児と二卵性双生児ではここで豊田氏がいだいた「素朴な疑問」というのは、私が11月7日分で書いた 双生児の研究では、一卵性双生児の類似度が二卵性双生児より高いことは遺伝的影響の関与を示す証拠となる。しかしこの比較だけでは、双生児の特別な生活環境(=生まれた時から一緒に暮らす。ベッドや両親も常にshareしなければならない)を取り除くことはできないのではないかとちょっと思った。もちろん、中には、両親が離婚したり戦争や事故のために別々に育てられるということもあるだろう。しかし「双生児であるが別々に育てられる」というのは、かなり特殊な条件であって、「別々に育てられる」ことの論理的帰結として2人のうち少なくとも1人は両親と一緒に暮らせないわけだから、かなりストレスフルな状況で育てられる可能性があると推測せざるをえない。そういう意味では、一緒に育てられた双生児と、別々に育てられた双生児を比較することには、想定外のファクターが働く可能性がある。ということとほぼ同じではないかと思う。御紹介いただいたように、双生児と一般児を比較すれば、その問題はある程度解決するものと思う。なお、豊田氏からいただいた上記の情報では、「社会的スキルはほぼ0%遺伝から影響される」(=全く遺伝しない?)となっていたが、今回の講演では、社会的態度もかなりの影響を受けるという結果が報告されていたように思う。これが第三世代の行動遺伝学の進歩と言えるのかどうか、あるいは「社会的態度」は「社会的スキル」より素因が反映しやすいためなのかどうかは確認できていない。 さて、少々長くなったが、行動遺伝学についての感想はこれで終わりとさせていただく。 私自身は、精神障害、パーソナリティ、社会的態度、その他、あらゆる行動特性において、遺伝的要因がある程度関与することは当然であろうと思っている。また、例えば、私自身は身長が161.5cmと背が低く、このことによって受けた屈辱(1998年2月10日の日記参照)は、私の興味対象や努力の方向に大きな影響を与えた。これはあくまで間接的、副次的な影響ということになるが、身長を規定する遺伝的要因は、私の性格形成に重大な影響を及ぼした言うことはできると思う。 しかし、もし遺伝的要因が、単なる量的な差、例えば、駅伝競走でタスキを受け取る時のように、単に、それを早く受け取るか遅く受け取るかというだけの違いであるならば、さほど深刻に受け止める必要は無いように思う。最下位でタスキを受け取った選手が不利になることは確かであるが、逆に「10人ゴボウ抜き」の醍醐味も出てくる場合がある。ある程度以内のハンディであるならば、そんなことは気にせず、むしろ、努力で克服することだけを考えていけばよいのではないかと思う。 行動遺伝学の知見が生産的な指針となるのはあくまで、質的に異なる対応をしたほうが有用であると判断された場合である。あくまで仮想の話だが、仮に外国語習得法に関して遺伝的に規定されたx,y,zという質的に異なる3つのパターンがあり、それに対応した異質な学習方法、X、Y、Zが開発されていたとする。この場合、自分がxであるかyであるかzであるかを的確に知ることは、より合理的かつ最善の学習方法を選ぶ上で有用となる。 今回の講演では、ある程度、そのような可能性が示されたように感じた。 このほか、抄録にも記されているように、 心理学諸分野の多くにおいて、遺伝的要因と環境的要因が「相互作用して」行動の原因となるということが知られているところではあるが、じつは相互作用のメカニズムがどんなものかについては、理論的研究も実験的研究も殆どなされてこなかった。【訳は長谷川による】このことについての基礎的研究にも大きな期待がかけられていると思った。 |
【思ったこと】 _41111(木)[心理]日本理論心理学会第50回大会(6)日本発の理論を考える(その1)「理論」として何を求めるか 今回からは ●シンポジウム「日本発の理論を考える」 司会:繁桝算男氏 (東京大学) パネリスト
まず上記の5件の話題提供の内容であるが、1.の森正氏の話題提供は、心理学の研究・教育において理論が必要であるという趣旨、2.の大山氏と3.の江川氏は「日本発」に重点を置いた話、4.の無藤氏と5.の鈴木氏は、オリジナリティや創造性に関する内容であった。参加者は非常に少なかったが、15時〜18時の3時間に及ぶシンポと、その後の懇親会での率直なコミュニケーションを通して、学界の重鎮の先生方から貴重なお話を伺うことができた。 さて、1番目の話題提供は森正氏の「理論的営みを盛んにするには」という内容であった。森正氏は、心理学研究者、特に日本の心理学研究者の理論的営みが低調である理由として、理論の必要性や重要性が十分に理解されていないことを指摘された。森正氏に言わせれば、心理学は未だに「信頼性と適合範囲の仮説群のモザイク的集合」の様相を呈している。そこには素朴帰納主義がある。しかし、理論は、経験(帰納)だけから収束するものではない。抄録から引用させていただくと、 .....比較的安定した類似の組合せに対応して、何度か同様な法則が帰納されたとしても、その他の条件の組み合わせに対しても同様な法則が得られるかどうかの保証は、帰納的手続きの範囲では得られない。いいかえると、その法則性に影響する可能性のある条件の次元を、帰納的方法の範囲では確定することができない、...ということになる。 ここまでのお話の内容は、ヒュームの経験主義やカントの哲学を思い出させるものがあるが、心理学の身近な話題である実験的方法に即して言えば、 「実験的研究ではライバル仮説を排除する手立てが提供される可能性が高い」と述べたが、論理的には、非常に高次なベクトル空間のほんの1点において、そのきわめて近傍に位置したライバル仮説を排除しているにすぎない。非常に多くの要因が影響している研究領域では統制による実験的方法のみで因果関係を導くことは難しい。という、豊田氏の論考(こちらの3.2.参照)とも共通しているように思えた。 しかし、ここから先が問題である。要するに、我々はまず「理論」として何を求めるかについて、一致点を見出さなければならない。 こちらの補注【4】にも引用したように、私自身は 科学とは「自然のなかに厳然と存在する秩序を人間が何とかして見つけ出す作業」ではなく、「自然を人間が秩序づける作業である」という、佐藤方哉氏のお考えに大いに賛同しており、心理学における法則や理論に関する研究というのは、その「真偽」の検証よりも、それが当てはまる条件・範囲を確定し、どのように活用できるのかを探索することに意義があると考えている。 |
【思ったこと】 _41114(日)[心理]日本理論心理学会第50回大会(7)日本発の理論を考える(その2)理論的営みを盛んにするには 話題提供1番目の ●森正義彦氏:理論的営みを盛んにするには の後半では、心理学概論書などで、古典的な理論が羅列的に紹介されているだけで、相互の関連や統合の試みが不十分であることが指摘された。一例として、アトキンソン、ワイナー、セリグマンの動機づけ理論の扱いがある。森正氏の持論のスキナー批判も何度か飛び出した。 もっとも、理論の相互の関連や統合というのは、そう簡単にできるものではない。天動説が地動説がという議論のように、同じ天体を対象として、予測の精度や簡潔さや周辺領域の諸理論との整合性を比較するならば話は簡単だが、心理学の理論はそういうわけにはいかない。それぞれの理論では、概念規定も前提も、扱う範囲も、最終目的も著しく異なることが多いからである。 スキナー批判の場合も同様である。スキナーが初期〜中期に表明した「強化」の概念を森正氏御自身のまな板に乗せて吟味すれば、確かに「スキナーは間違っている」という主張も出てくる。しかし、そもそも理論とは何かという前提に違いがあるのだから、それ以上の論争は不毛であるように見える。休憩時間にも個人的にいろいろお話を伺う機会があったが、例えば、「確立操作」、「ルール支配」、「阻止の随伴性」といった概念について森正氏御自身がどう位置づけられているのかについては、詳しくお聞きすることができなかった。 心理学教育の中では、もっと「理論」を強調すべきである点はその通りであると思う。森正氏のお言葉を借りれば(あくまで長谷川のメモによる)、受験生は数学が必須であると分かればイヤでも勉強する、それと同じように理論の必要性を教えるべきだということになる。 もっともそうは言っても、時代を追って代表的理論を紹介するだけでは、まさに批判されているような羅列に終わってしまう。私はむしろ、理論にはどういう種類があるか、例えば
[※追記] 森正氏は最近『科学としての心理学 理論とは何か? なぜ必要か? どう構築するか?』という編著を公刊されている。執筆者は、市川 伸一、大山 正、 梶田 正巳、■成(■:「王」に「文」、十文字学園女子大学) 、苧阪 直行、森正 義彦氏ほか。 培風館 培風館 2400円。ISBN:4563056774. 『心理学ワールド 27』(日本心理学会発行)の「自著を語る」コーナーで森正氏は「等しく心理学の科学的研究に従事する著者たちが,「科学」についても,「理論」についても,少しずつ異なる見方をしていることは,読者の興味をひくに違いない。それでもなお,心理学が科学として成長するためには,理論面での未熟さを克服する必要があるとする点で,論者間の完全の一致が認められたことに,無視できない意味がある。」と述べている。 |
【思ったこと】 _41115(月)[心理]日本理論心理学会第50回大会(8)日本発の理論を考える(その3)先人の足跡 話題提供2番目は ●大山正氏:日本発の理論を考える-先人の足跡を訪ねて- であった。大山氏は東京大学名誉教授であり、各種学会の要職に就いてこられた。昨年夏に岡山で行われた日本行動分析学会年次大会では、行動分析学における日本人の国際貢献:これまでとこれからという企画シンポで話題提供をしてくださった。 今回は「少数ながら日本独自の理論展開を行った」先人として以下の5人の心理学者が紹介された。
横文字の論文を日本語に訳して紹介するだけでもスゴイと言われていた時代に、東洋思想の「自我」や「固有意識」「覚と識」「勘」などについて独自の理論を展開するにはかなりの困難があったものと思われる。また、東洋医学の成果が、西洋医学的な実験的、分析的な手法で検証されにくいのと同様、東洋的な発想に基づく理論を西洋的方法で体系化していくことにはかなりの無理があったようにも思える。それと今でもその傾向はあるが、「大学卒業→海外で著名研究者に師事→帰国後にその時の業績に基づいて就職」という形で指導的研究者が養成されていく限りにおいては、海外の恩師の業績を根本的に覆すような発想はなかなか生まれにくいしがらみがあるようにも思えた。 |
【思ったこと】 _41116(火)[心理]日本理論心理学会第50回大会(9)日本発の理論を考える(その4)後進が学ぶべきこと 前回に引き続き、話題提供2番目の ●大山正氏:日本発の理論を考える-先人の足跡を訪ねて- の感想を述べさせていただく。発表時間の関係で十分なお話を伺うことはできなかったが、話題提供の「まとめ」では、後進が学ぶべきこととして
上記の7点はまことにもっともなことだと思うが、それを全部こなすのは、一人の人間にはかなり難題であるように思った。 例えば「2.学界の流行を追わず、自分の疑問を追究する。」というのはその通りだと思うが、研究者を目ざす若手の大学院生がそれを貫くには相当の能力と覚悟が要ると思う。成功すればカリスマ的心理学者になれるかもしれないが、挫折すると独り善がりの変人扱いされる。ま、学生を指導する側から言えば、各人がいだいている疑問が研究テーマの醸成されるように適切にサポートをすることが必要であるとは思う。 「3.哲学・科学・東洋思想などに広い関心を持つ。」も非常に大切なことだとは思うが、なにせ時間が足りない。じっさい、私自身も、学部・大学院の頃に哲学や科学論に強い関心を持っており理論心理学会にも入会していたのだが、修論や博論の実験に追われるようになると、そのような分野をじっくり学ぶような時間は全く見いだせなくなった。今回の理論心理学会で、参加者の多くが名誉教授クラスの年配者であったことも、如実にそれを物語っているように思えた。 「東洋思想」については、中学高校段階からそれを学ぶ時間を増やさなければどうしようもない。2003年2月13日の日記に書いた「朱子の自然観」などを高校までに教わる機会はまず無い。 「今の大学院生は外国文献ばかり読みすぎ。もう少し古典を読め」という点に関しては、ディスカッションの時に、T大の大学院生ならともかく、むしろ外国文献を読まないことのほうが問題だという意見も出された。そう言えば、私のゼミでも、外国人留学生以外は、放っておくとどうしても日本語文献ばかり読む傾向が出てしまう。 |
【思ったこと】 _41121(日)[心理]日本理論心理学会第50回大会(10)日本発の理論を考える(その5)理論不毛の原因 今回は、話題提供3番目の ●江川■成氏(■:「王」に「文」、十文字学園女子大学) :日本発の理論を考える-理論不毛の原因と今後の課題- について感想を述べさせていただく。 江川氏は、わが国に心理学が入ってきて以来、独自の理論を提唱する心理学者がごく少数であることについて4点の理由を挙げておられた。長谷川のほうで要約させていただくと、
江川氏のご指摘はまことにもっともであり、特に3.や4.の傾向は特に強いように思う。もちろん、科学理論に国境は無いので「日本独自」をことさら強調する必要は無いが、理論が育たなければ結局、独創的な研究も育たない。実験心理学の領域では特にそういう傾向が強いように思う。 江川氏は、これを改善するための今後の課題として、3点を提唱された。長谷川のほうで要約させていただくと、
このうち、3.に関しては、以前より『心理学評論』誌である程度、理論的な視点からの考察が行われていた。しかし、私が関わっている分野に限って言えば、諸理論の比較考察が中心で、独自の理論を新たに提唱するところまでは至っていないように思える。 1.や2.については、私自身も授業で取り上げたことがあるが、どちらかと言えば、研究法の比較であって、理論そのものには至っていない。但し、短い期間に卒論や修論を書き上げるとなると、方法論を身につけるのが精一杯という気もする。 |
【思ったこと】 _41123(火)[心理]日本理論心理学会第50回大会(11)日本発の理論を考える(その6)具体的現象に目を向けること/査読の練習 なかなか完結しないが細々と、日本理論心理学会第50回大会の話題。今回は、話題提供4番目の ●無藤隆氏:日本発の理論を考えるために-平凡な研究者がオリジナリティのある研究をするために- について感想を述べさせていただく。 無藤氏は、お茶の水大学で長年にわたり教育に携わっておられた経験に基づき、大学院教育の改善についていくつか提言をされた。特に大切な点として、何より、自分の関心のある現象を丁寧に見ていくこと、具体的個別的な現象に注目して、その現象で関心を深めていくことを強調された。また、具体的な現象記述にあたっては、安易に既存の理論で説明せず、むしろ説明できないことに注目するなかで、次第に何か新たな問題設定が浮かび上がってくると論じておられた。これには大いに同感。私自身も、及ばずながら、これまで一貫して、同じような視点で卒論・修論指導を行ってきたところではある。 論文ばかり読んでいて具体的現象に目を向けないでいると、ある理論的枠組みの中での閉じた対象にしか関心が向かなくなる。そこで行われる「研究」は、理論のための理論、変数をちょっと変えただけの追試、末梢的な変数の探索だけに終わってしまう。心理学の世界では、相変わらず、確実性(信頼性)と、技法や実験計画のオリジナリティだけで評価を得てしまう傾向が根強いので、そういうやり方でも論文は書ける。しかし、10年、20年経って、じつは何も進歩していない、現実からますます遊離していたということに気づく羽目になる。ま、最近はそのあたりの反省もあって、基礎的な分野の学会でも、積極的に現実と関連付けた公開シンポ開催に取り組んでいるようにも思えるが。 無藤氏によれば、査読の練習にも教育上大きな効果があるという。もっとも、学生に任せきりにしてしまうと、「サンプルが少ない」、「もっと別の統計的検定を使うべきだ」といったテクニカルな批判に終始してしまう。研究の流れ全体の中での良さ、悪さを評価するというのは学生にはなかなか難しい。だからこそ査読練習による成果も期待できる。 |
【思ったこと】 _41124(水)[心理]日本理論心理学会第50回大会(12)日本発の理論を考える(その7)創造的研究の育成 今回は、話題提供5番目の ●鈴木宏昭氏:創造的研究の育成のために-創造的認知研究の立場から について感想を述べさせていただく。 鈴木氏の話題提供は、それまでの4題とは異なり、創造性開発が中心であった。その中では、Tパズルの問題解決と創造性に関する御自身の研究成果も紹介されていた。それ自体はまことに興味深い内容であったが、残念ながら、そのことから日本で創造的研究を育成するという話には繋がりにくい。このあたりは、創造性研究の奥深さであるとも言えるし、基礎研究に基づいた創造性開発の難しさを示しているようにも思えた。 鈴木氏はまた、創造的研究の重要な一歩として多様性の確保が必要であると強調された。ここで言う多様性には、研究者自身の専門性の幅の広さが含まれている。例えば、著名な発達心理学者であるピアジェは生物学や論理学にも精通していたし、2002年にノーベル賞を受賞したダニエル・カーネマンも心理学と経済学両分野において卓越した業績を挙げている。 もっとも、今年の6月に行われた東大・大学院・情報学環の新生記念シンポ(こちらに参加感想あり)では、「スペシャリストかジェネラリストか」、「混ざっていても美味しいスープならいいじゃないか」といった議論もあった(こちら参照)。多様性ということと、ダブル専攻、さらにジェネラリスト養成ということに関しては、さらに議論が必要であろうと思う。 このほか鈴木氏は、評価の重要性と教育環境改善についても論じておられた。博士号取得要件として公刊論文数本を課している大学院が多いが、その要件を満たそうとすると、どうしても特定の1分野だけに限定した近視眼的な研究に専念せざるをえなくなる。スペシャリストも必要であろうが、多様性を重視した別の取得要件を設定することも検討に値すると思った。 |
【思ったこと】 _41125(木)[心理]日本理論心理学会第50回大会(13)日本発の理論を考える(その8)心理学の問題か、日本の問題か 日本理論心理学会第50回大会「日本発の理論を考える」シンポについての感想の最終回。このシンポは11月6日に開催されたもので、すでに三週間が経ってしまった。「シンポや講演会に参加した時には、その感想を一週間以内にWeb日記にまとめる」という自己ルールを大きく外してしまった。今後はぜひ改めたいところである。 さて、フロアからの質問として発言させていただいたことでもあるが、今回のテーマ「日本発」については、私は、もう少し問題を絞って検討したほうがよかったのではないかと考えた。つまり、ここでは「日本発が無い」という暗黙の了解のもとに議論が始まったが、それは、日本の学問、日本の大学教育全般について言えることなのか、それとも、心理学領域に限って言えることなのか、もう少し吟味してみる必要があるのではないか、ということである。 フロアからの発言としても申し上げたが、心理学に(たぶん)近い領域では、例えば、森田療法、土居健郎(たけお)の『甘えの構造』、霊長類学や今西錦司の理論などは、世界に誇る「日本発の理論」と言えるように思う。今回は主として実験心理学の領域で「日本発」が少ない原因が考察されたようであるが、それはむしろ心理学固有の問題ではないか、というのが私の考えである。但し、この場合も、心理学という学問の研究対象や方法そのものに起因するのか、日本における心理学研究・教育のシステムそのものに起因するのかは、さらに検討が必要である。 心理学領域そのものにあまり発見が無いということは、私自身、学生時代から感じていたところである。私が修士課程の頃、ある先輩は「心理学には発見が無い」と語りながら超心理学の研究に取り組んでおられた(ちなみに、日本超心理学会はこちら)。また、文化人類学や質的研究など、当時の実験心理学とは異なる領域に進んだ先輩もおられた。 もともと心理学というのは、人間を対象とした学問である。どんな人でも、自分の心理についてはそれなりの関心を持っており、自分流の「心理学」を組み立てている。そこに「科学的」方法を持ち込んだところで、行動リパートリーは限られているわけだから、そんなに新しい発見が生まれるわけではない。誰もが当たり前と思う現象に理屈をくっつけて簡潔に記述・解釈するくらいのことしかできないのが普通だ。強いて言えば、珍しい錯視や、主観的確率判断の偏りなどは、意外性が大きい分、何かが発見されたと受け止められるが、行動分析学が提言するようなパフォーマンス・マネジメントなどは、有用性・有効性で評価されるものであって、何が発見かと言われても困ってしまう。 いっぽう、日本における心理学研究・教育のシステムにも問題があることは、これまでの連載の中でも述べた通りである。やはり、卒論、修論、博論というそれぞれのステップでは、研究しやすいテーマ、研究しやすい方法というものがあることは否定できない。毎年11月末というこの時期になると、もはや卒論テーマとして何が妥当かなんていうことを考える余裕はない、なりふり構わず締切に間に合うように誘導していくほかはないのである。じっさい、「どういうテーマなら意義深いか」ではなく「どういうテーマにしたら実験のレールに乗るか」という形で指導せざるをえないことがたびたびあった。 これが卒論だけならいい。しかし、修論、博論、さらには、就職や昇任のために論文を揃えなければならないという切迫した状況に追い込まれると、そう簡単にはパラダイムシフトなどと言っていられない。 ということで、多くの宿題を残しつつ、今回のシンポについての感想を終わらせていただくことにしたい。 |