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人間・植物関係学会鶴岡大会2005年6月4日(土)〜5日(日) 場所:出羽庄内国際村/山形大学農学部 |
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【思ったこと】 _50602(木)[心理]人と植物の関係を考える(1)出発前に考えたこと 人間・植物関係学会の2005年大会が6月4日から5日にかけて山形県・鶴岡市で開催される。私も、理事会と座長の役を果たすために出席する予定である。 この学会には設立当初から参加している。設立のねらいにも記されているように、この学会は、人間と植物との関係を広く研究することを目的としている。 本学会は、人間と植物との関係というキ−ワ−ドのもとに、介護、福祉、医療、園芸、造園、社会教育、学校教育、都市計画、環境設計、生活科学、健康科学、植物と文化、建築学、地域開発などの人間に直接関係する分野における研究成果を収集、統合、分析し、生活の質の向上、教育・文化の発展、快適環境の創造に向けて、会員がお互いに協力し、かつ刺激しあいながら、新しい分野を創造・開拓し、発展させ、いっぽうでは、その成果を人間生活に活用することを目指す「るつぼ」として機能させることをねらいとしています。その1つとして「園芸療法」があることは言うまでもないが、人と植物との関係は園芸ばかりではない。山歩きを楽しんだり、道ばたの野草を観察したり、植物園で花の写真を撮るのも関わりの一つである。じっさい、2005年大会のプログラムを見ても。
さて、人と植物との種々の関わりをみていったとき、最も主体的な関わりとしては、職業としての農業や林業があり、次いで、楽しみだけを目的に行うガーデニングや家庭菜園などの園芸活動を挙げることができる。単に花を眺めるだけという行動に比べると、「植物を育てる」を含む園芸活動はより能動的、主体的な関わりであるように見える。 しかし、最近、「育てる」行為が含まれなくても、いろいろな能動的関わりの可能性が他にもあることに気づいた。例えば、散歩道での定点観察(同じ樹木の季節の変化を観察する)や発見(例えば芝生内雑草の中に新種を発見する)などは、デジカメで撮影したりメモをとることで、いくらでも能動的に関わることができる。もちろん、園芸活動にもそれなりの効用があり、私自身もいろんな植物を育てているところではあるが、人と植物との関わりを「園芸療法」の枠だけに閉じこめてしまっては勿体ない。自然観察とセットにした活動を充実させていくべきではないかと思いつつある。 園芸療法や、「野生植物と能動的に関わる」という意味での「野生植物療法」のようなものの効用は、短時間の生理的変化だけで検証されるものではない。もちろん、「青葉アルコール」とか「青葉アルデヒド」に集中力を高めて疲労を軽減する効果のあることは学問的にも実証されており、短時間でも植物に関わることにはそれなりの意味があることは確かだ。しかし、本当の効果というのは、全人的なレベルで総合的に評価されなければならないし、また、複数年にわたるような長いスパンで検証されていかなければならない。 そうは言っても、全人的なレベルでの効果というのは、従来の分析的、実験的手法では実証されることが原理的に難しい。いくつかの前提(公理のようなもの)を設けた上で、とにかく効率的なプログラムを組み立てて実践し、その教訓に基づいて改善を積み重ねるというやり方のほうが生産的であるとも言える。科学的なアプローチというのは、決して、実験や、平均値の有意差だけを狙った表面的な調査だけに限定されるものではない。実践活動主体であっても、評価と改善のプロセスさえしっかりしていれば、胸を張って科学性を主張することができる。 |
【思ったこと】 _50604(土)[心理]人と植物の関係を考える(2)人と木のつきあいは時を超えて 6月4日に開催された人間・植物関係学会鶴岡大会の1日目の行事「人と木のつきあいは時を超えて」に参加した。 この日は公開行事であり、人間・植物学会と鶴岡致道大学と東北文化研究センター3者の共催という形で開催された。「鶴岡致道大学」というのは聞き慣れない名前であったが、どうやら生涯学習講座の実施機関であったようだ。そのこともあって、冒頭には市長さんの挨拶もあった。10月の広域合併により、鶴岡は東北で一番広い市になるらしい。もっともその大半は森林である。それだけに、「人と木のつきあい」はこの地域の歴史や文化とも密着しており、今なお日常的な関わりをもたらしているとも言える。 今回の話題提供は
今回のテーマ「人が森を創る」というと、真っ先には人工林が頭に浮かぶが決してそうではない。森は自然そのものではなく、もともと文化的存在であるのだ。 このことは、2番目の赤坂氏の講演の中でも語られた。東北を訪れる人々はしばしば「開発の手が及ばない雄大な大自然が残っていて素晴らしいですね」などと感想を述べる。しかし、じつは、森の大部分は原生林ではなく、文化の表現である。これは東北に限らない。自然たっぷりの風景も実は人間が作ったものであることが多い。 そういわれてみれば、そもそも日本の伝統的な水田風景も、アルプスの牧草地もみな人間が作った風景であると言える。私のところにも文化科学研究科という大学院があるが、文化を語る以上は木や森もセットにして語らなければならないということがよく理解できた。 |
【思ったこと】 _50605(日)[心理]人と植物の関係を考える(3)裏山と屋敷林 6月4日に開催された人間・植物関係学会鶴岡大会の1日目の行事「人と木のつきあいは時を超えて」の感想の続き。 2番目の話題提供0 ●東北芸術工科大学教授・東北文化研究センター所長・赤坂憲雄氏:屋敷林のフォークロア〜人との関わりから見えてくるもの〜 は、なかなか示唆に富むお話であった。昨日も引用したように、東北を訪れる人々はしばしば「開発の手が及ばない雄大な大自然が残っていて素晴らしいですね」などと感想を述べる。しかし、じつは、森の大部分は原生林ではなく、文化の表現である。 かつて柳田国男は「風景は人間が植えたもの」と語ったという。宮本常一はさらに「風景は人が作る」と言われたという(←いずれも長谷川の聞き取りのため不確か)。じっさい、武蔵野なども、かつては荒野であった。玉川上水が引かれ、耕作がすすみ、屋敷林ができ、今となっては懐かしい風景が形作られた。 赤坂氏はまた、同僚の森繁哉氏の論文なども引用しながら、「背戸の山」、「山坪」、「裏山」における人間と山との関わりを語っておられた。裏山というのは山菜の貯蔵庫でもあり、裏山のある場所が家を建てる場所としては一等地であった。そして、後に平地に家を建てるようになってからは、裏山の自然を取り込むための屋敷林が形成された。つまりもともとそこにあった林ではなく、多様な樹種が植えられ、時には神聖な場所としてあがめられるようになった、というようなお話であった。 このお話を伺った後、私も車窓から屋敷林を注意深く眺めるようになった。今では昔ながらの姿をとどめているところは少ないと思われるが、それでも、ちょうど田植えの終わったばかりの水田のなかに、点々と集落があり、そこにいろいろな木が植えられていることに気付く。たしかにそこには、「時を超えた」人と木のつきあいがあるように見えた。 |
【思ったこと】 _50606(月)[心理]人と植物の関係を考える(4)日本の焼畑農業文化 6月4日に開催された人間・植物関係学会鶴岡大会の1日目の行事「人と木のつきあいは時を超えて」の感想の続き。 3番目の話題提供0 ●山形大学農学部助教授・江頭宏昌氏:焼畑ロードをゆく〜伝統農法のゆくえ〜 のお話も大変興味深いものだった。 ウィキペディアにも記されているように、「焼畑農業」というと「粗放的な農業形態」というイメージが強い。また、「火を使って森林を焼き払う」ことからの直感的連想として、地球砂漠化や温暖化の一因になっていると問題視される傾向もあるようだ。しかしこれにはかなりの誤解がある。少なくとも、日本国内で伝統的に行われてきた焼畑は、森林を育てるサイクルの一環にもなっており、在来野菜(=ここでは、カブ)の保存にも欠かせないものであるようだ。 江頭氏によれば、戦後間もない1950年には日本各地で焼畑が行われていたが、2003年調査時点ではおよそ5箇所程度、また各所とも数軒の農家が携わっているにすぎないということであった。山形の場合は、森林を伐採した斜面で、他に使い道の無い古株や枝などを敷き詰め、斜面の高いほうから低いほうに向かって火の先がU字型になるように燃やしていく。このように、急速に火の手が回らないための周到な工夫が行われている。そして、燃やした後は、まだ熱いうちに、在来カブの種を蒔く。2年目には小豆や大豆などを作り、その後は植樹をして再び森を育てる。庄内南部地方にはこのような焼畑を行う地域が「焼畑ロード」(←江頭氏の命名)を作り、5月のある時期には、美しいカブの花(←翌年の種を採るために残した株が開花)のお花畑ができるそうだ。 こうして作られるカブの中には、鶴岡市生まれの作家、藤沢周平の名前の由来にもなった「藤沢カブ」がある。 この種の在来カブの種は、かなりの熱を加えたほうが発芽率がよくなるらしい。かつては「種がはじける音がする」くらいの高温がよいとされていたというが、最近では、採種した後にビニールハウスで高温乾燥されるため、それほどの熱が無くても十分発芽するようになったそうだ。とはいえ、在来カブは、焼畑による土壌の加熱と木灰の養分が無いと本来の風味が得られないという。農家の高齢化が進み、焼畑農法が伝承されないことになればまことに残念である。 江頭氏が冒頭に指摘されたように、現代では、日常生活の中で火を見る機会は著しく減少した。最近では暖房もファンヒーター式ストーブやエアコンが主流となり火が見えにくくなった。また、電磁調理器も使われるようになってきた。 このほか「灰を使った文化」というのもあるそうだ。例えば、庄内特産の笹巻は灰汁でゆでないと風味が出ない。ワラビのアク抜きも、ソーダよりは灰汁のほうがおいしいという。火や灰を活用するということも、人と木のつきあいの1つとして重要な意味をもっていることが理解できた。 |
【思ったこと】 _50607(火)[心理]人と植物の関係を考える(5)人と木のつきあいと心理学的アプローチ 6月4日に開催された人間・植物関係学会鶴岡大会の1日目の行事「人と木のつきあいは時を超えて」の感想の続き。 今回の3件の講演:
講演を拝聴した限りでは、屋敷林や焼畑についての御研究は、現地に何度も足を運び、地形や植生の綿密な調査と、そこで暮らす人々への聞き取りという方法で進められている、と理解できた※。このうち後者の聞き取り調査は、調査的面接法とよく似たスタイルをとっているように思われた。 ※ 焼畑についての研究では、土壌の成分変化や、熱を加えることによる発芽率の変化などの実験研究も合わせて紹介されていた。 私の周辺では、質的心理学の隆盛を受けて、調査的面接法で卒論研究や修論研究を行う学生が増えており、演習でもいろいろな関連文献がレビューされることがある。しかし、率直なところ、その中で感銘を受けた論文というのはごくわずかにすぎない。 ライフヒストリーの論文などもいろいろ出されているが、単に「感動を与える」だけなら、多少フィクションや誇張が入っても、テレビのドキュメンタリー番組のほうがはるかに意義深いように思える。何かの仮説を生成するといっても、これはスゴイと言えるような発見が見られない。語られた内容に基づくという点では「実証的」かもしれないが、それは単に、そういう事例が「語り」により確認できたという程度であって、「新たに法則を発見して実証する」と言うべきものではない。 いっぽう、裏山や屋敷林における人と自然との関わりあい、あるいは、焼畑を通じた森と人との関わりあいについての調査研究には、これはスゴイと唸らせるような発見があった。聞き取り調査は成功をおさめているように思えた。 聞き取り調査が成功をおさめたと感じられる理由としては、次の点が挙げられると思う。
心理学研究としての面接調査も、行きずりの社会現象に関して心境を調べるというスタイルではなく、むしろ1つの生活の場における環境と人との関わりに目を向けていったほうが発見的価値のある成果が得られやすいのではないかという気がした。 |
【思ったこと】 _50610(金)[心理]人と植物の関係を考える(7)植物との接し方にもいろいろある 人間・植物関係学会鶴岡大会から一週間が過ぎた。 この大会では
こちらのアルバムの1歳5カ月の写真にもあるように、私自身は、生まれて間もない時から自宅の庭(当時)で植物と関わる生活をしていた。今でも、百日草やコスモスの種を蒔いてみたり、多年草や樹木の世話をしたり、洋蘭を育ててみたり、あるいは、県内の森林公園や海外の山歩きなどで大自然に接してみるなど、基本的には「何でもアリ」で、植物とふれあう毎日を送っている。 この連載の1回目(6月2日の日記参照)でも述べたように、最近では、花屋さんからポット苗を買ってきて植え付けるだけという「ガーデニング」よりはむしろ、身の回りにある多年草や樹木が季節の変化とともにどう変化していくかということに注意を向けることが多くなった。 もちろん、花屋さんでポット苗を買ってきて玄関先を飾るというのも嫌いではない。しかし、それは「育てる」というよりも活け花の感覚に近い。高齢者福祉施設における「園芸療法」というと、参加者の体力やサポート態勢の制約から、どうしても、そのような寄せ植え活動が中心になり、一定期間だけの活動の繰り返しに終わってしまうように見受けられるが、もう少し長期的なスパンで植物と関われる機会を増やしていけば、それぞれの参加者の人生との関連づけ、意味づけもできるようになり、充実した「園芸療法」になるのではないかと思ってみたりする。 デジカメなどで多年草や樹木の写真を撮り続けていくと、単に「花が美しい」という「通りすがり」の関わりだけでなく、それらの植物の何年にもわたる「生活」が見えてくる。そのことに自分の生活を重ね合わせると、もっと深い関わりが可能となる。 余談だが、美しいポット苗をたくさん植え込んで入園者を楽しませる植物園と、あまり手を加えない状態で野生植物の生きざまを観察する森林公園(あるいは、自然保護センター、里山、道端、....)の違いというのは、「レッサーパンダ見せ物論争」などで話題となった動物園の2つのタイプの役割とも似ている点があるように思う。 例えば、私が好きな植物園の1つ、とっとり花回廊では というように、大山を背景にした雄大はお花畑を楽しむことができる。しかしそれらは、その土地で自然に育つ植物の生きざまを示すものではない。ビニールハウスで育てたポット苗を一定期間だけ植え込んで作った人工の「お花畑」であり、人々はそれを見て、地球上のどこかに実在しているかもしれないホンモノのお花畑を想像して思いにふけるのである。残念ながら、そういうお花畑というのはそう滅多に見られるものではない。北海道の原生花園か、タスマニアあたりに行かないと、ホンモノに巡り会うことはできない。 6月10日付けの「日記書き日記」にも引用したが、旭山動物園では ●動物たちのありのままを,生き生きとした姿を伝えよう,そのためにはそれぞれの種が持っている行動を発現させて,能力を十分に発揮させてあげよう という基本姿勢で、「芸当」ではない生きざまを見せるための工夫をしている。植物園においても、単に、美しい花を植え込んで人工のお花畑を作るというだけでなく ●植物たちのありのままを,生き生きとした姿を伝えよう,そのために、生育環境に配慮し、それぞれの種が持っている成長の姿を十分に発揮させてあげよう という工夫が求められている。森林公園とか自然生態園のようなところでは、野生植物の生きざまを見せるために工夫がなされている。いや、上記の「とっとり花回廊」でも、あまり人は訪れないが、そういうことに配慮したエリアはちゃんと確保されているようだが。 |
【思ったこと】 _50612(日)[心理]人と植物の関係を考える(8)これからの課題 人間・植物関係学会鶴岡大会の参加報告の最終回。 これまでも何度か述べてきたように、私には、「園芸療法の有効性を実験的に検証する」という研究には限界があるように思えてならない。その理由として、
6月10日の日記でも述べたように、人と植物との接し方は多種多様である。高齢者施設では、参加者の体力やサポート態勢の制約から、ポット苗の寄せ植え活動が中心となることにはやむを得ない面もあるが、一般的にはもう少し長期的なスパンで植物と関われる機会を増やし、それぞれの参加者の人生との関連づけ、意味づけまでもサポートできるようになれば、より充実した「園芸療法」が確立できるように思われる。花ばかりでなく、花の咲いていない時期の樹木や多年草、さらには、山野草との関わりの機会も増やすべきである。 ところで、こちらのサイトにも紹介されているように、「人間・植物関係学会認定 園芸療法士資格制度」がいよいよ発足することになったようだ。そのような資格を得た人たちに期待したいことを私なりに挙げてみると
最後に、以上述べたこととに心理学がどう関わるかという問題であるが、アクティビティのアセスメント、行動環境の改善、心理面でのサポートといった点で、上記の1.〜4.は、いずれも心理学の研究に関連していると言うことができる。 |