日本質的心理学会第2回大会/日本心理学会第69回大会
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【思ったこと】 _50908(木)[心理]日本質的心理学会第2回大会(1)ストーリーとは何か 東大本郷で行われた日本質的心理学会第2回大会に参加した。この日の夕刻にはArthur W. Frank博士(University of Calgary)による、 ●Narrative Selves in a World of Stories. という特別講演が行われた。なお講演要旨はこちらに公開されている。 講演者のFrank博士はカナダ・カルガリー大学社会学科教授であり、医療社会学、特に慢性疾患患者の語りや医療倫理についての研究を精力的に続けておられる。ご自身にも心臓発作とガンの体験があるそうで、そのことも研究の1つのモチーフとして重視されているという。 さて今回のテーマは「ストーリー」がキーワードの1つになっていたと思うが、率直に言って、私にはまだ講演の主旨を十分に理解できていないところがある。 まず、ストーリー、ナラティブ、語り、,,,といった概念であるが、確かに日常生活において、我々は自分自身について常にストーリーを作り、それを自分に言い聞かせたり、こういうWeb日記などで第三者に伝えたりしている。Web日記をほぼ毎日、8年以上も執筆している私としてもその意義は十分に体得しているつもりではあるが、しょせん、文字で表されることには限界がある。毎日の行動やそこで生じるさまざまな感情のうち、文字で表現できる部分というのはごく限られたものに過ぎない。質的心理学ではしばしば「語り」が重視されているけれども、対象者の語りをいくら詳細に分析したところで、大部分は表層的なもの、また「深層」に迫ろうとすればするほどそこには推測が入り込まざるを得ないように思う。いや、面接調査がダメだと言っているわけではない。対象者の表情や行動観察、対象者を取り巻く環境や文脈とセットにして分析していかなければ、単なる発言録の羅列に終わってしまう。対象者の語りを一言一句正確に記述できたとしても、発せられた言葉が対象者にとってどういう意味をなし、どういう文脈で出てきたのかは確証できない。 そのことを踏まえた上で、「ストーリー」のポジティブな面についても考えておく必要がある。 まず、我々は必ずしも「思想」を持って行動しているわけではないが、我々の行動には常に「ストーリー」がまとわりつくと言うことはできると思う。というか、厳格な思想家であっても、思想そのものをダイレクトに実践しているわけではなく、実際には、自分の思想を現実の世界に適用したストーリーを構成しその中で生活しているのである。例えば、テロリストがその一例である。テロリストはそれぞれ強固な思想を持っているだろうが、自爆テロなどは思想ではなく思想に基づいたストーリーによって行動に移されると言ってよいだろう。 「ストーリー」はまた、行動分析学でいうところの「ルール支配行動」を含んだ、より広い概念であると思う。行動分析でいう「ルール支配」はあくまで、「個々の行動に関する随伴性の記述」もしくはその総称にすぎないが、ストーリーは、ルールを体系化したり、新たな習得性好子や習得性嫌子を作り出したり、確立操作として機能する可能性がある。 このほか「ストーリー」には、シナリオの選択に関連した機能がありそうだ。 ということで、あまり理解できていないが、「ストーリー」という概念が、臨床場面だけでなく、我々の日常行動理解にも役立つ可能性のあることが分かってきた。次回に続く。 |
【思ったこと】 _50909(金)[心理]日本質的心理学会第2回大会(2)ジャーナリストの経験と方法に学ぶ 日本質的心理学会第2回大会の感想の2回目。この日の夕刻には ●<K6>ジャーナリストの経験と方法に学ぶ―中村梧郎さんをお招きして― という準備委員会企画シンポジウムが開催された。昨日のArthur W. Frank博士の講演に関連してちょうど しょせん、文字で表されることには限界がある。毎日の行動やそこで生じるさまざまな感情のうち、文字で表現できる部分というのはごく限られたものに過ぎない。という感想を述べたところでもあった。これに対して、フォトジャーナリストの場合は、文字は写真を補うものとなる。研究の表現手段について考えようと思っていたところでもあり、質的心理学において、映像という表現手段がどういう意義をもつのかを考えるための貴重なヒントをいただくことができた。 シンポでは企画者の説明に続いて、中村さんご自身がベトナムで撮影された何枚かの写真が紹介された。大部分は、アメリカ軍が大量に散布した枯れ葉剤(agent orange、枯れ葉剤を貯蔵したドラム缶をオレンジ色に塗ったことに由来)による人体被害に関わるものであり、日本でもよく知られているベトくん、ドクくんの写真も含まれていた。 枯れ葉剤はそれ自体は有害ではないが、不純物として猛毒のダイオキシンが含まれており、これを浴びた現地の人々の間で流産、二重胎児やさまざまな奇形が多発した。そのこと自体は私もある程度知っていたが、すでにベトナム戦争が終わって30年、もはや過去の出来事として受け止めてしまいがちであった。 しかし、枯れ葉剤は今なお多くの人々を苦しめている。1つは、さまざまな障害を背負って生まれてきた子どもたちの人生である。中村さんが25〜30年前に撮影した少年少女や生まれたばかりの子どもたちのうちある者は撮影後まもなく死亡、ある者は障害を背負って生き抜いてきたが、ダイオキシンの影響がじわりじわりと脳を冒し今では寝たきりとなっている者もいる。また、重い障害を背負いつつ結婚して子どもを産んだ人たちもいるが、その子どもの中から次の世代の障害児が生まれたりしている。最近のベトナムというと経済発展が著しく、世界第二のコーヒー輸出国、このほかベトナム最高峰登頂ツアーまで企画募集されるようになったが、その陰ではいまだ後遺障害に苦しんでいる人がたくさん居るのだ。 少し前の日記で、小野田寛郎さんの29年間について書かせていただいたことがあったが(9月6日の日記ほか参照)、小野田さんの場合はフィリピン・ルバング島での体験を自ら語ることができ、我々もそれを拝聴する機会に恵まれている。しかし、枯れ葉剤の後遺障害に30年間苦しんだ人、あるいは亡くなられた方は、自らを語る機会さえ与えられていない。ジャーナリストが動かなければ、過去の出来事として葬り去られてしまう恐れさえある。 枯れ葉剤のもう1つの被害は、当時実際に散布を行ったり、散布された地域で戦闘に参加したアメリカや韓国の兵士の間にも癌などの被害が出てきたことである。このうち、アメリカ人だけは国家の補償を受けることができるが、韓国人元兵士やベトナム人への補償は「因果関係の証拠無し」として却下されているという。 さて、この学会シンポの目的から言えば、上記の被害そのものをどうするかではなく、中村さんがどのような形で調査し、またそれをどのような表現手段で発表していくのかということがむしろ本題であった。調査方法、撮影方法に関しては、
中村さんの撮った写真はあくまで一次資料であるが、それがどのような意味を持つのかについては、新聞の切り抜きなど膨大な資料と付き合わせながら再点検していく作業が必要である。例えば、ダイオキシンの有害性について何が指摘されていたのか。これは、文字で書かれた内容ばかりなく、その新聞記事が一面にあったのか、見出しの活字の大きさはどうであったのか、写真つきであったのかなども知っておく必要がある。そういう意味では、テキストベースだけの資料では不十分。 指定討論者の方も指摘しておられたように、質的心理学者に比べるとジャーナリストのほうが「扱う資料」、「主張の範囲」、「多様な表現手段」といった点で、はるかに幅の広い活動をしていると言える。情緒に訴えるというのも質的心理学者とは異なる点だ。もっとも、「理性に訴える部分」と「情緒に訴える部分」というのはバランスが大切であり、早い話、ジャーナリスト自身が情緒的な表現を多用すると受け手は逆に白けてしまう。なお、昨今流行の社会構成主義的立場からみれば、ジャーナリストと質的心理学との境界はそれほど明確では無くなってきたとも言える(←社会構成主義については別の機会にまとめて見解を述べたいと思っている)。 私自身からも最後に質問させていただいたことであるが、「写真で伝える」ということにインパクトがあるのは、その1枚の写真だけに重要な意味があるためでは決してない。見る者それぞれにおいて、中村さんが撮影した1枚の写真は、見る側が過去に体験した様々な日常風景、あるいは999枚、9999枚の平凡で平和な日常写真と対比させながら見られているのである。要するに、それを見た人がふだん、平凡で見かけ上平和な日常生活を送っているからこそ、中村さんの撮った1枚の写真に、非日常や悲惨さを感じる効果が出てくるのである。 ということは、フォトジャーナリズムというのは、見かけ上安定した平和な社会において、その内外にある問題性を暴き出して訴えかけるところで本領を発揮するものであり、日常の当たり前の世界の中で行動の法則性をさぐったり建設的な提言をすることは苦手としているのではないか、そんなことを最後に質問させていただいた。問題性を感じたところをフィールドとして選ぶのはご自身の特性でもあるが、ジャーナリズムというのは本来的に権力を監視する役割を担っているというお答えであったと理解した。じつはこのことは、質的心理学研究のフィールドがどこに向かうべきかということとも関連している。このことは、社会構成主義の主張に対する見解と合わせて、別の機会に述べる予定である。 |
【思ったこと】 _50910(土)[心理]日本心理学会第69回大会(1)血液型性格判断三昧の一日(1) 日本質的心理学会第2回大会に引き続いて、9月10日から日本心理学会第69回大会が開催された。午前中は、私のゼミの院生の発表があったのでそれをサポート(?)。午後からは、 【9月10日 午後】講演 血液型と性格 (講師 大村政男教授) 【9月10日 夕刻】ワークショップ 血液型と性格の科学性(話題提供:安藤寿康氏、渡邊芳之氏ほか) という「血液型と性格」関連の講演とワークショップに参加した。 大村氏(ほんらい「大村先生」と呼ぶべきところだが、他の話題提供者の呼称に合わせて以下、「大村氏」と呼ばせていただく)のご講演に関しては、同時間帯に社会構成主義に関するワークショップが予定されておりどちらに出るか迷ったが(8月22日の日記参照)、事前に得た種々の情報から、日本心理学会の大会でこのことについて大村氏が体系的な内容のご講演をされる機会は滅多にあるまいと考え、「血液型」のほうを選ぶことにした。 言うまでもなく、大村氏は科学的心理学の立場からの「血液型と性格」研究の第一人者。「血液型性格判断」に関しては私なども、私的Webサイトで苦言を呈している一人ではあるが、私の場合の動機はあくまで、テレビや週刊誌の「行き過ぎ」があった時に、そのあまりのひどさに耐えかねて批判活動を展開するということにとどまっている。いっぽう大村氏の場合は、パーソナリティ研究や気質論がご専門であり、純粋に学問的関心に基づいて地道にこの問題に取り組んでおられるという点で、私などとは動機や目ざすところがまるっきり違っている。非科学的俗説は厳しく批判され、偏見差別の弊害も指摘されているが、「血液型と性格」の相関を探究する研究自体は意義があるものと考えておられるようだ。今回のご講演でもそのロマンと情熱を感じ取ることができた。 今回のご講演は認定心理士研修プログラムとして企画されたこともあり、主として戦前の「血液型と性格」の研究の歴史を淡々と紹介される内容となっていた。引用は正確かつ多岐にわたっており、大いに勉強になった。 ご講演の最初の方では、20世紀初頭、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世やロシア貴族のバクーニンたちが唱えた「黄禍論」(黄色人種警戒論)の流れの中で、人種差別の一環として血液型が利用されたことが紹介された。要するに、ヨーロッパでA型者が多いのに対して(例えばドイツ44.4%、フランス43.8%、イギリス43.4%)に対して、日本人は37.3%、ベトナム人は22.4%、インド人は19.0%というようにA型者の比率が少ない。その後、ポーランドの医師ヒルシュフェルトは、第一次大戦の時に収集した血液型比率を調べ、生物化学的人種指数というのを発表した。これは、A型者とAB型者の合計数を分子、B型者とAB型者の合計を分母として算出するもので2.0以上ならばヨーロッパ型、1.3未満ならアジア・アフリカ型。ちなみに日本人やユダヤ人は中間型に属するという。 いっぽうこれに対抗?して、古川竹二は、昭和2年頃に「団体気質」というのを考案した。これは、O型者とB型者を分子、A型者とB型者を分母としたもので1.00となればバランスがとれた集団、1.60以上ならばまとまりがなくなるというもの。しかし、実際に収集されたデータには一貫性が無く、御都合主義の「解釈」に終わってしまった。 これと似た議論は「O型神話」にも表れている。要するに志願兵にはO型者が有意に多いといった主張であるが、このほかにも、「外交官はO型」提言とか、支配下の台湾の住民のO型者を日本人A型者と結婚させてO型者比率を減らせといった主張、さらにはO型者部隊編成などがある。中には、数百人程度のデータから習慣的犯罪者や無知的暴力犯罪者にO型者が多いといった結果(「石橋無事」という人による)が発表されたこともあった。血液型差別というと日本では少数派のB型者やAB型者への差別の問題がしばしば取り上げられるが、O型者やA型者への偏見も相当に強いものであったことが分かる(このあたりのことは、私の紀要論文の中でも取り上げたことがあった)。 ちなみに、昭和53年4月現在の衆院議員453人の中では、O型者は期待値の139人よりも24人多い163人であったという。このことから能見正比古氏は、「O型者には政治性がある」と結論づけたという。しかし、その後の平成6年と平成16年の調査では、O型者は期待値より若干少なくなっている。その時々の偶然的な偏りばかりを拾い上げて御都合主義的に解釈したための破綻の一例と考えてよさそうだ。 |
【思ったこと】 _50911(日)[心理]日本心理学会第69回大会(2)血液型性格判断三昧の一日(2)“FBI効果”や“変節”の真相 大村氏(ほんらい「大村先生」と呼ぶべきところだが、他の話題提供者の呼称に合わせて以下、「大村氏」と呼ばせていただく)のご講演の終わりのほうでは、血液型性格判断がなぜ当たっていると思われるのかに関して「FBI効果」への言及があった。FBI効果とは
また「B」とは、他者を血液型でラベル付けしてステレオタイプに扱う傾向を言い、「I」は、「血液型別の特徴」として喧伝されていることのバイアスを受けて、それに一致する部分だけを過大に捉えてしまうという思い込みのことを言う。言われている特徴に自分を合わせたり、幼児の多様な発達の可能性を妨げ、最初からこういう特徴があると決めつけて教育するような弊害もこれに含まれる。 さて、このうちの「B」はかつては「LaBelingのB」と呼ばれていたものであった。そこで、ご講演のあとの質疑の時間に、なぜこれが「Brand」に変わったのか? また、「Brand効果」と「Imprinting効果」は必ずしも独立させる必要はないのでは?といったことについて、質問をさせていただいた。これに対する大村氏のお答えは、 ●とにかく、「FBI」という言葉を使いたかったのですよ。 といったものだった(←長谷川の記憶のため文言は不確か。念のため)。 要するに「FBI効果」というのは学術レベルの厳密な概念ではなく、むしろ、覚えやすく伝えやすい啓蒙的なキャッチフレーズとして考案されたと考えたほうがよさそうだ。 ところで、「血液型」論争界の一部では、最近の大村氏は変節したのではないかという噂が流れている。不躾ながら、ご講演とワークショップの間の時間にこのことについて直接お尋ねしてみたりしたが、「変節」というのはやはり誤解、曲解であったようだ。昨日の日記にも書いたように、大村氏は、当初より、ご自身の専門分野であるパーソナリティ論や気質論と関連づけながら、「血液型と性格」に取り組んでこられた。方法や解釈がデタラメな非科学的俗説、例えば能見父子の俗説は厳しく批判しておられる一方、「血液型と性格」の相関を探究すること自体は研究テーマとして意義があるものと考えておられる。そういう意味では、戦前の古川竹二氏の数々の研究は、再現可能性、反証可能性という点で評価に値する。「血液型と性格」については何十年、何百年たっても何1つ、確かで体系性のある証拠は見出されないかもしれないが、古川竹二氏がなぜあのように着想し、あのような考えを持つに至ったのかということは、大村氏の今後のご研究を通して明らかにされていくものと期待される。今後ますますのご活躍とご健康をお祈りしたい。 |
【思ったこと】 _50912(月)[心理]日本心理学会第69回大会(3)血液型性格判断三昧の一日(3)62本の“血液型”番組の特徴 日本心理学会第69回大会の参加感想の3回目。今回は9月10日夕刻のワークショップ: 【9月10日 夕刻】ワークショップ 血液型と性格の科学性(話題提供:上村晃弘氏、安藤寿康氏、渡邊芳之氏/指定討論:大村政男氏) のうち、上村氏の「最近の血液型性格関連説の多様化」という話題提供に関して感想を述べさせていただく。 上村氏は、サトウタツヤ氏との共同研究として、2004年2月21日以降の約1年間に放映された「血液型」関連番組のうち62本を録画または直接視聴し、その中でどのようなタイプの説明が行われているのかを分類整理した。これには「伝統的説明」(古川竹二や、能見父子の説明)、「脳・糖鎖説」、「気質の3次元説」(大村政男氏によるCloningerの説の援用)など10種類が挙げられる。また、これらの説は、
私自身も紀要論文(pdf形式、近々、現行の画像ベースからテクストベースのpdfに変更の予定)の中で、昨年1年間の主な番組を取り上げ、批判的思考(クリティカルシンキング)の教材として役立ちそうな、荒唐無稽な言説に検討を加えたことがあったが、録画できたのはせいぜい10本程度。上村氏らが「62本の録画または直接視聴」という労力を費やされたことには感服した。 もっとも「伝統的説明」と言っても、その中には種々の言説が混在している。上記のようなカテゴリ分けで、「血液型カルチャー」の盛衰や質的変化がうまく捉えきれるのかどうかは、さらに検討の余地があるように思った。 また、いくら「血液型」好きな視聴者であっても62本すべてを見ていたわけではない。どのような要因が視聴率アップに貢献していたのか、どういう視聴者層が何に強化されてどういうタイプの番組を見続けていたのか、といった分析も求められる。 さらには、個人レベルにおいて、特定の番組を視たことで「血液型」についての考えがどう変わったのか、あるいは変わらなかったのかについても分析が必要かと思う。 ところで、昨年あれほど賑わった「血液型」関連番組は、「放送倫理・番組向上機構(BPO)」が2004年12月8日に「血液型によって人間の性格が規定されるという見方を助長しないよう」放送各局へ要望した後、急速に姿を消した。今回の「血液型バブル」は完全に崩壊したように見受けられる。 その原因の第一が、よく言えば「倫理」問題に敏感、悪く言えば事勿れ主義的な放送各局の姿勢にあることは言うまでもない。しかし、もし、視聴者側に「血液型」番組への熱烈な期待があるならば、番組再開運動が起こってもおかしくないはず。そうならずに、大多数の視聴者が番組自粛をすんなりと受け入れたのは、やはりどこかで「血液型を娯楽として扱うのは、偏見・差別を助長するのでは?」という後ろめたさがあったためではないかと思う。 もっとも、いくらテレビ番組で自粛が続いたとしても、「血液型性格判断」は、「わずか4つのタイプ」という簡便さと、輸血不適合から類推される「顕著な生理学的な差異」の後押しを受けて、今後も巷の俗説としてしぶとく語り継がれることになると思う。それだけに、今後も、批判的思考力の育成と、偏見・差別防止のための適切な監視を続けていくことが必要ではないかと思う。 |
【思ったこと】 _50913(月)[心理]日本心理学会第69回大会(4)血液型性格判断三昧の一日(4)遺伝子言説と血液型言説 ワークショップでは、上村氏に引き続き、安藤寿康氏が行動遺伝学の立場から、遺伝子言説と血液型言説について話題提供をされた。 「血液型性格判断」が信じられやすい理由としては、9月11日の日記で言及した“FBI効果”のほか、
安藤氏は、遺伝子言説と血液型言説が似ている点として
安藤氏によれば、ひとくちに「遺伝する」といっても、実は4つのレベルに分かれる。知能を例にとれば、最も決定的なのは、「species universal」のレベル。次に、きわめて重度な障害をもたらす(rare sivere disorder)レベルで、これは特定の1個の遺伝子が関与する。3番目は、「common mild disorder」のレベルでこれには複数の遺伝子が関与。そして4番目のレベルは、通常の正規分布に関与するレベル(←あくまで長谷川の聞き取りによるため不確か)。 行動遺伝学で対象とするのは4番目に関わる「遺伝」であり、そこでは、「おおゴッドモデル(OGOD、一疾患説、The one-gene one-disorder model)に代わって、 QTLモデル(Quantitative Trait Loci、量的形質遺伝子モデル)が有用なアプローチとなる。 このあとの難しい話はボロが出るので啓蒙書に譲ることにしたいが、要するに、QTLモデルでは、1個の遺伝子の寄与率は0.9%程度というようにきわめて小さいということだ。 私の紀要論文(pdf形式)に関連づけて言えば、「血液型性格判断」は
この日記でも何度も述べているように、「血液型性格判断」は、 血液型という情報を得ることで、自分あるいは他人の行動傾向を予測することができるかもしれない ことへの有用感、期待感に後押しされて、「信仰」され、テレビでも高い視聴率を得ているところがある。しかし、「実証された」と称して公開されている「調査結果」の大部分は、 ○○という行動傾向は、特定の血液型者で有意に多かった というものであって、条件つき確率の条件が反転している。ベイズの公式を当てはめればすぐに分かることだが、 ●Xをする人はY型に多い という情報を得たからといって、 ●Y型ならばXをするだろう という行動の予測には必ずしも役立たない。この部分への錯覚を指摘しておけば、レベル2の「実用的価値があるほどの顕著な差が見られるのかどうか、という日常生活への応用可能性についての議論」はすでにカタがついていると言ってよいように思う。 ●そんなこと信じても役に立たないばかりか弊害だらけだ さて、話題提供の3番目は、いよいよ、心理学界きっての論客、渡邊芳之氏の登場であった。私も、とっておきの質問を用意してこれに臨んだのだが、結果はいかに? |
【思ったこと】 _50914(火)[心理]日本心理学会第69回大会(5)血液型性格判断三昧の一日(5)心理学界きっての論客、いよいよ登場 日本心理学会第69回大会の参加感想の5回目。昨日に引き続き9月10日夕刻のワークショップ: 【9月10日 夕刻】ワークショップ 血液型と性格の科学性(話題提供:上村晃弘氏、安藤寿康氏、渡邊芳之氏/指定討論:大村政男氏) について感想を述べさせていただく。 ワークショップの話題提供の3番目は渡邊芳之氏の登場であった。 渡邊氏は、かつての東京都立大心理学が輩出した2大超人の1人。もう1人の超人のサトウタツヤ氏が企画力に長け今回の日本心理学会でもいろいろなワークショップにちょこちょこと顔を出しておられたのに対して(→この「血液型」ワークショップの時にも、同時間帯に開催された別のワークショップで指定討論者をつとめておられた)、渡邊氏のほうは北海道・帯広の大地にどっかりと腰をおろし、哲学にも造詣が深く、また、心理学界きっての論客として恐れられている(←すべて長谷川の主観的評価、念のため)。 渡邊氏の今回の話題提供の概要は以下の通りであった。
3.も仰せの通り。というか、私の紀要論文(pdf形式)も、渡邊氏と事前にやりとりがあったわけではないが、結果的に同じ意図で執筆されてたものと言える。 もっとも、近年、心理学の世界には、社会構成主義の影響がじわりじわりと及びつつある。4.を具体的にどう展開していくのかは、一筋縄ではいくまい。ということもあって、質疑の時間に私からは ●社会構成主義の影響が及ぶ中で「血液型論議」はどのように展開していくと思われるか? という、とっておきの質問をさせていただいた。渡邊氏のお答えは「社会構成主義の影響が及ぶことで、心理学の議論はより豊かなものになる」ということであったが(←あくまで長谷川の記憶に基づく)、時間が無かったこともあり、「血液型論議」や「魅力的な世界観」との関連した具体的なお話までは伺うことはできなかった。なお、本年中には、サトウタツヤ氏との共著として『モード性格論』が刊行されるとか。大いに期待したい。 話題提供に引き続いて行われたディスカッションでは
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【思ったこと】 _50915(木)[心理]日本心理学会第69回大会(6)Well-beingを目指す社会心理学(1)羞恥心の起源と機能 今回は 【9月11日 午後】CP02 Well-beingを目指す社会心理学 について感想を述べさせていただく。 この企画は、研究成果を発表するためのシンポではなく、認定心理士会の研修プログラムとして企画されたものである(大村政男氏の講演も同様)。同じ時間帯には他にも興味深い企画が多々あったが ●社会構成主義の立場から「実証」への疑問が発せられている中、伝統的手法に基づく社会心理学の研究は、どこまでWell-beingについて語れるのか についてぜひ知りたいと思い参加してみた。研修会では、著名な社会心理学者3氏から
3氏の話題はそれぞれ興味深く、大いに参考になったが、 ●羞恥心や航空機事故や社会的スキルがなぜWell-beingの典型事例になるのか? という素朴な疑問は残ったままであった。私が期待していたWell-beingというのは、どちらかと言えばよりポジティブでアクティブなもの。今回はそうではなくて、Well-beingの阻害要因を何とかして取り除いて、ネガティブな状態をゼロの状態に取り戻すという話題が中心であったように思う。とはいえ、Well-beingを保つためには、日常生活で起こるさまざまな不幸やトラブルに適切に対処していかなければならない。例えば、2番目の話題である航空機事故死はきわめて希有なことであるが、死別体験一般に拡張した場合、病死・老衰などを含めて過去10年以内に死別を体験した人は我々の7〜8割にのぼるそうだ。Well-beingの環境がどんなに良好に保たれていたとしても、死別フリーという状態で10年以上を暮らすことはできないのである。 さて、話題提供の1番目は、 ●羞恥心はいったい何なのか、どういう状況でどういうタイプの「恥ずかしさ」が生じるのか、それらはどう機能しているのか? といった興味深い内容であった。 菅原氏によれば、羞恥心は心のセキュリティーシステムの警告である。それは、集団への「所属の欲求(need to belong)」に由来している。先史時代から集団で生活していた人類は、この要求を受け継いでおり。社会的資源への最低限レベルのアクセス条件として「集団や他者から拒否されない」よう、羞恥心という警戒システムを備えているというわけだ。 一口に「恥ずかしさ」といってもいろいろなタイプがあるが、なぜそれが恥ずかしいのかを考えるといろいろな疑問が出てくる。例えば、
もっとも4番目あたりは文化によってもかなり異なるようだ。私自身が訪れた国に限っても、例えば、チベットのトイレはこんな感じ(インデックスはこちら)。いわゆるニイハオ・トイレである。他人に排泄行為を見られてもあまり恥ずかしくないように見受けられた。いっぽう、イランの公衆トイレでは立ち小便はできない。男性トイレであってもドアをしめてしゃがんで用を足さなければならない(こちらの記事参照)。日本人はその中間だろうか、ドア無しのトイレで大便はやりづらいが、男性は仕切り無しのトイレでも平気で小便をしている。 話題提供の中では、アダルトビデオを借り出す男性がどうやって恥をかくそうとしているのかについての面白いお話もあった。アダルトビデオばかりを好む人格だと思われないための「工夫」、同じ店で繰り返し借りないこと、他人相手なら恥ずかしくないなどなど。これらも基本的には「集団への所属要求」に起因しているようにも思われる。 なお、恥(失態や醜態)、対人困惑(会話途絶など)、照れ(賞賛)などは、危機的状況に対する情緒反応(赤信号)として機能しているが、これとは別に、「黄色信号(赤信号の可能性への警戒)」という意味で対人不安がある。この場合、不安感そのものよりも、不安に付随して生じる「自己コントロールの乱れ」、「対人的消極性」、「妄想的観念」が不適応を導く恐れがある。このあたりに臨床心理学との接点が見出せるということであった。 |
【思ったこと】 _50916(金)[心理]日本心理学会第69回大会(7)Well-beingを目指す社会心理学(2)羞恥心の起源と機能(続き) 昨日に引き続き 【9月11日 午後】CP02 Well-beingを目指す社会心理学 の中の ●菅原健介氏の話題提供:羞恥心と対人不安 について感想を述べさせていただく。 まず、「集団や他者から拒否されないよう、羞恥心という警戒システムを備えている」についての追記。昨日も取り上げたアダルトビデオを借り出す男性の例で言えば、街中の普通のレンタル店でアダルトビデオを借り出すというのはかなりの羞恥心を伴う行為であると思う。なぜなら、そのレンタル店の利用客の多くは普通のビデオを借りだしている。その中で自分だけが「特殊な」ビデオを借り出すというのは、集団からはみ出すことにつながる恐れがあるからだ。 もっとも集団といっても多種多様である。仮にアダルトビデオ専門のレンタル店があったとすると、その店に入るときと出るときは羞恥心を伴うだろうが、店の中にはそういうビデオを愛好する人たちばかりが集まっている。となると逆に「集団への一体感」を感じることになるかもしれない。 別の例になるが、私の住むアパートの前には小さな広場があるが、そこのベンチに座って真夜中に大きな声でおしゃべりをしているカップルを見かけることがある。真夜中ということもあって、会話の内容はアパート住民には筒抜けである。みんなに聞こえてもどうして恥ずかしくないのだろうと不思議に思うほどであるが、おそらく彼らにとってアパートの住人は自分たちの所属する集団とは無縁。最初から集団にあれば所属欲求など起こりえない、よって羞恥心も感じない、と考えることができる。 さて、Well-beingとの関連で羞恥心を考えるにあたっては、以上に述べたことのほか、
1.の「恥ずかしさ」、大勢の人の前で話をしたり演奏をしたりする場合の緊張感を表現、これがはたして、何かをして失敗した時の恥ずかしさと同じものかどうかは私には分からない。英語の「shame」は1.のような場面で使われるのだろうか。 但し、何度か重大な失敗を体験した人は、次回にも同じ「しくじり」をするのではないかと「あがってしまう」ことが多い。そのいっぽう、場数を踏めば、1.のような恥ずかしさはたいがい克服できるものである。演説に慣れている政治家などは、聴衆が100人であろうが1万人であろうが人の前で話をすることに関して恥ずかしいと感じることはないだろう。 次に2.であるが、羞恥心のWell-beingへの悪影響は、かいた恥の大きさではなく、恥をかいたことをダラダラと後悔し前向きに方向転換できないことのほうにあるように思う。恥をかくまいとして過度に緊張するよりは、かいてしまった恥をどう処理するかということのほうが大切であろう。 |
【思ったこと】 _50917(土)[心理]日本心理学会第69回大会(8)Well-beingを目指す社会心理学(3)死別体験とWell-being 今回は 【9月11日 午後】CP02 Well-beingを目指す社会心理学 の中の ●安藤清志氏の話題提供:航空機事故遺族のWell-being について感想を述べさせていただく。 安藤氏は、話題提供の最初のほうで、過去10年以内に死別を経験した人の割合を年齢層別に図示された。年齢層によってバラツキはあるが、その比率は概ね7〜8割にのぼるとのことだった。 死別というのは、必ずしも歳をとるにつれて確率が増すわけではない。例えば30歳の時に子どもが生まれたと仮定すると、ある人が85歳亡くなる時には、55歳前後の子どもが親との死別を体験することになる。また、55歳前後の人自身の子ども、つまり85歳で亡くなる人にとっての孫は25歳の時に祖父あるいは祖母との死別を体験する。さらに、夫婦の場合、配偶者に先立たれることで死別を体験することになる。両親2名、祖父母4名は、いつかは自分より先に亡くなると考えれば、死別体験が全く無い期間が10年以上続くというのはむしろ稀であることが分かる。 上記の死別の9割以上は病気や老衰を原因としているが、これ以外に自動車事故死>鉄道事故死>海上事故・遭難死>航空機事故死という順で、思いがけない死に遭遇することがある。いま述べた不等号関係からも言えるように、航空機の死亡事故というのはきわめて希であり、航空機は最も安全な乗り物だとさえ言われている。それだけに、死亡事故は思いがけない出来事であり、また、自分の子どもが巻き込まれることもあるため、そのショックはきわめて大きい。それをどう受け止め、どう立ち直っていくのかというのが今回の内容であった。 調査対象となったのは1994年に名古屋空港で発生した中華航空機事故の遺族であった。調査は事故発生4年後、8年後、さらに少数ながら11年後にも実施されている。たいへん貴重な資料だ。 さて、この種の事故は、まず悲惨な破壊状況(当人の遺体の損傷、他の犠牲者の遺体まで)を目の当たりにするという点で衝撃が大きい。その光景やニオイは何年経っても忘れられることができないという。このほか、「喪失の多重性」(当人を失うほか、グループ旅行の場合は複数の知人を失ったり、一家の大黒柱という経済的基盤を喪失するなど)、「回避可能性の認知」(「こういうことがしっかりできていれば事故は防げたはず」といった怒り)、「裁判の長期化」、「死の意味づけの困難」など、病死や老衰と異なるさまざまな心理的苦痛が持続してしまう。それぞれにどう対処していくのかが課題となる。直後のサポート、さらには長期にわたる持続的なサポートが求められる。 遺族の立ち直りにおいては「遺志の社会化」も重要。要するに故人が目指していたことを引き継いで実現させていくこと、そうすれば、その過程で故人も生き長らえることになる。また、トラウマ後のポジティブな面として、「生の意義の認識」や「人間的成長」を挙げる人もいたという。 短い時間ではあったが、死別とWell-beingの関係を考えるうえでたいへん参考になるお話であった。 |
【思ったこと】 _50918(日)[心理]日本心理学会第69回大会(9)Well-beingを目指す社会心理学(4)社会的スキル向上とWell-being 今回は 【9月11日 午後】CP02 Well-beingを目指す社会心理学 の中の ●大坊郁夫氏の話題提供:社会的スキルの向上を目指す について感想を述べさせていただく。 大坊氏はまず、現代人の対人関係の特徴として、「向・非社会性」、「閉塞的な空間」、「選択的・間接的な関係」、「希薄」、「プリマルチ・ネットワーク」というようなキーワードを挙げられた。 現代人といっても、若者、地域社会、高齢者施設など、多種多様な生き方があり、それぞれ個別に特徴づける必要もあるかと思うが、確かにそういう傾向は出てきていると思う。 例えば、9月16日の日記で 私の住むアパートの前には小さな広場があるが、そこのベンチに座って真夜中に大きな声でおしゃべりをしているカップルを見かけることがある。真夜中ということもあって、会話の内容はアパート住民には筒抜けである。みんなに聞こえてもどうして恥ずかしくないのだろうと不思議に思うほどである。と書いた点であるが、この例では若者は完全に閉塞的な空間の中にとじこもって会話を続けていると言える。このほか、車の中から平気で吸い殻、時には空き缶、ペットボトルまで投げ捨てたり、真夜中に大音響のエンジン音を鳴らしながら走り抜ける「暴走族モドキ」も居る。こういう若者にとっては、社会的スキルの向上はぜひとも必要であろうと思う。ちなみにここでいう社会的スキルとは、対人関係を円滑に運用する能力、すなわち相互作用概念であり、双方向的に学習し、向上させることが可能である。 大坊氏によれば、社会的スキルの要因は大きく分けて
そう言えば少し前に、Web日記執筆者の間でニュートラ適性・適職診断というのが流行したことがある。私の場合は、こういう結果であり、「理学系の研究者に向いている」とか「研究ひとすじに打ち込むか、こだわりの仕事で活きるタイプ」などと言われると、おおそうかっ、自分の職業は適性・適職なのかなどと思ってしまうが、ある意味で、こういう表現は、社会的スキルの一部に不足があり、「対人関係を円滑に運用する能力を必要とする職種には向いていない」ということを暗に示唆しているようにも受け取れる。同じことは、「企業にはあまり向かない芸術家タイプ」と診断された場合にも言えるのではないだろうか。もっとも、社会的スキルはちょっとしたトレーニングで大幅に改善できるものだ。仕事の都合上、対人関係を円滑に運用する能力が求められる人は、最初から「適性無し」と思い込むのではなく、積極的にそういうトレーニングに参加してほしいと思う。 大坊氏によれば、社会的スキルには、誰にとっても必要な基本スキルと、特定の(目的的な)スキルがある。また、日本人的スキルとして
もっとも今の世の中、ホリエモンや、民主党の前原・新代表にも象徴されるように、若い世代が年配の実力者に平気で物を言うのが当たり前の時代になってきた。競争的環境のもとでは、自己抑制や階層的関係の調整は、かえって自己に不利な結果を招くこともある。「曖昧さへの耐性」も国際社会では通用しない。 いずれにせよ、社会的スキルに関しては、誰が何のために、どういう場面で必要とするのかについて考えていく必要があると思った。 なお、このシンポの途中から会場周辺は激しい雷雨に見舞われ、落雷のせいか、マイクが使えないというハプニングに遭遇した。9月11日の日記参照)。 |
【思ったこと】 _50919(月)[心理]日本心理学会第69回大会(10)詩的表現のもつ語りの力(1) 日本心理学会第69回大会の参加感想の10回目。 今回は 【9月11日 夕刻】WS70 詩的表現のもつ語りの力-----質的心理学の方法論(2)(企画・司会:やまだようこ、話題提供:やまだようこ、サトウタツヤ、矢守克也、指定討論:南博文、本山方子) について感想を述べさせていただく。 8月22日の日記に書いたように、このワークショップにはもともと参加を予定していた。しかし、日本質的心理学会の大会から数えて連続4日目となりかなりくたびれていたので、この日は参加をとりやめて帰ろうかと思っていたところであった。 ところが、午後2時すぎになって突然激しい雷雨となり、傘をさしてもびしょぬれになりそうな様子(9月11日の日記)。そこで、やむなく、 かみなりだ わーくしょっぷで あまやどり として会場に避難したというのが参加の真相であった。 落雷の影響か、会場ではマイクが使えない状況にあった。そのおかげで、やまだようこ氏のナマの声による詩の朗読(宮沢賢治の『春と修羅』の一節)を聴く、という滅多にないチャンスに恵まれた。 なお、著作者の死後50年以上を経て著作権が消滅したことにより、宮沢賢治の作品の多くは、こちらから読めるようになっている。次回に続く。 |
【思ったこと】 _50921(水)[心理]日本心理学会第69回大会(11)詩的表現のもつ語りの力(2)こゝいらはふきの花でいっぱいだ 日本心理学会第69回大会の参加感想の11回目。 一日空いてしまったが、 【9月11日 夕刻】WS70 詩的表現のもつ語りの力-----質的心理学の方法論(2)(企画・司会:やまだようこ、話題提供:やまだようこ、サトウタツヤ、矢守克也、指定討論:南博文、本山方子) について感想を述べさせていただく。 昨日も述べたが、ワークショップではまず、やまだようこ氏が宮沢賢治の『春と修羅』の一節)を朗読された。この作品は、こちらから読めるようになっているので該当部分をリンクさせていただく。 ●林と思想(初版本『春と修羅』) 中学生の頃までは私自身も宮沢賢治の作品はかなり読んだことがあるのだが、ここにリンクされた「林と思想」は記憶に残っていなかった。しかし、やまだようこ氏が数回朗読されただけで、すっかり頭に焼き付いてしまった。そういう意味では確かに、詩的表現のもつ力は大きいと言わざるを得ない。 もっとも質的心理学の研究において詩的表現を扱うことにどういうメリットがあるのかについては、イマイチ分からなかった。簡潔性という点ではすぐれているとは思うが、解釈が分かれることもある。質疑の時間、私からも発言させていただいたところであるが、例えば蕪村の俳句などもいろいろに解釈される場合がある(2005年4月29日の日記参照)。今回取り上げられた宮沢賢治の詩の最後の部分 ●こゝいらはふきの花でいっぱいだ なども、いろいろな解釈が可能であるように思う。念のため、ネットで検索したところ、池澤夏樹「言葉の流星群」を引用したコンテンツがありそこでは ぼくは昔からこの詩が好きで、好きだとは思いながらも、なぜこんなに心ひかれるのかよくわからなかった。ここにあるのは自分と世界の呼応の瞬間である。自分はここにいる。世界は目の前に開けている。しかしそれだけでなく、自分は世界の一部でもあって、だから自分の考えが「茸のかたちのちい〔さ〕な林」のところへ「ずゐぶんはやく流れて行」くと感じられる。この自分と「ちい〔さ〕な林」の間の距離感が実にいい。自然に向って自分の思考を投射できる能力のおかげで、自分は自然の中にあって孤独ではない。自然から疎外されていない。だから、「ふきの花でいつぱい」というその場の光景によっても自分が祝福されていると感じることができる。』という解釈がなされていた。祝福されていると言われればそうなのかなあとも思うが、単に季節感だけを表現しているようにも思える。 なお、そもそも、なぜ、やまだようこ氏がこの詩を取り上げたのかということだが、これはおそらく、上の解釈にもあるような「自分と世界の呼応の瞬間」が簡潔かつ的確に表現されている事例として紹介されたのではないかと思う。『春と修羅』の序の部分にも、質的心理学や現場心理学の発想の根本が表されているのかもしれない。
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【思ったこと】 _50923(金)[心理]日本心理学会第69回大会(12)詩的表現のもつ語りの力(3)詩的表現の特徴 日本心理学会第69回大会の参加感想の12回目。 またまた一日空いてしまったが、 【9月11日 夕刻】WS70 詩的表現のもつ語りの力-----質的心理学の方法論(2)(企画・司会:やまだようこ、話題提供:やまだようこ、サトウタツヤ、矢守克也、指定討論:南博文、本山方子) についての感想の続き。 宮沢賢治の詩の朗読に引き続いて、やまだようこ氏は、詩の特徴として、「短い」、「リズムがある」、「繰り返す」「韻を踏んでいる」「余白がある」「切れている、ある種の対話性を持っている」「それによって移りや新しい構成が生じる」「全体的なイメージ」「本質をズバリ突く」「すぐれた思想の表現」などを挙げられた(←一部、聞き逃したところあり)。 詩というのは短い表現をとるのが普通であるが、その際、誰もが共通に知識として持っていないることは短くできる。また、これは三島由紀夫の引用だったかどうだったか忘れたが、はかりで分銅を調整しながら重さを量るように言葉を1つ1つ吟味する、というようなお話があった。前回言及した宮沢賢治の詩なども、ずいぶんと慎重に言葉が選ばれているらしい。もっとも、宮沢賢治の詩に限っては、彼自身が地学や天文にも造詣が深かったこともあり、「誰もが共通に知識として持って」いない言葉がポンポンと飛び出してくる。じっさい今回その一部が引用された『春と修羅』の序文の 新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層という結びなど、一般人には聞き慣れない言葉がいくつか含まれている。 なお、質的心理学との関係で言えば、ここではナラティブとして詩を使うわけだが、広い意味での言語で書かれたものであれば何でもテクストとして扱えるというようなお考えが表明された。 このほか、草野心平、ミロの絵、ポエティック・リアリズム?、橋本操さんの話などが出たが、なにぶん、ワークショップ開催日から2週間が経過してしまって記憶が曖昧になってきたため、ここでは、そういう話があったというメモだけ残しておくことにする。 さて、このワークショップではもう1つ、矢守克也氏から。たいへん示唆に富んだ話題提供 があった。次回にこのことを取り上げて、今回の感想連載をしめくくりたいと思っている。 |
【思ったこと】 _50925(日)[心理]日本心理学会第69回大会(13)詩的表現のもつ語りの力(4)異常の典型、異常の先端を描く意義 日本心理学会第69回大会の参加感想の13回目。 さて、8月11日のワークショップ 【9月11日 夕刻】WS70 詩的表現のもつ語りの力-----質的心理学の方法論(2)(企画・司会:やまだようこ、話題提供:やまだようこ、サトウタツヤ、矢守克也、指定討論:南博文、本山方子) では、矢守克也氏から。たいへん示唆に富んだ話題提供があった。 矢守氏は、こちらのプロフィールにあるように、京都大学防災研究所巨大災害研究センターで人間科学の立場から防災の研究に取り組んでおられる。今回の話題提供は ●典型性・純粋化 ←→ 網羅性・平均化 に関する内容であった。このことに関しては、じつはもう1つ ●変容的転移 ←→ 一意伝達 という話題に関連づける必要があるのだが、時間の関係で2番目の話題は残念ながら省略された。 矢守氏はまず、よく知られている標語、名言、格言などをいくつか紹介された。記憶に残っているものとしては(あくまで長谷川の聞き取りによる)
台風や地震災害などではしばしば、マスコミは、崖崩れ現場やビル崩壊現場など、センセーショナルな映像ばかりを流して視聴率を稼ごうとする。このことへの批判はしばしば耳にすることであるし、尤もな指摘であろうとは思うけれども、では、災害報道は網羅的、平均値的に伝えれば公正であるのかというとそういうことにもならない。例えば、 ●今度の災害では○○人が死亡し、○○人が怪我。被災家屋は○○戸。1戸あたりの損失額の平均値は○○万円でした と報道すればそれで価値ある情報を伝えたことになるのか、という問題が出てくる。 災害報道は、単に起こったことを正確に知ることばかりでなく、今後の防災や避難行動に役立つ情報として語り継がれなければならない。となると、やはり、異常の典型、異常の先端をいかに簡潔で、記憶に残りやすいように表現するのかが大切になってくる。 矢守氏によれば、似顔絵というのは、純粋化の表現の典型であるそうだ。確かに似顔絵は、顔写真そのままではないが、写真以上に本人であるように見えるところがある。 もう1つ、「変容的転移 ←→ 一意伝達」に関係する話題となるが、顔を変装した人がいちばん見破られやすいのは、笑った時だそうだ。つまり、顔の特徴というのは、表情筋がいちばん動く時、つまり変化の部分に表れるのだという。 このことに限らず、本質というのは静的な構造の特徴ではなく、むしろ変化する中で微分係数が最大になる部分に表れる場合があるというお話がたいへん参考になった。 なお、質疑の時間に私からも発言させていただいたことであるが、情報の簡潔化ということと、典型性・純粋化ということは別次元の話であるように思う。今回の「詩的表現」は、「詩的」というよりむしろ「ヘッドライト」、「ピンポイント」、「マスター(キー)」的な表現という意味で捉えられるべきだとの意見も出たようであったが、とにかく、文学の世界で研究される「詩的」とは明らかに違う面を検討していることは間違いない。 ということで、まだまだ理解できていない部分も多かったが、とにかく実りの多いワークショップであった。 今回の大会では他にもいくつかの小講演やワークショップに参加したが、大会から2週間がすぎて記憶がかなり曖昧になってきたので感想の連載は今回で最終回としたい。この日記にも何度か書いているように、何かの学会やシンポに参加した時には、なるべく1週間以内、遅くても2週間以内に感想を日記に書いておく必要がある。これを怠ると記憶はあっという間に風化し、お金と時間をかけて参加した意味が殆ど無くなってしまう。 |