インデックスへ |
第一回構造構成主義シンポジウム2007年3月11日(日) 早稲田大学・西早稲田キャンパス14号館201教室 |
|
【思ったこと】 _70310(土)[心理]第一回構造構成主義シンポジウム(1) 3月11日に早稲田大学で開催予定の ●第一回構造構成主義シンポジウム:わかりあうための思想をわかちあうためのシンポジウム に参加のため上京している。 構造構成主義というのは聞き慣れない言葉だが、当該案内サイトによれば、 世の中「信念対立」が満ち溢れている。政治,教育,医療といった世の中で議論が紛糾している論件の多くが、終わりのない信念対立の様相を呈している。構造構成主義は,こうした信念対立を巧みに解消しつつ、新たな道筋を見出していくための思想的体系である。とされており、私の場合は特に、教育や医療現場にどのように適用できるのかが最大の関心事である。記念すべき第一回ということもあり参加費は無料(但し、事前予約必要)。著名な養老孟司氏の特別講演もある。開会の言葉は池田清彦氏が述べられるということだが、池田氏と言えば、真っ先に浮かぶのが『環境問題のウソ』。この御著書については、「環境問題のウソ」のウソという批判があり、私自身も2月3日の日記で取り上げさせていただいたところである。「わかりあう」のは結構だが、地球温暖化を促進するような「わかりあい」では困るなあ。このあたり、よく注意して拝聴させていただくことにしよう。 なお、つい最近刊行された ●現代のエスプリ 2007/02 構造構成主義の展開 〜21世紀の思想のあり方 の中で、菅村玄二氏が ●構成主義とは何でないのか? というタイトルで、分かり易く?解説しておられる。それによれば、構造構成主義は少なくとも
|
【思ったこと】 _70312(月)[心理]第一回構造構成主義シンポジウム(2)シンポの第一印象 3月11日に早稲田大学で開催された ●第一回構造構成主義シンポジウム:わかりあうための思想をわかちあうためのシンポジウム の感想の1回目。内容を取り上げる前にまず、第一印象を忘れないうちにメモしておきたい。 会場の早稲田大学西早稲田キャンパスを訪れたのは、子どもの頃に父親に連れてきてもらった記憶がある程度で、たぶん半世紀ぶりのことである。地下鉄の早稲田駅を降りて地上に出たとたん方向を見失ってしまったが、同じキャンパス内で別のイベント(何かの検定試験?)が行われているらしく、それらの人の流れについていったら入り口にたどり着くことができた。早稲田大学というのは校門がなく、普通の道路沿いに各学部の建物が並んでいたような記憶があったのだが、実際は、扉で仕切られたひとまとまりのキャンパスになっていた。ちなみに、日本心理学会の年次大会が早稲田大学で行われたことは、私が参加した大会だけで2回あったが、一度目は文学部(戸山キャンパス)、二度目は人間科学部(所沢キャンパス)であり、今回の会場とは別であった。 開会前、壇上で数人の男性が準備や打ち合わせをしておられたので、たぶんアルバイトの大学院生だろうと思っていたら、なっなんと、そのうちのお一人(K氏)は今回のシンポの中心人物のお一人であった。中心人物のもうお一人の方(S氏)とともに1976年生まれであるというから、もの凄い若さだ。1976年と言えば、私が修論を書いていた年である。 若い方がおられるいっぽう、特別講演者の養老孟司先生は1937年生まれ、開会の辞を述べられた池田清彦先生は1947年生まれということである。にも関わらず、討論の中で、「若手」と「長老」の世代差を感じさせないところがまことに不思議であった。 |
【思ったこと】 _70313(火)[心理]第一回構造構成主義シンポジウム(3)池田氏の第一印象/養老孟司氏の特別講演(1) シンポではまず、池田清彦氏による開会の言葉があった。池田氏は、エントロピー概念を用いて、それぞれの国家はエントロピーを小さくしようと努力するが、どこかが小さくなると地球レベルで無秩序になるというパラドックスについてお話をされたと理解したが、一部はよく分からなかった。池田氏の御講演をナマで拝聴するのは今回が初めてである。ずいぶん型破りなスピーチをされる方だという印象を受けたが、どうやらこれが池田流のスピーチの本質的特徴であるようだ。あとで行われた鼎談でも、歯に衣を着せない辛辣な表現(もしくは放言、失言、暴言、...?)が毎分1回の割で出現するいっぽう、他の演者の方々も「池田先生はいつもヘンなことを言っている」と平気で皮肉っておられた。ここで何か悪口を書いても聞き流してくださるタイプではないかと思われる。 続いて、ご存じ養老孟司氏の特別講演が1時間にわたって行われた。予告では 我々日本人の多くが「無思想という思想」をもっているということを自覚することが無用な信念対立を回避するためにいかに役立ちうるのか、またそれを深く自覚するための考え方について講演して頂く。となっていたが、某大学の講義のシラバスを作ることに抵抗したと自ら語っておられたように、養老氏の講演というのはしばしば筋書きの無い方向に拡散する傾向があるようだ。構造構成主義とはあまり関係の無い話題が多かったような印象を受けたのは私だけだっただろうか。 さて、その養老氏の講演ではまず、丸山眞男『日本の思想』を引用しつつ、日本には思想が無い、あるいは読売新聞の調査で「日本人の7割は無宗教」という結果が出たこと、般若心経の中に「無」という文字が1割以上出ていることなどに言及しつつ、『無思想の発見』の視点から持論を展開された。 要するに、本当に思想を持っていれば意識されない。意識というのはモノではなく「はたらき」である。例えば、会場が突然暗くなり再び明るくなったとしても「電球が戻った」とは言わない。明るさはモノではなく「はたらき」だからである。よく「意識が戻った」と言われるが、これも別段、「意識」というモノが実在するという意味ではない、「はたらき」としての「意識」が戻ったという意味であることに留意する必要がある。 このことに関連して養老氏は、「踏み絵は踏めるか」、「古くなった日の丸を雑巾にできるか」という事例にも言及した。 このあたりのお考えは私も同感である。意識を実在物ではなく「はたらき」としてとらえるのは行動分析の視点に一致する。また私自身は、最近では、古くなって、今後使う予定の無いものはドシドシ捨てることにしている。モノはそれ自体は無価値である。価値というのはあくまで、人間とモノとの関わりの中で発生する。1月29日の日記にも書いたように、単に懐かしさをもたらすだけの物は、デジカメなどで映像媒体に置き換えたうえで捨てても構わないと思っている。 |
【思ったこと】 _70314(水)[心理]第一回構造構成主義シンポジウム(4)養老孟司氏の特別講演(2)「違い」をめぐる諸問題 次に養老氏は、般若心経にある、 色受想行識 に言及された。この話題は「無思想の意識化」のテーマに沿って展開されていると思ったのだが、後半は「行」「識」について ●学校の階段の一段一段の大きさをいろいろに変えれば、学生は注意して歩くようになり結果的に頭を使うようになる。皇居の周りをジョギングしているような人は、走り方が単調で、頭を使っているとは言えない。 というような持論を展開された。さらに、新しい運動をするというのは新しい運動制御モデルを使うことである点、感覚は違いがあると初めて生じるものである点などについていくつかの例を挙げられた。 この中で興味深かったのは、 ●「シロ」と名付けられた犬に対して、飼い主の家族はみな「シロ」と呼ぶが、犬は、家族全員が違う名前で自分を呼んでいると思っている というような例である(長谷川のメモに基づく)。しかし、他のいくつかの事例もそうだが、しょせん、「同じ」か「違う」かということは事物の本質ではなく、刺激性制御における般化と分化の境界の問題にすぎないと私は考えている。 要するに、何かと何かを「同じ」と見なすか、「違う」と見なすかは、人間や動物の都合によって決まる。例えば、2枚の10円玉は、貨幣として使われる時には「同じ」10円玉であるが、コイン集めのマニアにとっては希少価値が著しく異なるかもしれない。いっぽう理科の実験では10円玉も銅板も同じ「銅」として扱われる。 構造構成主義との関連で言えば養老氏はおそらく ●「同じ」と思われていることにも違いがある。違いに気づくことが、わかりあいの第一歩 というようなことを指摘されたかったのだと思う。 講演の中でも言及されていたが、そもそも「公平客観中立」の視点などというのはあり得ない。講演会場をライブ中継することはいっけんその様子を「公平客観中立」に伝えているように思われるが、じつはカメラの映像は個人の視線の1つにすぎない。ずっと同じ家で暮らしている夫婦であっても、向かい合うというだけで視線が異なるということだ。 この後者の例はまことにもっともだと思う。何十年も連れ添った夫婦は同じ環境を共有しているように見えるが、じつは、夫にとっては「妻の居る家」、妻にとっては「夫の居る家」、第三者から見れば「夫婦の住む家」でありこれだけでも決定的に違っている。事実に基づく研究と言っても、事実を数値化し、その一部を取り上げて記述するプロセスには個人の目が関与する。まずは「違いありき」であり、それらをどうカテゴライズし同一視していくかが問題となる。 |
【思ったこと】 _70315(木)[心理]第一回構造構成主義シンポジウム(5)養老孟司氏の特別講演(3)「同じ」「違う」の意義 の感想の4回目。 昨日の「違う」「同じ」の続きのお話のなかで養老氏は、世界各地の大都市がみな「同じ」景観になってしまっていることを嘆いておられた。ニューヨークでの街角インタビューと称して、東京都心の一角にアメリカ人を連れてきて番組映像を捏造しても、その場所が東京であるとは気づかれないかもしれない。県庁所在地などの大都市はみな同じ街並みになってしまっている。 このこと自体は私自身も感じるところであり、例えば、京都に出張した時など、学生・大学院生時代に住んでいたあたりの街並みがあまりにも「グローバル化」してしまっているのに驚く。チベットのラサなどもこちらのアルバムにある通りで、一部の観光名所を除けば、中国の大都市どこにでもあるような街並みが目立つようになってきた。 もっとも、「景観のグローバル化」を指摘されることと、本講演の論旨とは少々矛盾するところがあるようにも思えた。なぜなら、養老氏の御主張によれば、景観がみな同じになっても、そこで見える世界は個々人によって皆違ってくるはずだからである。また、「大都市がみな同じ」というのはあくまで旅行者の視点である。住んでいる人からみれば、自分が住んでいる街並みが他所と似ているか違っているかということはどうでもよいことだ。伝統文化や古き良き景観を守ることはゼッタイに必要なことだとは思うが、基本的な生活を支えるインフラ自体は住みやすいように改善すればよく、それが結果的に全国均一になったからといって、頭を使わない人が増えることにはつながらないと思う。 もう1つ、「違う」「同じ」に関して、 ●より上の概念を持ってきて、下位概念を「違う」という というようなお話をされていたと記憶しているが(←私の聞き間違いの可能性もあり)、うーむどうかなあ、昨日もちょっと書いたが、個々の事物は「初めに、違いありき」であって、それらをニーズに応じて、分類してひとまとめにするのが「同じ」という概念である。その「同じ」が階層的に構成されて上位概念ができあがっていくわけだが、「違う」と言明するためには上位概念は必ずしも要らないようにも思う。 もっとも、「初めに、違いありき」という時の「違い」と、特定の体系のもとで「同じか違うか」と判定する時の「違い」は、言葉は同じでも使い方はまるっきり別である。後者の意味で「違う」という時はやはり、上の概念が必要になるとは思う。 人間でもそれ以外の動物でも、同じか違うかという判断は環境に適応するための利点をもたらしている。しかし、とりわけ人間において「同じ」「違う」が重要となるのは、やはり、集団で生活し、集団で行動する必要に迫られているためであろう。このコインは10円玉かどうか、という判断が人によって違っていたら物の売買はできない。かつては、敵と味方を見極めて集団で戦う必要があった。 要は、「同じ」「違う」の判定は、ニーズに依存しているということだ。形式論理の世界でいくら厳密に論考が行われたとしても、事物を見極める時の「同じ」「違う」の基準がニーズに依存している以上、その上に構築される体系は、絶対的に正しい、間違っていると言えるようなものにはなりえないことをわきまえておく必要があると思う。 |
【思ったこと】 _70316(金)[心理]第一回構造構成主義シンポジウム(6)池田清彦氏、竹田青嗣氏、西條剛央氏による鼎談(1) 午前中の養老孟司氏の特別講演に続いて、第二部として、池田清彦氏、竹田青嗣氏、西條剛央氏による鼎談が2時間余りにわたって行われた。 鼎談ではまず3者の紹介が行われた。このうち竹田青嗣氏は、難解な哲学を分かり易く解説した御著書で知られている。今回の鼎談でも、哲学の流れを分かりやすくお話しいただき、3者の中でもいちばん、筋道が通っているとの印象を受けた。ちなみに、ウィキペディアの当該項目によれば、竹田青嗣氏の御本名は姜修次カン・スチャ、戸籍名は姜正秀カン・ジョンス)であり。「竹田青嗣」とは、太宰治の小説「竹青」から付けたペンネームであり、日本名ではないとのことだ。 鼎談の中で西條氏から最初に与えられたテーマ「哲学とは何か」について竹田氏は ●デカルト→ニーチェ→フッサール→ハイデガー という哲学の流れに分かりやすく言及された。 いっぽう、西條氏から「科学とは何か」の話題を求められた池田氏は、虫取りで崖から落ちて本を書き始め、虫取りの合間にいやいや本を書いたというような雑談のほか(←あくまで長谷川の記憶とメモに基づくため不確か)、「科学は客観か」に関して、社会構築主義が指摘している「言葉を使うことの問題」などに言及された。 池田氏は御著書が多数あるので、いまさらここで御紹介する必要はないと思う。ネットで検索したところこちら(続き)にお写真入りでインタビュー記事が掲載されていた(但し2003年4月28日。当時の御所属は山梨大学になっている)。リンク先に紹介されていた御著書のタイトルに関してツッコミを入れさせていただくが、『正しく生きるとはどういうことか』(新潮社)に関しては、うーむ、池田氏ご自身は、少なくとも「正しく」生きる模範人物とはちょっと違うように思う。『楽しく生きるのに努力はいらない』(サンマーク出版)という御著書のタイトルは、まさに池田氏ご自身の人生であるようにも思える。 西條剛央氏は、言うまでもなく、今回のシンポの中心人物のお一人であり、構造構成主義の創始者として知られる。1974年のお生まれだそうだが、1974年と言えば私が大学3年だった年であり、私とはかなりの年齢差がある。これだけお若いのだからどこかに弱点があるはずだと、ご発言を注意深く拝聴したが、残念ながら? ツッコミを入れたくなるような箇所は見当たらなかった(←池田氏のご発言だったら、たぶん、Web日記一ヶ月分のツッコミ可能)。西條氏の基本的な論点は、こちらに記されているので、ぜひお読みいただきたい。ちなみに今回のシンポでは、ご自身のことを「メタ理論工学者」と称されていた。かつてスキナーも「行動工学」を標榜したことがあったが、後には「行動分析」のほうが一般的になった。ウィキペディアの当該項目では「工学」は 工学(こうがく、engineering)は、科学、特に自然科学の蓄積を利用して、実用的で社会の利益となるような手法・技術を発見し、製品などを発明することを主な研究目的とする学問の総称である。と解説されている。あくまで「工学」として位置づけるのであれば、、実用性があり、社会の利益となるような手法・技術としての真価が問われることになるが、このあたりは今後どのように発展するだろうか。 |
【思ったこと】 _70317(土)[心理]第一回構造構成主義シンポジウム(7)池田清彦氏、竹田青嗣氏、西條剛央氏による鼎談(2)うるさい日本のマイノリティ/言葉の問題 鼎談の中で池田氏は、知人(お友達? 論敵?)の中島義道氏の著作や日頃の行いなどを例に挙げて、「わかりあい」の難しさを説いておられた。なお池田氏は、なぜか、この方のことを一貫して「ぎどう」(正式には「よしみち」)と発音しておられた。 なお、鼎談終了後の質疑の中でも話題になったが、自分の身の回りの騒音、景観、タバコなどに対する不快の程度には、個々人によって著しい差違がある。「これはうるさい日本の諸悪の根源だ」と言って路上のアンプをぶっ壊したとしても、例えば「ぎどう」氏のような著名な方ならば大目に見られるだろうが、無名人の場合には、器物破損で訴えられるのがオチである。また中には、そういう攻撃的な行動ができず、周囲の騒音に耐えられずに自殺してしまう人もいるかもしれない。そういう問題に哲学はどう応えられるかというような質問も出されたが、そのことについてのシンポジストからの明快な回答はなかったように思う。 池田氏はまた、科学論などにおける「言葉」の問題について論じておられた。
うーむ、このあたりは、言語行動についての行動分析学の視点と全く同じように思えるのだがなあ。このあと西條氏からもソシュールへの言及があったが、どちらの方からもスキナーへの言及が無かったのはまことに残念であった。 |
【思ったこと】 _70318(日)[心理]第一回構造構成主義シンポジウム(8)池田清彦氏、竹田青嗣氏、西條剛央氏による鼎談(3)哲学と信念対立 次に発言された竹田氏は、物語中心の宗教から哲学が成立していったこと、その中の主要な論点として
シンポのテーマでもある信念対立ということに関して竹田氏は、
こうした工夫によって信念対立は解消できるようにも思えるが、現実には世界各地で今なお宗教や宗派間の衝突が起こり、多数の犠牲者が出ている。もっとも、世の中で、信念優先で生きている人というのはそんなに多くないように私は思う。宗派対立といっても、何かの教義の解釈をめぐって論争がエスカレートしているというものではない。むしろ、これらは集団間の争いの一形態であり、ある集団と別の集団を区別する目印として、宗教や宗派の違いがたまたま使われているにすぎないのではないだろうか。相互の不信感を払拭し、対立・抗争よりも協調・融和のほうが利益になるというシステムを作らない限りは、真の平和は達成できないのではないかというのが私の考え。 なお竹田氏のご講演録等の抜粋はこちらから閲覧することができる(Topは現象学研究会)。 |
【思ったこと】 _70319(火)[心理]第一回構造構成主義シンポジウム(9)池田清彦氏、竹田青嗣氏、西條剛央氏による鼎談(4)信念対立は悪いことか 鼎談では他にもいろいろな話題が取り上げられたが、時間の関係で、いくつか印象に残った点をメモしておくことにとどめたい。 まず、信念対立という問題だが、いまの世の中、信念に限らず、さまざまな場面でいろいろな対立が起こるのは、ある意味では必然的であると言えよう。対立というとすぐに武力衝突を思い浮かべてしまうが、いま大阪場所開催中の大相撲だって、力士と力士の自己主張のぶつかり合いがあればこそ魅力があるのであって、力士たちが土俵の上で「わかりあって」いたらばそれこそ八百長になってしまう。 私は別段、競争原理の信奉者ではないが、競争や対立のもとでの切磋琢磨が多くの進歩をもたらしてきたことも事実である。「対立は悪」という固定観念にとらわれることなく、どういう場面での対立は不毛(もしくは破壊)となり、どういう場面では逆に(弁証法的な?)発展をもたらすのか、それぞれのケースに応じて対処していくほかはないように思う。またそういう意味では、対立を回避する万能なツールなどはあり得ないと考えている。 鼎談の中で竹田氏は、哲学では「どういう見方をとればどういう問題を解く時に有効か?」という視点が大切であるが、現実にはその1割程度が有効であった反面、残りは不毛な傍証に費やされていたというようなことを指摘された(←長谷川のメモに基づくため、かなりあやふや。後日、竹田氏の著作を参照して、正確な論点を確認したいとは思っている)。確かに、そういう論争においては、証拠を出し合って論破をめざすよりも、編み方を変える努力をしたほうが生産的であるかもしれない。 もっとも、例えば地球温暖化のような問題は、「わかりあい」だけでは解決しない。保身や自己利益優先のために、価値観の多様性を悪用する人たちもいる。人類全体が一致して取り組むべき問題が生じた時には、環境破壊を放置するような「思想」とは闘っていく必要があるように思う。 なお、信念対立が、単に「お互いのことを考えましょう」型の尊重精神で解決しないことは、質疑の中でも竹田氏によって指摘されている。 資本主義社会がもたらした格差が、救済思想やルール作り、配分調整などによって解決するかどうかは、究極的には社会的富と人口とのバランスの中で決まってくるということのようだ。このバランスがうまく保たれれば、格差の少ない持続的な循環社会の実現も可能だが、バランスが壊れれば内戦、さらには核戦争の危険もありうるというようなことも指摘された(←長谷川の記憶に基づくので、あやふや)。この調整が科学の力で維持できるか、それとも新たな啓蒙思想が必要なのかは定かではない。 |
【思ったこと】 _70320(水)[心理]第一回構造構成主義シンポジウム(10)池田清彦氏、竹田青嗣氏、西條剛央氏による鼎談(5)欲望論と関心相関性 昨日に続いて、印象に残った点のメモ。 鼎談や質疑では感受性や欲望の個体差の話題が取り上げられていた。またGoogleで「竹田青嗣 欲望」というキーワードで検索すると13300件もヒットすることから分かるように、竹田氏は欲望論の大家である(関連する御著書はご当人の公式サイトからもチェックできる)。 じつは私自身は竹田氏の欲望論については不勉強で何も分からない。但し、私自身の中では、いわゆる欲望は、行動分析で言うところの
同じことは、構造構成主義の中核原理である「身体・欲望・関心相関性」についても言えると思う。「関心」は前提ではない、条件づけによって作られるものだというのが私の考え。もっとも、不勉強の私にはその真意はまだ理解できていない。手元にはすでに『 構造構成主義とは何かー次世代人間科学の原理』(西條剛央、北大路書房)があるのだが、まだ1頁も読めていない。いずれ拝読した上で、改めて考えを述べさせていただくことにしたい。 |
【思ったこと】 _70321(木)[心理]第一回構造構成主義シンポジウム(11)構造構成主義の医療領域への展開(1) 第二部の鼎談に引き続き、 ●構造構成主義の医療領域への展開 というパネルディスカッションが行われた。 公式サイトに記された趣旨は 信念対立に悩まされることの多い医療現場における問題に焦点化する。京極真氏はチーム医療と異職種間連携について、斎藤清二氏は医学と臨床実践、高木廣文氏には看護学に、構造構成主義を導入した新たな枠組みについてそれぞれ論じていただく。それを踏まえて指定討論の先生方に議論をしていただき、また会場の皆さんの意見も拝聴しながら、建設的に議論を展開していきたい。となっていた。司会の川野健治氏を初め質的心理学の研究ではよく知られた方々が登壇されていた。 パネルディスカッションではまず、中心人物のお一人である京極氏から医療現場における信念対立や構造構成主義による対立解消の道筋の事例が紹介された。 京極氏によれば、医療の現場では、個人内においても、医療者と患者の間でもさまざまな信念対立がおこりやすい。例えば「市場原理優先の医療とするか、コストを度外視して最善の医療をめざすか」、「リスクの高い治療を実施するかどうか」、「医師の判断か患者本位か」などなど(←長谷川の記憶とメモによるため、あやふや)。これらはしばしば存在をかけた対立となる。 ではどうすれば対立は軽減できるのか。京極氏の創出したツールは、「現象」、「構造」、「関心相関性」をキーワードにしており、これらは特定のコンテンツに依拠しないため何にでも妥当するというものであった。話題提供の時間が限られていて、次々とスライド画面が変化したため、納得の域に達するのは困難であったが、要するに、
京極氏のスライドの最終画面には 互いの関心を対象化することで当事者間の対立の増幅を低減する可能性を担保すると記されていたと記憶しているが、うーむ、「対立の増幅を低減する可能性を担保する」という言い回しは難解であり、私にはよく理解できなかった。「対立を解消できる」と断言できるならスゴイことだと思うが、「低減する可能性を担保」できるものは他にもいろいろあり得ると思う。 例えば、外国人とのあいだに信念対立が起こった場合、 ●互いの英語コミュニケーション力を高めることで、当事者間の対立の増幅を低減する可能性を担保する とも、 ●異文化理解につとめることで、当事者間の対立の増幅を低減する可能性を担保する とも言えるように思う。「互いの関心を対象化する」が決定的な役割を果たすのかどうかについては、関連書を拝読した上で無いとなんとも判断できない。 もとの、医療現場の信念対立の問題だが、狭義の医療行為の現場と、患者の長期的なQOL向上や病院経営や医療行政などの広義の現場では、対立の性質はかなり異なっているのではないだろうか。前者の場合、例えば救急救命医療の現場では、何はともあれ命を救うことが第一となる。ここでは、とにかく、指揮官としての医師の適確な判断とリーダーシップが重要であって、信念対立解消などという呑気なことを言っているヒマはない。同じことは、(平和であることが第一ではあるが)軍事作戦遂行、大規模災害の救助・救援などについても言える。 つまり、対処すべき問題によっては、信念対立などは粉砕し、優秀な指揮官のもとで、命令指揮系統を完璧にしておいたほうが良い結果をもたらす場合がある。信念対立の問題は、もっとグローバルな国家間、民族間、宗派間の対立、あるいは、ローカルなコミュニテイ内の意見対立の解消などに限定的に役立てるべきではないかなあ、というようにも思えた。 |
【思ったこと】 _70322(木)[心理]第一回構造構成主義シンポジウム(12)構造構成主義の医療領域への展開(2)斎藤清二氏と高木廣文氏による話題提供 第三部のパネルディスカッション「構造構成主義の医療領域への展開」では、京極氏に引き続いて、斎藤清二氏から「医学と臨床実践」に、高木廣文氏から看護学に、それぞれ構造構成主義を導入する新たな枠組みについて貴重な話題提供をいただいた。 お二方の話題提供はたいへん貴重なものであったが、なにしろ時間が少ない(持ち時間それぞれ20分)。事前に関連書を読み尽くしている方でないと、内容を把握することはなかなか難しかったのではないだろうか。 備忘録代わりに、いくつか印象に残った点をメモさせていただく【主として、スライド画面の書き写し】。
|
【思ったこと】 _70323(金)[心理]第一回構造構成主義シンポジウム(13)構造構成主義の医療領域への展開(3)井原成男氏と池田清彦氏による指定討論/まとめ 第三部のパネルディスカッション「構造構成主義の医療領域への展開」では、3つの話題提供に続いて、井原成男氏と池田清彦氏による指定討論が行われた。 まず井原氏は、「関心相関性をインスツールする」という京極氏の着想を評価したうえで、「対象化」と「客観化」の違いについて御指摘をされた。このほか、斎藤氏の話題提供に対して「セルフがあるからこそ」、高木氏の話題提供に対しては、典型論では量的なものと質的なものは対立しない、構造構成主義は何のためにやるのか(→そこにいる人の幸せのため?)といったことについて種々の御指摘をされた(←長谷川の記憶に基づくため、かなりあやふや)。 いっぽう池田氏は、個々の話題提供の内容にはあまり言及されず、第三部のテーマである「医療」に関して、「医療はないほうがいい。居なくなると困るはずの一次産業従事者の収入が低いのは問題だ」などと持論を述べられた。パネルディスカッションの趣旨からは脱線しているようにも思えたが、この御指摘自体には私も同感である。 そもそも、高齢者の生きがい論などは、医療とは別の世界で構築されるべきものだ。病気や死を悪と考える限りは、いかによく生き終えるかというような問題を前向きに論じることはできない。理想の高齢者福祉施設とは医師の居ない施設であり、緩和ケア施設でも、医師よりは、よりよく生き終えることをサポートしてくれるようなセラピスト、僧侶や牧師のほうが必要であるように思う。 指定討論に対する回答の中で、斎藤氏は、outcomeの研究よりも、quality improvementの研究のほうが重要だというようなことを言われた(←長谷川の聞き取りのため不確か)。この考え方には私も同感である。そもそも一連の行動は単一の効果で評価されるべきではない。3/21に立命館大学で行われた別のシンポでも ●サイコセラピーが完了した人々に、どういう成果があったのかを尋ねたところ、彼らが口にした成果は、「初回の来談時に訴えていた症状の消失」ではなく全く別の種類の成果であった などという指摘があった。例えば(←あくまで長谷川が思いついた例)、不眠症が治った人に治療の成果を尋ねても、「不眠症が治ったことが成果である」という答えが返ってくるとは限らない。「食欲が出た」、「日々の思考がうまく働くようになった」と答える人もいるだろうし、中には、「セラピストと知り合いになれてよかった」「周囲のサポーターとの交流を通して、人間関係の大切さを知った」と答える人も出てくるかもしれない。エビデンス重視とか言ったところで、何も問題解決という目先の成果だけで測れるものではないことに留意する必要があると思う。 もう1つ、フロアから、部分か全体か、という認識論上の問題についての質問があった。登壇者の方々も答えておられたが、我々の認識は常に部分的である。全体をまるごと知るすべは持っていないし、現象のすべてを記述することは困難【池田氏】。統合的な認識というのは、ミカンとリンゴを果物として認識することではなく、ミカンと果物を統合するというようにパラドックスを内包しており、形式論理学では片付かない問題を含む【斎藤氏】。というお考えは、それぞれその通りだと思う。 とはいえ我々は、部分を知ることから、未知の別の部分を予測することはできることも確かである。少々脱線するが、シャーロックホームズの小説の第一作『緋色の研究』の中には “From a drop of water,” said the writer, “a logician could infer the possibility of an Atlantic or a Niagara without having seen or heard of one or the other. So all life is a great chain, the nature of which is known whenever we are shown a single link of it.というくだりがある(英文中で「the writer」とあるのは、ワトソンとホームズの会話の中で、ワトソンがたまたま見つけた本(←じつはホームズの著作だった)の記述について言及していたため)。 この引用ほどではないにせよ、我々は、推論によって、既知の現象から未知の別の現象を予測することはできる。但しそれは、部分から部分を知るのであって、部分から全体を知ることではない。 シンポのまとめの中で西條氏は、21世紀は民主主義にかわって構造構成主義の時代になる、というようなスケールの大きな展望を語っておられたが、うーむどうかなあ、ある主義主張が正しかったとしても、それが、ある時代のある社会に広く普及するかどうかは別問題だと思う。 確かに今は「民主主義」の時代であるが、一般大衆の多くは、決して、民主主義思想を学んで共鳴し、それが正しいとの信念に基づいて行動しているわけではない。西條氏ご自身も「主義というより制度だ」と言っておられたように、実際には、おおむね物理的衝突を回避し、専制政治の防止装置としてそれなりに機能し、そのもとでまずまずの生活が保障されているからこそ、民主(主義)制度なるものが存続しているのである。 最近、構造構成主義に関する本が次から次へと出版されているようだが、仮に一大ブームが起こったとしても、観念だけで社会を変えることはできない。忙しい世界にあっては、よほどの必要に迫られるか、もしくは何らかの事情でとつぜんヒマができたか、というようなことが無い限りは、娯楽にもならない本をわざわざを読むことはない。 よく言われる「モダン」、「ポストモダン」にしたって、一部のインテリが口にしているだけであって、一般大衆はそれとは無縁の世界の中で生きているだけなのかもしれない。ということもあり、今後は、ここで披露された考え方をいかなる方法でいかに普及させるかが課題である、というように思われた。 |