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心理療法におけるエビデンスとナラティヴ:招待講演とシンポジウム


2007年3月21日(水)
立命館大学衣笠キャンパス・創思館カンファレンスルーム

目次
  • (1)はじめに
  • (2)サトウタツヤ氏の導入講演
  • (3)McLeod氏の特別講演(1)サイコセラピーにおける4つの変化
  • (4)McLeod氏の特別講演(2)ナラティヴとエビデンスの関係
  • (5)下山晴彦氏の話題提供(1)昔の人々は現代よりも多くの苦しみや悲しみを背負っていたか?
  • (6)下山晴彦氏の話題提供(2)下山晴彦氏の話題提供(2)日本のサイコセラピーの特異性
  • (7)能智氏、武藤氏、松見氏の話題提供(1)
  • (8)能智氏、武藤氏、松見氏の話題提供(2)
  • (9)能智氏、武藤氏、松見氏の話題提供(3)結局、セラピーの効果とは何なのか?


【思ったこと】
_70324(土)[心理]心理療法におけるエビデンスとナラティヴ(1)

 3月21日に立命館大学衣笠キャンパスで開催された特別公開シンポジウム:

心理療法におけるエビデンスとナラティヴ:招待講演とシンポジウム

に参加した。

 シンポではまず、ご存じ、サトウタツヤ氏から導入講演があった。「エビデンス」と「ナラティブ」は、いずれも、いくつかの心理学関係会年次大会やシンポではホットなテーマであると思うが、両者を1つのタイトルに並べて論じることはなかなか困難。そういう意味では、今回の企画は、まさにサトウタツヤ氏ならでは実現できた貴重な企画であったと言えよう。ちなみに、サトウタツヤ氏の導入講演自体のタイトルは

心理療法におけるエビデンスとナラティブ:決して丸く収めようとしているわけではなく

となっており、また、シンポ全体のプログラムのほうでは

機能主義と文脈主義からみた新しい心理療法の時代の行動療法とナラティブ:その歴史と展開

となっていた。

 パワーポイント配付資料によれば、今回の議論の種は
  • 近代(modern)をどのように考え、脱近代(post modern)をどのように展望するか。
  • 本質主義(Essentialism)と機能主義(Functionalism)の違いを考えるとき、行動療法や認知行動療法は機械論(Mechanism)なのか
  • 西洋と東洋という歴史的文化文脈をどう尊重し合うか
という3点に集約されるという。なおサトウタツヤ氏ご自身も言及しておられたが、西洋か東洋かというテーマは、日本人の研究者による設定であり、地球規模で見た時には、例えば南北問題が捨象されるといった問題点が別にあるようだ。

 ところで、私自身は、モダンかポストモダンか、本質主義か機能主義か、...といった分類に基づく議論が生産的な結論を導出できるかという点については、かなり懐疑的な見方をしている。どういう状況のもとでどれだけ有効性が示せるかさえ明らかにできるならば、別段、何主義であっても良いようにも思えるのだが、ま、そのあたりは後述ということで...。

【思ったこと】
_70325(日)[心理]心理療法におけるエビデンスとナラティヴ(2)サトウタツヤ氏の導入講演

 導入講演の中でサトウタツヤ氏は、モダンなるものの特徴として次の点を挙げられた。
  1. 資格社会←世襲制よりはマシ
  2. 専門家−非専門家の非対称的かつ権力的な関係の成立
  3. サービス享受者は主体になれず、サービス提供者の客体として存在するしかない。←例えば、患者は医師の客体として存在。
  4. 一望監視装置(Panopticon)←知能検査や心理学調査はモダンと共犯関係?
 短時間の導入講演という趣旨であったので、それぞれについての詳しい説明は無かったが、一言居士的に感想を述べさせていただくと、

 まず1.に関しては、資格ということと世襲制ということは別の次元の問題であるような気がした。いまの社会では職業選択の自由が与えられているが、実際には、学歴社会、金権社会、実力社会、というように、選択の自由度は、国の体制や経済発展の度合いによっても異なる。また、法律上は選択の自由が保障されていても、資格をとるためにお金がかかる場合は、家業から離れにくくなり、結果的に親から子へ、同一の資格が「世襲」されていくこともありうる(行動分析学会のニューズレターや、こちらの連載参照)。

 「専門家−非専門家の非対称的かつ権力的な関係」というのも、サトウタツヤ氏の「ボトムアップ人間関係論」をまだ拝読していないので、よく分からないところがあった。いまの日本にそのようなタテの関係が種々存在していることは確かだと思うが、それはどちらかと言えば、組織体の内部にとどまるものである。社会全体としてみた限りは、士農工商のような固定的な上下関係はもはや存在しない。例えば、「学校の先生」と「生徒の親である医師」との関係をみた時、父兄懇談会では「先生→医師」という非対称的な関係が存在するいっぽう、その先生が病気になって医師に掛かった時には「医師→先生(=患者)」という逆の関係が生まれる。さらにいずれの場合、ある期間、状況や文脈に依存して生じる関係であって、絶対的固定的なものではない。また、非専門家であるユーザーはいつでも、専門家との関係を解消したり、別の専門家に取り替えたりする権利を有している。

 3.や4.に関しては、スキナーの『科学と人間行動』の視点を再度読み直してみようと考えているところであり、別途、言及することにしたい。




 さて、それではポストモダンはどうか。サトウタツヤ氏は、今回の特別講演者の文献(McLeod, 1997)を引用しつつ、
  1. グローバリゼーション
  2. 省察性
  3. ローカルな知の台頭
を挙げられた。またマッキンタイア(1981)を引用し、自分のことの著者になれたモダンに対して、ポストモダンでは私たちは私たち自身の物語の共著者にすぎない点を指摘された。

 ナラティブというと、サイコセラピーの世界ではポストモダンの騎手のように受け止められがちであるが、機能主義から生まれた行動主義、行動療法も、人間の苦悩・精神症状を人間内部の実体とはみなしておらず、「状況・環境の中の人間」というシステムとして関係を開くという点でポストモダンと繋がりがあるというのが、ご講演の趣旨であると理解した(←あくまで長谷川の受け止め)。

 講演の最後のところでサトウタツヤ氏は、
  • 言語を使うことが強化される文化
  • ノンバーバルなコミュニケーションが強化される文化
を対比し、前者はポストモダンへの憧憬があり、関係性への期待が大きい文化、後者はモダンが達成されたかどうか不明であり主体性の確立も怪しい文化であるという違いがあり、これらを分けて考える必要を指摘された。後者はもちろん日本の文化に関係している。

 サトウタツヤ氏ご自身も同じようなことを述べておられたはずだが、少なくとも日本社会や日本文化の変遷を考えるにあたって、モダン vs ポストモダンという切り口が妥当なのかどうかは甚だ怪しい、というのが私自身の考え。

【思ったこと】
_70326(月)[心理]心理療法におけるエビデンスとナラティヴ(3)McLeod氏の特別講演(1)サイコセラピーにおける4つの変化

 サトウタツヤ氏の導入講演に続いて、メインゲストのJohn McLeod氏(英国アバティ大学教授)による特別講演が1時間にわたり行われた。演題は

●How could Psychotherapy develop from the modern forms to post-modern

となっていた。

 McLeod氏はまず、シャーマンであれ、牧師であれ、サイコセラピストであれ、実際にやることには共通性がある点、但し、そのスタイルは社会文化に左右され、直近の200年の間には、4つの変化があることを指摘された。
  1. メスメリズム:Mesmer が唱えた動物磁気療法。フランスで大流行。患者を取られた医学界の検証により「指先から検出できたのは汗のみ」であることが判明し、メスメルはフランスを追われる。しかし、メスメリズム自体はその後も影響を与えた。
  2. フロイトによる精神分析創始。心理学概念を用いた。ヨーロッパでは受診者数は少ない。
  3. 1950〜1970年頃。ロジャースによるクライエント中心療法、Client Centered Therapy)。1960年代からの認知行動療法(CBT)。
  4. ナラティヴとポストモダン。心理学<社会学や哲学。post-sychological。


 以上の4点が大きな変化をもたらしたことは私も同感だが、うーむ、どうかなあ、種々の変化や影響の中でこの4点が最も重要かどうかについては大いに議論があると思う。

 例えば、パヴロフ、ワトソン、スキナーなどは外してしまってよいものかどうかという疑問がある(←行動療法の流れとしては組み入れられているようだが)。また、今回は時間の制約のためか十分な言及が無かったが、上記の4変化がなぜ起こったのかについてももう少し説明が欲しかった。例えば、和田秀樹氏の『痛快! 心理学』の第3章「さよなら、フロイト博士」では、アメリカでなぜフロイトが受けたのか、そして1960年以降になぜフロイト人気が凋落したのかについて考察されているが、ここでも同じような解釈でよいのかどうか、もう少し時間が欲しかったところである。

 さらに留意すべきことは、McLeod氏が論じられた「4つの変化」というのは、欧米起源のサイコセラピー内部における変化にすぎないということである。多くの先進的な科学技術はもとより、人文社会系の学問の多くが欧米から導入されてきたことは事実であるとしても、だからといって世界中のサイコセラピー(あるいはそれと同等の機能をもつと見なされる療法的処置)が同じように変化したというわけではあるまい。東洋、少なくとも日本においては、仏教や神道、あるいは種々の民間信仰が、サイコセラピーと同等の役割を果たしてきた可能性がある。また、森田療法のように日本で独自に創始されたセラピーがあることも考慮する必要があるだろう。

 そのことはさておき、McLeod氏が4つの変化の1番目にメスメリズムを持ってこられた点はなかなか興味深い。というのは、「動物磁気」などというものは、自然科学的には全く根拠が無く、今の世の中であれば文字通りの「催眠商法」として糾弾されたかもしれないのだが、にもかかわらず、その時代ではかなり流行し、それなりの「治療効果」を上げていたと思われるからである。つまり、サイコセラピーというのは、生理的変化をもたらすことが科学的に実証された方法であれ、お祓いやおまじないであれ、とにかくクライエントに「治る」と信じさせ、自信や安堵感を与えることが第一なのである。

【思ったこと】
_70328(水)[心理]心理療法におけるエビデンスとナラティヴ(4)McLeod氏の特別講演(2)ナラティヴとエビデンスの関係

 メインゲストJohn McLeod氏の特別講演の後半では、「4つの変化」(3月26日の日記参照)それぞれにおいて、治療者とクライエントがどのような関係にあったのか、何を問題とされていたのかが解説された。メスメリズムやフロイトの治療場面は1枚の画像(例えば、メスメルの治療を受ける人たちがローブで繋がれている写真とか、フロイトのカウチなど)で特徴づけられるが、ポストモダンのセラピーとなると視覚化が難しいというのはその通りであると思った。

 次に認知行動療法(CBT)とナラティヴとエビデンスの関係について。あくまで長谷川の聞き取りで理解した範囲でメモしておくと、
  1. evidence-based:成果が無いと払わないという考え方。役立つ治療を検討するにはよいこと。
  2. ナラティヴでは証拠を示すことが難しい。定性的な効果研究を粘り強く示す必要。
  3. 各種のセラピーの効果を検討した調査では、技法の違いによる優劣の差は示されていない(←出典は聞き逃した)。但し、セラピストの個人差は顕著であり、おおむねセラピストの10〜15%は顕著な治療効果をあげる一方、10〜15%は無能でありクライエントを逆に悪化させ、残りの70〜80%は同程度(←似たり寄ったりということか)。
  4. 完治した元クライエントに聞き取り調査を行ったところでは(←出典は聞き逃した)、クライエントはしばしば、セラピー開始時に約束された効果とは違った効果を口にしている(←あくまで長谷川が思いついた例であるが、セラピー開始時の達成目標は「慢性不安の解消」が目的だったはずなのに、完治時に報告された成果は「人を信じられるようになってよかった」に変化している場合など)。
 以上のところまでの感想であるが、サイコセラピーを含めてセラピー一般についての私の考えは、以前、スキナー以後の行動分析学(10) 高齢者福祉におけるセラピーの2つの役割 〜心理学はどう関われるのか〜(2001年)という小論で述べた通りである。

 脳の病気に起因する急性期の精神的混乱や、事件や災害による心的外傷などからの回復をめざすという、治療目的のセラピーにおいては、私はあくまで、evidence-basedな効果検証が求められると考えている。またその場合は、保険診療の一環として、医師の指示のもとで有資格者がその役割を担っていくべきである。

 しかし、こちらでも論じたように、例えば、高齢者の生きがいをサポートするためのセラピーの場合は、セラピーは治療目的のための手段ではなく、それ自体が目的になりうると私は考えている。後者のケースでは、短期的・単一・断片的な効果検証ばかりに囚われることなく、より長期的・全人的で多様な効果に注目していく必要がある。また、後者の「効果」の現れ方は個々人によって異なる。平均値の有意差などで検証できるものではない。ナラティブセラピーに効果があるとしても、後者の視点を重視すべきである。

 セラピーの問題に限ったことではないが、そもそも、真の健康保持というのは、病気を治すことではない。いったん病気になってしまった時の治療はevidence-basedであるべきだが、常日頃の健康保持を支えるセラピーは、もっと自由度が高く、何よりも「それに参加すること自体が楽しい」ものでなければならない。どういうセラピーを選ぶかということは、実施者の都合や信念に頼るのではなく、クリティカルシンキングの目をもった賢い利用者(=消費者)側の自由選択に委ねればそれでよいのではないか。もちろん、誇大な宣伝、捏造(←成功談のでっち上げなど)、違法な商法には目を光らせる必要があるが、根絶させるというわけにもいくまい。神様仏様にすがることや占い師に人生相談を持ちかけることは社会的に広く受け入れられているが、所詮evidence-basedな宗教法人などはあり得ない。サイコセラピーだけがevidence-basedでなければならぬと別扱いにする必要もなかろう。

【思ったこと】
_70329(木)[心理]心理療法におけるエビデンスとナラティヴ(5)下山晴彦氏の話題提供(1)昔の人々は現代よりも多くの苦しみや悲しみを背負っていたか?

 John McLeod氏(英国アバティ大学教授)の特別講演に続いて、4人の話題提供者によるシンポジウムがあった。
  • 下山晴彦氏:日本の心理療法の発展における物語り(ナラティヴ)の意義
  • 能智正博氏:ナラティブの視点と“リハビリテーション・カウンセリング”
  • 武藤 崇氏:認知行動療法とナラティブ:"close outsider"という倫理
  • 松見淳子氏:EBP(Evidence-Based Practice) の今日的意味と展望
 まず下山氏は、
  1. 心理療法やカウンセリングという職業が先進国で発展してきたのはなぜか?
  2. 昔の人々は、今の人々より苦しみや悲しみが多かったはずだが、どうやって乗り越えてきたのか?
  3. 西洋の心理援助領域ではEBAやCBTが重視されており、日本人は西洋の流行を取り入れるのに熱心なはずなのに、日本の心理援助領域でこれらに関心を示す人が少ないのはなぜか?
といったような3つのリサーチクエスチョン(←いずれも長谷川による要約のため、真意をとらえていない恐れあり)に基づいて話題提供された。




 このうち昔の人々(Modern以前)がどうやって苦しみや悲しみを乗り越えたかについては、「集団の中で物語を共有」ということを挙げておられた。

 もっとも、昔の人々のほうが今より、苦しみや悲しみが本当に多かったかどうかについては、比較する術もないし、原理的に不可能という気がしないでもない。苦しみや悲しみには、生得的なタイプ(例えば、飢えや病気の苦しみ、離別の悲しみなど)もあれば、ある文化の中で社会的に構成されたタイプもある。食料生産技術や医療技術が未発達の前者のほうが、生得的なタイプの苦しみや悲しみが多かったことは確かだと思うが、それらは「乗り越える」というより「それが当たり前」としてすんなり受け入れられている限りは、心理援助などというものは必ずしも求められない。いっぽう、社会的に構成された苦しみや悲しみは、すんなりと受容できるものとは限らない。だからこそ種々のセラピーが必要とされ、発展してきたのではないかと私は思う。

 そう言えば、先日の第一回構造構成主義シンポジウムの中でも、子どもを失った親の気持ちということについての言及があった。衛生環境が整い医療技術が発達した今の時代では、子どもは必ず大人になるのが当たり前と考えられている。それゆえ、事故や災害などで子どもを失った親の悲しみはきわめて大きく、何年何十年経ってもそのショックから立ち直れない場合がある。もちろん、子どもを失った時の悲しみは、どの時代でも変わることはない。しかし、かつては、子どもが大人になるというのは決して「当たり前」ではなく、殆ど奇跡に近いという時代がずっと続いていた。そういう意味では、今の世の中のほうが、子どもを失った時の悲しみを増幅する社会的要因が大であるように思う。

 なお、第一回構造構成主義シンポジウムでは、「子どもは大人になる」のが当たり前でなかった時代の人々は、子どもたちを「大人になる前の人」としてではなく、「子どもらしさ」という独自の価値をもった存在として見ていたというような話もあった。その通りだと思う。




 ここで少々脱線するが、昔の人々のほうが今より喜びが少なかったかどうかも断定できないと思う。チベットを旅行した時にも思ったことであるが、過酷な生活環境のもとでは、やっとこさ生き延びるということ自体が根源的な喜びとなる。気象異変にも耐えて作物が収穫できたり、家畜がちゃんと育つということはこのうえもない喜びである。ところがモノ余りの現代社会では、そういうことは当然化されてしまって、喜びの対象にはならない。今の時期、子どもが超難関大学に合格して喜ぶ親は居るが、18歳になるまで健やかに育ってきたという根源的な喜びは、健康体が当たり前だと思っている限りは、なかなか表に出てこないものである。

 ということで、元の話に戻るが、「昔の人々のほうが今より苦しみや悲しみが多かった」というのは、現代人の勝手な推量にすぎない。心理療法やカウンセリングという職業が先進国で発展してきたのは、社会的に構成される苦しみや悩みが増え、それらは食料生産技術向上や医療技術発展では解決できないから、というのが私の考えである。ま、結論的には、下山氏のお考えとそれほど違いはないように思う。

【思ったこと】
_70330(金)[心理]心理療法におけるエビデンスとナラティヴ(4)下山晴彦氏の話題提供(2)日本のサイコセラピーの特異性

 3月21日に立命館大学衣笠キャンパスで開催された特別公開シンポジウム:

心理療法におけるエビデンスとナラティヴ:招待講演とシンポジウム

の感想の6回目。

 話題提供の後半で下山氏は、

●西洋の心理援助領域ではEBAやCBTが重視されており、日本人は西洋の流行を取り入れるのに熱心なはずなのに、日本の心理援助領域でこれらに関心を示す人が少ないのはなぜか?

という3番目のリサーチクエスチョン(←いずれも長谷川による要約のため、真意をとらえていない恐れあり)について、いくつかのお考えを述べられた。

 精神分析は宗教とメディカルサイエンスの中間的な位置にある一方、認知行動療法(CBT)はModernの枠組みの中でメディカルサイエンスや個性を尊重・推進するものとして位置づけられる。にも関わらず日本では、ユングを含めて、modern以前のサイコセラピーが強い影響力を持っている。少なくとも商工業では近代化しているはずの日本がそのようになっているのは何故だろうか?というのが3番目のリサーチクエスチョンであった。

 これに関しては、日本社会は表面的には近代化しているが、精神的宗教的な面では以前としてプレモダンであり、例えば京都では物語が共有されているというようなお話であったと理解した。




 今回のシンポは京都で行われたため、複数の話者が、京都市内の街並みをモダンとプレモダンの混在の例として取り上げておられるようだったが、うーむどうかなあ、15年間京都に住んだ経験をもつ私の目には、今の街並みはモダンとプレモダンの混在ではなく、あくまでモダンによる侵略と景観破壊であるように写る。

 下山氏はさらに、「Contextualism」という視点を強調された。これは、集団主義や個人主義とは別。日本人はコンテクストに沿って物事を判断したり、自分の属する集団のコンテクストの中では、個人が表に出ないように抑制するというもの。そしてコンテクストはナラティヴだけでなく集団成因間のインタラクションによっても構成される。サイコセラピーはストーリーとしてのナラティブの中味を分析、いっぽう認知行動療法や家族療法はナラティヴ自体の機能を分析するものであるというのが結論であると理解した。




 元の話題に戻るが、日本でなぜEBAやCBTが主流にならないのかについては、複合的な要因があると思う。そもそも、サイコセラピー流派が流行るかどうかは、学術論争だけで決着するものではない。ビデオはVHSかβか、パソコンはWindowsかマックか、...というように消費者の選択のもとでどちらかが優性になっていくケースは多い。ユング心理学などは、啓蒙普及活動に成功した例といってよいかと思う。

 このほか、日本人に「無意識」や「潜在意識」といった「神秘」性を好む傾向があることは確かであるとも思う。これはたぶん、「アーラヤ識」や「マナ識」といった伝統的な意識観と共通するところがあるために違いない。

 また、日本の大学では一昔前までは、後任採用にあたって主任教授の意向が強く働くという悪弊がまかり通っており、公募を行わず、電報1本で赴任を要請されたなどという話もしばしば耳にした。そういう中では、1つの流派が主流となると、それを覆すような新たな流派はなかなか入り込めず、結果的に保守的にならざるをえないという傾向もあるように思われる。もっともこれは一昔前までのこと。現在では公募が常識であり、透明性の高い公正な採用選考が行われるようになっているはずだ。

【思ったこと】
_70331(土)[心理]心理療法におけるエビデンスとナラティヴ(7)能智氏、武藤氏、松見氏の話題提供(1)

 シンポジウムでは下山氏に続いて
  • 能智正博氏:ナラティヴの視点と“リハビリテーション・カウンセリング”
  • 武藤 崇氏:認知行動療法とナラティブ:"close outsider"という倫理
  • 松見淳子氏:EBP(Evidence-Based Practice) の今日的意味と展望
という話題提供があった。

 能智氏はまずナラティヴの概念の特徴を述べられたあと、WHO(1980)における障害論と、社会モデルの障害論を比較し、ナラティヴとしての障害モデルの位置づけを明確にされた。いっぽう、Evidence-based approachが基本的には消費社会の価値観を反映したものであり、医学モデルとの親和性をもつことを指摘された。

 次の武藤氏の話題提供は、武藤氏ならではのユニークな視点が満載されていた。武藤氏によれば、モダンとポストモダンをうまくミックスすると村上春樹氏になり、今回、武藤氏からMcLoad氏に村上作品の英訳版をプレゼントしたというお話も出た。

 ナラティヴについては次の4点において共感できる面があるということであった。
  1. Externalizing
  2. Reflexivity
  3. Re-authoring
  4. Accountability
 私も、特に1.に関しては、行動分析の視点との共通性を強く感じている。極言すれば、すべての悩みや不安は、オペラント条件づけにおける行動随伴性とレスポンデント条件づけに外在化できると言うこともできそう。2.以下についても、かなりの部分は行動分析と連携できると思っているが、このことは別の機会に述べることにしたい。

【思ったこと】
_70401(日)[心理]心理療法におけるエビデンスとナラティヴ(8)能智氏、武藤氏、松見氏の話題提供(2)

 3月21日に立命館大学衣笠キャンパスで開催された特別公開シンポジウム:

心理療法におけるエビデンスとナラティヴ:招待講演とシンポジウム

の感想の8回目。

 武藤氏は話題提供の中で、西洋と日本の文化それぞれにおいて、プレモダン、モダン、ポストモダンがどのように浸透し相互に影響し合ったのかということを動画で表示された。これは武藤氏ならではのユニークな視点であり、注目に値する。

 これまでにも書いてきたことだが、私個人は、プレモダン、モダン、ポストモダンという分け方は日本の文化には当てはまらず、生産的な議論を生み出さないと考えている。そもそもポストモダンと言ったところで、一部のインテリがそのように標榜しているだけであって、世の中の基本は相変わらずモダンで動いていると思う。但し、心理学の世界に限っては、ポストモダンに同調する動きが徐々に台頭していることは確かであろう。

 日本の心理学というのは、日本プロ野球と米国大リーグみたいなところがあり、米国心理学会(APA)の学術誌に論文を載せることや、米国で学位をとったり、有名教授のもとに1年間程度留学することが日本人・心理学研究者としての優秀さの証しであるとみなされる傾向がある。また、通常、留学経験者は帰国後、師匠の著作を翻訳したり米国から師匠を呼び寄せて講演会を開くなどして「恩返し」をする。帰国後に師匠と真っ向から対立するような新理論を発表し師匠から破門されたなどという話は、あまり聞かない。

 日本の心理学がそういう師弟関係で培われている限りにおいては、モダン、ポストモダンの考え方も、それぞれの大学の人事構成、留学者の影響力に応じて、変則的に浸透せざるを得ないという宿命を持っているように思う。




 武藤氏はこのほか、認知行動療法の「Re-authoring」に関連していくつかのユニークな視点を披露された。備忘録代わりにメモしておくと、
  • Pepper(1942)のThe Root Metaphor method.→ネットで検索したところ、どうやらこちらで情報を入手できるようだ(出典はこちら)。
  • 行動療法の第三の波(Functional Analystic Psyhchotherapy、Dialectical Behavior Therapy,Acceptance and Commitment Therapy.
 スキナーは初期にはメカニズムの立場を取っていたが後にコンテクスチャリズムに変わっていったというようなことも言っておられたが、いつ頃の著作にそれが反映していると考えておられるのかは分からなかった。

 話題提供のテーマでもあり、結論でもある

●The Ethics of Close Outsider.

については十分に理解できないままに終わってしまった。

 話題提供の終わりのほうで、武藤氏は、エビデンスは権威づけに使うものではなく、目的達成のため、サービス提供者(プロバイダー)の倫理として使うべきものであると強調された。このことがタイトルの意味に含まれているのだと理解したが、Outsiderとは何であったか、聞き逃してしまった。

【思ったこと】
_70402(月)[心理]心理療法におけるエビデンスとナラティヴ(9)能智氏、武藤氏、松見氏の話題提供(3)結局、セラピーの効果とは何なのか?

 シンポ4番目は、松見淳子氏による

●EBP(Evidence-Based Practice) の今日的意味と展望

というタイトルの話題提供であった。

 松見氏は、エビデンスとは何かについて、主として欧米で行われてきた議論を分かりやすく紹介された。

 松見氏によれば、認知行動療法の世界で「Evidence-Based」が口にされるようになったのは、どうやら、2004年開催のWorld Congress Behavioral and Cognitive Therapies 2004(神戸市)の頃からであったようだ。また、Evidence-Basedについて最も詳しく書かれた本としては、Roth & Fonagy (2006) の“Effectiveness of Psychotherapy”が挙げられるという。

 また、メタ分析によれば、どのような療法を受けたかという内容にかかわらず、心理療法を受けた人は、placebo(プラシーボ、プラセボ)、あるいは何も受けなかった人たちに比べて統計的に有意に恩恵を受けていることが分かったという。但し、placebo群がどういう「偽処置」を受けていたのか、単に、同時間、同程度の対人接触があったということなのか、占い師や民間療法家の相談を受けた場合はplaceboに含めているのかは、聞き逃してしまった。McLeod氏が「療法の中味ではなく、人のほうが重要」と言っておられたことと考え合わせると、どうやら、来談者の相談を真摯に受け止め、親身になって問題解決に取り組んでくれる療法家であれば、流儀にかかわらず一定以上の効果をあげているようにも思える。であるなら、療法家個人から切り離した、技法上の有効性だけを比較してもあまり意味がないことになる。ゼッタイに守るべき原則をいくつか決めておいて、あとはクライエント側の自由選択に委ねてもかまわないようにも思えてくる。




 3月28日の日記でもMcLeod氏のご発言として言及したが、セラピー終了後に完治したクライエントに行った聞き取り調査によれば、クライエントはしばしば、セラピー開始時に約束された効果とは違った効果を口にすることがあるらしい。セラピー開始時の達成目標は「慢性不安の解消」が目的だったはずなのに、完治時に報告された成果は「人を信じられるようになってよかった」に変化している場合などである(←あくまで、長谷川が思いついた仮想事例)。

 人間行動において、何かを行うこととその結果によって何かが変わるという関係は、まさに行動随伴性そのものであり、一回限りの「因果」関係に収束するものではない。新たな働きかけや新たな結果の螺旋状の変化をもたらすものなのである。その断片だけに注目して「○○は効果があるか」と検討したところで、全体的な効果の検証を行ったことにはならない。こちらの小論でも強調したように、もっと全人的、長期的な視点でセラピーの効用をとらえていく必要があるように思う。Evidence-Basedが問題となってくるのは、あくまで急性期における治療方略の選択、あるいは、公的な補助の妥当性を検証するような場合に限られてくるのではないだろうか。

 ということで、今回の講演・シンポの参加感想はひとまず終了とさせていただく。なお、同種のシンポ企画は今後も予定されているらしい。できる限り参加したいと思っている。