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第13回人間行動分析研究会


2008年3月15日(土)
大阪市立大学

目次
  • (1)今回の演題
  • (2)子どものセルフコントロールと衝動性(1)
  • (3)子どものセルフコントロールと衝動性(2)
  • (4)信頼と裏切りの実験的研究(1)
  • (5)信頼と裏切りの実験的研究(2)
  • (6)消去主義的唯物論
  • (7)行動分析学と社会構成主義(1)
  • (8)行動分析学と社会構成主義(2)
  • (9)行動分析学と社会構成主義(3)


【思ったこと】
_80315(土)[心理]第13回人間行動分析研究会(1)今回の演題

 大阪市立大学で開催された表記の研究会に、昨年度に引き続き参加した。

 今回の演題は以下の通り。
  1. 13:40 - 14:30 遅延による報酬の価値割引からみた子どものセルフコントロールと衝動性
  2. 14:30 - 15:20 信頼と裏切りの実験的研究
  3. 15:20 - 15:30 休憩
  4. 15:30 - 16:20 行動主義から消去主義的唯物論へ
  5. 16:20 - 17:10 行動分析学と社会構成主義:不確実性の時代における「予想とコントロール」
この研究会は、若手の研究者が、卒論、修論、博論研究やその発展研究を紹介するという趣旨であったと思うが、今回は前半2題が実験研究であったのに対して、3番目は哲学専攻の方の修論研究、4番目も総説的な内容であり、学部学生参加者にとっては少々分かりにくい内容になっていたのではないかと思う。

【思ったこと】
_80316(日)[心理]第13回人間行動分析研究会(2)子どものセルフコントロールと衝動性

 昨日の続き。今回の話題提供の1番目は、

●遅延による報酬の価値割引からみた子どものセルフコントロールと衝動性

という実験研究であった。

 このテーマは一口で言えば「待たずに少量を受け取るか、受け取るのを辛抱して、のちにたくさん受け取るか」、もっと大げさに言えば「目先の利益優先か、長期的な視点にたって大きな利益を得ようとするか」というよう選好に関わる問題である。

 行動的立場からはこれは、セルフコントロールの問題、つまり遅延多量強化子と即時少量強化子の選択場面において、どの程度、遅延多量強化子のほうを選好するかという問題として扱われる。いわゆる「衝動性」という概念は、行動的には、即時少量強化子のほうを選好することを言う。

 今回の実験研究は、4歳児と6歳児を対象に、アニメキャラの画像を強化子として、それを見られるまでの遅延時間と枚数のバランスから主観的等価点を求め、年齢群間で「衝動性」に差があるかどうかを検討するというような内容であった。いくつかの遅延条件のもとで主観的等価点を求めることで個体差を検討するという発表は、これまでの行動分析学会の発表でも何度か拝聴したことがあるが、今回は保育園児を対象とし、かつ、強化子としてアニメキャラを用いたというところにユニークな点が見られた。

 私自身の疑問は、アニメキャラの画像が、4歳児と6歳児において、同じ強さや質の強化子であるかどうかということであったが、そのことについては、どちらの年齢でも同じように好まれているというような回答をいただいた。ま、このあたりは、強化子として飴玉を使っても、お金を使っても同じように関係のありそうな問題点である。例えば、被験者がお金持ちの場合と貧乏学生の場合では、同じ1000円の報酬でも強化力(正確には、1000円に対する確立操作)が異なる。お金を受け取るのをどれだけ待てるかというレベルも変わってくるという次第だ。

 もう1つ、これは今回の実験研究とは直接関係ないかもしれないが、何かの画像を見るだけ(自分で所有するわけでもないし、何かと交換できるわけでもない)というのはなぜ強化子になるのだろうか。もしいっぱい見られること自体が強化的であるとするなら、画像処理・作成ソフトなどを使って、好きなキャラの画像をたくさんコピーして表示するというような行動であっても強化されるはずなんだが、そんなことをする子どもはまず居るまいなあ。好きなタレントのポスターを部屋いっぱいに貼りめぐらす人はいるかもしれないが、いくら愛妻家でも、自分の奥さんの写真を天井、壁、床いちめんに貼ろうとはしないだろう。

【思ったこと】
_80317(月)[心理]第13回人間行動分析研究会(3)子どものセルフコントロールと衝動性(2)


●遅延による報酬の価値割引からみた子どものセルフコントロールと衝動性

という実験研究は、実験デザインとしてはしっかりしており、卒論研究や修論研究の水準は十分に満たしていると思った。但し昨日も述べたように、年齢間の比較というのはなかなか難しい。発達心理学研究ではしばしば指摘されることだが、年齢間で比較すれば必ずなにがしかの差が出るが、年齢間の群間比較は無作為の割り付けができないので、それがどういう原因に依拠するものかを特定することはできない。何でも「発達の差」と言ってしまえばそれまでなのだが、なぜそのように変化していったのかというプロセスの特定が求められる。

 4歳児と6歳児を比較した場合、素朴には4歳児のほうが「衝動的な」傾向が強いと思われているのでそれを実験的に確認しても意外性が少ない。逆に6歳児のほうが「衝動的な」傾向が強いという結果になれば意外性が高まるが、そのような実験では「4歳児では“強化子”に関心を持っていなかったのでは?」という疑問も出てくるだろう。

 行動分析学的なアプローチとしては、「衝動的な選択」というのは単なる成熟過程なのか、でないとするならばどういう経験を積むことが「じっくり待って多量の結果を得る」選択を促進するのか、そのプロセスを明らかにすることにあるのではないかと思う。

【思ったこと】
_80318(火)[心理]第13回人間行動分析研究会(4)信頼と裏切りの実験的研究(1)

 話題提供2番目のタイトルは

●信頼と裏切りの実験的研究

であった。話題提供1番目のタイトルに「衝動性」という言葉が含まれていた時にも感じたことであるが、今回の前半2つの発表では、日常用語でもある「衝動性」、「信頼」、「裏切り」といった言葉を行動分析学的に定式化し、実験的な構築をめざそうという気概が感じられた。その方向性自体はたいへん望ましいことではあると思うが、反面、日常社会における複雑な諸行動現象に拡張しようとしても、実験的分析ではどうしても行きすぎた単純化、あるいは恣意的な条件設定が行われてしまう恐れが出てくる。今回の2つの発表の中でもそうしたジレンマが見え隠れしているように思えた。

 さて、2番目の発表によれば、これまで「信頼」と「裏切り」を行動として扱い、実験的な構築を試みた実験的検討は見当たらなかったという。また「信頼」については、山岸(1999)による「相手の協力的な行動に対する期待」という定義が知られているが、これだけでは行動的とは言えない。今回は、それらを
  • 信頼:二者以上の個体間における協力行動の連続的生起
  • 裏切り:信頼の成立した個体間における、一方の個体による協調行動に対する他方による非協力的行動による応酬
と位置づけて分析を行ったという。

 このような定義を前提として分析を進め、そこから結論を出していくこと自体はよいと思うが、問題は、日常行動における「信頼」と「裏切り」を上記の定義だけでどこまで扱えるかどうかという点にある。

 ひとくちに「信頼」とか「裏切り」と言っても、状況や文脈に限定し、かつ「入れ子」構造になっている場合もある。例えば、あるプロジェクトを立ち上げ契約を交わした場合、その契約の範囲では相手を信頼するが、だからといって私生活面では全く信頼できないというケースもありうる。

 また例えば、仲間と麻雀をする場合など、ゲーム自体は相手の裏をかくことで勝利できるという意味で、「いかにうまく裏切るか」が勝利のコツであるとも言える。しかし、一緒にゲームを楽しむという交流関係は「信頼」の表れであるし、その麻雀仲間であっても、お金の貸し借りは一切しないという場合もありうる。

 このように、信頼とか裏切りの中には、状況や文脈に限定的なものもあるし、入れ子構造になっている場合も多いのではないだろうか。

 このほか「パイロットの操縦を信頼する」というように、当該人物の行動の確実性、精密性、即断性などを評価する(ネガティブな結果が生じる確率を低く見積もる)という意味に使われる場合もある。

 ま、それはそれとして、とにかく、そうした広範囲な行動現象に対して、何らかのとっかかりを作ったという点では、今回の発表は大いに評価できる。

【思ったこと】
_80322(土)[心理]第13回人間行動分析研究会(5)信頼と裏切りの実験的研究(2)

 この実験では、2名1組の被験者たちが衝立で仕切られたブースに座り、「囚人のジレンマゲーム」を模した得点マトリックスに基づいて、パソコンキーによる選択行動を繰り返し、より多くの得点(100点あたり1円の報酬に換算)を獲得するというゲーム風の内容になっていた。被験者2名は、液晶ディスプレイにより、得点獲得状況をリアルタイムに知ることができる。但し、相手方に関する表示部分のところは紙に覆われていて見ることができない。ペアになった被験者は、同性の場合も男女の場合もあり、また、友人どうしの場合も、見知らぬ人どうしの場合もあった。

 ちなみに、ウィキペディアの当該項目に解説されているように、「囚人のジレンマ」は、もともと、「囚人は共犯者と協調して黙秘すべきか、それとも共犯者を裏切って自白すべきか」というジレンマから名付けられたものである。ともに黙秘すると2年の懲役となるが、自分だけ裏切って自白すれば自分は1年で済むが相手は15年。相手だけが裏切った場合は、相手は1年で済むが自分のほうが15年になる。また2人とも自白すると今度は10年になるというような具合である。

 今回の実験研究ではこれが利得表に置き換えられており、2人がともに「協力」キーを押した場合、一方のみが「離反」キーを押し他方が「協力」キーを押した場合、2人とも「離反」キーを押した場合に獲得できる得点が操作される。そして、当初は、「協力」キーを押すと高い得点が得られるような形で「信頼」が構築され、のちに、「離反」の得点が増やされるなかで「信頼」を瓦解、さらに、再度「信頼」構築の条件に入った時にどういう影響が生じるのかを検討する、というような内容であった。

 実験操作自体は精密であり、結果や考察についても納得できるものであったが、前回も述べたように、このような実験的分析が、日常行動における「信頼」と「裏切り」現象にどこまで一般化できるのかどうかは何とも言えない。

 前回の補足になるが、ここで検討対象としている「信頼」とか「裏切り」というのは、「協力行動」や「非協力行動」、あるいは最近しばしば話題になっている、「協同」、「共生」、「共存」、「競争」といった行動現象とは同一ではない。ある程度の長期的なスパンのもとでの、相手の「特性(trait)」に対する評価のような内容が含まれているように思える。一個人についての似たような概念で言えば、「一貫性」、「優柔不断」、「頑固一徹」などと似たような評価概念であり、これが2者間の相互作用を含んだ時に出てくるのが「信頼」や「裏切り」に相当する、と考えてよいのではないかと思われる。もっとも、前回も述べたように、ひとくちに「信頼」とか「裏切り」と言っても、状況や文脈に限定し、かつ「入れ子」構造になっている場合もある。また、おそらく、「仲間意識」や、集団への帰属意識のようなものも関わってくるはずだ。これらは、ある程度長期的なスパンのもとで、当人の生活全般に関わって形成されていくものであり、短期間の実験操作だけで検討できるかどうはは心もとない。短期間に変化するのは印象形成・変化、あるいは、状況・文脈に限定した「ゲームの中での約束事」程度のレベルにとどまるのではないだろうか。

【思ったこと】
_80323(日)[心理]第13回人間行動分析研究会(6)消去主義的唯物論

 今回は3番目の発表:

●行動主義から消去主義的唯物論へ

について感想を述べたいと思う(予告されたタイトルでは「消去的唯物論」になっていた)。

 この3番目の発表は、この研究会としては異例の、哲学専攻の方によるものであった。「消去主義的唯物論」というのは、ここでは、消去主義的唯物論の歴史的背景、Churchlands(チャーチランド)の主張、認知科学との関係、徹底的行動主義との関係などが論じられた。

 Googleで「消去主義的唯物論」を検索してみたところ、なっなんと、26500件がヒット。 このうちウィキペディアの当該項目では、以下のように解説されていた。
消去主義的唯物論

還元の試みはこれまですべて失敗してきたと考え、しかも、非還元的唯物論は不整合だと思う唯物論者は、最終的でもっとラディカルな立場を採用することもできる。それが消去主義的唯物論である。消去主義的唯物論は心的状態は日常の「素朴心理学」(フォークサイコロジー)がもちこんだ虚構的なものであると考える。消去主義者は「素朴心理学」を科学理論に類似したものと捉えるが、科学の発展の過程でその素朴心理学が間違いだと判明したなら、素朴心理学が想定していた実体もすべて放棄せねばならない。

パトリシア・チャーチランドやポール・チャーチランドのような消去主義者はしばしば、歴史上の間違っていたが、広く信じられていた理論や存在論の運命を持ち出す。たとえば、ある問題の原因が魔術だという信念は間違いだとわかると、その結果ほとんどの人はもはや魔女の存在を信じない。魔術は他の現象でもって説明されるようになったのではなく、ただ言説の中から「消去」されたのである。
 このほか2008年3月24日朝の時点では、こちらこちらの解説が目に留まった。

 もっとも、ネット上での諸議論では、「ワトソンやスキナーのように」という表現に代表されるように、ワトソンとスキナーの違いが理解されておらず、スキナーの原典を1ページも読まずに主張を展開しているケースも少なくないように見受けられた(←ネット上のコンテンツがあまりにも多いので、全チェックは不可能。あくまで印象のみ)。

 質疑の時間にも申し上げたことであるが、最低限、以下の2冊の訳本くらいは目を通していただきたいものだと思う。
  • Skinner, B. F. (1953).Science and human behavior.New York. Macmillan.[スキナー (著)、河合伊六・長谷川芳典・高山厳・藤田継道・園田順一・平川忠敏・杉若弘子 ・藤本光孝・望月昭・大河内浩人・関口由香(訳) (2003). 科学と人間行動. 二瓶 社.]
  • O'Donohue, W. & Ferguson, K. E. (2001).The psychology of B.F.Skinner. Sage Publications, Inc. [オドノヒュー・ファーガソン(著)、佐久間徹(監訳)スキナーの心理学. 応 用行動分析学(ABA)の誕生. 二瓶社. 2005]
 余談だが、スキナーが生まれたのは1904年3月20日。同じ時代の心理学者の中で、今なお影響力を持ち続けているのは、机上の論争はどうあれ、とにかく現実の行動の分析、予測、改善において着実に成果をあげていることによるものであると思う。チャーチランドであれ、デネットであれ、学問の世界でさまざまな議論が展開されていくことにはそれなりの意義があるとは思うが、現実に行動を変えたり、生きがいや平安をもたらしそれを維持していくためにはどういう環境が求められるのかという視点を持ち続けることも、併せて大切であろうとは思う。

【思ったこと】
_80324(月)[心理]第13回人間行動分析研究会(7)行動分析学と社会構成主義(1)

 今回は4つ目の発表:

●行動分析学と社会構成主義:随伴性と遇有性をめぐって

について感想を述べたいと思う。なお、この発表の副題は予告では「不確実性の時代における「予想とコントロール」となっていたが、最終的には表記のように修正された。ちなみに当初の副題の「不確実性の時代」というのは、大澤真幸氏が説く「不可能性の時代」をもじったものではないか、というウワサがあった。

 さて、この4番目の発表は、発表者御本人も認める通り、まとまりに欠けていて、何が結論であるのかよく分からないとことがあった。短い発表時間の中に、盛りだくさんな内容を詰め込みすぎたためであろう。もっとも、発表の中にはいくつか、参考になりそうな貴重な情報が盛り込まれていた。

 まず、第一点は、行動分析学の基本概念である「随伴性」と社会学でいう「偶有性」の比較であった。ちなみに、発表者は、「有性」と表記しておられたが、Googleで検索する限りでは「有性」ではなく「有性」という漢字のほうが53000件も使われており、特に、茂木健一郎の関連サイトが目につく。いっぽう、「遇有性」のほうは、わずか663件しかヒットせず、しかも「もしかして: 遇有性」という表示が出ている。このほか、「社会学 偶有性」で検索すると6280件がヒットしているのに対して、「社会学 遇有性」は918件しかヒットしない。

 ということで、ここでは、大勢に従って、「有性」という表記を用いることとしたい。

 さて、発表者が指摘したように、行動分析学の基本概念である「随伴性」も、社会学や茂木氏が用いる「偶有性」も、同じ「contingency」という言葉に由来している。このうち「偶有性」は
  • 他の状態でもありえるのに、たまたまその状態でもある、という属性。
  • 「AではなくBでもありえた/BでもありえたのにAである」こと、つまり「可能だが必然でもない/必然ではないが不可能でもない」
  • 【発表者のレジュメから転載】
    • 社会学においては、contingencyとは、「遇有性」もしくは「不確実性」と訳されます。遇有性とは、「他でもありえた」ということです。従って、この言葉の反対語は2つある。ひとつは「必然性」=「そうであるほかない」。もうひとつは「不可能性」=「ありえない」。「必然性」と「不可能性」の両者の否定として、「遇有性」があります。そうすると「遇有性」というのは、「不確実性」ということと表裏の関係にあることがわかります。同じことを否定辞を用いて言えば「不確実性」となりますし、肯定的に言えば「遇有性」となる。
    • (ポジティブな意味での)<普遍性>は、すべての個人を貫く、内的な他者性、内的な敵対性によってこそ可能です。このことが意味するのは、<普遍性>は、すべての個人が己の根本的な遇有性を勇敢に引きうることから可能になる。それぞれの当事者が自分の奉ずる正義や価値観に固執するのは、それぞれにとっては、自身とは異なる「他なる立場」が最初から排除されており、自身の立場が必然―こうあるほかないもの―として現れているからです。(大澤, 2005; 87)
    • この「遇有性」と言う言葉は、社会学において重要であると見なされています。それは、遇有性という様相は、究極的には「私が他者でありうる」という感覚・体験をベースにしているからです。
というように定義されている。いっぽう、杉山ほか(1998)【杉山・島宗・佐藤・マロット・マロット(1998). 行動分析学入門. 産業図書.】によれば、行動分析学でいう「随伴性」は、
ある条件の下で、ある行動をすると、ある環境の変化が起こるという、行動と環境との関係
というように定義される。発表者はこれを、「ある結果が生じるまでのプロセスに対する言葉」と見なしていた。




 「随伴性」と「偶有性」を比較するというのはきわめて興味深い着想であるが、このことについてはまた別の機会に詳しく考察したいと思っている。ちなみに、私自身が理解する随伴性というのは以下のようなものである。

 まず、上記の杉山ほか(1998)の定義にもある通り、随伴性というのは、オペラント行動と、その直後に生じる環境変化との関係を記述したものである。そのさい重要なことは、行動とその直後の環境変化の間の因果関係は必ずしも前提とされていないという点だ。発表者のレジュメでは、必然性と不可能性の中間の不確実性の部分を肯定的にとらえたものが「偶有性」ということになるが、行動分析学でいう随伴性は、とにかく、行動の直後にある種の変化が生じるということが重要なのであって、それが必然的に起こっているのか全くの偶然によるものかは、第一義的な問題ではない。

 オペラント行動がどう強化されるか、あるいは弱化されるかということは、行動と結果(←ここでいう「結果」には、偶然に起こってしまった変化を含む)とのあいだの確率、遅延、結果の大きさによって決まる。結果が必然であったのか偶然であったのか、あるいは、結果が自然の法則により生じたものなのか第三者が意図的に付加したものであるのかということは、さしあたっては問題ではない。とにかく結果が伴えば行動は変わってしまうのである。なお、「不可能性」の場合は、必然、偶然いずれによる結果も伴わないのでその行動は消去される。

 「随伴性」の定義はそのようなものでよかろうと思っているが、同じように行動が強化されている場合でも、第三者から結果を意図的に付加されている状況が続くと、人はしばしば「他者からコントロールされている」と感じることになる。もちろん、あるコミュニティの中で生き続ける以上は、他者からの付加的な強化無しで生きるということはできないが、その程度の大小が、自由意志、主体性、相互依存といった感じ方に影響を及ぼしていくのは事実であろう。

 また、どんな自由人であっても、自然の随伴性から逃れることはできない。そういう意味では、人間にとって完全な自由などはありえない。人は、自然によって生かされており、また、ある程度は自然を手なずけて生きているにすぎない。

 いっぽう、「偶有性」については、勉強不足でよく分からないところもあるが、事故や災害といった大きな出来事が降りかかってきた時にそれをどう、ポジティブに取り込むかという点では意義深いものがあるようにもみえる。もっとも、「偶有性」を肯定的に取り込むプロセス自体も1つのオペラント行動であり、これまた「随伴性」によって強化されなければなかなか実を結ばないようにも思える。

【思ったこと】
_80325(火)[心理]第13回人間行動分析研究会(8)行動分析学と社会構成主義(2)偶然性と偶有性、随伴性

 さて、随伴性や偶有性(遇有性)の問題を考えるにあたってはまず、「偶然性」や「確率現象」をどう捉えるのかについて整理しておく必要があるかと思う。

 ウィキペディアの当該項目(2008.3.27)では「偶然」は、
偶然(ぐうぜん)とは、必然性の欠如を意味し、事前には予期しえないあるいは起こらないこともありえた出来事のことである。副詞的用法では「たまたま」と同義。ある程度確実である見込みは蓋然と呼ぶ。対語は必然。
と定義されている。また『新明解』(第六版)では
そうなるべき必然的な理由が考えられないのに、思いがけなく起こること(様子)
とされている。

 いずれの場合も、まず「必然」が前提となり、それが欠如している場合が「偶然」とされている。しかし、考えてみれば、「必然」などというのは、科学の発展とともにいくらでも変わるものであり、かつて「偶然」であったことが、のちの時代に「必然」となる場合も少なくない。例えば、今の時代であれば、3日後の天気はかなりの精度で予測できる。例えば3日後に台風が上陸して大雨が降るという予報が当たった時、そこに住む人々は偶然に大雨が降ったとは考えない。しかし、大昔の人なら、これは偶然的な出来事であると考えるだろう。現在はまだまだ偶然と考えられている大地震の発生や火山の噴火なども、将来、科学が進歩すれば、確実に予想できるようになるかもしれない。

 「偶然」についての私の考えは、2003年2月2日の日記などでも述べたことがある。決定論やら何やらの議論はあるが、「偶然」というのはあくまで便宜的な概念であって、状況や文脈やニーズによって使われ方がかなり変わってくるというのが私の考えである。

 現象そのものは、膨大な数の要因の組み合わせとして必然的に変動する場合であっても、ニーズによっては、確率現象として対処したほうがスッキリする場合もある。例えば、飛行機が安全に飛行するためには、様々な気象現象を予測することは有用であるが、それでもなお突発的な乱気流というのは起こりうるものである。その場合は、いつ、乱気流に遭遇するのかが予測できなくても、「この強さ以下の乱気流であれば、いつ発生しても、機体を安定させることができる」というように対処できれば安全性には問題は無い。

 「偶然か必然か」という判断は、出発点や前提をどこに置くのかによっても変わってくる。先ほど「例えば3日後に台風が上陸して大雨が降るという予報が当たった時、そこに住む人々は偶然に大雨が降ったとは考えない。」と書いたが、だからといって、その時期にその場所を台風が通過するということが必然であったわけではない。またそこで被害に遭った人々にとっても、自分がなぜその時代にその場所に住んで台風に遭ったのか、ということを必然であるとは考えないであろう。




 次に、「必然」と「確率現象」との関係であるが、ある時点である条件が揃っていることを前提とするならば、そこで何かが作用したあとの変化は100%の予測ができる。この場合は、それが必然的に生じたと受け止められるだろう。しかし現実には、無限に近い数の種々の妨害要因が働いて、90%、80%、50%、...というように一定の確率レベルで予測がなりたつことになる。その場合、何がどういうニーズがあるか(何が要請されているのか)によって、予測精度を高める努力がなされる場合もあれば、確率現象として見積もりを立て、「想定の範囲内」として対処していく場合もある。

 余談だが、人間や動物は、必然的な結果よりも、不確実な結果や、予想外の結果に敏感になるように進化してきた模様である。これは、連続強化より部分強化のほうが消去抵抗が高いこと、また、定比率や定時隔よりも変比率や変時隔の強化スケジュールのほうが強力であることからも示唆される。




 さて元の「偶有性(遇有性)」の話題に戻るが、「偶有性(遇有性)」は、どうやら、単なる事象間の偶然性や確率現象ではなく、自分との関わりの中で何かが起こった時に使われる言葉であるようだ。単にサイコロを振って「1」の目が出ただけでは偶有性とは言わない。しかし、あらかじめ「サイコロを振ってください。1の目が出たら当選です。」という状況が設定されていて、そこで1の目が出た場合は偶有性ということになる。

 また、多くの場合、「偶有性(遇有性)」は、他者との比較を前提として使われる模様である。サイコロを振って「1」の目が出たが他の目がでることもありえた、というだけなら、無人島に漂着したロビンソンクルーソーでも体験できるが、バス事故で特定の座席に座っていたために自分だけ大けがをしたというような場合は、他の乗客との比較が可能な時に初めて「偶有性」を実感できることになる。




 「偶有性(遇有性)」は、どうやら、個人が体験する比較的少数回の出来事であって、他者との比較が可能な場合に意味をなしてくるようである。いっぽう、行動分析学の基本概念である随伴性であるが、こちらは、比較的多数回経験される、行動とその結果との関係を記述したものと言える。

 例えば、ネズミがレバーを押したら1/10の確率でエサが出るというのは、「VR10」の変率強化スケジュールに基づく好子出現の随伴性であるが、この場合、それぞれの回でエサが出たか出なかったかはさしたる問題ではない。エサが出なかった時に「この場合、エサが出るということもあり得た」と思い悩むような問題ではない。いや、ネズミばかりでなく、人間においても、ある一定期間、行動が強化され続け、持続している時に、いちいち1回ごと反応の結果といった些細な部分を気にしているわけではなかろう。してみると、もし、「偶有性」に言及するとしたら、それは、「ある一定期間、その随伴性に晒されている」という強化機会という、もう少しマクロなレベルでの議論につながるのではないかと思う。

 もう1点、オペラント強化における「随伴性」という限りにおいては、あくまで「オペラント行動」の生起が前提となる。事故に遭うといった受身的な出来事は「偶有性」かもしれないが、オペラント行動が含まれていないので「随伴性」とは言えない。

次回に続く。

【思ったこと】
_80326(水)[心理]第13回人間行動分析研究会(9)行動分析学と社会構成主義(3)

 今回の発表は内容が盛りだくさんであったので、意見や感想を書き連ねていくとおそらく1カ月はこれにかかりきりになってしまう気がする。しかしそういうわけにもいかないので、ここでは、以下の3点にとどめ、これ以外については、いずれ別の連載の中で考えを述べることにしたいと思う。

 まず第一に、スライド資料の中で発表者は、「行動分析学は、人が社会に対して能動的に関わることを肯定し、推奨しているが、能動的に社会と関われない人に対する否定になっていないだろうか?」と述べておられたが、この部分の論拠がよく分からなかった。

 確かに、私などはまさに「行動主義」をもじった「能動主義」を標榜し、環境に対して能動的に関わることの意義を説いているところではあるが、能動的に関わることが正しく、関われないことが間違いであるというような、肯定、否定という考えは持っていない。それと、関わる対象は必ずしも「社会」ばかりとは限らない。じっさい私などは、社会よりも自然環境との関わりを好むところがある。

 「能動的に関わる」というのは、要するに、オペラント行動が発せられ、結果としてそれが正の強化を受けている状態のことを言う。オペラント行動の内容は多種多様であり、必ずしも、筋肉の運動ばかりではない。重度の障害者であっても、寝たきりのお年寄りであっても、健常者と同じように、常に外部環境に能動的に働きかけている。但し、健常者と同じようには「能動の結果」を享受できない場合がある。それをサポートするのが各種セラピーであったり、介護、支援であったりするわけだ。




 第二に、発表者は、行動分析学学会年次大会の発表タイトルを引用しながら、各種発表の多くに

「こういう生き方がよりよい生き方だ」と示し、そこに向けて行動分析学的な研究をし、発表する。

という傾向があると指摘しておられたが、うーむ、どうだろうか。

 ま、一部の研究にそういう傾向があるかもしれないことは否定しないけれども、大部分の発表は、「こういう生き方がよりよい生き方だ」ではなく「もしこういう生き方を選ぶとしたら、こういう方法が有効である」というテクニカルな成果の公表に主眼を置いているのではないかと思う。

 元来、エビデンスに基づいた議論というのは、ある前提のもとで、テクニカルな問題についての有効性を検討するという形をとりやすい。発表時間の限られた学会年次大会であればなおさらであろう。自動車の燃費効率を上げるための研究発表に際して、いちいち、「自動車に乗ることは地球環境によって良いことか」というような議論はしないのと同様である。




 発表者はさらに、「障害学における個人モデル批判」として、
障害についての個人モデル(医療モデル)は、そもそもの障害の生起点は、身体の組織または機能の欠損(以後インペアメント)であり、これがあるために自由な移動が制限されたり、これに伴い就労が困難であったりする、と考えてきた。このようなインペアメントに起因する問題を個人の属性として捉え、専門家が介入し訓練することによってインペアメントの克服・軽減が図られてきた。
と述べておられたが、私は、障害者に対する支援の一番の目的は、障害者ご自身の行動リパートリを増やすことにあると考えている。行動リパートリーを増やせば、それだけ、外部環境に対して豊富に関われるようになる。但し、その方向性は多種多様であって、必ずしも健常者優位社会に適応するという方向に向かうことを推奨しているわけではない。

 例えば、ピアノの練習をすることは、自らの楽器演奏のリパートリーを増やし、音楽への能動的な関わりの機会を増やすことにつながる。また、英会話を学ぶことは、外国の人たちとの交流機会を増やすことにつながる。障害者とか健常者という区別なしに、とにかく、行動リパートリーを増やすことを望む人たちに対して、それを獲得するための有効な方法を提供することには意義があると思う。

 もちろん、行動リパートリーの拡大を望まない人に対してそれを強制するのは禁物である。しかし、人は誰でも、望むこと、好きなこと、関心や興味対象を、生まれながらにして持っているわけではない。ある程度やってみなければ、それが自分にとって本当にやりがいのあるものであるかどうかは判断できない。時間的にもコスト的にもすべてを尽くすことは不可能であるが、とにかく、初歩段階としていろいろな「お稽古」をして、ある程度身についたあとは本人の自走に委ねるという道筋を作ることは決して悪いことではない。悪いのはむしろ、現状を固定して支援を放棄し、リパートリーを拡大するための機会を奪うことである。

 ということで、まだまだ書き足りないことは多いが、この研究会の参加感想はこれをもって最終回とさせていただく。