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日本心理学会第73回大会2009年8月26日(水)〜28日(金) 立命館大学・衣笠キャンパス |
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【思ったこと】 _90826(水)日本心理学会第73回大会(1)心理学への訴状/TEMによる質的研究の可能性の拡大/アグネス・チャン氏の講演 立命館大学で開催されている日本心理学会第73回大会に参加した。なお、過去の学会・研究会等の参加記録はこちらからリンクしてある。この数年、私の参加感想文の文字数が400字詰め原稿用紙で200枚以上というように長大化してしまっているが、今回は9月2日以降に海外に出かける予定があり、とりあえずはメモ程度の記録で完結させたいと思っている。また、特別に必要が無い限りは、発表者や討論者の方々の固有名詞は記さない方針である。 さて、初日に参加したワークショップ、講演の中で特に印象に残っているのは以下の3件であった。
1.のワークショップでは、日本心理学会年次大会などの一般研究発表や国内学術誌の論文で、調査対象者が大学生に偏りすぎているという問題点が指摘された。他の社会科学の研究と比べると、心理学では、大学生を対象者とすることは「やむを得ない事情」として黙認される傾向にあるが、産業・組織系の研究者や大学院生から見ると、どうして大学生を対象としているのかということは重大な疑問になる。さらに、結論の過剰な一般化(大学生しか調べていないのに人間一般を論じる、など)をしたり、尺度構成にも影響を与える恐れがある。このほかにも、原典をあたらないことの問題点、質問紙調査に対する回答態度、自分の関わっていない問題を外からの目で研究対象とする傾向、実践的意義を強調する必要性などが指摘された。 これらのご指摘はまことにごもっともであると思った。ただし、フロアからのディスカッションの中で発言させていただいたように、学会のポスター発表(大会発表論文集)のようなものは、研究成果の交流・活用の場というよりもむしろ、大学院生の教育訓練の場という性格が強いように私は思っている。卒論生や大学院生が限られた年限の中で様々なスキルを獲得し一人前の研究者として育っていくための教育訓練として考えた場合、サンプリングや一般化で苦労するよりは、とりあえず身近な大学生を対象に調査する中で研究遂行能力を磨き、さらに学術誌に投稿する中で研究発表能力を高めて学位を取得するという過程を学会として用意することにはそれなりの意義があると思う。 とはいえ、すでに職に就いた研究者が相変わらず大学生だけを対象に調査や実験を行い、論文をたくさん掲載して、科研費を獲得していくという研究スタイルが妥当であるかどうかは大いに問題。メタ研究に利用できるような「学術的研究」と、研究者養成の一環として発表される「教育訓練的研究」はある程度区別していく必要があると思う。 2.の「TEMによる質的研究の可能性の拡大――TEMによってどのような地平が開けるか」は、話題提供自体よりもそれをめぐる指定討論のあたりが大変参考になった。 TEMというのは、「Trajectory and Equifinality Model」のことであり、 等至性の概念に注目し、等至点に至り、そこから分かれていく、時間とともにある発達径路・人生径路の多様性・複線性を他の可能性を考えて描くための、思考的・実践的な分析・記述の枠組みである。と定義されている。日本では『TEMではじめる質的研究‐時間とプロセスを扱う研究をめざして‐』という本が2009年3月に刊行され、質的心理学者のあいだでも注目されるようになってきた。 私自身はこの概念については全く素人であるが、 ●行動分析学の基本原理である行動随伴性を、数十年にも及ぶような長期的な視点に立って、単一の行動の分析から、日常生活諸行動の連関の分析へと拡張する試み に取り組んでいるところでもあり、今回はTEMの手法や問題点を勉強する目的でこのワークショップに参加した。 特に参考になった点を記憶やメモに残っている範囲で列挙すると、
3.のアグネス・チャン氏の講演は、学術的な内容ではなく、ご本人の生育体験、子育て体験、さらに香港や、後にアフリカを訪れた時のボランティア体験などに基づくものであった。身振り・手振り、表情豊かに語りかけるスタイルは、システム化理解というより共感的理解に訴えかけるような講演であり大いに参考になった。 特に印象に残ったのは「周りを見てみる」ことの大切さということ。辛いと思う時はたいがい自分のことしか考えていない。子育てにおける褒める、叱るという問題、あるいは、いじめの問題については、行動分析学の原理が活かされた御主張であるように感じた。 |
【思ったこと】 _90827(水)日本心理学会第73回大会(2)心理学における性格概念の用法(1) 大会2日目の午前中は、9時30分から開始される「認知加齢」のワークショップに参加する予定であったが、会場に40分ほど前に着いたのでプログラムを再度チェックしていたところ、渡邊芳之氏の ●心理学における性格概念の用法 という小講演が9時から始まっていることに気づき、渡邊氏の講演というなら最優先で聴かなければと、急いで会場を移動した。けっきょく数分の遅刻にはなったが、ほぼすべての内容を拝聴することができた。 これまで、渡邊氏の講演というはなかなか拝聴する機会が無かった。実際、ご本人によれば、学会の年次大会ではもっぱらコメンテーターに徹しており、講演者をつとめるのは久しぶりとのことであった。講演開始に間に合ってよかったよかった。 ご講演は、性格心理学の過去を概観し、今後の性格概念の用法を論じるという全体をコンパクトにまとめたもので、ご自身の研究内容はもとより、この方面の研究の動向を把握する上で大いに勉強になった。なお、今回のご講演の内容はいずれ本として刊行されるとのことである。 講演ではまず、性格、気質、パーソナリティなどについての定義、心理学史が概観された。20世紀にアメリカに渡り、科学的心理学一般の目的とされる「性格の記述」、「行動の予測」、「行動の説明」の3点が重視されるようになった。性格は独立変数としての用法と従属変数としての用法がある。前者は、行動の差違を性格の違いとして説明する場合、後者は、発達心理学などで性格形成の要因をさぐる場合がある。 私見になるが、性格概念に限っては「行動の制御」ということはあまり言われない。「性格を変えなければダメだ」とか「もっと根性を鍛えろ」いうように叱咤激励する場合も、結局は行動を変えて、結果として(従属変数として)性格の変容を測定しているのに過ぎない。ただし、行動を変えるためのプログラム策定にあたって、それぞれのコンポーネントの重み付けの参考として性格の違いを考慮することはありうる。薬の処方箋において、体調や体質により薬の種類や量を変えるのと同じようなものである。 ご講演の話題に戻るが、「性格の記述」というのは要するに情報の縮約に有用であるということ。問題となるのは2番目の「行動の予測」である。ひとくちに予測といっても、「状況を限定した予測」(→継時的安定性)と「状況を超えた予測」(→通状況的一貫性)がある。後者についてはMischel(1968)により提起された「一貫性論争」があり、その後1980年代に至るまでたくさんのデータが集められたが、けっきょく、「通状況的一貫性」を支持するようなデータはほとんど得られず、ほぼMischelの提起どおりとなった。その結果、1980年代以降は、相互作用論、つまり、内的過程と状況との相互作用の結果としての首尾一貫性に焦点があてられるようになり、もはや通状況的一貫性は仮定されなくなった。しかし相互作用論による大きな発展はなく、性格心理学は論争以前のままであり、性格心理学から発達心理学に関心を移していった研究者も居たという。。そういえば、昨年の学会でもコヒアラント・アプローチの話題が取り上げられたが、これなども性格心理学ではなく、well-beingや高齢者の生きがいに焦点が向けられていた。 では、通状況的一貫性論争はどう決着させればよいのだろうか。「本来、理論的構成概念(観察に還元されない概念)であるべき性格概念(通状況的一貫性を前提とした性格概念)を、観察に還元される傾性概念として実証しようとしたことに無理があった、つまり、答えの出ない「疑似問題」に取り組んでいた、というのが渡邊氏のご主張であると理解した。要するに、行動観察によって得られたデータというのは、本質的に観察状況に依存し限定されるので、そこからは通状況的一貫性は証明できない、行動観察に基づく性格概念は傾性概念であるというわけだ。 このあたりで若干疑問に思ったのは、行動観察に依拠する限りは理論的構成概念にはなり得ないのか、例えば実験的方法でノイズ(誤差)を排除すれば普遍性のある法則にたどり着けるのではないかという点。また、全く見方を変えた時の別の疑問として、上記のように区別は、性格心理学以外の心理学一般の研究にも同じように当てはまるのではないかという点があったが、これについてはまた後日取り上げることにしたい。 |
【思ったこと】 _90828(金)日本心理学会第73回大会(3)心理学における性格概念の用法(2)性格の3つの視点 昨日に続いて、渡邊芳之氏の ●心理学における性格概念の用法 という小講演についてのメモと感想を述べさせていただく。 講演の中ほどでは、性格概念の一貫性のあり方や意味が、一人称的視点、二人称的視点、三人称的視点によって異なっており、
ところでこの「人称」に関してはかつて『「モード心理学」論』(サトウタツヤ・渡邊芳之著、紀伊国屋書店、2005、227〜234頁)の中でも取り上げられており、
今回は上記に加えて、
ここからは少々脱線して、私自身の考えを述べさせていただくが、まず、まず、上記の性格概念のみならず、日常表現として使われる概念は人称的視点によって用法が異なるということは確かだと思う。 一人称的視点においては、自分自身の「性格」についての思い込みがしばしば問題となる。これはポジティブに作用する場合もあるし(→例えば「自分は辛抱強い性格である」と思い込むことにより、自身の行動を長続きさせようと頑張る)、ネガティブに作用する場合もある(→例えば「自分は根性無しで、気が弱く、すぐにくじけるダメな性格だ」と思い込むことで、努力の積み重ねを放棄する)。いずれにせよ、一人称的性格というのは、自分自身に対する主観的評価にすぎない。血液型性格判断であれ、占い一般であれそうだと思うが、自分自身について何らかの特徴づけがなされていても100%それを信じることはない。いろいろ挙げられている諸特徴のうち、自分が好むか、主観的にそうだと思い込んでいる項目だけを拾い出して「あっ、当たっている」と喜ぶだけである。 一人称視点においては、一貫性を過大に評価しやすい。これは渡邊氏のご指摘にもあるように自己同一性とも深く関わっている。「自分とは何か」というのは誰でも一度はいだく疑問であると思うが、これはおそらく
性格判断のようなものに関心を示す人が多いのは、自分長所や短所や適性を知りたいという願望があるからではなく、むしろ、自分を特徴づけることで、自己が確かに存在しているという確信が高まるためであるかもしれない。 それから、これは渡邊氏の著作では触れられていなかったと思うが、一人称は、単数形のほかに「we(わたしたち)」という複数形もある。これはおそらく、ある集団の内部での「役割としての性格」であり別に議論する必要がある。このことに限られないが、人称的視点という発想は、「対話的自己」や「ポジション」と大きく関係しているように思う。ちなみに、今回の大会には、ハーマンス夫妻も招待されており、同じ日の午後に、お二人を交えたシンポジウムが開催され私も拝聴した。 次に二人称的視点だが、これも相互の思い込み、期待、誤解などに多分に影響される。よく芸能番組で「性格の不一致が原因で離婚」など伝えられるケースがあるが、たいがいは「自分は悪く無い」、「相手も傷つけたくない」というような場合の方便として「性格の不一致」を使っているだけであり、本当の原因は別のところにあるはずだ。ま、いずれにせよ、二人称的な「性格理解」は、「正確な性格理解」である必要は全くない。ある精神科医が言っておられたが(←長谷川の記憶のため、かなり変容しているが)、夫婦関係などというのは、お互いの本心を晒せばそれでよいというものではなくて、同じ舞台の上で夫婦という役をいかに上手に演じるのかということによって価値が決まってくるものである。 二人称関係に関してはもう1つ、「あなたがた」という視点もあると思う。これは次に述べる三人称的視点とは異なり、自分が、特定集団に向かい合う場合の関係である。自分が所属する集団の内部から集団全体をとらえる場合は「私たち」という一人称であるが、自分がその集団の外にあって、その集団と何らかの関わりを持つ場合は「あなたがた」となる。通り魔殺人の犯人が「世間は」と語る場合の「世間」はおそらく「あなたがた」という二人称的とらえ方をしているにちがいない。「あなたがた」への憎しみを募らせることで「殺す相手は誰でもよかった」という発想が出てきてしまうのであろう。 最後の三人称的視点は、今回の渡邊氏の議論の文脈から言えば「他人の性格を、状況から独立に客観的に見る」として定義されることになるだろうが、これ以外にも、所属する複数の集団の内部における役割、あるいは、国民性、県民性といったステレオタイプに関する議論が出てくると思う。もっとも、一口に「彼、彼女、彼ら」といっても、それらの存在を自分との関わりで受け止める時の視点は、「あなた、あなたがた」に転じてしまうのである。本来の三人称的視点というのは、中立的な視点、極限すれば、「自分にとってはどうでもいい存在」を論じる場合に限られるべきかもしれない。 |
【思ったこと】 _90829(土)日本心理学会第73回大会(4)心理学における性格概念の用法(3) 渡邊芳之氏の ●心理学における性格概念の用法 という小講演についてのメモと感想の連載の最終回。 講演の後半では、もともとの性格概念には「過ぎ去った時間や状況、目に見えない状況や文脈を包含したメタファー」としての日常的用法があり、「本人と認知者を含む社会的文脈の継続的な相互作用の全体」を暗示するものであると論じられた。これは二人称的視点であるとともに、ある集団の中での一個人に対する評価にも当てはまると思われる。性格概念を「本人と認知者の関係性によって変化する」ととらえることは、社会構成主義的な見方といってもよいし、また、全く別の観点から、行動分析的に扱うことも可能であると思う。 講演の最後のところでは「性格心理学のいまとこれから」が語られた。渡邊氏は、性格心理学を以下の2つのアプローチ、つまり
今回取り上げた部分について若干の感想を述べさせていただくと、まず、行動遺伝学や進化心理学的なアプローチに関しては、学術研究としての可能性は大いに期待されると思うが、そこで導出された結論だけが一人歩きすると、日常社会での差別・偏見を助長するのではないかということが危惧される。また、行動現象を予測できるほどの成果が得られるかどうかは心もとない。なお、行動遺伝学に関しては、5年ほど前に第三世代の行動遺伝学という講演について感想を記したことがあった。 あと、こちらの論考でも引用したが、行動分析学の視点からは、 Vyse, S. (2004). Stability over time: Is behavior analysis a trait psychology? The Behavior Analyst, 27, 43-53. といった論考もあり大いに参考になると思う。 渡邊氏の講演は、性格概念についての歴史、論点、今後の展望をコンパクトに示されており、日本心理学会第73回大会で私が拝聴した講演・小講演・各種話題提供の中では、この講演が最大の収穫であったと言ってもよいかと思う。さすが、日本の心理学界きっての論客である渡邊氏の講演だけのことはあった。 |
【思ったこと】 _90830(日)日本心理学会第73回大会(5)「時間」と「空間」のなかで自己の変化を捉える(1) 大会2日目の午後は S011 「時間」と「空間」のなかで自己の変化を捉える というシンポジウムに参加した。このシンポには「対話的自己」で有名なハーマンス(Hubert J.M.Hermans)が指定討論者として加わっており、また奥さんのAgnieszka L.Hermans-Konopka先生から「International Institute for the Dialogical Self」という演題の話題提供があった。このほかにも、TEMの代表的研究者のお一人である安田裕子氏、『対話的自己』の翻訳でも知られる溝上慎一氏、時間的展望の第一人者の白井利明氏という合計4名が話題提供者になるという豪華キャストであったが、うーむ、その割には、全体として何が言いたかったの?ということがよく分からない未消化のシンポになってしまったという印象を受けた。 その原因は、やはり、2時間という限られた時間の中で4名もの話題提供者と2名の指定討論、さらにフロアからの声まで期待したという盛りだくさんすぎる内容にあったのではないかと思う。当該の領域についてある程度の予備知識を持っている聴衆であれば、話題提供の内容を個々バラバラに理解することはできたと思うが、シンポジウムである以上は、個々の研究の紹介以上の何らかのまとまりや獲得目標が欲しかった。 これは別に、今回のシンポに限ったことではない。2時間という限られた時間の中でディスカッションをするというのであれば、まず最初の1時間は、複数の領域に熟知した1名が、全体を概括し、それをまとめあげたり、今後の展望を示すような話題提供を行うべきであろう。でもって、それぞれの領域の代表的研究者は、話題提供ではなく指定討論者という形で、広い視点から意見を述べる。こうすれば、個々バラバラの研究紹介に終わることはあるまい。 それはそれとして、今回のシンポを拝聴して、各話題提供者の個々のご研究内容についての理解を深めることはできた。 |
【思ったこと】 _90831(月)日本心理学会第73回大会(6)「時間」と「空間」のなかで自己の変化を捉える(2)TEMの特長と論点 昨日も述べたように、このシンポは、2時間という限られた時間の中で4名から話題提供をいただくという盛りだくさんの内容になっていた。 まず企画者から、「セルフ」はロックの頃から使われるようになりその後アメリカで研究対象として発展した近代のアメリカ的概念であるという導入があった。 話題提供の前半は、対話的自己論の理論的装置としてのIポジションや、感情の対話的自己法に関する話であったが、今回は、連載執筆の時間の都合でこの部分は割愛させていただく。なお、対話的自己論については、3年前の日本教育心理学会第48回総会のシンポでも感想を述べさせていただいたことがある。 さて、話題提供の3番目は、安田裕子氏による、 ●不妊治療者の選択と径路−TEMを用いて− という話題提供であった。この研究内容については 安田裕子.(2005).不妊という経験を通じた自己の問い直し過程:治療では子どもが授からなかった当事者の選択岐路から.質的心理学研究,4,201-226. という論文で概要を拝読していたこともあって、話題提供の中味自体はよく理解できた。今回はTEMの視点を強調されたものである。 ご研究は、ナラティヴ・アプローチと複線径路・等至性モデル(Trajectory Equifinality Model, 略してTEM)を柱として構成されており、まず、それぞれについて簡単な説明があった。 インタビューなどにより過去の体験を尋ねる場合、論理実証的モードでは「それは事実かどうか?」という問い方をするのに対して、物語モード(ナラティヴ)では、「意味の行為」や「経験の組織化」に迫ろうとする。 次に、TEMについては、8月26日の日記にも記した通りである。なお、安田氏は一貫して「TEM」を「Trajectory Equifinality Model」と表しておられるが、サトウタツヤ氏の少し古い文献では「Trajectory and Equifinality Model」というように「Trajectory」と「Equifinality」の間に「and」が挿入されている。どちらが一般的な呼称であるのかはよく分からない。なお、「等至性(Equifinality)」は、「finality」からの連想で、最終的な到達点や目的を連想してしまいがちであるるが、このモデルでは、「到達点」というよりも、途中の「通過点(複数の径路からそこに到達し、さらに分岐している通過点)」という意味で用いられているようである。 さてTEMでは、基本概念として
結論的には、人生物語をTEMで描くと、「人の経験(筋立て)の多様性を、当事者とともにある時間に留意してプロセス(径路)として明示化できる」というメリットがあり、また単に体験談を分類整理するというのではなく、、そのプロセスにおける社会的な方向づけの部分を把握することで実践的な支援のあり方の議論につなぐことができる、というように理解できた【一部、配付資料からの引用】。 以上についての私自身の感想を述べさせていただくと、まず、これまでの指定討論の中でも指摘されていたように、「複線径路」や「等至点」、「分岐」などが、一個人の中のプロセスであるのか、それとも、同じ社会に生きる複数の人間のあいだで「共有」されるものなのかという疑問があげられる。論理実証モードでは「こういうこともありうる」とか「ここは必ず通過する」というように主張できたとしても、個々人の物語モードでは、それらが「同じ」、「必ず通過するはずだ」、「ここではこういう可能性がある」というようには当てはめられないかもしれない。 もう1つ、これは、今回の話題提供に対して、というよりももっと一般的なレベルでの疑問である。仮に我々の人生を、縦走やトレッキングのようなタイプの山歩きに喩えると、我々の人生は、どの頂上をいくつ制覇したとか、峠の分岐点でどちらの登山道を選んだのかというような、「ピークと分岐」だけで構成されるような物語では必ずしもない。むしろ、あまり景色のよくない平坦な道や、道ばたで出会った花に癒されるといった径路自体のほうが重要な意味をなしているかもしれない。ピークや分岐ばかりに目を向けてしまうと、日々の重要なプロセスが欠落してしまうのではないかという気がしないでもない。 さらに言えば、我々の人生は、「分岐点における重大な選択」によって変遷しているように見えるけれども、それは大部分、後付けの解釈に過ぎないかもしれない。行動分析学的に言えば、日常的に強化、弱化されていることの積み重ねが「選択」という結果につながっているのであって、その部分に当事者が気づいているかどうかは確証できない。また、当事者にも気づかないような偶然的で微小な変化が、その行動を増やしたり減らしたりする強化・弱化のスパイラルの起点になる場合もある。こういう部分は、なかなか物語化できないかもしれない。 |
【思ったこと】 _90901(火)日本心理学会第73回大会(7)「時間」と「空間」のなかで自己の変化を捉える(3)時間論の視点 S011 「時間」と「空間」のなかで自己の変化を捉える というシンポジウムの感想とメモの最終回。 4番目は、白井利明氏による、 ●人生はどのように立ち上がるのか−時間論の視点から− という話題提供であった。 話題提供ではまず、自己の連続性というのは作り出されるものであること、つまり「自己は固定した一貫したパーソナリティをもつ存在ではなく、時間経過のなかで変化していく存在である」ということが強調された。にもかかわらず我々は、なぜ「変化する自分」を同じ人間であると受けとめるのであろうか。白井氏はこのことについて、Pasupathiの論文を引用しながら「自己と出来事との関連づけ」、すなわち、「語られた出来事と自分自身との結びつきを特性、特徴、興味といった同じタイプで引き出す語り」がアイデンティティをもたらしていると主張された【Pasupathi,Mansour & Brubaker, 2007, Humam Development誌】。なお、白井氏は、「人生の8割は偶然」という言葉も引用しておられたが、どなたの言葉であったか失念してしまった。ネットで検索した限りでは「計画的偶発性理論」のクランボルツ教授が似たような主張をされているようであるが、そのことだったかどうか確証はない。 白井氏のもう1つの重要な論点は「回顧だけでなく予期も重視する」ことにある。Pasupathiは、回顧を重視して自己の連続性をとらえようとしたが、これだけでは事後的な説明に終わってしまう、必要なことは、前方視的(prospective)な見方である。これは、過去→現在→未来という直線的な流れで捉えようとする単純なものではない。ナラティブというのは、単なる過去の物語ではなくて、予期されるものと予期されないものとの緊張の中に生まれる(森岡,2008,金剛出版)というのである。確かに、我々は、単に懐かしさを求めるために回顧をするわけではないし、また常に予期をしながら行動していく。「予期せぬ出来事と予期どおりの出来事が生起することで、回顧や展望が立ち上がり、その都度、連続性が作られていく」という御主張はまことにもっともであると思う。なお、展望に関わる前向型研究については、『TEMではじめる質的研究』の本や、大会1日目の別のワークショップでも論じられていたが、ここでいう前方視的な見方が同じ意味で使われているのかどうかは確認できていない。※8月26日の日記参照)。 私自身もまさにそうだが、年を取っていくと、自分自身についての最終的な予期は「やがて死ぬ」に収束してしまう。しかし、ここで論じられている予期はそんなに悲壮なものではない。加齢の中でも、非可逆的な時間の流れと焦り(人生の残り時間の自覚)について、まず予期があり、そして予期があるがゆえに予期せぬ出来事が生まれ、その予期せぬ出来事との出会いによって回顧と展望が立ち上がり、そのことによって自己の連続性が作られるというお考えであると理解した。 以上の部分について私自身の考えを述べさせていただくと、まず、「予期せぬ出来事」という考え方は、学習心理学の中でも重視されることがある。但し、「予期」という概念は必ずしも説明概念として必要ではない場合もある。バーを押して餌を獲得していたネズミにとって、ある時点から餌が出なくなるということがあればこれは「予期せぬ出来事」であるに違いない。その時にはたいがい「バースト」が生じる。しかし、激しい「バースト」がどういう状況のもとで生じるかということを説明するためには、「ネズミはバーを押せば餌が出ることを予期していた」という前提は必ずしも必要ではない。 シンポの最後には森直久氏による指定討論があった。1日目のワークショップの時にも感じたが、森氏の指定討論はツッコミが鋭く、まことに意義深い。今回の指定討論では「人が変わるとはどういうこと(出来事)なのだろうか。「よい方に」も「悪い方」にも。」、さらには、「we-positionが共同体を形成する。」といったご議論が印象に残った。これを機会に『TEMで始める質的研究』をちゃんと読んでおくことにしたい。 余談だが、大会初日の特別講演の終わりのところで、アグネス・チャン氏は、日本には良い言葉がありますと言って「無我夢中」を挙げられた。今回の話題提供者や指定討論者各位が、この「無我夢中」をどう考えておられるのかちょっと訊いてみたい気がした。 8月26日の日記にも述べたように、9月2日以降に海外に出かける予定があり、戻ってからは膨大な仕事を抱えることになりそうなので、今年度の日本心理学会参加記録は、これをもって最終回とさせていただく。これ以外に拝聴したシンポ、ワークショップ、小講演についての感想は、いずれ別の話題と関連づけながらコメントさせていただこうと思っている。 |