じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
970805(火) [心理]文句を出させない工夫(7/24出題のクイズの発展) 8/3と8/4の日記(うむ。どこが日記やぁ?)では、ゼッタイに文句が出ないようにお酒を分ける方法について考察した。こういう方法は、机上の空論、あるいは、理屈をこねるお遊びだと思われたかもしれない。しかし、集団で生活する限り、文句のタネは尽きないものだ。そこでヒトは、文句が起こりにくくなるようなさまざまな方法を考案してきた。きょうは、これについて考えてみたい。
じつは、民主主義も活用の仕方を誤ると、単なる「文句を言わせないための道具」に陥ってしまう。ほんらい民主主義は、全員が参加して知恵を出し合い、少数意見も尊重しながら最良の解決の道を探っていることにある。そのプロセスを無視して決定ばかりを急ぐと、「多数決」が横行することになる。独裁者が決定したことには文句を言えるが、「多数決には従え」という主張に対しては文句を言いにくい。【だから、ずるがしこい独裁者は、自分では決定を下さない。議会を巧妙に操って、「多数決で決まったことを尊重する」という形で思い通りの政治をする。】 民主主義の中でも特に議会制民主主義は「文句を言わせない道具」として活用されやすい。世論調査では賛成が40%、反対が30%、棄権が30%というように意見が激しく対立している議案があったとする。これを国民投票で決すると、4割が賛成するかもしれないが、圧倒的支持を集めたとは言いにくいので文句が出やすい。ところが、小選挙区制だけで議員を選ぶようにすれば、支持率40%の(この議案に賛成している)政党は8割の議席を占めることが可能である。そこで、国民投票ではなくて議会で多数決を行えば、「圧倒的多数」で可決されたことになり、文句が出にくくなる。 もっとも、こういう制度は、いちがいに悪いとは言えない。特に、世論の形成が未成熟な社会では、目先の利益ばかりを優先した政策、あるいは八方美人的な人気取り政策が多数の支持を集めやすい。長期的視点に立った政策を実行するには、ある程度の我慢も必要である。こういう時、文句ばかり噴出して何も決められずに時機を逸するよりは、「文句を言わせないための制度」を最大限に活用して押し切ってしまったほうが、よい結果をもたらすこともある。とはいえ、これは、独裁国家にも道を開く危険な制度である。だからこそ、徹底した情報公開と自由な言論活動、それと構成員全員の主体的な関与が必要になってくるのである。 |
【思ったこと】
980518(月)[社会]民主主義は何のためにあるか(1) ちょっとフォローが遅れたが、世界旅行の出発が間近いシリコンバレー留学中「神田日記」 さんが5月16日の日記で「民主主義について」とりあげておられた。インドネシアでの騒乱のニュースが伝えられる昨今、私も、この問題についていろいろ思うところがある。 初めにおことわりしておくが、私はこの方面には全く素人で、民主主義を提唱した思想家の名前も、いろんな国の制度のことも、受験勉強で頭に詰め込んだきり、すっかり忘れてしまった。思い出せることと言えば、リンカーンによる「人民の、人民による...」ぐらいのものだろうか。 ところで、民主主義はなぜ必要なのだろう? だいぶ昔のことで忘れてしまったけれど、小学校から高校に至るまで、このことをあまり真剣に考えたことが無かったように思う。というより、小学校のころは、まだまだ戦後間もない時期であり、民主主義は正しいのが当たり前で、疑問を懐くことさえなかった。ヤクザでさえ、「おまえんところは民主的でないぞ」と言って脅迫をしたいう冗談のような逸話まで聞いたことがある。 民主主義と言っても、神田さんご指摘のようにいろいろな制度があり、「議会制というのは民主主義実現のための一手段に過ぎない」わけであるが、近代国家は殆どが議会制民主主義を取り入れている。したがって、このシリーズ(←いずれのシリーズも不定期連載でぇーす)では、単に「民主主義」と言う場合は議会制民主主義のことを示すものと考えていただきたいと思う。 では、議会制民主主義はなぜ必要なのか? 結論から先に言えば、それは人類が数々の犠牲を教訓として知恵をしぼって作り上げた最高の「暴動回避装置」であるから、というのが私の考えだ。つまり、導入の経緯や諸々の民主主義思想はどうあれ、現状において、多くの近代国家で議会制民主主義が定着している最大の理由は、国民の不満・不平が暴動に進展しないための最も有効な回避装置として機能しているからである。 インドネシアで暴動が多発しているのは、政治の仕組みに有効な「暴動回避装置」が組み込まれていないことが一因となっているように思う。民主主義が徹底した国であれば、国民はいつでも大統領や首相を辞めさせることができる仕組みになっている。しかし、これは裏を返せば、「政権を批判したかったら、暴力に訴えるのではなく、ちゃんと選挙に勝って、国会に出てきてから文句を言え」という意味にとれなくもない。 「文句が出ない工夫」については、じつは昨年の8月5日の日記でちょっと考察したことがある。インデックス作りが遅れていてまだジャストネットのサーバにアップしていない。このシリーズを終えるまでには必ずアップを完了しておきたいと思っている。きょうは時間が無いので、このシリーズで私が指摘したいことの概略を示す。おことわりしておくが、私は決して議会制民主主義の否定論者ではない。あくまで議会制民主主義を守るべきだと考えている。ただ、民主主義を安易に崇拝したり絶対化することは、結果的にそれを形骸化させる恐れにつながる。それを避けるために、もういちど根底からこれを見直すこと、例えば独裁政権は何故いけないのかということから問い直す必要があるというのがこのシリーズの趣旨である。
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【思ったこと】
980521(木)[政治]民主主義は何のためにあるか(2):スハルト大統領辞任 インドネシアのスハルト大統領が21日辞任し、32年間の長期政権に終止符が打たれた。と言っても、後継者にはハビビ副大統領が指名され2003年まで任期を引き継ぐということなので、支配権力構造には何の変化も見られない。スハルト氏個人に照準を合わせて改革を求めてきた人たちは、ひとまず歓声をあげるだろうが、真の改革が実現するかどうかはこれからの課題であろう。 どの国のどの時代をみても言えることだと思うが、「政権」と「政治の支配権力構造」は必ずしも一致しない。例えば軍人の一部がクーデターを起こせば一時的に政権をとれるかもしれないが、それを容認する権力基盤が弱ければすぐに打倒される。議会制民主主義が徹底している国であっても同様だ。現体制に批判的な候補が大統領に当選したからといって、それだけで支配構造が変わるわけではない。 中学や高校の社会科関連の授業では、どうもこういうことを教わらなかったような気がしてならない。特に民主主義についての説明に入ると、国民主権とか、国民全体の手で政権が作られるというようなところが強調されすぎて、支配構造の仕組みがちっとも明らかにされない。成人ひとりひとりに政権を作るための権利は与えられ、現政権を批判する自由も与えられていることは確かだとしても、だからといって、現政権が国民の総意のもとに作られているわけではない。民主国家というのは、政権を作ったり辞めさせたりするための手続が民主的という意味であって、政治の支配構造が民主的という意味では決してないということにもっと気づく必要があるように思う。 ところで最初の話題に戻るが、インドネシアの場合にも、スハルト氏個人が好き勝手に自分の利益だけを享受してきたわけではない。その側近や一族を中心として「開発独裁体制」という形で私腹を肥やす人々がおり、まさにそれが支配権力構造を形作っていたわけだ。インドネシアの場合、単に国内の産業を支配していたということでなく、外国からの途上国援助が一族を太らせていたという。そして、驚くべきことに、日本が外国に援助を与えている国の中で最大の国がインドネシア、インドネシア側からみても、受け取る援助額の7割近くは日本からのものであるという。援助の効果が究極的に日本の国益にかなうものであったとしても、これでよかったものか問い直してみる時期にきているように思う。 大規模な民衆運動というのは、綿密に組み立てられた理論に基づいて整然と行使されるものではない。日常生活の遂行が困難になったり、あるいは権力に従う許容範囲を越えるような混乱状況が続いたもとで、「わかりやすい理論」というか究極的には「わかりやすい合言葉」が形成され、そのもとに団結した運動が生まれていくものである。それゆえ、本質的には支配構造そのものを変えなければ解決しないような問題があっても、「分かりやすい理論」の照準は支配者個人や政治制度に向かいやすい。「○○政権打倒」とか「民主化要求」というのがそれである。それはそれでやむを得ないことであるが、個人のクビをすげかえても経済は変わらないし、政治を民主化しても支配構造が変わらなければ98年5月18日の日記で述べたように、「暴動回避装置」が設置されただけに終わってしまう恐れもある。以下、不定期連載として続く。 |
【思ったこと】
990103(日)[一般]駅伝はよかったが元旦の社説は... 1/2と1/3の両日に行われた箱根駅伝の実況をほんのちょっと聞いた。沿道には50万人近い人出(1/2のデータ)というから大変な人気だ。 この駅伝はご存じのように読売新聞社後援となっている。新年早々にこれだけ多くの沿道の人々が讀賣の旗を振って応援していることを考えると、テレビ中継が行われるようになった今では、毎日や朝日が後援する高校野球以上の宣伝効果が期待できるようにも思える。 さて駅伝をここまで国民的行事に盛り上げた読売新聞社の功績は称えるとしても、今年の元旦の社説には、ちょっと首を傾げたくなる記述があった。 今年の讀賣新聞の社説は、「戦後民主主義」三つの大罪として、「国家を敵視すし、義務を怠って権利だけを主張する無責任な風潮を押しつけた」、「機会の公平のみならず結果の平等を追求する平等至上主義」、「社会主義国は平和勢力で米国は戦争勢力だという偏見に立った一国平和主義」をかかげ、これらが、日本が活力を失い迷走を重ねている根源的な要因であるとし、それを弊害と感じずに当たり前と思う人々が少なくないことを「偏向したマインドコントロール状態」と呼びつけ、その克服が日本再活性化のうえで急務だとしている。 社説の後半部分には納得できる点もあるし、大罪の2番目の「結果の平等」云々部分には行動分析学的な発想もあって評価できるけれども、現在の日本経済の混乱の責任をあたかも左翼勢力やそれに同調する「進歩的文化人」に押しつけるような印象を与える記述には首を傾げたくなる。 もし、根源的な要因をそこに求めるのであれば、高度経済成長、そのひずみの是正、バブルとその崩壊もすべて左翼勢力と「進歩的文化人」の影響によって引き起こされたことになってしまう。 戦後の日本が独裁色の強い社会主義国であって言論や情報が統制されて国民の多くがマインドコントロールされていたというならばその主張にも納得がいくけれど、戦後の日本は殆どの時代が自民党政権ではなかったのか。讀賣新聞はいちばん売れているのではなかったのか。左翼勢力の影響がこの社説にあるほど強大なものであったならば、社会主義とまではいかなくても、社会民主主義政権がとっくに誕生していたはずである。 この社説はもっぱら、戦後の民主主義への批判を出発点として21世紀への道筋を展望しているが、「国家」、「平等」、「安全保障」、「憲法」を真剣に論じるというのであれば、戦後だけの総括では不十分。江戸時代までさかのぼれとは言わないが、戦前について何も語らずに戦後の反省だけに立脚して21世紀を展望しようというのは非常に狭く危険なものの見方であるように思う。 第二に、「マインドコントロール状態」などという言葉は、反対者のロジックを頭ごなしに否定する攻撃的な表現であって、大新聞が社説で軽々しく使う言葉ではない。マインドコントロールについては種々の立場があり必ずしも明確な判別基準は確立していないが、少なくとも隔離されたもとで特定立場の主張だけを一方的に流し込むというような情報操作が行われなければマインドコントロールされていたとは言えない。讀賣新聞が弾圧され自社の主張が国民大衆に伝えられない状況にあったならそう言ってもよかろう。でなければ、ここは、相手のせいにせず、「対立する人々の考えを変えうるだけの説得力のある反論を提示できなかった」との自己反省にとどめるべきであろう。 第三に、社説の後半では英国のサッチャー路線を高く評価しているが、EU加盟の大多数の国で社会民主主義政党が与党となっていることには何もふれられていない。高齢化・少子化がすすむなかで、このEUの流れまでも「マインドコントロール」のせいにしてしまうのか、それとも日本人はヨーロッパ人とは違うというのか、元旦の社説を拝見した限りでは納得のいく答えが示されていないように思えた。 最後に「機会の公平のみならず結果の平等を追求する、平等至上主義とも言える誤った観念」という指摘や「成功者を抑え込むことは、援助を必要とする者を罰するに等しい」というサッチャー氏の発言の引用について。平等至上主義には私も反対だが、「結果」や「成功」がどのような努力によってもたらされたものであるのかについては、もう少し細かく見ていく必要があるように思う。 ひとくちに金持ちと言っても、「努力して成功した人々」と親の資産を機械的に受け継いで「働かなくても贅沢ができる」人々が居ることは事実だ。社説で主張されている「高すぎる相続税」とか「累進税率」の改革が前者の人々の努力を正当に評価する結果を与えることは確かであるが、後者の人々も同じように優遇してしまう結果を招くようであれば賛成できない。 さらに、「成功者」でない人々についてももっと細かく見ていく必要がある。成功者でない人々は決して努力していない人々ばかりではない。改善されてきたとは言え、農業政策の変更や環境破壊によっ「働けども働けども楽にならない」人々が依然として存在していることは事実であるし、産業労働社会にあっては、企業の倒産のように、一個人がいくら努力しても結果が報われないケースもあるだろう。 結果として得られたものをすべて平等に再分配してしまうことは誤りであるが、だからといって、「大きな結果=成功者」、「小さな結果=失敗者」とは必ずしもならない。生じた結果ではなく、それに至るプロセスが評価されるようなシステム、つまり「行動し、それに応じて結果を得る」システムを如何に保障していくかを検討していくことが大切であろうと思う。 ※毎度のことですが、反論のある方は御自分のWeb日記にてお願いします。私あてのメイルや掲示板への書込はお断りします。 |
【思ったこと】
990205(金)[一般]吉野川可動堰住民投票から民主主義について考える 臨時徳島市議会の特別委員会で5日、吉野川可動堰計画の是非をと言う住民投票条例案が賛成4、反対7で否決されたという。この条例案を求める署名の数は有権者の49%に達していたというから、委員会も思い切ったことをするものだ。 可動堰自体については何も勉強していないので私には判断できないが、この案件を否決した委員たちのロジックの中に「住民投票は住民に責任を押し付けることになる。私たちにお任せを」、「住民感情がもつれることがあってはならない」、「住民の生命、財産を守るのは住民投票以前に行政の責任だ」(いずれも2/6朝日新聞記事)というのがあったというのはちょっと気になる。これは、一般市民には行政に責任を持てるような判断能力が無いという意味にもとれ、民主主義の根幹に関わる発言であるとも言える。 現代の複雑な社会にあっては、高度の専門的知識無くしては政策の立案も遂行もできないことは確かだが、民主主義社会はどんなに分かりにくい政策であっても住民に理解と納得を求めるプロセスを必要とする。もちろん議会や委員会の審議も民主主義のプロセスの1つであるから、多数の署名を議会が拒否するということが直ちに民主主義の否定につながるというものではないが、ここはひとつ、可動堰の必要性について十分な理論的根拠があるのであれば(公共事業による利益誘導ではなく、防災上の必然性があるというのであれば)、住民投票で推進賛成が多数を占めるように十分に理解を求める選択肢を選んでもよかったのではないかと思う。 もっとも、私個人は、この日記でも何度か書いているように、民主主義の意志決定システムが、学術的にみて最適の決定を下す能力をもっているとは考えていない。民主主義、特に現行の議会制民主主義というのはあくまで、合意を形成するための最適のシステム、もう少し乱暴な言い方をすれば、文句を言わせず物理的衝突を回避するための最適のシステムとして考え出された人類の知恵であると考えている。住民投票に委ねるというのは、委員会より住民のほうが正しい判断ができるという意味ではなくて、合意のプロセスとして直接投票制度のようなものをもっと重視してもよいのではないかという意味だ。 純粋に科学的な議論であるならば、民主主義のルールに依拠しなくても論理的に筋道をたてて自らの考えを主張し相手方を論駁していけばよい。ところが、利害や価値観が対立する問題の場合には、根拠をいくらあげても、相手方の矛盾点をいくら指摘しても、最終的な一致に至らない場合がある。そこで「民主主義的なプロセスを経て決定されたことには不満があっても従おう」という大前提をまず合意させておいて、個別的な問題で生じる不満を押さえ込もうとするわけだ。このレベルでは、「民主的な決定に従う」というロジックは、基本的には「王様の命令だからしょうがない」、「お上の意志に楯突いてはいけない」あるいは「神の意志(じっさいは教会の決定)に従おう」というものと変わりない。 民主主義のプロセスを経た決定が「賢い王様」の決定よりすぐれた判断を下せるようになるためには、ほんらいは、住民が常に政治に関心を示し、ある程度専門的な内容についても知識を身につけ、自己の利益よりも国全体の将来を重視する視点から、投票に参加していく姿勢が求められる。それが面倒だというならば、賢い王様が各分野の専門家を集めて審議会をつくり、有能な家来にそれを遂行させ、かつその決定や遂行を評価する独立機関によって、人事の組み替えを行っていったほうが国全体が栄える可能性だってある。 では現在の日本はどうかと言えば、有権者が政治にそれほど関心を示しているとは思えないところもある。にも関わらず民主主義がそれなりに機能しているのは何故か。1つには、競争社会の中で勝ち上がるということは、ある程度理論的な正しさを反映しており、結果的に、競争社会の成功者の意志を反映するような政府は妥当な政策を遂行しやすいという論理がなりたつためであろう。もっともこれだけでは、個人の利益を最大限に追求し既得の権益を保持しようという勢力が長期間にわたって政治を支配する恐れが出てくる。これにブレーキをかけるのが、平等や福祉を訴える「分かりやすい理屈」ということになるのだろう。上の主張と多少矛盾するけれど、住民の多数が無関心であってもそのバランスがとれている限りは、その国の経済はそこそこ発展し、かつ独裁政権の誕生を阻むしくみが保持されていくものと思う。 |
【思ったこと】
990418(日)[生活]大声で挨拶されても... 先日の県議選に引き続いて、市議選がスタート。岡山市では定員52人に対して66人が立候補したという。大学周辺にも各候補が入れ替わり立ち替わり「立候補のご挨拶」にやってくる。候補者が多いだけに県議選以上の騒々しさである。 98年4月8日の日記にも書いたけれど、宣伝カーからボリュームいっぱいに連呼することは本当に得票を増やす効果があるんだろうか。本当にご挨拶をするんだったら支持者を集めてすればよい。政策については何も主張せずに、「4年前はたいへんお世話になりました。今回もよろしく」と言われたって、何も世話などしていない者にはただ不快な騒音にしか聞こえない。 新人と思われる候補は「若さ」とか「行動力」を強調していたが、これも何をする行動力なのか具体的に言ってもらえなければ説得力に欠ける。大学周辺は田んぼのあぜ道を舗装したような狭い道が多いのだが、「対向車のドライバーさん、ご迷惑をおかけします」なんて大声で言われるのも迷惑だ。ホンマに迷惑だと思うんだったら、そんな狭い道まで入ってくるなと言いたい。 ここで少し過激なことを書くけれど、県議さんや市議さんていうのは、いったいどういうお仕事をする人なんだろう。「○○議員の働きかけで××を実現させた」なんて宣伝している人もいるけれど、その地域に本当に必要な施設であるならば議員が働きかけようと働きかけまいと実現させるのが当然のことだ。つまり、行政側が住民の要望をきっちりくみ取るようなシステムさえあれば、わざわざ議員にお願いに行く必要はない。というより、議員の働きかけで住民へのサービスの優先順位が代わるんだったら、逆に地域間の不公平を助長するだけではないのだろうか。 市長が万が一暴走しそうになった時の歯止め役も必要であろうから地方議会を全面廃止せよとまでは言わないが、せいぜい10人程度の定員で十分ではないだろうか。それと別に、住民からの要望に迅速に対処するようなシステムを行政側に作る。要望処理の情報公開を徹底させるとともに、民間を含めた複数の監視機関が、予算配分や執行の適正性について市民にフィードバックする...こういう形のほうが、不公正な「口利き」や利益誘導に走りやすい議会制度よりも優れているようにも思うのだが...。宣伝カーの騒音に腹を立てている状態で書いたので少し過激すぎたかもしれないが、冷静に考えても、「民主主義なんだから選挙で議員を選ぶのが当たり前」なんていう固定観念について、どこかで見直す必要もあるのではないかと思ってみたりする。 |
【思ったこと】
990505(水)[社会]「公共性」をめぐる対立軸 99年5月4日の日記で、 個人的な希望としては、社説や論評など一切無しで、公正な報道だけに徹した新聞があれば十分と書いたが、これは決して、事実だけをダイレクトに伝えろと言うことではない。ちゃんと書いておいたように なるべく多様な物の見方、価値観を公正に紹介してもらいたいというのがいちばんの希望であった。岡山に戻って新聞受けに溜まっていた朝日新聞をパラパラとめくってみたところ、5月3日の社説にそれに一致するような記述があった。昨日の日記の趣旨から言えば、社説としてではなく一個人の一主張として紹介してもらいたいところであったが、多様な価値観を認めるかどうかという点では的確な指摘であるように思った。 それは、“日本社会の停滞感が強まる中で、「公共性」という言葉を手がかりに、将来像を描こうという試み”の中に見られる対立軸の指摘である。
私が未だによく分からないのは、少なくとも日本国内においては、経済面で自由主義を強調する人々がなぜか前者を志向する傾向にあるということ。生物界の進化の様子を見ても分かることだが、本来、競争原理というのは、異質で多様な価値観が競い合い、時には発展的に衝突を解消することによって質的な進歩をとげる可能性のある場面においてのみ有効に機能する。同質な価値観が支配する単色の世界の中での競争は、単に勝者と敗者、強者と弱者を生み出すだけで、結局は勝者が自分の権益を保持するための「弱者に文句を言わせない道具」にしかならないように思える。 ここで『新明解』で「自由」や「自由主義」の項を引いてみると と定義されていることがわかる。ところが少なくとも戦後の日本では、真のリベラリズムは、党名に「自由」を冠する政党と一致する形では発展してこなかったように思える。政治や歴史のことは全くの素人でよく分からないが、おそらく、社会主義勢力に対抗する形で、自由主義と保守主義が一体化して政治を支えようとしてきたためであろうかと思う。別の見方をすれば、真のリベラリズムはたまたま野党勢力であった社会主義政党(もしくは社会民主主義政党)と手を組む機会が多くなり、このことから、例えば国旗や国歌の強制に反対することが共産主義勢力の主張であるかのように見なされるようになってしまった。少なくとも既存の社会主義国家においては、国旗や国歌の強制に反対する主張が許容されることなどあり得ないはずなのだが...。このほか、平和運動や「革新」についても、奇妙なネジレがあるように思うのだが今回はふれないことにする。 上掲の対立軸の設定は、けっきょくのところは、保守主義と自由主義の本質的な違いをあらわにし、ネジレ現象の解消をめざしているようにも思える。 ちなみに行動分析学は、上掲いずれの立場にとっても有用な技法を提供するものだ。それゆえまかり間違えば独裁国家の政治支配の道具にもなるし、逆にそういう独裁化を防ぐための啓蒙思想にもなりうる。もちろん、新たな公共性の「創造」のために有用な提言を行うこともできるもので、じっさい、スキナーの『科学と人間行動』にも、マロットらの『行動分析学入門』の中にも、さまざまな有益な提言がすでに記されている。いずれ機会を改めて論じることにしたい。 |
【思ったこと】 991208(水)[一般]一思考実験として、大統領と副知事議会と比例議会から成る国を考える 衆院の比例区を20議席削減する法案をめぐっての審議や政党間の駆け引きが大詰めを迎えているという。定数削減自体は大いに結構だと思うが、比例区をそう簡単に減らしてよいものだろうか。小選挙区はそんなに素晴らしいものなのか、そういった根本問題を考えてみる必要があるように思う。 小選挙区制の問題点を思いつくままにあげてみると、
こうした問題を解消するためにはどうすればよいのだろう。現行の法制を一切無視して理想的なしくみを考えてみることも、1つの思考実験として意味があるように思う。
いずれにせよ、今の衆院、参院という二院制度には無駄が多い。また特定地区の支持だけを受けて当選した議員の集合体だけに国全体の運営を委ねること自体には理念的に問題がある。さらに、多少の反対を押し切ってでも遂行しなければならない差し迫った対策と、個々人の価値観まで拘束する可能性のあるような長期的な教育政策が、同じ選出方法で選ばれた人たちによって決められていくことにも大いに問題がある。理念的な議論を抜きにして、安易に「定削は必要→小選挙区の定削は困難→減らしやすい比例区を削減」という決定にはしらないよう慎重な審議をお願いしたいところである。 |
【思ったこと】 _00106(木)[一般]共和主義にみる『公』と『私』 1/7朝日新聞文化欄「歴史と向き合う 下:共和主義にみる『公』と『私』」(川出良枝・東京都立大助教授)は、日本人が理解しにくい共和主義の本質を分かりやすく解説している。「公私」、「自由」、さらには生きがいの問題を考える上で大いに参考になった。 川出氏はまず、共和主義が日本では、“伝統的な保守派からは象徴天皇制を否定しかねない思想として危険視され、リベラルな左派からはその「国家」中心主義的側面が嫌われるという、不幸な位置にある。”とした上で、政治理念としての共和主義が固有の原理と歴史をもつ存在であると強調しておられる。このご指摘のとおり、われわれは余りにも共和主義を知らなさすぎる。少なくとも私が習った社会科関連の授業の中では、民主主義についてはひととおり教わったのに対して、共和主義とは何ぞやについては系統的に教わった記憶が全く無い。国王や立憲君主の代わりに選挙で選んだ大統領が元首となる国の支持体制のことであろう、ぐらいにしか考えられていないところがあった。 川出氏によれば、共和主義とはラテン語のレス・ププリカに由来し「共通のものごと」という意味がある。 ...市民に「共通のものごと」の運営に積極的に参加し、公共の利益の追求に献身することを要請する思想であり....「自由」であるとは、国家権力から解放されていることではなく、自分で自分を統治できることを意味する。国家とは市民が「共通のものごと」に関与することのできる特権的な場にほかならない。という特徴をもつものであり、上記の意味での「自由」は“国家を必要悪とみなす近代自由主義の国家観とは鋭く対立する。”という。 川出氏はさらに、マイケル・サンデルの主張を紹介している。“福祉国家型リベラルは、国家の提供するサービスを受動的に消費するだけの形骸化した「市民」を多数生み出したという点で問題がある。”こと、その一方で、自由競争と自助努力の流れの中でもたらされた経済的不平等に対して、民主党政権を支えるリベラル派が相変わらず社会的公正の観点のみから解決しようとしている点を問題視し、“公共空間の再建と市民の徳の育成”から解決をめざすという点で共和主義はいま米国で再び脚光を浴びているという。 ここまで読み進むと、日本では社民党や共産党がもっぱら社会的公正を主張し、自民党の一部や自由党が共和主義に近い立場をとっているように思いこんでしまう。しかし川出氏は、米国の共和主義論者と、日本のナショナリズム再建論者(←自民党や自由党がそういう論者だと言っているのではない。念のため)が使う「祖国」、「公」、「道徳教育再建」とが似て非なるものであることを強く主張している。特に日本型ナショナリズムで常に強調されてきた「公の優先」について、“「公」のために「私」を犠牲にすることが、倫理的に価値の高いものであるとの思い込みは、共和主義とは無縁である。自由な政治参加を支えるのは、各人が国家に依存しない生活基盤をもち、国家から自立した存在であるという社会条件である。国なくして個人なし、誰(何)のおかげで君たちは繁栄と安全を享受できると思っているのか、といったたぐいのレトリックは、共和主義の精神を転倒されたものである。”というご指摘には、目から鱗が落ちる思いがした。 最後の部分で、川出氏は、日本国内での議論が、公益か私益か、国家か個人かといった二分法の泥沼にはまりやすい状況にあり、結果的にそれが、滅私奉公的なイデオロギーと、徹底した私生活中心主義という対立に向かってしまいがちであることを指摘しておられる。この点は特に、労働、趣味、生きがい、多様な価値観許容などの諸問題を考えるにあたって大いに参考にすべきところだ。これを機会に私も、体制論としての共和主義とは位相を異にする共和主義の理念について学んでみたいと思う。さらに上で引用した「国家に依存しない生活基盤をもち、国家から自立した存在である」社会条件がどのような行動随伴性によって実現可能なのかについても考えていきたいと思っている。 |