じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
【思ったこと】 991023(土)[教育]日本人が「日本型英語」を使えるようになるための「Japenglish」のすすめ(1) 少し前にWeb日記界で英語教育をめぐって議論がたたかわされたことがあった。私は話題の元になった本をまだ読んでいないのでその件についてはノーコメントだが、英語が使えない日本人が多いという現実からみて、やはりいまの英語教育は改めなければならないと常々考えてきた。 初めにおことわりしておくが、ここで改善を試みるのは「話す」ことと「書く」こと。「読む」ことと「聞く」ことは従来の教え方である程度成功していると思うし、CD、二カ国語放送、ネットなどメディアが多様化しつつある現代、従前の方法を踏襲しても自然に良い方向に向かうものと考えている。 さて、そもそも多くの日本人は何で英語を「話す」ことや英語で「書くこと」が苦手なのだろうか。その一因として、言語上の文法構造の違い、文字の違い、発音の違いがあることは確かだろう。しかし、どうもそれだけではないように思う。少し前のがくもんにっき。さんの主張からヒントを得て、行動分析学的視点から見直してみるに、どうも日本には「英語を話す」という行動が自発されにくく、かつ強化されにくい雰囲気が支配しているのではないかという気がしてきた。 ここでまことに唐突ではあるが、箱の中のネズミに「室内の照明が明るい時だけ、壁から突き出ているレバーを10回押して餌を得る」という行動を形成させるにはどうしたらよいかを考えてみたいと思う。オペラント条件づけの教科書を見ればすぐに分かるように、これは正の強化、つまり、ネズミが基準を満たした直後に餌を提示するという条件づけによって実現させることができる。 しかし、何の学習経験も持たないネズミを箱の中に入れて、いきなりこの複雑な基準(=「照明が明るい時にレバーを10回押せば餌が出る」という随伴性)に晒したところで、まず成功の見込みは無い。ネズミは最初のうちは箱の中を動き回り探索したり出口を探したりするかもしれない。偶然にレバーにぶち当たって回路のスイッチを閉じることもあるだろうが、10回続けてぶつかることは無いので、まず餌は出てこない。そのうち隅のほうでうずくまって居眠りをするに違いない。 ではどうすればネズミを訓練することができるのか。それにはシェイピング(shaping)の手続がぜひとも必要だ。
以上の訓練で大切なことは、少なくともシェイピングの初期の段階では「誤反応」であっても強化するということ。初めから、誤反応と正反応の区別をするのではなく、よく似た反応がたくさん起こるように強化し、反応が頻繁に生じるようになった段階で適切な部分だけを分化強化し、さらには手がかりとの対応関係(=弁別)を学習させていくということである。 さて英語教育の場合は、どうだろうか。学校で教わるということもあって、誤反応には学習の初期の段階から罰(=テストで減点される、先生から矯正されるなど)が与えられる。このことが結果的に、「話す」、「書く」という反応全般を自発しにくくしているのではないかというのが、私の到達した結論だ。 この「話す」、「書く」反応の自発を弱化する仕組みは、海外旅行や学会発表で英語を使おうとする時にも常につきまとう。これはおそらく「誤反応は恥である」という日本人特有の自己強化・弱化スタイルにも影響されていることと思う。そして、ヘタな英語、あるいは文法的に間違った英語を使う人をバカにするような風潮(=誤反応を弱化する社会的な随伴性)が、「話す」、「書く」行動全体を抑え込んでいるのである。 ではどうすればよいか。一口に言えば、間違った英語を使ってもそれをけなしたり、罰を与えたりしないこと。これに代えて、「そうとも言う」を前面に出した「日本型英語」を普及させることではないかと考えるに至った。 この、「そうとも言う」というのは「クレヨンしんちゃん」の野原しんのすけが、言い間違いを指摘された時に答える言葉だ。つまり、周囲が「正しくは○○だよ」と誤りを正そうとした時に、「僕の言い回しは間違っていない。あなたの言い方も別にある。」という形でとりあえず自分の誤反応を弱化しないままにしておくという対処法である。 時間が無くなったのでこの続きは明日以降とさせていただくが(おっと、大学教育関連ネタとか安全管理ネタの連載も続けなければ...)、私が提唱する「Japenglish」の概要は次のようなもの。
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【思ったこと】 991024(日)[教育]日本人が「日本型英語」を使えるようになるための「Japenglish」のすすめ(2) 昨日の日記の続き。昨日の日記では日本人が気軽に「英語」で話したり書いたりできるようになるためには、
これによって日本人は、多くの英米人を前にしても文法的な間違いに気兼ねすることなく思った通りにJapenglishを使うことができるし、「話す」反応や「書く」反応が多発されることで結果的でネイティブな英語に近い表現を身につける機会も増えていくものと予想される。 このように「自分が使うJapenglishは常に正しい」と考えていくことに対しては、それでは、個人個人がそれぞれ好き勝手に固有の表現を使うことになって言語としては成り立たず意思の疎通が図れないのではないかと考えるむきもあるだろう。しかし、もともとネイティブな英語でろくに意思の疎通が図れないなら同じことではないか。そもそも言葉というのは、コミュニケーションのやりとりの中で自然に共通化が進んでいく特徴をもっている。まずは何でもよいから自発することだ。 それと、従来、日本人が使う英語には日本語起源の特有の「誤り」があると指摘されてきた。日本語起源であるならば、個々の日本人が使うJapenglishにも共通した特徴が含まれているはずである。みんながJapenglishを使えば使うほどその共通の特徴が法則化されていき、英米人もそういう日本型英語の特徴に配慮してJapenglishを聞いたり読んだりしてくれるようになるだろう。 もともと、ネイティブな英語とか言ったって、イギリス英語、アメリカ英語、オーストラリア英語ではかなりの違いがある。パンツ(pants)とかベスト(vest)の使われ方を見てもわかるし、haveとかdoの使い方にもいろんな違いがある。これらはイギリス起源の英語がアメリカ大陸やオーストラリア大陸で使われていく過程で、日常生活に都合のよいように変容していったものであり、米語をイギリス英語の誤用と考える人は居ない。 そういえば、妻から「英米人はターミナル・ホテルという言葉を嫌がる」という話を聞いたことがあった。それはネイティブな英語で解釈するから「終末」、「末期的な」、「救いがたい」というような悪いイメージが出てくるだけのこと。日本型英語ではターミナルホテルとは駅前の便利なホテルのことを言うのだと受け止めてもらえばそれでよい。わざわざターミナルの看板を外す必要は無いだろう。 かつて我々のご先祖は、やまとことばの不足を補うために中国語の文字部分(=漢字)と熟語(=漢語)を日本語に大量に導入してきた。しかしそれは、中国人を先生として学んだというよりも、直輸入できる部分だけを組み込み、あとは日本語独自の文化に合わせて自力で利用していったのである。 中国語ではredは「赤」ではなく「紅」、beautifulは「美」ではなく「麗」、例えば「美人」は美しい人ではなく「美国人」つまりアメリカ人のことを意味するなどと聞いたことがある。「汽車」は蒸気機関車ではないし、トイレのことを便所とは呼ばない。しかし、日本語と中国語の漢字熟語に不一致があったからといって、それを中国語の誤用だとは考えない。日本人は自信をもって漢字を使っているのである。それと同じスタンスでJapenglishを作ったってよいじゃないか。それとも、我々の心のどこかに欧米人に対する劣等感、あるいは欧米文化崇拝傾向が残っているのだろうか。 いろいろ書いてきたが、1つだけ重要なことを書き忘れていた。それは、 Japenglishを使う時は日本語は忘れてJapenglishで考えろ。ということだ。いま上に和製英語のことを書いたけれど、私がJapenglishとして提唱しているものは、日本語に依拠した和製英語とは異なる。日本語でもネイティブな英語でもない。日本人が使う、日本語文法の特性をある程度反映した独自の英語なのである。いつぞやピーター・フランクルさんが「いろんな国の言葉を知っていると混乱することはありませんか」という質問に「自分は、ある国の言葉を喋る時はその国の言葉だけで考えいるので混乱することはない」と答えていたのを思い出した。やはり和文英訳ではいけない。Japenglishで話す時は、日本語で浮かんだ言葉を英語に訳していくのではなく、事物を見て自然に浮かんできた英語を浮かんだままに口に出してみるということに尽きる。 |
【思ったこと】 991025(月)[教育]日本人が「日本型英語」を使えるようになるための「Japenglish」のすすめ(3)減点をせず自由な「英語」表現を自発させる英語教育のススメ 昨日の日記の続き。本日は、中学でどう英語を教えるか、私なりの考えを述べたい。初めにお断りしておくが、私は英語教育の専門家ではない。ここに述べることは、シェイピングの原理からの提言。「これが正しい」という主張ではなく、「こういうことも検討してみたら」という思いつき程度のものであることにご理解いただきたい。 まず、10月23日の日記で記した 少なくともシェイピングの初期の段階では「誤反応」であっても強化するということ。初めから、誤反応と正反応の区別をするのではなく、よく似た反応がたくさん起こるように強化し、反応が頻繁に生じるようになった段階で適切な部分だけを分化強化し、さらには手がかりとの対応関係(=弁別)を学習させていくということである。をどう実現するか考えてみたい。このために必要なことは、教育場面において生徒が誤反応を自発しても決して弱化しないことだ。例えば英語の小テストで英作文問題を10題しか出さなかったとすると、10題中4題の解答に誤りがあれば最大40点分が減点されるが、これは誤反応を弱化したことになるので望ましいテストとは言えない。むしろ、100題とか200題というように制限時間内には決して全問解けないぐらいのたくさんの問題を出して、(ここではネイティブな英語文法からみて)正しくできた解答の数をそのまま点数とする。満点というような上限は設けない。もちろん減点もしない。こうすれば、英語で書く、話すという全般的な反応(誤反応を含む)の自発を弱化する恐れは小さくなるはずだ。 次に、24日の日記で取り上げた Japenglishを使う時は日本語は忘れてJapenglishで考えろ。の実践。このためには、和文英訳直訳型の訓練を一切ヤメることだ。例えば、 次の日本語文を英語に直しなさい。「恋愛だけが人生じゃあないさ。他にも素敵な人がいっぱいいるはず。過去のことは忘れて前向きに生きていこう。」という問題を出すのではなく。 あなたの親友が失恋してしまいました。あなたならどういう言葉をかけますか。英語で思ったとおりに答えなさい。という問題を出せばよいのだ。あるいは、ある美しい風景写真を見せて この写真を見てあなたが感じたことを、感じたままの英語で書きなさい。でもよい。さらに創造性テストみたいになるが 「墓」、「コイン」、「船(舟)」という3つの言葉全体から連想される英語の単語または文をできるだけたくさん書きなさい。なんていう問題でもよいだろう。 このようなことを書くと、「それではどうやって採点すればよいのか」、「英語の先生に負担がかかるのではないか」といった疑問が出てくるかもしれない。しかしそれは(ネイティブな英語からみた)「誤反応は直さなければならない」という固定観念にとらわれているから疑問に思うだけのことである。誤反応を直さなくてよいとすれば、教師側も減点に気を遣う必要はない。得られた解答のなかで「これはすばらしい表現だ」と思ったところだけを褒めればよいのである。 この連載はとりあえず本日で終了する予定であったが、時間が無くなったのでもう1回分だけ延長の予定。次回は、
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【思ったこと】 991026(火)[教育]日本人が「日本型英語」を使えるようになるための「Japenglish」のすすめ(4)冠詞や不規則動詞は使わなくてもよいという英語 昨日の日記の続き。この連載については、10/26夜までの時点でがくもんにっき。さんや毎日の記録(99/10/27)さんなど複数の方から御意見をいただいた。本来ならば個々のご批判やご質問にお答えするべきところであるが、連載としてはとりあえず今回で終了。種々のご意見に個別にお答えするのではなく、Q&Aの形で一般化して近日中に第二弾として連載させていただく予定ですのでご容赦いただきたい。 じつは私は、今回の議論の発端となった『日本人はなぜ英語ができないか』をまだ1頁も読んでいない。これは私がWeb日記上で意見をまとめる際によく使うスタイルであり、この「じぶん更新日記」の名前もここからきている。
さて、第一弾の最終回は、初級レベルの英語教育の簡略化についての提言。これまで述べてきた「Japenglish」の基本は「誤反応を弱化せず、自信をもって話す・書く」ために必要な条件をそろえることにあったわけだが、初級レベルではそもそも正反応も誤反応も何も自発されない。この段階では、なるべく簡略化した英語を教えたほうが弱化要因を解消できるのではないかと思う。そこで、こんなことを検討してみてもよいのではないか、と思ったことを以下に箇条書きにしてみる。あくまで問題提起であって、議論が進む中で撤回する部分が出てくるかもしれないことをあらかじめお断りしておく。
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【_00321::ちょっと思ったこと】
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【_00403::ちょっと思ったこと】
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【思ったこと】 _00405(水)[心理]「日本型英語」と英語「第二公用語」論議(4)「言力」と言葉の呪術的な使い方 昨年10/26の日記の続き。“日本人が「日本型英語」を使えるようになるための「Japenglish」のすすめ”というタイトルで連載してきたが、このところの「英語公用語論」談義をふまえて連載のタイトルを変更した。 朝日新聞連載中の「英語公用語論」2回目(4/5)は丸谷才一氏が登場。丸谷氏は「英語第二公用語」について明確な概念規定が無いことを指摘された上で、「二十一世紀日本の構想」懇談会報告書にある「言力政治の強化」の問題点を指摘しておられた。 この「言力」というのは、戦前の「権力政治」、戦後の「金力政治」に対比させたもので、これからは言葉を武器とする言力政治の時代だと報告書に述べられている点。丸谷氏は、民衆を説得する場合の言葉の使い方には、本格的な使い方と、呪術的な使い方があり、「尊皇攘夷」、「八紘一宇」、戦後の「民主主義」、小沢一郎氏が使った「守旧派」、「普通の国」などと同様に、「英語第二公用語」が呪術的に使われていると指摘、「英語第二公用語」の概念だけでなく「英語を第二公用語とすることも視野に入れる必要がある」という表現の曖昧さを含めて、ストライクゾーンを決めないで野球をするものだと批判しておられた。 言葉の呪術的な使い方というのは、この日記の連載で言えば、「キャッチフレーズ」とか「レトリック」と同じような意味をもつものと言える。小渕前首相が精力的に作った「有識者会議」では、この種の呪術的な使い方がまかり通る恐れがあった。というのは、「有識者」として選ばれた委員諸氏は「明確な概念規定」を重視する人達ばかりとは限らなかったからである。 こう言っては失礼かもしれないが、河合隼雄先生御自身の心理学でも、言葉が呪術的に使われているところが多々あるように思える。私自身が学部生時代に教育学部の河合先生の授業を直接拝聴し、結果的にそれと相容れない徹底的行動主義の方向に進んだのも、そうした呪術的な使い方に嫌気がさしたためであったかもしれない。 丸谷氏も指摘しておられるように、「言力政治」というのは、“身分だの財力だのにはよらないで、言葉の力で民衆を説得して、それによって政治を行うこと」。河合氏の「(公文書類の副文に英語を添えることで)翻訳不可能なあいまいなお役所用語は排除され、的確で分かりやすい日本語にもなるだろう。」というご指摘(4/3の日記参照)自体は、「明確な概念規定」を求める1つの方法を提示したものであったと言えるが、そのキャッチフレーズとなるべき「英語第二公用語」自体が明確に概念規定されていないというのは皮肉であったとも言える。 もっとも、具体的な提言ではなく起爆剤として提示するだけなら、概念規定が曖昧なほうがかえって後の議論が活発になる可能性もある。じっさい、最近の大学改革論議などでも、まず概念規定の曖昧なカタカナ語がヒョッコリ飛び出し、それを明確にする議論を積み重ねる中で合意がはかられるというプロセスがしばしば見受けられる。 なお、朝日新聞オピニオン欄の連載はさらに継続しており、4/6には月尾嘉男・東大大学院教授のご意見が掲載されていた。「英語第二公用語論」が、英語の当面の攻勢に対する緊急避難と言える点、15〜24歳世代の英語使用者数は、中国語、ヒンディー・ウルドゥー語、アラビア語に次いで4番目になっていること、機械翻訳の活用などについても指摘しておられた。 |
【思ったこと】 _00414(金)[言語]「日本型英語」と英語「第二公用語」論議(5)「書けなければ話せない」 4/15の朝日新聞文化欄で、杉本良夫・ラトローブ大学教授(社会学)が『「話す力」より「書く力」』という主張を展開されていた。杉本氏は米国ピッツバーグ大学で社会学博士、1973年以来、オーストラリアのメルボルンに在住され、英語圏での生活は33年間にのぼるという。 杉本氏は「英語第二公用語化」に関して「...「英語帝国主義」批判さえ英語で書かなければ世界各地へ届かないという現実は明らかに偏っている。英語は学校教育の中で選択科目であっていいと思う。」と批判的な見解を述べられた上で、その一方で「カタコト英語を話せる人たちは、すでに量産されてきた。問題は論理を組み立てて英語で自分の考えを述べることが出来るようになる道筋」、「...学校で六年も十年もの時間を投資した人々が、この言語を通して複雑な意思伝達が出来ない現状は修正を必要としている。」として、英作文重視を説いておられた。 杉本氏はさらに、英作文重視のメリットとして
以上が私の理解した範囲での杉本氏の主張だが、このうちの「書けなければ話せない」という部分は、授業や講演の体験からみて思い当たるふしがある。このWeb日記など、本日分を含めて早朝の短時間に書き上げてしまうことが殆どなのであるが、それでも3年近く書き続けているうちに、「書くように話す」ことがずいぶん上手になったように思う。「書くように話す」というのは、草稿を棒読みすることではない。紙切れ1枚程度に喋りたいテーマをメモしておき、日記を書くように話していくと時間内にきっちり話をまとめることができるという意味だ。もっとも、自分の話をテープに録音して聞き直しているわけではないので、聞き手にとって分かりやすい話になっているのかどうか確証はない。 いっぽう、本題の英語教育との関連ではいくつか疑問に思うことがある。以下に列挙すれば、
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【思ったこと】 _00628(水)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(16):大学での外国語教育は本当に必要なのか(前編) 文学部の外国語教育の今後のあり方を検討する会議が行われ、私もFD委員として出席した。会議の内容については大学の内部問題に関わることなのでここには書けない。代わりに、これを機会に、外国語教育について最近思っていることをまとめておきたいと思う。 まず、ひとくちに外国語教育と言っても、英語とそれ以外の第二外国語とでは考え方が大きく違う。英語の場合は現状でも中学、高校の6年間すでに基礎を習得し、入学試験でも一定レベル以上の点数を取って入学してくることを忘れてはならない。いっぽう、第二外国語は通常、大学に入ってから初めて学ぶものである。スタッフも、指導方式も、履修形態も、英語と第二外国語ははっきり分けて考えたほうがよいと思う。 英語教育に関しては、少し前にも連載として取り上げたことがあった。とにかく、大学での英語教育での議論で一番抜け落ちているのは、中学や高校の英語教育をどう評価し、どうリンクさせるかという議論である。また、入学試験に際して、どの程度の英語力を要求するのかも把握しておく必要がある。 よく、大学を出たクセにちっとも英語が喋れないとか、書けないとか言われるが、それが、大学に入った後の英語教育の不足によるのかそれとも、高校までの英語教育に問題があるのか、このあたりはきっちり押さえておく必要がある。高校までの英語教育に問題があるのだったら、大学で同じ教え方をしても6年間すでに受けた英語教育に2年分の上乗せをする程度であまり効果は期待できない。高校までと違う画期的な教育法があるというならば、それがなぜ大学に入るまでに実施できないのかを明らかにすべきだ。 高校までの英語教育が十分に成果を上げられないのは受験戦争のせいだと言われることがあるが本当だろうか。私は毎年、センター試験の英語問題にチャレンジしているけれども、問題自体はよくできている。これで8〜9割の得点をとれる受験生だったらば、改めて大学で英語の基礎教育を行う必要がどこにあるのか疑問。それよりも、専門の英文をたくさん読むとか、英検やTOEICなどの外部試験で好成績をおさめるために精が出せるような学習機会を与えるべきであろうと思う。 多くの大学生が英語を話せないことは事実だろうが、だからと言って大学で週2コマ程度の英会話専用授業を導入しても成果が上がるとは思えない。こういうものは、日常場面で使える環境が無ければ蓄積されない。そのためには、英語を母国語とする留学生との交流場面を増やすとか、英語圏への短期留学を単位に認定するというように、多面的な体験を評価するシステムを導入することが必要だ。 全学の英語教育を担当する教員として今後は、英文学や英語学で研究業績を挙げた人に代えて英語教育の専門家を採用すべきだとの声もよく聞く。確かにそういう教員が必要であろうとは思うけれども、いくら英語教授法のベテランであっても、教室に何十人かの学生を集めて一斉に行うような授業では指導に限界があるだろう。 大学生なんだから、自分で学ぶことが基本。マルチメディア教材、ラジオやテレビの英会話講座、ネットを通じた自習システム、英文によるWeb日記書き、英文によるネット掲示板やMLでの意見交換、さらには上に述べたような留学生との交流や自らの短期留学など主体的な学習機会を多様に保障し、教員は学生それぞれの進度を把握しそれらの自習活動に適切なアドバイスを行えばよい。 このほか、大学院生のレベルでは英語で口答発表したり英語論文を執筆するための特別の訓練が必要になる。従来これは、それぞれの講座の指導教授や先輩院生の指導に頼るところが多かったが、例えば能動表現を増やすとか、簡潔で平易な言い回しに修正するといった指導はネイティブスピーカーでないとチェックしきれないところがある。そういうスタッフを一定数揃えることはぜひとも必要であろうと思う。 これまでの英語教育論議では、すべての学生をひとかたまりに捉えて、基礎学力の1つとしてどの程度の英語力が必要か、そのためにはどういう教育が必要かという議論が中心であったと思う。しかし、そもそも入学段階からさまざまなレベルにある学生たちを同じ教室に集めて一律に単位を認定することには問題がある。進度別にクラスを編成するとか言ったって、同じ名称の単位としてしか認定されないなら、低いレベルのクラスに入って楽をしたほうがよいという学生も出てくるだろう。教室と時間数に縛られた画一的な英語教育に代えて、体験型の自習と外部試験を重視しつつ、学生の個々の努力と成果に応じてそれだけ多くの単位が認定されるようなシステムを導入することが望まれる。 フランス語やドイツ語、ロシア語、中国語、朝鮮(韓国)語など第二外国語の教育についての考えは明日の日記で述べることにしたい。 |
【思ったこと】 _00629(木)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(21):大学での外国語教育は本当に必要なのか(後編)第二外国語は必要か 6/28の日記の続き。きょうは英語以外の外国語(ドイツ語、フランス語、ロシア語、中国語、韓国[朝鮮]語)を大学で教えることについて考えを述べてみようと思う。 第二外国語の教育をめぐっては、これまで「大学生にとって第二外国語を習得させることが必要かどうか」という議論ばかりが行われてきたように思う。しかし、こうした理念的な議論とは別に、それぞれの大学の実状に合わせてぜひとも考えなければならない問題がある。それは、 うちの大学に入ってくる学生は、第二外国語を習得するだけの余力があるかという現実的な議論である。 単に「第二外国語が必要かどうか」というディベートを行うならば、必要性肯定論のほうが有利に展開することは目に見えている。例えば九州大学文学部が公表している文学部における言語教育では「文学部における複数言語習得の必要性」が説かれている。それはまことにもっともなことであると思うが、いくら意義があるからと言って、すべての学生に第二外国語まで習得する能力や時間的余裕があるのか、この点は机の上の議論だけでは済ませられないだろう。 おそらく、旧帝大レベルの学生であれば、専門分野はもちろん、英語を実用レベルまで習得し、さらに第二外国語を一定レベルまで学ぶことはそれほど不可能ではなかろうと思う。しかし、6/27の日記に記したような、大幅に定員割れしている私立大学で同じレベルを課したらどうなるか。大学間の格差を強調することは本意ではないけれど、テレビの街角英語インタビューで大学生が狼狽える様子を見ていると、そういう全入大学では、第二外国語などよりも、中学校の英語の復習、あるいはことによれば、国語の再教育に時間をあてたほうがより有意義で実効性のある教育になるのではないかと思う。 私の学部の場合はどうだろうか。岡大文学部の学生の場合、きっちりと教育すれば、専門分野に加えて、相当の英語力を身につけさせることは可能ではないかと思う。しかし、第二外国語まで習得できる余力があるかどうかは今ひとつ不明な点がある。比較的優秀と言われる心理学の学生でも、かつて第二外国語が必修であった時代には、ドイツ語2単位が不足したために留年となった学生もいた。また、現実に、必修化されている学部の学生の中に再履修でやっとこさ単位を取るという学生が多ければ、結果的に専門分野の教育に支障が出ていることも予想される。要するに第二外国語教育を充実すべきかどうかという問題は、理念的な問題としてではなく、「学生の勉学のバランスを考慮した上で、それを学ぶ余力があるかどうか」という現実的な問題としてとらえていくしかないと思う。 このほか、第二外国語については、仮にそれを課すとしても、初修コースとしてどのレベルまで達成可能かという別の問題があるように思う。今回FD委員として、各外国語授業のシラバスを拝見させていただいたが、私がある程度読み書きできる第二外国語に限って言えば、半期で15回程度の内容であればNHKラジオの各国語の講座を聞いても十分に習得可能な内容にとどまるように思う。とすれば、そのためにわざわざ外国語教育のプロフェッショナルを招いて教室で一斉に授業を行うメリットはない。昨日述べた英語教育の場合と同様で、教員はもっぱら学生の主体的な学習のアドバイザーに徹し、体験型の自習と外部試験を重視しつつ、学生の個々の努力と成果に応じてそれだけ多くの単位が認定されるようなシステムを導入したほうが望ましいのではないかと思える。 以上、2回にわたって外国語教育についての私の考えを述べてきたが、図らずも「大学での外国語教育は本当に必要なのか」に対しては消極的な論調になってしまった。しかし、私は、大学での外国語教育が不要だとは思っていない。全学生に対して画一的な教育を課することには反対だが、学ぶ意欲をもった学生に対しては積極的に勉学の機会を与えることが必要であろうと考えている。 そこでより建設的な視点から、これまでの「○○語・○○文学専攻」とは別に、それぞれの外国語を使ってコミュニケーションができるスキルを習得することを目的とした「実践○○語学専攻」という履修コースを新設することを提案したいと思う。これらのコースは、主専攻としてそれを学ぶ学生(大学院を含む)を受け入れるとともに、全学的に副専攻あるいは複数専攻制を導入した上で、第二専攻として学ぶ学生に対しても教育を行うこととする。 こうすれば、第二外国語を学ぶ余力の無い学生が再履修で悩むこともないし、学ぶ意欲のある学生に対しては、単なる必要単位のクリアではなく、「実践○○語学」という学士号を合わせて取得することが可能となり大いにやりがいを与えることになる。こうした方向での改革を学部、あるいは全学に向けて提案していきたいと思っている。 |
この連載はその2に続きます。 |