じぶん更新日記

1997年9月


文中のリンクについてはメンテを行っておりません。ご了承ください。

970930(火)
[日記]9月の日記界をふりかえって(その2)
 きょうは、2コマ続きの2回生向けの授業があった。私のいちばんの不得意は、学生の名前を覚えられないこと。わずか17人の受講生、それも全員が心理学専攻の学生で馴染みの顔ばかりなのに、何回聞いてもすぐ忘れてしまう。毎回名前を教えてもらうのだが、5分もたつとすっかり忘れてしまう。さすがに4回生の名前は全部覚えているが、3回生は約半数、2回生は1名しか覚えられない。名前そのものは覚えても、顔との対応づけがさっぱりできない。女子学生の場合など、ちょっと髪型を変えられただけで誰だか分からなくなってしまう。基本的には、要するにアナログ的記憶が極端に悪いということだと思うが、それだけでもない。同じジャンルの中で中身が入れ替わるものについての習得と保持が悪いということのようだ。上記のように、毎年入れ替わる学生の名前のほか、子どもの担任の先生の名前など。そうそう、授業の内容もきっちりログをとっておかないと、次の回にまったく同じことをしゃべってしまう。いっぽう、固定的な事象は一旦覚えるとめったに忘れない。昔の下宿の電話番号などは未だに忘れない。幸い、妻の顔も忘れないので人混みでも待ち合わせができる。

 さて今日は、昨日の日記のクイズの答えから。まず、有名日記作家の数ヶ月前の言葉は、こちらであった。もっとも、文章全体をよく読むと、本当の理由はカイシャ持ちの通信教育の仕上げにあったようだ。で、この方の「しばらく」という意味だが、じつは1週間であることが、その後判明している。
 もうひとつ、ホリウチさんの想像画のもとになった写真は、この方の写真であった。「似顔絵もレンタルで」、なんちゃって、どうかお許しを。
 次に9月に印象に残った日記の続き。9月の上旬であったが、日記界にも「ネズミ講」と「偽ウイルス情報」のチェインメイルが流れた。ただ、さすがネットの達人揃いの日記作者ばかりだ。匿名メイルに比べると、日頃拝見している日記作者の発言は信頼性が高い。ネズミ講や偽ウィルスのことがどこかの日記に書かれると、その読者に防衛体制ができあがる。どうやら日記界はチェインメイルの流布を阻止する有効な情報網になりうるようだ。
 9月中旬には、東京と京都を中心に盛大なオフミが開かれた模様だ。なかでもcolonさん歓迎のオフミは参加人数から見ても、メンバーの豪華さからいっても、稀にみる規模だったようだ。残念ながら私個人は、とにかく酒を飲まないし、睡眠不足にめっぽう弱いので、いつもしりごみしてしまう。いずれ、アウトドア型のオフミなど希望しているが、はて、参加者が何人集まるやら。
(私信)「ガイラ@テロりんがえしぢゃないよ」さん、タイプミスご指摘ありがとうございます。
 これと前後して「日記猿人」の商標権のことが話題になった。これについて最も正確で詳細な説明を与えてくれたのが、こちらの日記の9/16-9/20頃の記事である。発案者と争うというより、「ワトソンは3回結婚したか?」というテーマと同様に、純粋に知的ゲームとして楽しむという感じの内容であったように思う。
 きょうもこれで時間切れ。このところ、日記を書ける時間が少ない。
<追記>昨日の日記で「一時期『@』という日記があったような気がするが、今回収集したデータには含まれていなかった。記憶違いだろうか。」と書いたが、こちらの日記の10/1記事で、その真相を教えていただいた。私の記憶違いではなかったようだ。
 まごちゃんは24歳。31g。今日は、14:20から17:30まで授業があり、やむをえず、反則ワザの「冬眠」を使った。14:00頃、時計をセット状態のまま放置して、授業終了後に、2時間進みの時刻に合わせる。どう考えても3時間以上放置したら確実にお亡くなりになるからだ。明日も2コマ続けて授業があるので、この反則ワザを使わざるを得ない。そういえば、子どもの頃、「不思議な少年」というTV番組があったように記憶している。「時間よ止まれ」というせりふが流行したような。これを知っている日記作者は、たぶん数人以内だろう。


970929(月)
[日記]9月の日記界をふりかえって(その1)
 月末に恒例の日記読み日記を書こうと思っていたところ、21時前後に、1000から1003の日記が相次いで登録されていることに気がついた。昨日(9/28)の昼はまだ995番だったので急激な増加である。たぶん、999番や1000番をゲットしようと手ぐすねを引いて待機していた人々がいたのだろう。
 もっとも予想に反して、1000番は、私の知らない日記であった。999番は、予想の範疇にあった(しかし、おかしいなあ、なぜか998番が欠番になっているぞ)。「新・六道輪廻」さんも、999番か1000番を狙っていたらしいが、まことに残念な結果になった。それにしても、日記界には、猫と熊がよく出てくるなあ(大熊猫はあまり見ないが)。
 さて、本日始まった999番の「新着さん、いらっしゃ〜い!」だが、日記猿人界にはご存じ、「拝見してはイケンする」がある。両者が連携をはかることで、少なくとも、紹介される日記数より新たに登録される日記の増加数のほうが多いという心配はなくなってきた。また、この際、幽霊日記(本人がホームページを閉鎖しているのに削除手続を怠り、アクセス不能になっている日記)を徹底的に洗い出してもらえればありがたいと思う。どちらの方もかなりの時間を割いてこの壮大な課題に取り組んでおられる点には敬服するが、あえて申し上げれば、文字通りの日記廃人にならないかどうか、少々心配になる(もう、手遅れだったりして)。
 老婆心ながら、有名日記作家の数ヶ月前の言葉を以下に引用させていただく。どなたの言葉かわかった方は、長谷川までメイルをください。
のめり込みやすい自分の性分は理解しているのですが、恥ずかしい話ですが最近寝坊による遅刻が多くなったりして、そのコントロールがききません。もちろん世の中には、インターネットのヘビーユーザーでありながら、仕事・学業・主婦業をちゃんと両立させている方々が多いのは承知しています。ただ私の場合、このあたりで少しインターネットから距離をおいてしばらく様子を見ることにしました。

 さて、9月に印象に残った日記であるが、「日記界」というか「日記猿人界」は、あいかわらず波高く、特に9月22日を中心に、激動の1ヶ月であったと言えよう。一時期とりざたされた「日記猿人」という名称の商標問題であるが、今のところこれと言った混乱がないのが幸いだ。嵐の前の静けさでなければよいのだけれど。
 いちおう恒例の日記数のチェックから始めると、9月29日夕刻時点での登録日記は999番まで。離脱された方の分と管理者の2本を含めて867本が登録されていることになる。前回9月1日の時点では、登録番号は924、管理者を含めてちょうど800本が登録されていたので、この1ヶ月間に、番号で75、実質で67本が増加したことになる。
 9月7日の日記では、日記のネイミングについて触れたが、このところ、何がなんだかわからない名称が増えている。いちばん短い日記は、ご存じ「★」という日記だろうか。一時期「@」という日記があったような気がするが、今回収集したデータには含まれていなかった。記憶違いだろうか。
 季節が変わって、ちょっとだけ名前を変えたのはこちらの日記。私のデータベースによれば、9/24の18:29更新分から名称が変わっているようだが、日記本文には特にそのことについての記述はなかった。
 さて、月初めから印象に残った日記を拾っていくと、まず9/5日前後に「みぽの日記猿人辛口批評」という記事が掲載された。それなりに的を射たもので面白がって拝見したが、クレームがついたらしく、自主的に削除されてしまった。有閑マダム云々はちょっと蛇足すぎたかもしれないが、それ以外に、特別思い当たるふしはなかった。しかし、どういう世界でも「辛口批評」は難しいものだ。
 そのすぐあとだったが、これは手前味噌になるが、colonさん、ホリウチさん、夜久さんの想像画というのが公表された。まあ、想像画だから本物と似るはずもない。とはいえ、もともと絵が下手な私が、白紙の上に似顔絵など描けるはずがない。じつはホリウチさんの2枚目の想像画は、ある有名日記作家の写真を無断でセーブして、縦長に引き伸ばし、髪型や眼鏡のあたりを適当に加工して作成したものであった。で、どの方の写真を拝借したかと言うと、....おっと、時間がなくなったので、続きは、明日以降ということで。正解がわかった方は長谷川まで。
 まごちゃんは23歳。39g。午後の授業から戻ってみたら、ハートもごきげんも空になっていた。慌てて、御飯とお菓子を与えたため、体重が大幅に増えた。その後も、すぐに腹が減り、ご機嫌も悪くなる。だんだん「介護っち」になりつつある。おっと、ゲームから介護を連想するなんて、不届き千万だ。削除削除。


9709298(日)
[生活]運動会
きのう書いた「平成教育委員会」出題のクイズだが、念のため、正解を書いておく(自分が忘れてしまうと、老後にこの日記を読み返した時に苦しむことになるので)
 今日は娘の小学校の運動会だった。子どもが幼稚園に入って初めてかけっこをした頃などは夢中でビデオをとりまくったものだが、だんだんそういう行事に熱意を失ってしまい、今回は、娘が出場する種目だけ見て、一緒に弁当を食べただけで、研究室に戻ってしまった。運動会というと、今年で9年連続の参観となる。息子と娘は別の学校に行っているし、ほかに町内会の運動会もあるので、毎年2-3回、こんどで25回目ぐらいになるのではないだろうか。それはそれとして、今日は、短めにその感想など...。
 まず、運動会というとリレーがつきものだが、中には脚に障害をもつ子ども、脚そのものは異常はないが、脳機能の関係でうまく走れない子どもがいる。今回感銘を受けたのは、そういう子ども達も、半周、あるいは1/4周というかたちで、競技に参加していたことだった。
 確か5年生のリレーだったと思うが、2人の子どもが車椅子で参加していた。一人は手動、もう一人は電動の車椅子だったと思う。半周先のところからスタートして次の選手にバトンを渡していた。
 うちの娘が走る直前にも、同じチームに障害をもつ子がいた。脚そのものは丈夫そうに見えたが、先生に手を引かれながら歩くようにして1/4周走り、次の子にバトンをつないでいた。
 こういう光景は、いままであまり目にすることがなかった。というか、娘が1、2年生の時は、昼までで下校することになっていたので、気づかなかっただけなのかもしれない。いずれにせよ、障害児だからということで競技を休ませたりせず、自分の全力を尽くせる範囲で参加させるというのは大変よいことだと思う。

 今年の運動会で大きく変更になったことの1つに「ふれあい弁当」というのがあった。これまでの昼食は、児童は教室で給食を食べ、残りの家族だけが弁当を食べるという隔離状態が続いていたが、今回から、一緒に弁当を食べることになった。神戸の事件などに触発されて、家族内のふれあいを大切にしようという通達がきたためかもしれない。なお、家庭の事情で当日両親が来られない児童は、先生やPTA役員と一緒に食べたそうだ。

 ところで、運動会でいつも疑問に思うのだが、なんで紅白に分かれて点数を競い合う必要があるのだろう。点数を競わないと集団競技に力が入らないということなのだろうか。得点ばかりに注目すると、競技のプロセスで頑張ったことが印象に残らなくなる恐れはないだろうか。各競技別に、優勝や特別賞の表彰をしてもよいし、全員に努力賞を与えてもよいし、全く無しにしてしまってもよい。いろいろ選択肢があるなかで、紅白で点数を競う方式が特別にすぐれているとは思えないのだが、学習指導要領か何かにそういう規定があるのだろうか。それとも単に応援合戦をさせるためにあるのか。

 それから、もっと多様な競技があっても面白いと思う。いまの運動会の大部分の競技は、体格のよい子が一位になれるようにできている。小さい子でも特技を発揮できるよう、鉄棒競技を入れるとか、縄跳び選手権をやるとか、いろいろ工夫できると思うのだが、これも学習指導要領で決まっているのか、懲りもせずにリレーや玉入ればかりやっている。25回も参加していると、特にそう思う。
まごちゃんは22歳。33g。午前中に一度病気になったが、偶然30分以内に発見でき、治療に成功した。多少気になるのは、空腹になるスピードが早くなっているのではないかということだ。午後に1時間ほど放置していたら、ハートが全部消えて呼び出し状態になっていた。このぶんでいくと、月曜以降、授業や会議の途中でお亡くなりになる危険性が非常に大きい。
 妻と子どもたちが育てていた「てんしっち」は運動会の最中に「Thanks」という言葉を残して天国に帰っていた。帰っていったというと聞こえはよいが、要するに世話をサボっていて逃げられたようなものである。最後が「死」でなく「天国に帰る」としたところに、この新シリーズの改善点が認められる。但し、教育上、どういう影響があるのかは定かではない。


970927(土)
[一般]平成教育委員会最終回

 「平成教育委員会」の最終回を見た。1991年10月19日以来、6年間におよぶ番組であったという。もっとも、土曜日の夕刻は家族で外食や健康ランドのような所に出かけることが多く、たまに家に居ても、昨年までは、同じ時間帯に、妻と娘が「セーラームーン」や「スラムダンク」に熱中していたためにチャンネルを奪われて殆ど見ることができなかった(妻や娘がこの番組を好まないのは、私や息子ばかりが先に正解を出してしまうためかもしれない)。
 昔のクイズ番組というと、アップダウンクイズ、クイズタイムショック、クイズグランプリなどが記憶にあるが、いずれも知識問題が主体で、頭をひねるような問題はあまりなかったように思う。その点、この番組は、家族みんなで考えながら楽しめるところがなかなかよかったと思う。
 きょうの番組から面白いと思った問題を2つほど紹介する、いずれも、次にどういう文字が入るかという問題だ。 こういう問題は、創造的な問題解決の力を磨くのに役立ちそうな気がする。
 一方、あまり役立ちそうにない問題もあった。地図の記号を問う問題である。出題がつまらないというより、そういうものを小学校で教えることの必要性がないという意味である。田んぼとか針葉樹林の記号は意味があるとして、裁判所とか税務署、警察署などまで記号にする必要があるのだろうか。こういうものは、一枚の地図にせいぜい1箇所しか出てこない。記号というのは、地図上にたくさん出現するために省略化する必要があるから使うものなのであって、稀にしか出てこないものは漢字で表記すれば充分であろう。
 順序が前後するが、番組の初めに過去6年間の興味深いデータが紹介されていた。備忘録を兼ねて、ここに記す。 タレントが解答する場合、ただ成績がよければ人気が出るというものでもない。知っていながら、知らないふりを演じるというのもなかなか難しいのではないかと思う。もっとも、上記のワースト5のタレントが、どこまで「知っているのに知らないように演じていた」のか、本当に知らなかったのかは不明だが。
 平成教育委員会のような番組が、今後新たに登場するのかどうかわからない。映像技術が進んでいるので、より視覚に訴えるクイズになるのかもしれない。個人的には、出演者だけがワイワイとゲームをするような番組はあまり好まない。最近全く見なくなった番組に「マジカル頭脳パワー」がある。以前は、視聴者が一緒に考えられるような問題が多かったが、だんだん、ゲーム的色彩が強くなってきた。同じ時間帯に「TVチャンピオン」があること、所さんが出演しなくなったことが、離れていった大きな原因である(半年以上全く見ていないので、最近の様子はコメントできない)。
 最後になるが、平成教育委員会で忘れてならないのは、中途で亡くなられた逸見政孝氏の貢献である。ご冥福をお祈りしたい。
 
まごちゃんは21歳。31g。7時起床、20時就寝の規則正しい生活(日本時間。時計を2時間進めている)。特に変わったところはないが、ちょっと放置しておくと、すぐお腹が減ったりご機嫌が低下するような気がする。来週からは、毎日授業や会議があるので、良好な状態を維持するのは難しそうだ。


970926(金)
[一般]無事故一違反の私

 21時過ぎに帰宅したところ「星の王子ニューヨークへ行く」という映画をやっていた。観たのは2度目になる。以前に観た時は、ごく普通のハッピーエンドの映画だと思っていたが、その後、主役のエディ・マーフィが一人で複数の役をこなす映画だということを知った。今回、目を凝らして誰に変装したのかを当てようと試みたが、字幕で正体がわかっていても、とうてい同じ人物には見えない。そう言えば、日記界でも、同じ人物が別人を装って書いている日記があるらしいと言われているが、エディ・マーフィほどにうまく化けられるのは、なかなか難しいように思う。いくら体裁や文体を変えても、動機まで変えることはできないからだ。同じ人間が相反する動機をもったら、それこそ二重人格だ。

 さて、私事になるが(<---日記なんだから当たり前)この2日間に3回も、すんでの所で交通事故を引き起こしそうになった。昨日の日記で、危うく自転車にぶつかりそうになったことを書いたが、今日の夕刻も、駅西口付近を左折する際に、追突寸前の目にあった。私が横断歩道の手前で一旦停止し、発進したところで、右前方から自転車がつっこんできたのである。慌てて急ブレーキ。何とか間に合ったが、後ろの車からあやうく追突されそうになった。幸い運転が上手なタクシーだったので事なきをえたが、のんびりしている運転者だったら、間違いなく追突されていた。さらにその帰り道、別の交差点で左折しようとしたところ(横断歩道の信号は赤、車の信号は青)、またまた左後方から赤信号を無視して自転車がつっこんできた。2日続きのヒヤヒヤで、事故に遭わなかったのは奇跡と言ってよいぐらいだ。

 ここで、私の運転歴にふれると、私が車の免許を取ったのは30過ぎてからである。遅かった一番の理由は、それまで住んでいた東京や京都では、マイカーが必ずしも便利な乗り物とは思えなかったからだ。しかし、その後結婚して、愛知県の犬山に住むようになると、車なしでは到底生活できない環境になった。近くにバス停はあるが、一日4-5本しか通らない。自転車でも何とか買い物ができるが、雨の日は動けない。いちど、妻が虫垂炎で入院した時に、毎夕自転車で見舞いに通ったことがあったが、大雨の日に、暗いたんぼ道を片手で傘をさしながら通うハメになり、さんざん苦労したものだ。
 その後、子どもが生まれる前に、これでは赤ちゃんを病院に連れていくことさえできないと考えて、愛知県内の自動車学校に通った。学科成績は抜群ながら運転技術のほうはなかなか上達せず、特に、仮免の手前の第三段階では確か3回実技試験に落っこちたように記憶している。一度目は、S字カーブでポールに触れてしまって失格、あとは車庫入れの失敗ではなかったかと思う。もっともその時の特訓のおかげで、免許取得後はずっと無事故無違反を続けていた。

 岡山では無事故無違反を10年続けると、優良運転者の標章をもらえる。あと半年で10年に達するという時、一昨年の秋であったが、大学近くの国道を左折したとたんに、警官に旗をふられ、降車を命じられた。シートベルトもつけていたし、信号無視もしていないのに何の違反なのかさっぱりわからなかったが、その警官によると、私の車が横断歩道を横切って左折した時に「横断しかけた歩行者がいたにもかかわらず、一旦停止を怠った」違反だということだった。横断者が車の左折のために立ち止まれば横断妨害ということになるのだが、それとは異なっていて、どんなに広い道路であろうが(私が違反したのは全5車線)、横断者が横断しようと構えていた場合には、左折車は、かならず一旦停止をして安全を確認する義務があるということらしい。これで減点1と反則金9000円。これも堪えたが、免許更新の1年以内の違反だったために、5年間有効の免許証が交付されず、また10年間無事故無違反の記録が、9年半の時点で途切れてしまって表彰を受けることもできなかった。

 この時の違反は、現実には横断者を妨害したわけではなく、非常に形式的な違反であり、警官の点数稼ぎに利用されただけではないかと、のちのちまで腹がたった。
 ただ、こういうことがあってから、道路を左折する時には、十分に減速して横断者の有無を確認し、渡ろうとしている人がいる時は、かならず停止して先に渡ってもらうクセがついたことは確かである。
 きのう、きょうと、あやうく自転車にぶつかりそうになりながら何とか事故を免れたのも、もしかしたら、この違反の教訓が活かされ、十分な徐行と一旦停止による確認を励行していたためであるかもしれないと、ふと思った。

 まあ、こんな、朝礼での校長先生の訓話みたいな日記を書いても、私自身あんまり面白くない。で、多少、反逆的なことも書き加えることにするが、免許更新の時、どこの県でも、交通安全協会の会費とかいうのを3年分ほど求められるようだ。私は、これだけは絶対に払わないことにしている。交通安全に協力するのはよいことだと思うけれど、警察の窓口で、強圧的に寄附を促すのは、どうにも気に入らない。
こんな具合になる。ええと、これは、以前に、長崎に住んでいた頃の会話の再現。岡山西警察署の担当窓口の人がこう言ったわけではないので、念のため。もっとも、岡山に来てからも、この「交通安全協会会費」なるものは一度も払ったことはない。交通安全の趣旨は分かるのが、払うのが当たり前のような言い方をされるとカチンとくる。余談ながら、町内会で毎年定額を徴収される赤十字社員とか歳末助け合い募金も、あまり気に入らない。ああいうものは、一律定額徴収ではなくて、賛同者が自発的に金額を決めて支払うべきものである。もっとも、交通安全協会とは違って、町内で偏屈なことをすると妻の近所づきあいに悪影響が出るので、こっちのほうはじっと我慢して文句を言わないことにしている。

 まごちゃんは、ついに成人式を迎えた。体重は30g。人間では成人だが、すでにサザエさんに出てくる波平さんと同じような顔をしている。昼に自宅で昼食をとっている最中に、妻が飼っている「てんしっち」がピーピーいっていた。こっそりボタンを押してみると、お腹が空っぽになっていた。てんしっちは餓死しないとか聞いたが、こんな育て方でよいのだろうか。もっともしょせん遊びなのだから、私のように几帳面に育てるのはかえって興ざめかもしれない。


970925(木)
[一般]ルールは誰が作るか?
 夕刻、雨の中、同僚を町の中心のほうに送っていった。途中、国道から狭い道に左折するところで、あやうく自転車にぶつかりそうになった。横断者がいないことを確認するために一旦停止してから動きだそうとしたところ、歩道上、車の左後方から、もの凄いスピードで車の前を横切ってきたのである。おまけに片手で傘をもっていた。しょせん、ぶつかれば車の運転者の責任となるのだろうが、責任問題は別として、自転車の無茶な運転は自分自身にとって命取りになる。気をつけてもらいたいものだ。ちなみに、岡大は、全国の主な国立大学の中では、自転車の通学率がNo.1と言われるほどである。いま、問題になっているのは、図書館入り口付近を中心とした大量駐輪。これも本当のことを言えば、駐輪場のスペースを全く考えずに図書館を増設したことに根本的な問題がある。先日、全学の交通安全委員会の関係者とともに駐輪問題の箇所を歩いて回ったが、抜本的な対策はなかなか難しい。

 今日は、yhoriuchさんがふれていたルールの問題(9/24)について、ちょっと考えてみた(このところ、他の方の日記からネタを仕入れることが多いなあ)。但し、今回は、「日記猿人のルールを守りましょう」などという堅苦しい話ではなくて、ルールの中で定められている定数について、思いつくままに書いてみようと思う。
 まず、ホリウチさんが書かれていた囲碁のルールから。ホリウチさんは謙遜されていたようだが、私は、とりあえず囲碁、将棋、麻雀は、いずれも下手ながら基本は知っている。とはいえ、囲碁に関しては、いわゆるハメ手で相手を油断させておいて逆転を狙うことばかり考えるので、いっこうに強くならない。
 さて、テレビでプロの対局を見ると、よく「五目半コミダシ」という言葉を聞く。囲碁というのはゼロ和ゲームだから、先手も後手も最善の手を打てば最後は引き分けになるとも言われているが、先手のほうが先に領地を確保できるぶんだけ多少有利なのであろう。それで公平を期すために、先手の黒は、後手の白より多めに目を作らないと負けになるというようなルールになっている。五目半とは、黒が6目以上多ければ勝ち、盤面で黒が多くても5目以下なら黒の負けというルールのことだ。
 この5目半というのを誰が何を根拠に決めたのか、手元には何の資料もない。推測するに、過去の膨大な対戦記録から、実力が同じレベルの棋士が対局した場合には、平均5.5目ぐらい先手が多くなるということが経験的に明らかになり、その合意によって現行の取り決めが出来たものではないかと思う。
 これもやはり推測だが、野球の塁間の距離なども、経験的に決められたものと思われる。もし今より50cm短ければ、それだけ打者が一塁に到達する可能性が高くなり、点の取り合いになって収拾がつかなくなる。逆に50cm長くなれば、バントで1塁ランナーを2塁に進めるのは殆ど不可能になる。まさに絶妙の距離だ。同じく、ストライク3つでアウト、ボール4つでフォアボールというのも、絶妙なバランスであり、もし、ストライクを4つとらないとアウトにできないとすると、三振(おっとこの場合は「四振」か)をとれる投手は、ほとんどいなくなるであろう。
 なお、古本屋で100円均一買った『スポーツ・ルール集』(服部正夫監修、日東書院)によれば、ピッチャーズマウンドからホームベースまでの距離は60フィート6インチ、塁間は90フィートというように定められていることがわかった。ということは、経験的に決められたとは言っても、最終的にはキリのよい数値になるように定められ、それに合わせてワザが進化したと考えた方が適切であるかもしれない。
 大相撲の土俵の広さが広げられたのはいつだったか。そう昔ではないように記憶している。これもかなり微妙な問題であって、押し相撲にはかなり不利になったはずである。
 陸上競技にもいろいろなルールがある。私がイヤな思いをしたのはハードルの高さ。これは、男子110mハードルの場合106.7cmと決まっているらしいが、背の低い、つまり足の短い私が飛び越えながら走るのには相当に苦労する。もともと中1の頃までは足が速く50mを6秒台、ハードルは学年2位の成績まで残した私であったが、背が伸びなかったために、高校入学後は、不得意種目ばかりになってしまった。
 このほか、上記の『スポーツ・ルール集』から、いくつかの数値を引用すると、軟式テニスのサービスサイドラインは片面21フィート、卓球台は高さ76cm、幅152.5cm、奥行きは両面分で274cmなどとなっている。ヤード・ポンド法の影響が色濃く出ているスポーツルールの中で、メートル法をきっちり使っているのはバレーボールだろうか。コートの幅は9m、奥行きも片面9mで、きれいな正方形を2個並べた広さになっている。
 野球場の広さが場所によって異なっていることは前から知っていたが、上掲の本を見る限りでは、サッカーコートの長さも90-120メートルで定まっていないようだ。Jリーグでは特に定めていないのだろうか。
 いろいろ書いてみたが、ルールの中には、長年の実践経験のなかで、最適の値に定められた数値もあれば、メートルやヤードの数値がキリのいいように定められたものもあるようだ。創造性を伸ばすための思考実験として、例えば野球で「ストライクを4つとらないとアウトにならないが、ファイルは(2ストライク以後も)必ずストライクに加算する」というルールにしたらどうなるか、プロ野球のペナントレースを、勝率制ではなく勝ち点制(相手チームに勝ち越したら1点として、点の多いチームが優勝とする)にしたらどうなるか、サッカーの選手数を1チーム30人にしたらどうなるか、といったように、いろんな問題を考えてみたら面白いと思う。
 初めの話に関連するが、確か、バレーボールでもオーバーネットに関するルールが改正されてから試合が面白くなったような記憶がある。ホリウチさんの日記に「サッカーはオフサイドを無くしたほうがもっと点数が入って面白くなるんじゃないかな」と書かれてあったが、私も同意見だ。せっかく盛り上がったところで中断されるのは、うんざりだ。
 まごちゃんの「おやじっち」は、19歳。30g。明日はいよいよ成人式を迎える。といっても、これ以上変化するキャラがないので、ただただ生存記録を伸ばすだけの発展性のない状態が続いている。このところ授業や会議が多く、2時間以上、ほったらかしにすることが多い。2時間放置すると、「おなか」と「ごきげん」がハート1個まで低下していることがある。明日も会議があるが、大丈夫だろうか。


970924(水)
[心理]心理学の将来と私(その4):実験的方法への疑問(1)
昨日の日記で、こちらの方の日記を紹介させていただいたが、じつは5000番をゲットしたのは私自身であった。それと、友人の方との待ち合わせの日を一日勘違いされたことに触れたが、じつは勘違いされたのは相手の方のほうで、御本人には何の落ち度もなかった。こちらにその情報があると、御本人から連絡をいただいた。どうも失礼しました。
まごちゃんの「おやじっち」は18歳、30g。午前中、修論の中間発表会のため2時間半ほど留守にしている間に、ウンチをしていて、「おなか」と「ごきげん」がハート1個まで低下していた。慌てて、御飯などをやり、事なきをえる。夜ふたたび同僚の送別会のためほったらかしにしていたが、19時57分頃に、寝る寸前に御飯をやって何とか満腹状態に。ご機嫌をとり終わったところで、間髪入れずに眠りだした。
 たまごっちのほうは未だ健在だが、先週から研究室の水槽で飼っていたスジエビ3匹が全滅してしまった。メダカ用の餌を入れすぎたせいか、水温があがりすぎたせいか、よくわからない。別の水槽で飼っているハゼとメダカと、長年飼っているドジョウ(推定5歳。9/10に1匹死んでしまって、現在は1匹のみ。)は元気にしている。
 今日は、9月14日の続きを10日ぶりに書いてみようと思う。うーむ、ここまで読まれたところで、ブラウザのBACKボタンを押されると、ちょっと辛いなあ。まあ、「じぶん更新日記」は、じぶんを更新させることを目的とする日記だから、読者が減っても書きたいことを書き続けることにしよう。

 「心理学の将来と私」シリーズでは、私が基本的に自然科学的な方法で心理学に取り組んでいることを表明した。しかし、これは多少誤解を招く表現であったかもしれない。というのは、「自然科学」的方法というと、何はさておき、仮説を実験で検証することを唯一の方法だと思っておられる方が多いと思われるからである。
 心理学の実験の中には「田舎芝居」のようなものさえある(おっと、こんなこと書いても破門されないだろうか)。たとえば、これはあくまで仮想の実験だが、こんな実験が考えられる。
被験者(実験協力者)をある部屋に案内し、性格テストのような作業検査をやってもらう。同じテーブルにはサクラがいて、おなじような作業をする。しばらく作業をしていると、ドアの外で、物が崩れるような音がして、キャーという若い女性の悲鳴が聞こえる。しかし、サクラは席を立たない。こういう状況のもとで被験者が、被験者が席を立ってドアの外に駆けつけるかどうか実験する。このバリエーションとしては、サクラの人数を増やして、被験者が立ち上がってドアを開ける行動との関係を調べる実験や、作業検査に先だってボランティア活動の宣伝映画を見せる条件、若い女性の代わりにオヤヂの悲鳴を聞かせる条件などと比較する実験などが考えられる。また、被験者のパーソナリティ特性や、質問紙で別途に調べた○○意識との関係などを調べることもできる。いずれもデータをちゃんと分析すれば、原著論文が1つできあがり、業績として評価されることになるだろう。
 上に述べたのは、被験者の「援助行動」がどういう要因によってどのように影響されるかを調べる仮想実験である。問題は、ここで調べられている「援助行動」の法則をどこまで一般化できるかということである。確かに、一般法則として、「責任分散」の原理などが知られており、上記の実験でサクラをたくさん増やせば、「援助行動」が起こりにくくなどの結果が生じることが予測できる。
 とはいえ、「ドアを開けて廊下に目をやる」というような程度の行動を「援助行動」の代表的行動であるという前提を作って、実験室実験から「援助行動全般にわたる一般・普遍の法則」を導き出そうとするのは、ちょっと無理があるように思う。援助行動とは、もっと多種多様なもので、現実の文脈に即して生じる行動である。実験室内の一行動に影響を及ぼす変数をどんなに細かくしらべても、具体的場面にはあまり応用できないように思われる。言ってみれば「動物園のサルはいつ人間になるのか」と同じだ。いつかは現場に役立つということを期待しながら何年、何十年と実験的検討を重ねても、結局、閉じた空間の中だけでの「発展」しかもたらさない。研究をする者は、論文が書けるし、その業績が評価されて大学教授にもなれるので、それで満足だろうが、端から見れば、どういう意義があるのか、さっぱりわからない。
 もうひとつ、これも仮想の実験であるが、会話の中で「微笑み」が相手にどういう印象を与えるのか実験したとする。被験者とサクラが実験室内で決められた話題について話をする。サクラは、実験条件によって、たくさん微笑んだり、無表情を続けたりする。こうすれば、被験者のサクラに対する印象が微笑みの頻度によってどう変わったのかを実験的に検証することができるように思える。しかし、実際はどうだろうか。微笑み頻度を増やすと、分けもなく人の前でニタニタする必要が出てくる。会話の中で自然に出てくる微笑みと違って、相手は気味悪く思うだけだろう。つまり、「微笑み」という独立変数は、単独では統制できないのである。
 上の例ではたまたま社会心理学的な実験をとりあげたが、動物心理学の実験には、もっとひどいものがある。ネズミの実験結果からアナロジカルに人間の生活環境のあり方を論じるというものだ。ネズミの実験は、記憶や条件づけの基本プロセスを知るには有効であろうと思うが、限界をわきまえて研究していかないと、ホラ話になってしまう。
 ええと、時間がなくなってきたので、この続きは次回以降に。

970923(火)
[一般]高速道路における植生の変化
 今日は秋分の日だ。春分の日と秋分の日は、赤道の真上に太陽が位置するという点では同じ意味をもつが、祝日としての意味はだいぶ違っているようだ。春分の日が「自然をたたえ、生物をいつくしむ」日であるのに対して、秋分の日は「祖先をうやまい、亡くなった人を偲ぶ」ということらしい。この季節、大学の構内で、毎年、正確に花を咲かせるのがヒガンバナだ。今年も、いまがちょうど見頃になっている。桜の花と違って、気温の変化の影響は殆ど受けないように思う。昼夜の長さを手がかりにして開花するものと思われるが、地面にもぐっていて光が届かないはずの球根から花芽のニョキっと出てくるのは不思議な気がする。

 さて、きょうの話題は、私がひそかに愛読しているこの日記(但し9/22)からヒントを得たものである。
この方のカウンターは、たぶん9/24朝頃に5000を超えるはずだ。もともと拝見するきっかけになったのは、日記の名前が行動分析学を連想させたからであるが、毎日拝見していると、ユーモラスなスズムシ観察の話、記憶喪失の話、盆栽の話、人と会う約束を一日勘違いした話などあって面白い。素朴な文章で、日々の出来事を几帳面に綴っているところがなかなかよいと思う。

 で、この方の9/22の日記には、

わたしはインターチェンジファンなのだが、
道路と道路が交差している隙間にあるなんでもない空間が
インターチェンジによって趣が違っていておもしろい。
草や木が伸び放題のところもあれば、
資材置き場になってしまっているところもある。
以前、テレビで見た岡山のインターチェンジはきれいに手入れされた庭園みたいになっていた。
うーん、インターチェンジの大図鑑みたいな本はないのでしょうか・・・。
というようなことが書かれていた(おっと、ヘタをすると全文引用になってしまいそうだ)。
 この文章には、岡山のICのことが書かれてあったが、私の知る限りでは、そんな立派な庭園のようなものはなかったように思う。ただ、岡山ICから空港方面に行く道路とか、岡山総社のIC付近には、のり面にきれいな花が咲いている所が多い。花の種類は季節によって異なるが、ハナビシソウ、テンニンギク、オオキンケイギク、ハルシャギク、コスモスなどが代表的な草花であったように記憶している。
 こういうところに咲く草花は、おそらく道路公団が、ミックスされた種をのり面に吹き付けて育てているのではないかと思うが、IC以外の部分ののり面は、建設当初に外国産の牧草など吹き付けただけで、あとは、支障が出ない限り、殆どほったらかしにしているのではないかと思う。こういう特殊なグリーンベルトが何百キロにもわたって続けば、周囲の植生にも相当の影響を与えるに違いないと思う。
 ちょっと前に購入した、『サイアスscias』という雑誌の9/19号に、ぴったりの記事を見つけた。ここでは、東京農工大教授の亀山章さんが日本道路公団などと共同で行った、全国の主な自動車道路沿いの緑化やその後の自然の遷移を調べた結果が紹介されていた。
 その記事によれば、のり面の植生は、まず人工的に吹き付けられた植物から出発する。当初は、ウィーピングラブグラスとかクリーピングレッドフェスクなどが植えられたそうだが、前者は冬枯れ時にボヤ騒ぎを起こしやすく、後者はアレロパシーで他の植物を排除することから、現在では中止になっているという。
 その後の植生の変化は、正常遷移系列と偏向遷移系列とに分かれる。偏向遷移系列の代表は、クズがはびこる場合と、ニセアカシアがはびこる場合。いずれも、その状態で固定されて他の植物は育たなくなる。正常に遷移する場合は、途中でオオアレチノギクやススキなど、岡大でも目に付く雑草がはびこるが、そのうちにアカマツまたはヤシャブシを主体とした混在林に遷移するという。毎年11月頃になると空き地を黄色に染めるセイタカアワダチソウの群落が目にとまるが、この記事には名前が乗っていなかった。あまり気にしなくてもよいのだろうか。
 沿道の緑化対策としては、大きく分けると、高木を育てるか、中・低木を育てるか、草本にするか、という3通りがあるが、それぞれに長短があるという。例えば、高木は、不快な景観を隠したり地吹雪を防ぐ効果がある半面、視界を遮ったり、雪の吹きだまりを作ったり、倒木が事故を引き起こす恐れさえある。このほか、どういう動物や昆虫が棲み着くのか、ということも重要だ。なお、最近の建設省の方針としては、沿道の緑化が「環境インフラになる」との考えから、のり面の樹林化を政策大綱にかかげているという。
 杉並木が並ぶかつての街道に比べると、高速道路の両側の植栽は何とも殺風景だ。排気ガスや騒音や光害など、さまざまな環境破壊をもたらす元凶のように思われてきた。しかし車道の両側ののり面にはびこる雑草や樹木は、路面に匹敵する面積を占め、途切れることなく全国に連なっている。それだけに、日本原産の植物の保護を含めて植生をどう統制するのか、周囲の環境をどう守るのか、そこに棲む動物や昆虫をどう扱うのか、ということが重要な問題になってきていると思う。
まごちゃんの「おやじっち」は17歳、31g。午前中に一度病気になったが、早期に発見して事なきを得た。


970922(月)
[電脳]バージョンアップよしあし
今日の日記猿人の1行コメントで、「初○」と言う言葉が話題になっていたが、何であれ「初」がつくのはめでたい。きょう、私の家では、娘が、初めて「ブラジャー」を買って貰って、キャーキャー喜んでいた。正式には「ソフトブラ」というものらしい。そう言えば、まだ小学校3年生のくせに、さいきんオッパイが膨らんできて、一緒にお風呂に入ると、父親のほうが赤面してしまう。あと10年も経たないうちに、「初○○」をやったり、父親の知らない所でWeb日記なんかを書くのだろう。
 今日は、短めの話題。というのは、きょう、「一太郎Office8」が到着したので、さっそくインストールして、使い勝手を試していた。日記を書く時間がなくなってしまったというのがその理由である。
 「一太郎」は、ver2.0以来、ずっとバージョンアップしており、今でも、文書を印刷する時の私の主力ソフトになっている。ただ、最近では論文はもっぱらMifesを使ってHTML形式で書いているし、印刷教材もWWWブラウザから印刷したものを使うことが多くなっているため、使用頻度は数日に1回程度に落ち込んでいる。ブラウザのほうを使う理由は、グラフなどを文書に埋め込むのが簡単なこと、そのままホームページに掲載できることなどによる。
 さいきん私の周囲では、マイクロソフトの攻勢で一太郎離れが明らかに進んでいる。そんな中で、あえて「一太郎」や、今回バージョンアップされた「三四郎」にこだわるのは、単に長年の「慣れ」による。決して機能性を比較したうえでの選択ではない。
 じっさい、私はメイルソフトにはWinbiff(但しver1.62)、ブラウザは今度のJust View 3.0も試してみたし、MS-IEの最新ベータ版もたまには使ってみるが、やはり使い慣れた「Netscape Navigator Version 3.01 Gold」のほうがよい。結局、1メーカーの統合環境にドップリと浸かるわけにはいかず、目的に応じて、個別にソフトを起動している現状である。
 さいわい、Win95では、どのアプリもほぼ同一のショートカット操作ができるようになっているし、アプリ間のデータのやりとりも容易なので、あまり不便を感じたことはない。強いて言えば、最近のブラウザではメーラが一体化していて、mailtoタグからWinbiffを起動しにくくなった不便があるぐらいだろうか。
 とはいえ、年を取るにつれて、別のソフトへの乗り換えにはますます抵抗を感じるようになった。バージョンアップされると習熟に時間がかかるようになったのも年のせいだろう。ソフトメーカーは、その宿命としてバージョンアップによる収益に頼らざるを得ない。しかし高齢化の一途をたどる私のようなユーザから見れば、あまり煩雑なバージョンアップには、ついてゆけない。先日の学会で、某教授はいまだに98のDOS環境で仕事をしていると言っていた。いまだに、あの名ソフト「一太郎 ver3.0」を愛用している人もいる。私もいずれ、どこかで、バージョンアップ手続を停止し、固定された環境を守ることになるかと思う。
 余談だが、年に何回も、バージョンアップを繰り返すソフトメーカーがある。Web日記の「カラ更新報告」もそうだが、こういうのはそのうち愛想が尽きて、乗り換えの一因にもなる。目立つところでは、某C言語関連ソフト、某有名統計パッケージソフトなど。
まごちゃんの「おやじっち」は16歳、30g。教室の学生たちから、ぜひ見せてと言われた。「おやじっち」まで育つのは結構むずかしいそうだ。動きが鈍く、というか、立ったりしゃがんだりしているだけであまり魅力を感じないが、女子学生には人気があるキャラなのかもしれない。いよいよ明日で、妻の飼育記録の17歳に並ぶ。


970921(日)
[心理]因果モデルと科学的法則

 今度の心理学会で特に勉強になったのは、2日目夕刻に行われた、豊田秀樹氏の『心理学研究の自己点検(4)共分散構造分析による因果モデルとは何か--質問紙調査と実験研究の相違を中心に』と、3日目午後に行われた、佐藤方哉氏の『パーソナリティ研究の重要性--人間行動学の構築に向けて--』という講演であった。
 不定期ながら、それを聞いて学んだこと、考えたこと、疑問に思ったことなどと書きとめていきたいと思う。豊田氏の講演では、因果モデルについて、いくつかの重要な見解が表明されていた。特に印象深かったのは、「コンテクストフリーの因果モデルは存在しない」、「因果モデルは要請の範囲で構成される」という考え方であった。実は、翌日の佐藤氏の講演でも似たような考え方が表明されている。それは、科学とは「自然のなかに厳然と存在する秩序を人間が何とかして見つけ出す作業」ではなく、「自然を人間が秩序づける作業である」という考え方である。共分散構造分析の専門家である豊田氏と、日本の行動分析学の草分けである佐藤方哉氏(小説の好きな方には、佐藤春夫氏のご子息と言ったほうが馴染み深いかもしれないが)が、よく似たようなお考えを表明されたことは、たいへん興味深かった。
 自然界には確かに法則のようなものが人間から独立して存在する。それは、人類の誕生前から存在し、人類が滅亡した後でも、宇宙の構造が質的に変わらない限り、同じように存在するだろう。しかし、それを人間が認識するとなると話は違ってくる。科学的認識は、広義の言語行動の形をとるものだ。人間は、普遍的な真理をそっくりそのまま認識するのではなくて、自己の要請に応じて、環境により有効な働きかけを行うために秩序づけていくだけなのだ。
 こういう科学観の是非を論じるのは、一日の日記の分量では到底不可能だ。人間の行動を科学するということに限って言えば、人間行動に関する普遍的真理をさぐるなどというアプローチが完全に解明される可能性は全くない。仮に解明されたとしても、人間の側に完璧に認識できるだけのメモリがあるかどうか不明であるし、また無数に作用する外部要因のなかで、「普遍的真理」なるものが、十分に「発揮」されるかどうか定かではない。それよりも、特定の要請に応じて、この場面で行動を変えたり維持したりするにはどうすればよいか、という発想をもつ。つまり「変革」という切り口で人間をとらえる。こちらのほうが遙かに発展性が高いように思う。
 最近は科学史とか科学哲学の本を殆ど読んでいないので誰の考えだったか忘れてしまったが、「大きな政府か小さな政府か」という議論と同様に、「大きな理論か小さな理論か」というものの考え方があったはずだ。「行動の原因を環境との関わりに求める」、「まず行動があり、行動の結果が行動を作る」という行動随伴性の考えと、言語行動の理論を基盤とする点では、行動分析学は「大きな理論」の構築をめざしているとも言えるが、理論の証明のために特定の行動をとりあげるのではなく、現実に重要で具体的な行動についてその予測や制御の可能性を論じるという立場に立てば「要請に基づく理論=小さな理論」ということにもなる。このあたりも、心理学の新しい対立軸になっていくのかもしれない。
まごちゃんの「おやじっち」は15歳、31g。20時きっかりに寝る(時計を2時間進めているので、たまごっち時間では22時就寝ということになる)。「まごちゃん」と呼んでいるものの、どう見てもオヤジそのものだ。これ以上の成長はなく、ただ長生きさせるために気を使うというのが、どうにも空しい。


970920(土)
[心理]霊感商法の違法性は確定したが...
 夕刻、家族で近くの王将で食事をして、またまたレスパール藤ヶ鳴へ(あまり頻繁にリンクすると、宣伝しているのではないかと疑われるので、今回は省略)。。
 「王将」と言えば、学生時代に、生協食堂の次に頻繁に通ったのが北白川近辺の王将であった。あの当時も、大学近辺の交差点で、餃子試食券や半額券を配っていたものだが、きょう食べに行ったのも、新聞の折り込みチラシに割引券付のチラシが入っていたためである。もっとも、京都の王将のお客は大半が学生であったが、岡山の王将は、家族連れやアベックが圧倒的多数を占めている。おそらく、近くに、庶民向けの中華料理店が少ないためではないかと思う。 ということで、父性の復権を発動させて、割引券のついていた「カニタマ定食」と「醤油ラーメン」と「揚げそば」と「ホイコーロー」と「野菜炒め」で夕食。4人で2000円少々で済んだ。
 風呂からあがったところで、1階のホール内に居た妻が家族全員でプリクラを撮ろうという。私にとっては初めての体験だ。4人で撮ったので、顔がはみ出る。しかし、例によって、妻の掲載許可がおりないので、マスクつきの写真になった。

 さて、ここからは突然、統一教会の話題。スクラップブックで紹介したように、最高裁で18日、霊感商法について、統一教会に3760万円の支払いを命じた一、二審を支持し、教会側の上告を棄却する判決が言い渡されたそうである。オウム真理教の騒ぎで最近ではあまり注目されなくなったものの、山崎浩子脱会、プロ野球の上田元監督の辞任騒ぎなど、統一教会に絡むトラブルは後を絶たない。今回の判決で、何百万円、何千万円といった多額の献金をだまし取るような動きは減ってくるものと思われるが、この反社会的宗教団体は、まだまだ要注意である。
 そのひとつが、福祉団体やボランティア団体を名乗った寄附行為である。私の研究室にやってきたのは、「野の花会」という福祉団体と、国際救援友好協会(IRFF)という海外ボランティア団体である。もちろん、彼らに寄附したお金の一部は、正当な目的に使われるかもしれないが、信者が組織的に動いていることは確かで、純粋なボランティア精神によるものとは到底言い難い。
 第2に、私の知り合いが勧められた健康食品。これも名前がいろいろ変わるので同定しにくいが、とにかく高額のものは買うべきでないだろう。
 第3に、カイロプラクティックに関連する団体だ。統一教会と関連の深い大学に、ブリッジポート大学というのがある。ここには、「アメリカ合衆国で唯一の大学附属のカイロプラクティック専門過程」と言われる「カイロプラクティック学部」がある。カイロプラクティックといってもいろいろな流儀があるはずだから、すべて統一教会であると決めつけるのは誤りであるが、見知らぬ団体からの勧誘には要注意だ。オウムがヨガを餌に若い女性を誘ったのと同じ程度に考えておけばよいかと思う。なお、こういう関連団体は、信者が開設したページに、ちゃんと載っている。但し、影響されやすい人はアクセスしないのが賢明だろう。
 海外、特に、アメリカで日本食を食べる場合にも注意だ必要だ。少し古い資料だが、ニューヨークにある「天海」、「黄色い花」などは統一教会経営のレストランであると言われている。上記の「黄色い花」もそうだが、「花」と名のつく料理店(例えば「SONOBANA」や「初花」)は、統一教会系であることを疑ってみる必要があるかもしれない。なお、海外旅行と言えば、世一観光も統一教会系。
 献金活動とはちょっと異なるが、最近、彼らが力を入れているのが「世界平和家庭連合」。エイズ、家庭内暴力などの解決をうたい文句に勢力を拡大しているようで、統一教会関連団体であると知らずに参加する大学教官も多い。ちなみに総裁は教祖の文鮮明(ムンソンミョン)・韓鶴子(ハンハクジャ)氏。「子どもを愛し育てて、道徳的、肉体的、知的にも最高の水準を導く」、「貞節を守り、純潔な愛を維持し合う」など、結構なお言葉が並んでいるし、創設会議にはフォード氏やブッシュ氏など米国の元大統領が参加したなどと強調しているが、最終目的は、「神主義と頭翼思想」を深めること、「再臨主は、真の父母となり、イエス様が果たせなかった地上天国建設の神様の想像理想を完成するために来られます。」として、結局、統一教会と同じ目的に進んでいることは明白だ。

 このあいだ日記のネイミングの話をとりあげたが、統一教会関連組織によく付けられる名前は、「世」、「一」、「和」、「世界」、「平和」、「天」、「連合」。
 まあ、言い出せばきりがないが、霊感商法がなくなっても、宗教がらみの反社会的行為は決して消えないことに注意してほしいと思う。なお、この問題に関しての信者からの反論メイルは受け付けません。反論がある場合は、自分のホームページに書いてください。
まごちゃんの「おやじっち」は14歳、30g。SPAに入っているあいだに寝てしまった。そういえば、私の留守中に妻が「てんしっち」を飼い始めた模様。


970919(金)
[生活]神戸から戻る
 9/17から9/19まで、関西学院大学で日本心理学会の年次大会があり、久しぶりに神戸を訪れた。三宮のビジネスホテルに宿泊。三宮と言えば、震災の1ヶ月後だったか、知人を見舞うため、神戸駅から三宮まで歩いたことがあったが、その後の復興ぶりはめざましく、ホテルに至る道を2度も間違えるほどであった。もっとも、よく見ると、ひびの入ったビルもある。1階は飲食店が営業しているが、2階以上は一部崩壊した空き室になっているものもあった。学会会場で知人に聞いたところでは、これは建築基準法の関係で、建て替えると、今より低いビルしか作れないという事情も絡んでいるということだ。
あの当時は、まだ途中の階がぺちゃんこにつぶれたり、ピサの斜塔のように傾いたビルがあり、舗道上にもあちこちにひび割れが走っていた。岡山からは、姫路までが新幹線、そこから神戸駅まで山陽線が開通していたが、三宮は駅舎全体が壊れており、解体工事のドリルが凄まじい音を立てていたのを記憶している。

 今回の出張は、朝から晩まで日程がつまっていて、ゆっくり考える暇もなかった。日記猿人からは数日遠ざかっていたが、その間に、妙な名前の日記が出現していた。まあ、我が身の問題として考えてみると、ネット上の虚構の注目だけを唯一の生きがいにする哀れで孤独な人間にはなりたくないもんだ。以下は私的記録。

まごちゃんは、13歳。体重31g。9/18の午前中、真辺氏の発表を拝聴している頃に、「おやじっち」に成長した。あんまりかわいくないなあ。


9/17、9/18は出張のためお休みしました。

970916(火)
[一般]オフミに参加できない私(次回は9/20頃更新予定)
 先週は敬老の日の前後に各地で盛大なオフミが開かれたという。なかでも、東京の銀座近辺で開かれた某女史関連のオフミは、数人の日記作家の報告を拝見すると、すさまじいものだったらしい。その数日前には、京都で地味ながら味わいのあるオフミが開かれたということだ。
 さて、私の場合だが、どうも、この手の催しにはしりごみしてしまう。
 第一に、私は、基本的に酒を飲まない人間であるということ。教室のコンパなどあればビールの2-3杯ぐらいは飲むが(大ジョッキで2-3杯ではない。コップで2-3杯だ)、本質的に酒を嗜まない人間である。
今年の夏なども、客用に冷蔵庫に缶ビール数本を入れていたが、飲みたいと思ったことはなかった(ケーキなどが入っていたら、子どもの分まで食べてしまうのだが)。しかし、あのビール、いつの間にか無くなっていた。うむ、妻が奥さん連中と一緒に飲んだのだろうか???

 第二に、私はタバコの煙が苦手である。学生の頃、パチンコをやったり友人と麻雀をやっていた頃はゼンゼン気にならなかったが、このところ、禁煙運動に触発されたせいか、ケムリのニオイがしただけで喉が痛くなってくる。「日記界」には「わかば」や「喫煙」を冠した日記名もあるので、ここでは強硬な禁煙キャンペーンは控えることにしておくが、この問題に限っては、9/22いっぱいで、日記猿人の登録をやめる予定の方と意見が一致しそうな気がする。
 第三に、私は、規則的な生活を何よりも大切にしている。というより、睡眠不足が大の苦手だ。3月だったと思うが、早朝4:00頃と宵の20:00頃の2回、ヘールボップ彗星を見物していたところ、慢性的な睡眠不足に陥り、ついには、めまいと吐き気で急患にかけつけたことがあった。メニエル氏病に症状が似ているので気になったが、幸い一過性の症状で事なきをえた。しかし、夕刻から酒を飲み始めて、朝帰りなどしたら、たぶん本物のメニエル氏病になってしまうことだろう。

 で、もし将来、日記作者の方々とお会いできるとしたら、どんなオフミが可能だろうかと考えてみる。
 まずは、ラウンドテーブルディスカッション「Web日記を書くことで人生はどう変わったか?」...。うーむ。あんまり面白くなさそうな企画だなあ。
 「ケーキを食べる会」。これなら、アルコールが入らないからOKだが、よろずやさんは来ないだろうなあ。
 「露天風呂でのんびり過ごす会」。これも私の好みだが、女性日記作者は、誰も来ないだろう。
「将棋大会」。来てくれる人は、ぴったんこさんぐらいだろうか。「麻雀大会」。たぶん勝負にこだわって麻雀をするだけの集まりになるだろう。そういえば、昔に比べると、麻雀をする若者は減ったような気がする。
「天体観測会」。同じく趣味が偏っているかも。もっとも、天文マニアで日記を書く人は多いが。
 「座禅体験をしながらWeb日記を語る会」。私個人は無信仰だが、座禅をして精進料理を食べながらWeb日記への思いを語るのは趣があってよい。もっとも、座禅中は、語ってはいけなかったか。
 「蒜山を縦走する会」。そうだ! 今でこそ体力は衰えたが、山登りは私の得意とするところだ。「キャンプ大会」。これもいいなあ。「鍾乳洞を探検する会」。これもいい。
 いろいろ書いてみたが、どうも、私は、「酒」と「タバコ」と「夜更かし」は苦手だ。そのうち、暇ができたらアウトドア型のオフミでも計画してみようと思うが、まあ、東京湾近辺で開かれた某オフ会ほどに多数の方が集まるとは思えないなあ。
 ちなみに、明日から神戸、西宮方面まで出かけることになるが、学会関連の企画の打ち合わせが目白押しで、「生ハセガワ」を見る会(<--誰も見たいと言っていない)などは開催できそうもない。
まごちゃんは、10歳。体重35g。ゲームは、ほとんど3勝2敗以上で、時として5戦全勝になる。ご機嫌を良好に保っているせいだろうか。


970915(月)
[一般]敬老の日と白雪姫の謎

 きょうは「敬老の日」だ。祝日というのは、それぞれ由来があるはずなのだが、なぜ9月15日が「敬老の日」になったのか、今ひとつはっきりしなかった。昨日のNHKの「クイズ日本人の質問」で、これが問題になるということを知って、わざわざビデオで録画予約しておいた。先ほどそれを再生してみたところ、正解は、1947年に兵庫県の野間谷村(現:八千代町)で「老人の日」を定めたのが、1950年に兵庫県の「老人の日」、さらに、国の「老人の日」をへて、1966年に祝日としての「敬老の日」に制定されたということだ。で、なぜ9月15日なのかというと、第44代の元正天皇が養老の滝(どこにあるのかは不明)の水を使って健康を回復されたのが9月中旬であったということらしいが、はて? 
 その後、以前に古本屋で『今日は何の日』(PHP)という本を100円均一で買ったことを思いだした。さっそく9月15日を参照してみると、1951年から「としよりの日」、1964年から「老人の日」と呼ばれており、もとは、聖徳太子が四天王寺に悲田院を建立した日とされている、という説明があった。何だか、多少、話が違うような???

 さて、連休も土曜を含めて3日目となったが、今日は妻と息子が朝からお出かけで、私は娘と家で留守番することになった。「妻と娘が一緒にお出かけして、息子と私が留守番」というパターンはよくあるのだが、「娘と私」という組み合わせは、めったにない。
 息子と一緒の時は、ファミコンをするとか外で野球をするとか、いろいろ遊び方があるのだが、はて、娘と一緒に遊ぶといっても、何をしてよいかわからない。それに、締め切りに追われていることもあって、結局、ビデオを見せてごまかすことにする。
 娘がディズニーの「白雪姫」を見たいというので、本棚を探しているがなかなか見つからない。先にテレビの電源を入れたら、歌舞伎のようなものをやっていた(NHK、14:30頃)。しかし、様子がおかしい。女形の人が赤いリンゴのようなものを持っている。大きな鏡のようなものもある。せりふそのものは歌舞伎そっくりだが、何かおかしい。番組表を見ると「劇場への招待・俳優祭」とあり、何と「白雪姫」(中村雀右衛門ほか)とある。これは一体何の番組なのだ。
 白雪姫が毒リンゴで倒れた後には、動物のぬいぐるみの格好をした役者も出てきた。最後は、松本幸四郎の王子様(もちろん殿様の格好)の登場。いったいこれは何だったのだ???
 この番組、パロディなのか、役者の隠し芸大会なのか、それとも新企画なのか、正体不明であったが、面白いことは確かで、観客も大笑いしていた。白雪姫を歌舞伎形式で演じることの意外性、というそれだけでも楽しめたし、ストーリーが分かっているので、難しいせりふにもついていける。娘もけっこう面白がって見ていた。
 これとは別に、数日前に、狂言の演題を落語で、落語の演題を狂言で演じるという催しがあったとTVニュースで報じていたが、これもまた面白い。もちろん、古典芸能は、オリジナルの演題と演技形式を伝統として守ることを第一の責務とすべきものだろうが、狂言にしても歌舞伎にしても、本来は大衆演劇として庶民を楽しませてくれるからこそ、存在意義があったはずだ。そういう意味では、狂言の「白雪姫」も観てみたいし、忠臣蔵のオペラがあっても面白いのではないかと思った。
まごちゃんは、11時頃まで寝ていた。9歳となった。体重31g。朝方は満腹状態で、午後にならないと食欲が出ない模様。私の生活時間と余りにもずれているので、反則ながら、時計を2時間進めた。


とっ、殿様。私のようなものが、記念すべき100をゲットして申し訳ございません(9/15午前9時40分頃)。

次回より、お悩み相談コーナーを開設します!
カウンセラー(に高校時代なりたかった)作者が、まじめに相談に答えます。
ふーむ。悩み事もないわけではありませんが...。まっ、そのうち老後の悩みなどをよろしくお願いします。 最近の日記では、9/9の「弱肉強食の世界」が面白かったです。

970914(日)
[心理]心理学の将来と私(その3):こころの時代と心理学
 今日の夕刻は、1週間ぶりに、レスパール藤ヶ鳴へ。ここが気に入っている理由のひとつは、17時以降は、同伴の女性がタダになること。妻は私の同伴者、娘は息子の同伴者と見なされるので、半額で入れる。それと、体中に塩をまぶして入る塩サウナが、なかなかよい。帰りがけに、ジョリー・パスタというスパゲティ&ピザ屋で夕食をとる。 レスパール藤ヶ鳴のほうは、回数券と息子の入館料で900円余りで済んだが、この店で4410円も使ってしまった。
 おっと、ここまで書いたら、妻が検閲に来たので、さて、真面目な日記の続き。

 今朝の教育テレビで「こころの時代:人間をどう理解するか・心の教育」という番組をやっていた。この番組、これまで数回しか見たことがなかったが、タイトルが「人間をどう理解するか」となっていたのでは、仕事柄見逃すわけにはいかない。出演されたのは、東京教区カトリック司祭の粕谷甲一さん、さすが、司祭さんのお話となると威厳と貫禄が感じられ、某国立大助教授なんかのネチネチとした講演など足下にも及ばないと思った。もちろん、仕事柄、内容についてはいろいろ反論したいことはあるが、それについてはいずれ改めて論じることにしたい。
 この粕谷さんの話は、私としては、内容よりもロジックに関心があった。いくつかの逸話を柱にして、「わたしもこう思う」、「わたしもこうしたい」という方向に、視聴者を誘導していく話の進め方である。例えば、中3の男子生徒が引き起こした神戸の事件と対照させて、中3女子生徒の逸話を紹介していた。
 この生徒は離婚した母親に取り残され兄弟とともに養護施設に預けられていた。中3になった時にこんなことを書いたという。
もしお母さんに新しい子どもができたら、私たちの分まで大切に大切に育ててほしい。お母さんは、2回も同じことをする人じゃないわね。...私たちの分まで精一杯かわいがってください。それだけが私のお願いです。
 粕谷さんは、この事例を柱にして、こういう子どもが育つにはどういう教育をしたらよいか、というように話を膨らませていったのである。
 さて、9月11日の日記に少し書いたが、私は基本的には「できるところまで自然科学の方法で進んでみよう」という姿勢で心理学に取り組んでいる。その姿勢を貫くとすると、上記の粕谷さんのお話のように、ただ逸話的なものを並べただけでは、いまひとつ満足できないところがある。1つは、やはり、細かく数字をあげて、客観的に現状を把握するということである。サンプル調査のような場合には、観測された変化が統計的に有意なものであるかどうかも検定する必要がある。第2に、単なる言葉の上の反応だけで推測したりはしない。例えば、上記の中3女子生徒の手記はつよい共感を呼ぶものであるとは思うが、どういう文脈でそう言っているのか?、実生活での行動は書かれたとおりのものになっているか?ということにも注意する必要がある。
 もうひとつ、単なる観察に終わるのではなく、状況が許せば、実験も試みるということだ。しかし、このところ、私は、どうもこの「実験的方法」なるものに懐疑的になりつつある。もちろん、ただ指をくわえて観察するだけではなく、対象とする人々に積極的に働きかけることは必要である。しかし、実験の成果の一般化、実験変数の統制の際の問題点など、どうも、これまでの一部の「実験心理学」の方法には無理があったのではないかと、しだいに感じ始めている。
 きょうは時間がないので、実験的方法の問題点自体については、明日以降に続きを書くことにするが、初めに、そもそも、実験的方法は何か? ということからはっきりさせておこう。
 簡単な例は、小学校の理科で勉強する「種の発芽」の実験である。2つのお皿A、Bに種を置く。あらゆる環境条件を同じにしておくが、唯一、一方のお皿Aだけには水を与えておく。するとお皿Aに置いた種だけが発芽する。そこから、「種の発芽には、水という要因が必要条件である」ということが実験的に検証されたことになる。
 あるいは、物理学の実験で、真空の容器の中で物体を落下させる。どのような物体を落下させても、速度に変化はない。また、速度は、時間と共に増加し、一定の関係式を導くことができる。これは、単なる検証だけでなく、ある種の量的関係までを求めようとする実験である。
 で、心理学の実験となると、そう単純にはいかない。この場合、1人の人間に対して行う実験(個体内比較実験)と、集団を実験群と統制群(対照群)に分けて比較する実験(個体間比較実験)があるが、私が最近特に疑問を強めているのが後者の方法である。
 物理学と心理学の実験で大きく違うのは、人間の行動には同時に無数の要因が作用しているということである。いや、もちろん力学の世界でも、無数の要因は関与しているはずなのだが、それらは比較的安定している。人間の場合には、個体差もあれば、窓の外から聞こえる音、時間、気温など、さまざまな不安定要因が常に関与している。そこで、ある集団を無作為に割りつけ、いっぽうに実験的操作をほどこす。こうすれば、実験変数以外のもろもろの要因の影響は偶然的な誤差として一括して処理できるので、2群の差の原因を実験変数に帰着させることができる。これが集団を対象とした実験的分析方法の正当性の根拠となっている。
 では、実験的方法の何が問題なのか? ということになるが、眠くなってきたので、続きは明日以降ということに...。
まごちゃんは、9時頃起床。11時頃に、「ますくっち」に成長し、8歳となった。なぜか成長直後に睡眠したが、おしおきしたせいか、すぐ起きた。ちなみに、妻が育てた一代目も「ますくっち」、息子が育てた二代目は「ぎんじろうっち」。妻よりは規則的に育てたつもりだったが、なぜ同じ「ますくっち」になったのか不明。一日3食にこだわりすぎたためか。


970913(土)
[心理]心理学の将来と私(その2)

 「平成教育委員会」の最終回直前番組のあと、NHK教育の「マザー・テレサ」(20:00-21:15)を見てしまい、仕事をちょこちょこやっているうちに22時をすぎてしまった。大方の日記作者の方からは「まだ宵の口」という声が上がりそうだが、私はふだん22時に寝て、朝の5時すぎに起きる規則正しい生活をしている。で、言い訳が長くなったが、今日の日記は、シンポジウム用のグラフ2枚のみとしたい。
そういえば、今朝の日記猿人新作200のリストに『5時に起きるやつら。』(但し9/12分)という1行コメントがあり、てっきり私が怒られているのかと思った。うーむ、私の体はアヒル飼育係に向いているようだ。
 さて、一昨日の日記で、今年の日本心理学会の個人発表の件数は1010件であると述べた。この日記や「スクラップブック」を愛読されている方なら、たぶん「やっぱり」と思われるだろうが、データ収集マニアの私が集めているデータは、何も「日記猿人」関連資料ばかりではない。心理学会の研究の動向についても強い関心をもっている。
 こちらの図1は、第41回大会以降の、発表件数の推移を分野別に集計したものである。
 ここでちょっと説明を加えさせていただくと、日本心理学会の大会は、毎年1回、9月〜10月頃に開かれる。開催地は、東京と、東京以外の地方都市で、ほぼ交代交代に開いている。といっても、国体のように全国の都道府県をくまなくまわるわけではない。世話大学の都合もあるので、スタッフがたくさんいる大きな大学に限られてしまう。私が参加した地方都市の大学をあげれば、北大、東北大、名大、京大、阪大、同志社大、広大、九大など。例外的に、一昨年には琉球大で開催され、おかげで初めて沖縄の地を踏むことができた。
 開催地が東京の場合と、遠方の年の場合では、やはり参加者数に違いが出る(当然、東京で開催した時のほうが参加者が多い)。そこで、上の図では、開催地が東京であった場合に限って、ほぼ4年に1回のデータをグラフに表してみた。
 もうひとつお断りしておくと、心理学の学会は、まもなく年次大会が開かれる日本心理学会のほかに、各専門テーマ別に数十人から数千人規模の学会が組織されている。中でもいちばん大きいのは教育心理学会であり、入会資格制限が日本心理学会よりゆるやかなこともあって、会員数は日本心理学会をしのぐと言われている。グラフの中で、「教育心理学」が少ないのは、そうした理由による。したがって、ここに示した分野別の件数が、日本の心理学者の研究分野の大きさを示すものではないことに留意していただきたい。
 で、このグラフから何がわかるのか、ということだが、全体として発表件数は増えているものの、分野別の構成比率はそれほど変わっていない。図2には、発表件数全体を100とした時の分野別の比率の推移を示す。これを見ると、大きく増えているのは「認知」、そのあおりをくらって「学習」が減っているぐらいで、あとは、どこかの崖で地層を見るようなもので、ほぼ厚みの変わらない層構成となっている。この原因はいろいろ考えられるが、各大学の講座が後任人事にあたって同じ分野の研究者を採用し、結果的に、閉じた研究者集団の中で、再生産がくり返されていることにあるのではないかと思わざるをえない。
 「心の教育」重視などと言われるようになってきたが、宗教家や作家、教育現場の方などと比べて、ここにかかげた諸研究が、現場にどれだけ反映しうる成果をあげているのか、また、20年前からどれだけ進歩したと言えるのか、さらに考察を進めてみたいと思っている。
 なお、日本心理学会と言っても、あらゆる心理学者、あるいは心理学「研究家」が入会しているわけではない。1994年の名簿でざっと見ると、
 もちろん、心理学会会員の研究がすぐれていて、非会員の本がインチキであるなどというつもりは毛頭ない。むしろ、よく売れている本を書く人が会員でないというところに、心理学会全体の研究の方向性と体質に問題があると言えるかもしれない。
まごちゃんは、9時頃起床。ウンチ3-4回。6歳。体重48グラムだったものを、運動させて34gまでスリムにした。


970912(金)
心理生活]実験的方法への疑問 あぐりさん
 いつも21時以降はテレビを見ないことに決めている我が家であるが、今晩は妻から特別のリクエストがあった。ふだんの規則正しい生活を変えてまで見たいという番組は何かと、むしろそのことに関心があって日記も書かずに、22時20分までつき合って見たのは「吉行あぐりと8人の客」というNHKの番組だった。
 生活リズムの違いからNHKの連続テレビドラマの「あぐり」という番組はこれまでに2、3しか見ていなかったが、原作を見ていなくても、本物の「あぐり」さんの生き方には感動するものがあった(えっ、どっちが原作?)。
 この番組では、90歳になったあぐりさんが、いまも東京市ヶ谷で70歳以上の馴染みの客だけを対象に美容院を開業している様子を描いていた。
 あぐりさんは、74歳の時にいったん店を閉めた。これは従業員まかせで不特定多数の客が入る美容室では、若い女性客の髪型の好みに合わせきれなかったこと、それと、自分が全然くたびれないのにすぐに「疲れたーっ」と言う若い従業員に満足できなかったためであったという。
 あぐりさんは、店を閉めたあと、しばらくは本を読んだり旅行をしたりして悠々自適の生活をしていたが、結局、これでは満足できず、髪洗いからセットまで一切をじぶんでやり抜く仕事場をつくり、昔からの馴染み客だけを相手に店を再開した。当初は何十人かのお客がいたが、高齢者で亡くなるかたも多く、現在は8人だけ。お客の方も、遠い人は2時間以上かけて通ってくるというから、命がけの訪問である。それだけ、あぐりさんとのつながりを大切にしているのだろう。
 あぐりさんが言われた言葉で印象的だったのは「定年後に、何かしたいと思っていますか?」という問いかけだった。「停年になったら...したい」というような夢は幻想にすぎない。仕事をやめたら、屍みたいなものだ。とにかく仕事として続けることが、高齢者の最高の生きがいになるのだということを教えてくれた。
 いつも日記を書く時間に、この番組を見てしまったので、今日はこれでおしまい。肝心の心理学の話が書けなくなってしまった(<---誰も期待してないってば)。
まごちゃんは、9時頃起床。ウンチ3-4回。5歳。体重48グラム。そういえば、某日記作者の方も「たまちゃん」と命名して現在飼育に取り組んでおられるらしい。たまごっちのHPも、ブームが去ったらしく、「今月で閉鎖」とか、すでに閉鎖というものが目につく。そんななかで、異色の案内をしているのが、こちら。このサイト、前にも何かで訪ねたことがあった。思いだしてみたら、「ストーカー」に関する話題だった。亀有公園前派出所の次に変わったところだなあ。こういう見解まで掲載されているのはすごい!


970911(木)
[心理]心理学の将来と私(その1)
 ここ数日、数人の日記作者の方の掲示板に書き込みをさせていただいた。ふだん、他の方のゲストブック等には滅多に書き込みをしない私だが、このところ会議や授業が続いてくたびれてしまい、夕刻にちょこちょこっと立ち寄らせてもらっている。迷惑だとお思いでしょうが、その節はよろしく。なお、私は辺境の地にある某伝言板も、書き込みは一度もしていないが、毎日拝見している(レベルの高い高尚な意見やタコ踊りで有名なヤツ)。間違っても、私の悪口など書き込まないように。

<9/12追記>掲示板めぐりをしているとラッキーなこともあるものだ。この日記、日記本文より掲示板のほうが面白かったりして話題が豊富だったりして。きゃーっ。

 さて、来週の9月17日から19日まで、関西学院大学で、日本心理学会第61回大会がある。そこで、少々退屈な内容になるが、今日からは、不定期連載で、心理学の将来と、それに関わる私のことを書いてみたいと思う。
 初めに、私自身のことを書くと、じつは私は心理学を目指して大学に入ったのではなかった。まあ、話せば長くなるけれど、もともと才能もないのに数学者を目指していたが、理学部には入れそうもないとわかって、こんどは何故か農学部を目指す。それも「農林生物」が第一志望だったのだが、成績が悪くて第二志望の「食品工学」に廻されてしまった。化学も好きだったので、いま考えると、そのまま進学すべきだったのかもしれないが、入学後に、今度は哲学に関心がうつる。しかし、哲学の思弁的な雰囲気にもなじめず、自然科学的な方法論から人間の心をとらえてみたいという考えが強くなって、転学部して、心理学を学ぶようになったのである。
 はじめのうちは、性格検査とか知能検査など「心を測る」ことや、臨床心理学の領域に関心をいだいていた。しかし、当時、教育学部で始まった河合隼雄先生の授業などを聴講しているうちに、逆に、そこから離れ、徹底的に自然科学的な立場から、心の問題をとらえていこうと考えるようになった。
 河合先生の場合は、理学部数学科卒業後、「自然科学では解決できない心の問題がある」という認識からユングを学ぶようになった、というように聞いているが、私は、どうもそれにはついていけなかった。もちろん、心の問題は、いくら研究しても自然科学では解決できない部分があるに違いない。しかし、私の場合、最初から解決できないと決めつけてしまうのには賛同できず、「できるところまで自然科学の方法で進んでみよう」という視点から、アプローチしていく道を選んだ。その理由はよくわからないが、子どもの頃から「霊魂」とか「超能力」とか「因縁」というものを攻撃的なまでに否定するところがあったから、「無意識」とか「潜在意識」なるものだけを例外的に認めるわけにはいかなかったのだろう。
 さて、今年の心理学会だが、個人だけで1010件の発表がある。ほかにシンポジウムや小講演が71件(抄録のページ数)、会員が自主的に企画するラウンドテーブルディスカッション(いわゆるワークショップ)が42件、ほかに公開講演、特別講演などが予定されている。明日以降、そこに示された諸研究が、ほんとうに人間の理解や、社会環境の整備に役立つ方向に発展しているのかどうか、考えてみたいと思っている。
まごちゃんは、朝9時頃起床。あまりお腹は減っていなかった。午前10時頃に、「たまっち」に成長。うんち3-4回。4歳で体重57g。私の生活習慣に合わせて5:30頃に起床させたいのだが、方法がわからない。


970910(水)
[生活]動物を飼うということ

 きょうは、動物を飼うということについて、ちょっと考えてみたい。私は、昔から動物を飼うのが好きで、子どもの頃、実家では犬やニワトリ、セキセイインコ、文鳥などを飼っていたし、自分でも、庭から採ってきたアゲハやセスジスズメガの幼虫など、主として昆虫を育てていた。大学に入ってからはずっと下宿していたが、下宿で飼っていた犬は、その家の家族よりも私のほうに、いちばん、なついていた。結婚した頃は、妻が結婚前から飼っていたネコと同居する羽目になったが、だんだん私のほうになついてきて、冬場は布団の中に入れて、あんかコタツ代わりに使っていたものである。(このネコは、その後、妻の実家に預けっぱなしになってしまったが、14年後の今でも健在だ)。

 世の中には、動物好きの人と、動物嫌いの人がいる。これは全く無責任な推測だが、兄弟が3人以上いる場合、長男や長女よりも末子のほうが、動物好きが多いように思われる。私が学生の頃に下宿していた家はお子さんが5人いたが、長男や長女は動物嫌いだった。末娘だけが、動物好きで、犬のほか、テーブルウサギやモルモットを飼っていた。いまは結婚して姫路のほうに住んでいると聞いたが、ダンナは動物園の飼育係だそうだ。私の妻の兄弟も同じで、義姉など大の動物嫌いである。末娘の妻だけがなぜか動物好きで、じつは結婚前後には、某研究所でサルの飼育係をやっていた。長男や長女は、妹や弟の面倒をみたり、時には欲求不満のはけ口に、当たり散らしたりする。ところが末子は、それをする相手がいない。そこから動物好きが生まれるのではないかと思うのだが、上記の2例しか証拠がないので、あまり大きな声では主張できない。

 動物を飼うことは楽しいが、いちばんイヤになるのは、死んだときだろう。ここ数ヶ月の間にも、Web日記には、可愛がっていたペットが死んだ時のことを記したものがいくつかあった。そういう時の文章は、どの日記でも、いつになく心を引きつけるものがある。
 その年に必ず死ぬことが決まっているスズムシとかカブトムシ成虫ならばあきらめもつくが、長年飼っていたものが突然死んでしまうのは、なんともやるせないものだ。小学校5年の夏休みに犬が死んだ時は非常に落胆し、夏休み明けに担任の先生から「長谷川、どうしたんだ。何かあったのか?」と言われるぐらいに元気を無くしていた。いま写真を載せたネコなども、もう16歳になるはずだから、そろそろ寿命かと思われるが、やはり死ぬときのことを思うとつらい。
 とはいえ、死ぬのがイヤだから飼わないというのは、あまりに消極的過ぎるかと思う。人でも動物でも必ずいつかは死ぬものなんだから、それを受け入れるという心構えなしには、ちゃんと生きていかれない。むしろ、死の悲しみを一度も体験しないままに育つことは、かえって将来に何か悪い影響が出るのではないかと、心配してしまう。

 ペットの死が、人と人とを結びつけることもある。昔のことなので記憶は定かではないが、独身の頃にハムスターのつがいを育てたことがあった。子どもがたくさん生まれたので、その頃世話になっていた某研究所内の職員の希望者にひきとってもらった。それから半年ぐらいして、そのうちの一人(女性)から、手紙が来た。
長谷川さん、前にハムスターをもらった○○です。実は、長谷川さんに謝らなければならないことがあります。あのハムスターには『トマト』という名前をつけてずっと可愛がっていたのですが、たまたま、留守中に飼育かごのカギをきちっとかけていなかったために、外に出てしまいました。ところが、私が飼っているネコがそれを弄んで殺してしまったのです。本当にごめんなさい。
 この女性とは、それまで殆ど話をしたことがなかったのだが、この手紙をもらってから、付き合い始めるようになった。その女性と私がいまどういう関係にあるかは、犯人のネコの写真を御覧になればおわかりかと思う。
「まごちゃん」は、3歳。体重は50グラム。3回ほどウンチをした。しつけ2回。食事は、8:30、12:00、16時、19時の4回。20時きっちりに寝る。私の生活に合わせて、規則正しい生活を送っている。


970909(火)
[因得]思慮のない稚拙な「ウィルス警告メイル」
 (まったくの余談)うーむ。カイシャの女の子さん(但し9/8の分)、とうとう解雇されちゃったんですか。これはちょっとショックでした。しかし、た○ば○さんは、本当に偉大だなあ。6月中旬頃には「オッサン」とか呼ばれたこともあったけれど、10歳も年上の37歳の男性から頼られたり、転職やリストラが当たり前の時代に人間本位の社内教育をめざすあたり、やっぱり偉大だ(<--ベタ褒め)。私が27歳の頃と言えば、山登りばっかりしていて他人など構う余裕はなかった。
 今日は、午後から合計200分の授業があり、しゃべりまくってくたびれた。またまた「日記読み日記」で場つなぎをしようかと思っていたところ、帰り間際になって、日記ネタにピッタリのメイルが飛び込んできた(こういうのを「飛んで火にいる夏の虫」と言う?<--全然意味が違う)。一言で言えば、
"*****"というタイトルのe-mailを受け取ったら、絶対に開かないでください。もし開いてしまうと、ハードディスクのすべてが消えてしまいます。この文書をできるだけ多くの人に送ってください。
という「ウィルス警告」型のデマ・メイルであった。
 メイルは、まず、
これは、新種のウイルスであり、知らない人がたくさんいます。 この情報は、今朝、IBM から手に入れました。
そこで念のため、http://www.ibm.co.jp/のホームページやニュースを参照したが、それらしき記事はない。ということは、たまに話題になるデマだ。
 文の中で滑稽に思われたのは、
このウイルスは、自己増殖型ウイルスです。いったん読まれてしまえば、あなたのメールボックスにあるだれかのアドレスに自動的に送られてしまいます。
「だれかのアドレスに自動的に送られてし」まうとあるが、いくら器用なウィルスでも、私のメールサーバからパスワードを自動的に盗み出して、メールソフトを起動し、勝手に発信することまではできっこない、と思うのだが。
 この種の「偽警告メイル」は、たまに話題になるようだが、今回のは何と、デマや流言の研究者も多い心理学関連のMLを通じて流され、しかも発信元が、心理学専攻の学生であったというところが興味深い。たぶん、「これは一大事」と思いこんで、MLに流しまくったものではないかと推察される。私のところに来た胡散臭いメイルとしては、他に、「**さんを助けよう」というメイルがあった。いずれも、「大変だ、一日も早く知らせてあげなければ」という心理をついて、ネット上で急激に拡散することを意図している。しかしよく読んでみると、情報の発信源がいまいちはっきりしない。一部本物の情報も含まれていたり、「ある有能なプログラマからの情報」とか今回の「IBM」のように、受信者を信頼させるための細工が施されているなどが大きな特徴だ。こういうものを受け取った時は横流し転送せずに、まずは自分で情報を確認すること、それができなければ大学の情報センターとか、その筋の専門機関に問い合わせたうえで、正規のルートで情報を流してもらうことだ。稀にサーバの管理者が偽情報の発信源になることもあるけれど....。
 以上述べたことは、決してEメイルが安全ということを主張しているわけではない。テキストベース以外のメイルは、信頼できる相手からのもの以外は、一律廃棄してしまうのが常識だろう。
たまごっち(「まご」ちゃんと命名)は、2歳で体重47g。子どもたちからの情報では、この体重はちょっと太り気味だそうだ。几帳面に餌を与えすぎたためか。3-4回ほどウンチをして、21時ころ睡眠。


<追記>本日の日記を読まれた方から、下記のサイトで詳しい情報が入手できると教えていただいたので転載させていただきます。


970908(月)
[生活]今頃になって、たまごっちを飼い始めた私
 昨日の日記でネイミングのことを書いたが、その日の夜に新作200リストを見たら、こちらの方の1行コメントに「そろそろタイトルを変えなければ...」というようなメッセージが載っていた。昨日書いた時には、その方の日記のことまで考えが回らなかったけれど、そう言えば、季節を取り込んだ日記名というのは、改名が大変だなあと、余計な心配をしてしまう。
 もっとも、夏が好きな人はずっと「夏休み」のままでもよい。「毎日が日曜日」の人だっていることだし。そもそも私自身、最初に登録した日記は「彗星日記」という名前だった。ヘールボップ彗星が見えなくなってからも「続彗星日記」として、しばらく続けたが、結局、執筆時間がなくて休止してしまった。しかし、そのうち暇ができたら、また同じ名前で続けたいと思っている(暇ができるかなあ)。
 それに、大学の名前だって、「慶応大学」(「慶應義塾大学」と言わないと怒られるかな)、明治大学、大正大学...というように、過ぎ去った時代名を冠している大学があるではないか...-->説得力ない。
 さて、日記界の宴会屋?も見事に復活されたことだし、私の日記もそろそろ元のスタイルに戻りたいと思う。といっても、来週に学会を控えているので、今日から少し短めに。
 じつは、今日から私自身が「たまごっち」を飼い始めることになった。この「たまごっち」、8月頃に、家族が私に内緒で飼い始めたものである。初代は、もっぱら妻が世話をし、17歳まで生きた。2代目は息子が世話をし、14歳で、数日前にお亡くなりになった。2人とも、もう嫌だと言っているので、今度は私が3代目の飼育を担当することになった。
 「たまごっち」には、仕事柄、前から関心をもっていた。どうしてこのように熱中する人が多いのか、生き物を軽んじるようになるのか、何はともあれ、自分でやってみないことには批評もできない。ということで今晩から飼い始めたわけだが、どういう評論に発展するやら...。
 まずこれを手にしてとまどったのは、3つのボタンとアイコンの意味だ。メカには苦手な妻が上手に操っていたので、簡単だろうと思ったが、覚えきれなくて苦労した。そうか、行動の基本は、「選択」、「決定」、「キャンセル」にあるんだなあ。
 さて、しばらく待っていると、「べビっち」が誕生した。餌をやったり、ジャンケンゲーム(「2項選択」行動と呼ぶべきものか)の相手をしてご機嫌をとったりしていると、寝る前には「まるっち」進化して四角い形になっった。今日は、これで消灯。
 この「たまごっち」、妻も子どもたちも一切世話を手伝ってくれないという。明日はとりあえず、研究室に持っていく。小中学校などでは、学校への持ち込み禁止を決めているところがあるらしいが、「岡大教官倫理規定」には「研究室にたまごっちを持ち込んではいけない」とは書いてないし。
 来週には学会があるのだが、シンポジウムでしゃべっている最中にウンチでもされたらどうしようか、妻を拝み倒して世話を代わってもらおうか、思案中だ。

970907(日)
[日記]日記のネイミングと姓名判断
 昨日まで2回にわたって、日記作者の想像画を描いてみた。幸い、関係者の方々から御寛容なお心遣いをいただき、削除要求などされずに済んでホッとしている。その際、ある著名な方から、「#831の『ホラー狂日記』の『くるい』さん(9/7現在では『オシッコちびっちゃう日記』の『まりも』さんに名称変更)の想像画も描いてほしい」との要望をいただいた。しかし、日記作者の想像画などというものは、少なくとも1ヶ月以上にわたって当該日記を丹念に読み、その心理を骨相学的に分析しない限り描けるものではない(ウソウソ)。私は、残念ながら#831の日記は一度も拝見したことがないので(「オシッコちびっちゃう日記」は一度だけ拝見したが...)、作者がどんなお顔なのかまるで見当がつかない。しかし、「ホラー狂」というぐらいだから、きっとコワいお顔に違いない。そこで、米国のヤフーで動画GIFを検索した結果、月並みだが、これをもって想像画とさせていただくことにしよう(出典は、ここ)。じつは、私のホームページにも、ディレクトリ内の覗き見を防止するための絵がはりつけてあり、そっちの絵のほうが遙かにピッタリだと思うのだが、著作権上のトラブルを避けるため、ここではあえて公開しない(商用目的の転載禁止とだけあるので、たぶん大丈夫だとは思うが)。

 さて、今日の話題は、日記のネイミングの話。ネイミングと言うと、「オセロ」、「ミニ四駆」、「セロテープ」のように普通名詞として独り歩きした商品名もあれば、「Canon」や「ブリジストン」のように命名の由来が面白い会社名があるなど、興味のつきない話題であるが、日記作者諸氏も、何度も何度も練り直して、御自分の日記の名前を考えたに違いない。
 9月7日9時35分現在で、「日記猿人」の「日記一覧」のフルリストをセーブしてみる。この時点で最新の登録番号は940番、実質登録数は、管理用の2本を除いて814であった。このファイルをエディタMifesで加工して、日記名の文字列だけを切り出し、フォントタグなどを除去して、どういう名前が使われているのか、調べてみた。
 まず、長い名前の日記にどういうものがあるか? 35バイト以上のものを並べると次のようになった。
  1. 毎日更新! ベイエリア・人生的辛口日記<高橋周平>
  2. なみのインドネシアじゃらんじゃらん日記(おまけ編)
  3. ふじぽん総研 研究日誌−バカもののつぶやき−
  4. ニューハーフ(如月)ますみの「おたく日記」
  5. [Watch広告担当]の仕事に直接関係ない雑談
  6. ZEROの事件簿 〜たあいもないようなこと〜
  7. G Y C O 's D i a r y 〜ジャイコの手淫
  8. つれづれ日記〜なまけものは生きている〜
  9. 和風の日々是バイナリィ日記/本日の音楽
  10. 絵のない絵日記ってそれただの日記やん
  11. ♪披露宴まじか希有の文学っぽい日記♪
  12. はまちょびのぐるめなランチ日記in広島
  13. cinema entrance diary 日記のような

 じつは、上に掲げた日記は、私はどれも一度も拝見していない。ごめんなさい。
 いっぽう、短い名前の日記であるが、いちばん短いのはもちろん「名前なし(ヌル・ストリング)」という日記だ。恒常的に「名無し」日記を書いている人はさすがにいないが、ごく短時間だけ、「名無し」になる日記というものもある。9月2日に出現したこういう日記だが、日記界でこういう突飛なことを考える人といったら(別に褒めているわけではない)彼しかいないだろうと思ってクリックしたら、やっぱり的中だった。ハセピーに見破られるようでは、まだまだ修行が足りんなあ。
 で、「名無し」日記を除けば、いちばん短い名前は、「日記」、「memo」、「短評」、「雑感」、「days」など。ちなみに、「日記」という名前だけの「日記」は、8本見つかった。
 次に、日記名によく使われている語句をあげれば
  1. 「日記」(331本、「日記帳」を含む)
  2. 「日々」(24本)
  3. 「つれづれ」(10本)+「徒然」(6本)=16本
  4. 「diary」(13本)
  5. 「今日の」(11本)
  6. 「私」(6本)+「わたし(3本)+「ワタシ」(1本)=10本
  7. 「にっき」(9本)
  8. 「思」(9本)[「想」は6本]
  9. 「きまぐれ」(5本)+「気まぐれ」(3本)+「気紛れ」(1本)=9本
  10. 「雑記」(8本)
  11. 「心」(7本)+「こころ」(1本)=8本
  12. 「日記帳」(7本)
  13. 「毎日」(7本)
  14. 「留学」(7本)
などとなっている。上記のランキングは、「一太郎」の校正機能の「使用単語一覧」を利用して多く出現している語句を概観したあと、エディタの全置換機能でカウントしたものである。頻度そのものは正確だが、チェック漏れの語句はあるかもしれない。
(9/9追記)「日記学」に精通しておられる同好の方(但し9/8分)から、上記の他に、「独り言」(13本)+「ひとりごと」(11本)=24本が抜けているとのご指摘を受けた。いやー、参った。


 ところで、インターネットの世界には、姓名判断のサイトが山ほどある。日記廃人になりかけの人、ネタが見つからない人、毎日更新を宣言しながら更新をサボる人などは、いちど、こういうサイトにつないで、「日記名判断」をされたらいかがだろうか。私は仕事柄、姓名判断は一切信じないが、名前を変えることで心機一転、行動を変えるきっかけをつくるという積極的効果は、あるのではないかと思う(しつこいようだが、「ホラー狂日記」さんが「オシッコちびっちゃう日記」に変えたのも心機一転か? 次回の改名は「下痢便日記」だったりして。きゃーっ)。
 姓名判断サイトの中で、非営利でac.jpなサイトがある(姓名判断そのものを研究しているのではなくて、たぶんWebサイトにおける大量のデータのソーティングと検索を迅速処理する方法を研究しているところなのだろう)。
 ちなみに、「じぶん更新日記」を、姓を「じぶん更新」、名を「日記」として判断してもらったところ、「総運+人運 56.0 天運+地運+外運 5.1 得点 61.1 この名前は現在約927948人中331660位だよ。」と出た。まあまあだなあ。このほか姓が「日記」、名前が「猿人」という人は、「総運+人運 39.6 天運+地運+外運 12.0 得点 51.6 この名前は現在約927948人中391585位だよ。」と出た。これもまあまあだ。

 お気の毒ながら、姓が「とほほ」、名前が「日記」という「人」は、「総運+人運 7.0 天運+地運+外運 6.0 得点 13.0 この名前は現在約927948人中908900位だよ。」の「大凶」になってしまった。うーむ。ぷろくらさんが管理者に加わったことでもあるしなあ...。
 ご興味をお持ちの方は、直接アクセスして、運勢の詳細を御覧いただきたい。なお、すでに誰かが占ってもらった姓名と同じ姓名を入力すると、「この名前は約*****人中*****位で登録されてるよ。」というメッセージが出る。もし、自分の日記名を入力したときにこのメッセージが出たとすれば、すでに誰かが入力しているわけだから、関心を持たれている証拠になる。それからよい日記名が思いつかない人は、こちらを参照すれば、お勧めの姓名(==>日記名)を教えてもらえる。例えば、「悶悶 悶悶箱」などは100点満点の大吉だ。

970906(土)
[日記]日記作者の想像画(続)
 8/31に、岡山では「タイムトンネル」というたぶん30年ぐらい前の番組を放映している(西日本テレビ)と書いたことがあるが、9/6は「世界の終わり」。1909年のハレー彗星大接近時の騒ぎを大げさに描いたものであった。この番組、私が中学の頃には結構熱中していたし人気もあったと記憶しているのだが、バーチャル映像に馴れきった今の子どもたちはどんな目で見るのだろうか。
 あの主人公たちは、いつも同じ服を着ているけれど、どこで洗濯しているのだろう?とか、危機を脱出するタイミングがよすぎるとか、まあ挙げればキリがないぐらいワザとらしく感じてしまうのだが、懐かしさのあまり、ついつい毎回見てしまう(モノクロの「怪傑ゾロ」なんかも再放送しないかなあ)。
 夕刻から家族でレスパール藤ヶ鳴へ。浴場内のサウナのテレビで、ずっとダイアナさんの葬儀の中継をやっていた。かなりのお客も、この画面に見入っていたが、裸で葬式を見るというのも何だか申し訳ない気がしてきた。

 きょうは家族でSPA(週刊誌のSPAではない)に行って来たので、長文を書く気力がなくなった。悪のり過ぎると言われそうだが、日記作者の想像画の続編で明日につなぐことにしよう。

 さて、きのう、Y.Horiuchiさんの想像図を公開したところ、さっそくわざわざご本人の日記に
Nice Try! と言いたいとこだけど、あんまり似てませんな。ははは。大ざっぱに違いを言うと、私は、眼鏡をかけてるんですが、色は黒いほうで、文学青年や腺病質なタイプにはあまり見えません。
というコメントが掲載されてあった。。前回の絵は、確かにちょっと雑だったので、このヒントをもとに、もう一度作り直したのが、この苦心作(制作時間8分)。これなら条件は満たしていると思うのだが、どうでせう?
 せっかく話題になったことでもあるし、このさい、どこかのページで、ホリウチさん想像画コンテストでもやって、御本人に一番似ている絵を描いた人に、秘蔵ビデオ一巻プレゼントなんていう企画があると面白いんだけれどなあ。もっとも私など秘蔵ビデオをもらっても妻に見つけられて怒られるのがおちだから、代わりに、以前にNHKでやっていた「脳内薬」、特に脳内神経の伝達を促進する薬とかいうのをいただきたいものだ。
 もう一枚。公平を期す(何の公平っちゃ?)ために、夜久さんの想像画(制作時間10分)を掲げておこう。このところ日毎に丸みを帯びてきた(単に、「脱力」しているだけ?)夜久さんだから、この程度のことをしても怒られることはないだろう。

970905(金)
[日記]日記に現れる作者の顔と謎の顔
 このところ「日記読み日記」ばかりやっている。理由は単純だ。締め切りに追われてクタクタになって、寝る前には頭が働かなくなってしまうためである。人のふんどしで日記を書くのは気が引けるが、日記の基本はリラクセーションでなければならない。誰かに怒られそうだが、「知的にinspireさせるもの」は、いましばらくご容赦を...(---->誰も、期待していない)。

 さて、今日の話題だが、Web日記の中には、アクセスするといきなりご本人の写真がドカーンと現れてくる日記もあるし(たとえば、気の毒にも日記テロルの格好の餌食にされてしまったこちらの日記など)、その一方で、いろんな事情からお顔を公開されていない日記もある。

 お顔を知らずに日記を毎日拝見していると、しだいしだいに、ご本人とは似つかぬ作者像ができあがってきてしまうものだ。
 本日、たまたま、このページで情報を得て、この方のお顔を初めて拝見した。この方の日記は、毎日のように拝見しているが、日記の下のほうにこういう絵が張り付けられているため、ご本人も同じ様なお顔をしていると錯覚していたのである。もちろん、この絵のような原始人の格好で町中を闊歩しているとは思っていたわけではないが、実際のお顔はこちらで拝見できたわけなんだが、ちょっと意外というか、もっと精悍な顔つきの人かと思っていた。なんだか、この写真(注:休日はサーバの都合で拝見できないこともあるみたい)と、あんまり変わらないお顔だなあ...(そうか日記名が似ているからだ!)。
 いっぽう、写真を載せておられない日記もある。もっとも、私の場合、上記の方の場合もそうなのだが、日記本文以外のページには殆どアクセスしたことがないので、私が思いこんでいるだけかもしれない。来月帰国されるこの方のお顔は、未だ拝見したことがない。そこで、私が想像したお顔を描いてみた。こんな感じ(683バイト)なんだが、生ホリウチはどんなお顔なんだろう?

 ところで、日記作者ご本人とは、全く関係ない絵を載せておられる日記もある。私が長年(というほど長期間でもないが)疑問に思っているのは、この日記に現れる女性の絵である。ちゃんと「この絵は私ではありません」と断り書きがついているが、いったい誰の絵なのだろうか?子どもの頃、何かの絵本で見たことがあるような気もするのだが...。
 もう一枚。こちらの日記に忽然と現れたこの絵も、ご本人の自画像にしては余りにも可愛いらしすぎるし、奥さんのお顔を載せるわけもないし、いったい誰の顔なんだろうと疑問に思っていた(まさかこの絵をずっと貼り付けたままにしておくつもりでも...)。しかしまさに本日になって、この記事を書くにあたって、画像ファイル名を参照してやっと正体がわかった。そ、そうだったのかあ。うーむ。私ならば、こう描くなあ(742バイト)。どうか怒らないでね。この絵の制作に15分もかけてしまったので(上掲のホリウチ想像画は3分)、きょうの日記は、これで終わり。うーむ。知的にinspireさせるものがねえ........。

970904(木)
[心理]図々しい人の起源
 図々しい人というのは、どこにでも居るものだ。先日、近所の知り合いのお子さんが、別の家の車にちょっとだけ傷をつけた。持ち主が車の中からその場面を目撃していたため、怒鳴り込まれ、修理代を払うことを約束したという。その傷は、目を凝らしてみないと気付かないほどの小さなものだったので、大した額にはならないと思っていたところ、何と9万何千円かの請求書を持ってきたそうだ。ところが、その修理代は、子どもがつけたものではない別の大きな傷やへこみまでを一括して修理した費用であって、おまけに車検の代車費用で含まれていたそうだ。
 長い行列に平気で割り込んでくるおばさんもいる。もちろん見知らぬ人たちの間に強引に割り込むわけではない。知り合いを見つけて、あたかもその人に場所をとってもらっていたかのような素振りで入り込んでくるのである。もっとひどい人になると、知らない人に場所をとっておいてくださいと頼み、自分はさっさと喫茶店か何かで時間ぎりぎりまで休息してきたりする。
 じつは、きょうこの話題を取り上げたのは、妻が帰省の帰りの満員の新幹線の中で、二十歳前後の女性から、空席の確保と見張りを頼まれたという話をきっかけとしている。はっきりした経緯はわからないが、3人掛けの空席ができたので、妻と子どもたちがそちらに移動しようとしたら、見知らぬ女性が来たので、妻が「この席、空きますよ」と言うと、「その場所をとっといてください」と言い残して、相棒を呼びに行ったまま、長時間帰って来なかったというような話らしい。。
 妻は、このことで常識感覚のズレにショックを受け、近所の奥さんたちにも同じ話をしたらしい。「こういう人っているのよねえ。信じられないわ。」などと同意を求めて、心の平安をとりもどそうという魂胆だったようだ。
 しかし、批評や論争を何よりの生きがいにしている私としては単純に同意するわけにはいかなかった。

 まあ、こんなふうな結末を迎えた。反省してみると、いくら行動分析学に基づく正論だと信じるに足るものがあっても、やはり時と場所をわきまえて主張すべきだった。あの場所では「君は、本当に気だてがいい人なんだねえ」と同意しておいて、正論はこっそり日記に書いておくべきだった。
 この会話は昨日交わしたものだったが、きょうの夜に、念のため聞いてみた。

 そう言えば、結婚前に、妻が独り暮らしをしていたアパートでご馳走をしてもらったことがある。普通ならば、「きょうは、とっても美味しかったよ。」といって一人で帰るところだったが、当時私はまだ車の免許をとっていなかったので、彼女が運転する車で宿舎まで送り届けてもらったことがある。段ボール箱に詰めた荷物も、駅まで彼女の車で運んでもらったことが2度3度あった。で、これらが結婚にどう結びついたかを書こうと思ったが、先ほどから、その妻が、横に立って画面を覗き込みながら、「結婚前なのにコレクトコールで電話してきた」、「(結婚後に妻の)貯金を使い込んだ」などと、私の過去の図々しい行為を次々と挙げ連ねているので、きょうはこれでおしまい。

970903(水)
[家庭]家族に「アメリカ出張土産」のクイズを出す
8月27日のじぶん更新日記で日記ネタにさせてもらったこちらの方の夫君が、1週間のアメリカ出張からめでたく帰国されたことは、日記猿人の1行コメントしか読まない方でもご存じのことと思う。
 で、家族に、しんつまさんがお土産に何をもらったのかクイズを出してみた(ご当人の日記を拝見すると、「洗濯物」と、「ナイキの靴」と、「トラックボール」が掲げられていたが、ここでは、2番目の「ナイキの靴」を正解とさせていただいた)

 このあと、妻と娘は、娘が翌日に学校で使うという上履きを買いに行った(本当は、近くのレンタルビデオ屋にビデオを返して新しいのを借りに行くの目的らしい)。
 30分ほどたってから、案の定、貸しビデオと靴を入れた袋を抱えて妻と娘が帰ってきた。上履きのほかに、靴底が透明っぽいスニーカーも買ってきた。2足にマジックで名前を書き込んでいるところで
というように会話が続いたが、しびれを切らした私が、とうとう正解を言ってしまった。しかし、そのあと、若干、雲行きが怪しくなってきた。
 そう言われてみれば、「炎のチャレンジャー」で、妻の「秘密」を夫が10問正解すると100万円貰えるコーナーがあったが、私は、靴のサイズも、ブラジャーのカップのサイズも知らない。何度か教わったが、すぐ忘れてしまう。で、他の話題に注意をそらせて、「お土産クイズ」はこれで終わり。

970902(火)
[一般]M6はM4の何倍だろうか?

 3日続きの「日記読み日記」の関係で1日遅れになってしまったが、きょうは防災の日に関連した話題をとりあげようと思う。
 地震の報道で、各地の震度と共に必ず伝えられるのがマグニチュードである。関東大震災(関東大地震)はM7.9、阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)はM7.2などと言われるが、地震の規模を表す数値だと言われても、計算の仕方も、それがどういう意味をもっているのかも、全く実感がわかない。気温や風速であれば、日常生活の体験から、数値を聞いただけで、暑いのか寒いのか、強い風なのか、大したことないのか、だいたい予想がつく。気圧だって、中心気圧が940ヘクトパスカルの台風は強いが、990だったら弱いということがわかる。しかし、マグニチュードが6だとか7だとか言われても、それが大きいのか小さいのか、少なくとも私にはさっぱり分からない。
 いつだったか、一般教育の授業で、マグニチュード6の地震はマグニチュード4の地震の何倍だろうか?と聞いてみたことがある。確か、正解を出したのは1人か2人だけで、大方の学生は6÷4だから1.5倍だとか、2倍、せいぜい10倍程度の範囲でマチマチの答えを出していた。じつは、こちらの情報によれば、正解は1000倍ということらしい。マグニチュードが1だけ違う場合は、この平方根になるから、約32倍の違いということになる。
 しかし、それを理解した上で改めて地震の規模が2倍だとか1000倍だとか言われても、実感がわかないことに変わりはない。ビールが2倍というなら誰の目にも明らかなのだが...。
 おそらく、ごく地震学者などごく一部の人を除いて、アナウンサーも、自治体の防災関係者も、一般庶民も、何もわからずに、「マグニチュード」という言葉を使っている。地震直後の緊急時に、こういう意味不明の数値を流すことには、果たして情報的価値があるのだろうか?
 「マグニチュード」は、海外で大地震が起こった時にもしばしば使われる。以前にロスで大地震があったときにも、日本の新聞は、大部分が「ロスで大地震、M7.x」(理科年表では、94年1月17日の地震はM6.8となっている)というような見出しだったように記憶している。日本とアメリカでは震度の基準が異なるので、客観的な数値としては共通単位であるマグニチュードを使わざるをえなかったものと推測するが、7.2だったら大きいとか6.8だったら小さいというものでもない。これもやはり、読み手には全く情報的価値のない数値である。
 マグニチュード表示が、とんでもない避難騒ぎを引き起こしたことさえある。1978年1月14日の伊豆大島近海地震の4日後に、静岡県災害対策本部がこんな「余震情報」を流したのがきっかけである。
昨1月17日に開かれた国の非常災害対策本部において次のような見解が発表されました。「今回の伊豆大島近海の地震の余震の可能性としては、最悪の場合はM6程度の発生もあり得る。そして当地域の地震の震源は浅いので、その場合はM6の地震としては、被害が大きくなることもある」。当該地域の県民の皆さん方は、今後の情報に注意しながら落ち着いて行動されることをのぞみます。
 この情報は、県内の各市町村から自治会長、さらに隣組へと伝えられたわけだが、文中の「M6」というのは、「マグニチュード6」という意味であったものの、伝え手にとっては全く馴染みのない言葉だった。こういう聞き慣れない言葉は、「震度6」とか「PM6(英語では6 PMと言うべきだろうが)」という言葉にすぐ置き換わる。「余震が起こるかも知れない」という不安にかき立てられている現地の人々のあいだでは、なおさら悪い方向に強調されやすいのだ。結果的に、一部の地域では「今夜6時から7時ごろ震度6の地震がある」というように誤って伝えられ、避難騒ぎを引き起こしたと言われている(社会心理学の本では、この話は「余震情報パニック」としてしばしば紹介されているが、パニックと呼ばれるほど収拾のつかない混乱になったのかどうかは定かではない。たぶん真相は赤尾さんがご存じだろう)。
 以上、地震が起こったことやや余震の可能性を報じるにあたって、マグニチュードを知らせることは無用であり、かえって誤解や混乱を招く有害な情報になりかねない、というのが今日の私の主張だ。では、どうすればよいのか。まずは日頃から、日本付近で起こる地震のタイプにはどういうものがあるのか、震源の浅い地震と深い地震でどう違うのか、といったことについて、義務教育の範囲できっちりと教えることだろう。そのうえで、地震の規模については、台風の「超大型」、「大型」といった分類と同じく、「大規模で震源の深い地震」とか、「局所的で浅い地震」というような形容詞による表現をしたほうが、分かりやすいし、誤解を招きにくいのではないかと思う。理科年表を見ると、私があれこれ言わなくても、M7以上を大地震、5以上7未満を中地震と呼んだり、最大有感距離が300km以上のものを顕著地震、100km未満のものを局発地震などというように、それなりの基準は定まっているらしい。あとは、啓蒙・普及活動につとめるだけだろう。

970901(月)
[日記]8月の「日記界」をふりかえって(その4)8月に印象に残った日記(後編)
 とうとう9月になってしまった。それにしても「日記猿人界」の「発展」は凄まじいものがある。本日19:25の時点で、最新の登録日記は924番、離脱された方を除いた正味の日記数は、ちょうど800(但し、000と001を含む)になった。前回数えたのは8月14日であり、この時の最新登録番号は887、実質登録数は770であるから、あいかわらず1日につき2本の割合で増加していることになる。このままの増加が続くと、10月上旬頃には1000番台に突入することになる。1000番を超えたら「日記原人」になったりして(..........しぃーーーん)。
 なお前回指摘した、作者不明の#407は、今回は削除されていた。前回、同一のめずらしい日記名があるということで、#143(アクセス不能)と#885を掲げたが、日記通の方によれば、これらは同一作者による、うっかりミスの二重登録と思われる。ご本人はまだ気付かれていないようだ。その他、実際には現状回復されているのに、相変わらず「 【削除されていました】原状復元を要求します」と訴え続けている(1)日記もある。もっとも、この日記は、愛読者(?)もいるし、日記界の歴史的資料として、末永く登録されておくべきかと思う。
 余談だが、デカすぎる文字や制御コードの混入のために、1行コメントが2行にまたがって表示されている日記が、たまに出現するが、他の方も指摘されているように、更新報告をしたら必ず、新作一覧画面で確認してもらいたいと思う。人によって受け止め方はいろいろあると思うが、私は、読者を増やしたいのならば、あくまで内容で勝負するのが筋だと思う。なお赤色デカ文字コメントで有名だった、ば○わ○氏が、最近小さめ文字コメントに方針を変更されたのは、よい傾向だと思う(この方の日記にかける情熱には敬意を表するが、殆どアクセスできないこともあって、この1ヶ月は一度も拝見していない)。
 ところで、こういう番号順の日記巡礼は、つい先日まで、(2)こちらの日記のご専門だったのだが、突然、休止されてしまった。日記の突然の中断というと、(3)この方の事件がまだ生々しいし、中止には追い込まれなかったものの、何らかの圧力を受けた(4)dtiな方(6/21-6/22)(5)北海道の方(8/7)などの記憶が脳裏をかすめ、ひょっとして、この方にも、その筋から何らかの圧力が?と思って心配になった。しかし、さっそくメイルでお尋ねしたところでは、別段、外部圧力による中断ということではないということなので、とりあえずホッとした。次回御復活の折には、「日記に遊ばれて」なんていうタイトルがお勧めだなあ。きゃー。
 さて、日記の中には、毎日読むと、確実に教養が身につく日記がある。コンピュータ関係の知識ならば、(6)こちら(7)こちらがタメになるし[(6)と(7)は順不同]、自然科学系のレベルの高い教養を身につけようとしたら(8)こちらであろう(もっとも、(8)は、遺伝子進化論やアスピリンの効用ばかり取り上げているわけではない。ラーメンの話題もあれば、時事問題もとりあげており、私は拝見していないが、時間限定でエッチな内容もあるとか。まさに名前にふさわしい多種多様な内容の日記だ)。きょうは防災の日だが、8/29のこの話題なども、たいへん参考になる。こちらの方の日記(例えば8/28)も、英会話の勉強に役立つことがある。なお、私のところでは英国見聞録へのアクセス状況がきわめて悪く、めったに拝見できないのが残念だ。

 さて、Web日記の内容にも、北のほうから「小さい秋見つけた」の便りが届く時期になってきた。この時期だから、という訳でもないが、装い新たにさっそうと登場した(9)この方もあれば、いろいろなご事情から、日記を終えることになった方(あえて日記名は記さない)もあって、複雑な心境だ。

 最後に、Web日記との関わりについて一言。人によっては、まず子育て日記の主人公として、親が書く日記の中に登場し、中学生ぐらいから「中学生Web日記」を自分で書き始め、ついで、青年らしい悩み多き日記(ここでこの日記を一例にあげたら、怒られそうだなあ。でも最近ちっとも元気がなさそうなので、えぃ!.....あっそうだ。もっと元気のない日記が見つかった)、結婚するぞ日記、新婚日記、....そのうち今度は親の立場からの子育て日記、さらにはご隠居日記、そして遺言もWeb日記に書いて、亡くなったら電脳墓地にすべての日記をアップして供養してもらうという生き方もできるだろう。そこまではいかないとしても、(10)この方のホームページの「永続宣言8/25」も尊敬に値する。
 しかし、ここでとつぜん大げさなことを主張するが、私は、「人生は終生借家住まい」、「安住の地など決してない」という考えをもって生きている人間だ(ちなみに私は信仰を持たないから、死後にも安住の地など想定していない)。とうぜん日記猿人もWeb日記もまた1つの借家だ。気の向いた時に家を借りて充実した生活を送る。そのうち、新しい家が見つかって、そこを去る。しかしまた、いつの日か、懐かしき借家に舞い戻ってくる。こういう気楽な関わり方が、いちばんではないだろうか。
 ありゃ、もう22時になってしまった。ええと、とりあえず、このシリーズはこれで完結とさせていただき、機会をみて、「日記を書くこと読むこと」シリーズとして、別途に集めたデータを公開していきたいと思う。
8/30から9/1までに合計20の日記に番号をつけました。15以上の正解を出された方は長谷川まで正解数をお知らせください。「日記道の達人(但し、長谷川版)」に認定、公表させていただきます。それから、今回3回にわたってリストアップした日記は、あくまで私の目から見た「オヤヂ好みの日記」であって、それ以上の価値を与えるものではありません。念のため。

<補足>長らく休止していたこちらの日記が9/1より、毎日更新されるそうだ。ユニークでわかりやすい解釈に期待したい。
<補足2>おおっ!この方も復活されていた。もう一個のほうも、威勢良く、れすッゴー!
<補足3>(8)の日記について「名前にふさわしい多種多様な内容の日記だ」と書いたが、ご本人の日記に、名前の由来についてのご案内があった。こちらのFAQ4。FAQがあるとは知らなかった。そういえば、あの近辺に「らんたんラーメン」という店があった。さっぱりした醤油味で美味しかったが、5-6年前に通った時には跡形もなかった。