じぶん更新日記1997年12月分Y.Hasegawa |
【思ったこと】
971220(土) [一般]韓国について知らない私/人名の原語読みに思うこと 金大中氏が次期大統領に当選したことが「日記猿人界」でも多少話題になっている。韓国は、首都間の距離や人口重心の間の距離を比べると、隣国の中でも最も日本に近い国であり、本来わたしたちは米国以上にこの国のことを知っておく必要がある。ところが、私自身、実は殆ど知識がないことが判明した。例えば、昨日のスクラップブックにも書いたように、金大中氏の得票は、全羅北道、全羅南道、光州に集中し、慶尚北道や慶尚南道、釜山などでは李会昌氏のほうが圧倒している。こうした地域差がどうして生じているのか、について私は全く知識を持っていない。それどころか、本で調べるまでは、全羅北道、全羅南道、慶尚北道、慶尚南道という場所がどこにあるのかさえ知らなかった。 試しに、今年1月以降のスクラップブックのログをエディタでチェックしてみたところ、「韓国」という言葉は27回出現していた。話題を拾ってみると
2月23日のスクラップブックには、総理府が2月22日付で発表した「外交に関する世論調査」の結果が紹介されている。これによれば、韓国に対しては、「親しみを感じない」人が過去最高の60%になり、「親しみを感じる」人の36%を大きく引き離した、とある。中国とロシア、ドイツとフランス、インドとパキスタンというように、もともと隣国間の国民感情には複雑なものがあるので、この世論調査の結果が特異的なものとは断定しがたいが、そもそも、韓国という国をよく知らずに偏見を持っている人も多いのではないかと推測される。 日記猿人界でも、俳句形式の1行コメントで韓国の日々の世情を紹介してくださっている方がおられるが、私もこれを機会に、少し、最も近い隣国であるこの国のことを勉強してみたいと思っている。 韓国のことを話題にしたので、これを機会に、韓国や北朝鮮の方々の人名や地名の発音についても、考えてみたい。最近の新聞やテレビでは、韓国要人の名前は、漢字で表記され、原語に近い発音で紹介されており、たとえば「金大中」は「キム・デジュン」と呼ばれる。同じ漢字でも、中国の要人は「モウ・タクトウ」や「トウ・ショウヘイ」のように日本語読みで発音される。知識不足で勝手な推測の域を出ないが、おそらく韓国の人々自身が原語読みを求めていること、特に在日韓国人の場合、従来の日本語読みを韓国語読みに変更することで祖国への誇りと持つという意図があり、マスコミ側もこれを尊重したものではないかと推測される。また、ソウルオリンピックの時、韓国では日本選手の名前を日本語読みで紹介していた。これとの平等性を保つという必要をマスコミが認識しているためかもしれないと思う。 しかし、いくら過去の歴史的経緯を無視できないとしても、現実問題として漢字表記を使う以上、日本語にない漢字発音が次々と登場するのは、いかがなものかと思う。わたしも、「キム・ヨンサン」、「キム・デジュン」、「ノ・テウ」氏ぐらいだったら覚えられるが、今回の大統領選で破れた「李会昌」、「李仁済」両氏をどう発音するのか、あるいは、上記の、全羅北道、全羅南道、慶尚北道、慶尚南道などの地名をどう発音すればよいのか、全くわからない。原語読みを尊重するのであれば、すべてカタカナだけで表記してほしいと思うのだが、あるいは、「コンピューター」の「ー」の省略と同様、文字数削減を一義的に考える新聞社側の都合を反映したものなのだろうか。 上記の問題について、さらに雑感を2つ。
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【ちょっと思ったこと】 |
【新しく知ったこと/リンク情報】
CNNで、今年の10大ニュースの投票を受け付け中。クイズもあり。私も挑戦してみたが、結構難しいぞ(うひゃー、1回目で正答になったのは10問中2問のみ)。受験生向けかもしれない。 |
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【日々の記録】
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【生活記録(翌日朝まで)】 |
【夫婦の会話】 |
【親子の会話】 |
【新聞記事のメモ】
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【思ったこと】
971219(金) [日記]有名日記作者との初めてのオフミ 本日の最大の話題は、何といっても、私がWeb日記を書き始めてから初めて、他のWeb日記作者と直接お会いしたことである。日記界ではこういうのをオフ・ミーティングと呼ぶらしいので、今回が私の「初オフミ」ということになる。で、お相手は誰かと言えば、日記界の論客として名高いこちらの方であった。 岡山は、大御所のかやすがさんを初め、フランケンさん、ともみさん、ゆずさん(岡山に居ない時もあり)、とんぼや店主さんなど、人口の割に日記作者が多いことで知られており、某日記作者から 岡山って日記書きの人多いから、きっと、路上で日記書いてる光景がという感想までいただいているほどであるが、今回は、前日にとつぜん岡山に来られるとのEメイルをいただいたこともあって、私だけで出迎えることになった。 さて、昼休み、あの名高いよろずやさんが岡大西門に出現した。本来ならここで、自宅アパートにでも昼食にご招待すべきところなのだが、なにせ接待のヘタな私である。大学の生協食堂に招いて、好きなものを食べてもらうことにした。確かカツカレーをお召し上がりになったと記憶している。他に、ドリップ式とはいえ、紙カップに入ったコーヒーを差し上げた。 ちょうど生協食堂もすいてきた時間帯だったので、そこでしばらく、日記界の話題、時事問題、社会問題、経済問題、コンピュータ関連の話題などで会話がふくらむ。まあ、ひとくちで言えば、「よろずや談義」と「じぶん更新日記」を合体させたような話題である。詳しく書いても、好んで読む人は少ないと思うので、このあたりは省略しておこう。 そのあと、大学構内をぶらぶらしながら、私の研究室へ。私の研究室は、初めて来た人はおったまげるような凄いところである。パソコンでネットの接続状況をご披露したり、窓際の水槽にいるフナ、ドンコ、スジエビ、メダカなどの飼育状況をご説明した。 ちょうど、昨日の日記で「支那」の呼称問題をとりあげたが、これに関係する旧将校クラブの建物や「日支事変出征記念」の石灯籠もご案内した。時計台の前で記念写真を撮る。 私のほうで会議が予定されていたため、残念ながら、2時間ほどでお別れの時刻となる。岡山市内の観光地といっても大した場所が思い浮かばないので、月並みながら後楽園近くまで車でお送りして、私の初オフミはこれで終了した。次回は、シロクマさんやフランケンさんなどをお迎えして、ぜひ盛大な岡山オフミ大会をやりたいものだ(何か、恐ろしそう)。 余談だが、よろずやさんの発音から、日記界用語の私のアクセントがずいぶん違っていることに気づいた。「オフミ」は、私は「フ」のところにアクセントを置いていたが、よろずやさんのアクセントは「フミ」全体にかかっていた(東京弁の「お酒」と同じアクセント)。また、「bowow」は、私の場合「bo」にアクセントを置いていたが、よろずやさんは「bow」と「wow」を同じ強さで発音していた(東京弁の「暴動」と同じアクセント)。文字だけの世界では発音はなかなか伝わりにくい。標準的なアクセントについても、こちらのページあたりでご紹介いただけるとありがたいものだ。 |
【ちょっと思ったこと】
あまり大ニュースとしては取り上げられないが、このところ飛行機の墜落事故が頻繁に起こっているように思う。旧ソ連製の飛行機や、東南アジア方面での事故など。 |
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【日々の記録】
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【生活記録(翌日朝まで)】
朝方、実験動物の飼育ケージを洗っていたら、掃除のおばあちゃんが、「いま、モンスター何匹いるん?」と聞く。ここで飼っているのは、ハムスターだけなんだがなあ。 |
【夫婦の会話】 |
【親子の会話】 |
【新聞記事のメモ】
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【思ったこと】
971218(木) [一般]「支那」の語源と新明解国語辞典 きょうは、日記界で「支那」をめぐるちょっとした論争があった。当事者の方々のいずれかを支持したり批判したりするつもりは全くないが、以前からこの言葉については少々疑問をもっていた。 岡山大学の敷地は、もともと旧陸軍の施設であったため、いまだに、戦前からの古い建物が残っている。文法経構内の隅には、「将校クラブ」の庭の跡地があり、ここに倒壊した石灯籠が放置されている。数年前に、学部の会議で、この灯籠を正面玄関前の庭に移設したらどうかという提案あった。しかしよく見ると、灯籠には「日支事変出征記念」という文字が大きく刻まれていた。そこで私は、いくら灯籠が立派なものであるからといって、それが作られた歴史的経緯を無視して正面玄関前に移設するのはいかがなものかと反対した。そのさい、「支那」という言葉は蔑称ではないかとも指摘した。 ところが、会議の終了後に某教授から、歴史的経緯を無視した移設には私も反対であるが、「支那」それ自体は蔑称ではないとの指摘を受けた。但し理由をすっかり忘れてしまっていた。 で、この話はこれで終わりかと思っていたが、本日、家に戻ってたまたま「新明解国語辞典」をひいてみると、 支那:秦(シン)の変化という。もと、中国の仏教書で、自国を呼んだ語。(第4版、第5版とも同一記述)という説明があった。そういえば、某教授も同じことを言っていたような記憶がよみがえってきた。 同じ「支那」を別の国語辞典で調べたところ、単に「中国の旧称」としか書かれていなかった。大型の漢和辞典ならともかく、この種の小型の辞典クラスでちゃんと説明してあるのは、ひょっとしたら「新明解」だけであるかもしれない。さすがであると思った。 もちろん、語源は別として、日本の中国侵略時に「支那」という呼称が蔑称の目的で意図的に使われていたとすれば、使用を控えるのは当然であろうが、「支那」について中国政府が明確な抗議を行ったかどうかは資料がないのでわからない。「満州」の呼称の場合とはやや意味が異なるような気がするのだが。 いずれにせよ、全国各地に点在する「支那そば」店を初め、「支那竹」、「東シナ海」、「南シナ海」などをどうしてくれるのかという問題が別に存在するだろう。 「支那そば」を看板に掲げた店は各地にあるが、「トルコ風呂」名称変更要求のようなものは起きていないと思う。余談だが、中国の地図では「東シナ海」は「東海」、南シナ海は「南海」と呼ばれるが、「インドシナ半島」は何と呼んでいたっけ? 仮に「印度支那半島」だったら、タイやベトナムなどの国々はどう考えるのだろうか。 地名の話題はこのくらいにして、この機会に「新明解国語辞典」についてもちょっと書いておく。この第五版であるが、だいぶ前、11月3日に古川さんが、第四版との比較をしておられた。朝日新聞文化欄の「単眼・複眼」という記事(12/10)では、山田忠雄主幹による強力なリーダシップによる語釈が現代人の言語感覚になじむというポジティブな評価をくだしている半面、『収録語彙に偏りがある』、『語釈が一言多い』との指摘もあるといいうネガティブな評価も付け加えられていた(朝日新聞より1カ月以上前に指摘をされた古川さんはさすがであった)。 現在、私の手元にも第四版と第五版の両方がある。古川さんが「恋愛」と「迂回」をとりあげておられたので、それ以外でなるほどと思った言葉を3つほど掲げてみる。
まだまだ興味深い記述がたくさんあると思う。ただ、紙数の制限からやむを得ないとは思うが、ユニークな語釈があるのはほんの数パーセント程度の語に対してのみであり、大部分は、ごく一般的な説明に終わっているような印象も受ける。また、何か気づくことがあれば、【ちょっと思ったこと】のほうに書いていきたいと思う。 <追記>角川書店の「大字源」によれば、「支那」は 中国をいう。古代インド人が中国を呼んだ名称。語源は秦からきているとも、また、知恵がある意ともいう。とあり、さらに「伏願、支那皇帝、福寿円満、寿命延長」という宋史・天竺伝からの引用が記されていた。 <本日の執筆量4463バイト> |
【ちょっと思ったこと】 |
【新しく知ったこと/リンク情報】
テレビ東京で、ポケモン騒動について意見を受け付けている。ご意見のある方はこちらへ。 |
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【日々の記録】
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【生活記録(翌日朝まで)】 |
【夫婦の会話】
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【親子の会話】 |
【新聞記事のメモ】
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【思ったこと】
971217(水) [一般]ポケモン騒動に思ったこと 16日夜の「テレビ東京」系(岡山では「テレビせとうち」)のアニメ番組「ポケットモンスター」を見た小学生が、けいれんやひきつけの症状を起こした事件は、その後もテレビ、ネットなどで大々的に報じられている。本日夜のNHKニュースによれば、病院にかけつけた園児〜高校生の数は729人にのぼるというから、これはちょっと無視できない。また、娘が通う小学校では、教育委員会筋からの調査があったという(下欄の「親子の対話」参照)。調査結果が公表されれば、軽症者の数は何倍、何十倍にもふくれあがる恐れもある。 今日は午後から長時間があったので昼休みの時点までしかチェックしていないが(こちら参照)、この日記猿人参加の日記のなかでも、この話題を取り上げた方が10名ほどおられた。わかば日記の赤尾氏は、「演出効果を狙った意図的なものだとしたら悪質である」と、製作段階での問題点を指摘しておられた。また、漫画批評では定評のあるヨミヨミ日記のたにかど氏は、日本全土を覆う大事件(と言い切っていいだろう)であると深刻に受け止めておられる。ポケモン自体からオタク文化論、チャット論と、次々と議論が発展していて読み応えがあった。 もうひとつ、私が参加している心理学関係のメイリングリストでも、珍しくこのことが話題になった。ここでは公開できないが、「光過敏性てんかん」を引き起こす原因についての議論や、「てんかん」という言葉を安易に使うことへの問題点などが指摘されていたように記憶している。 スクラップブックに書いたように、私自身は、この問題については、
このうち、制作上の問題としては、視聴率至上主義や、演出効果を狙うために手段を選ばずに、特殊な映像技術を使っていたとしたら問題であろうと思う。ただ、このテの技法は、他のアニメでもしばしば使われているという話も聞いている。 ここでちょっと脱線するが、ごく少数の人にとって苦痛を感じさせるような刺激というのは他にもある。以前、テレビの恐怖症の特集の番組で、某インスタントコーヒーの宣伝で女性の高い声が繰り返される音楽が流れるCMソングに苦痛を感じる男性のことが紹介されていた。この男性は、同じように高い音声が繰り返される、由紀さおりの「夜明けのスキャット」や、さだまさしの「北の国から」などの歌を聞いても苦痛を感じるそうである。こういう方が何人ぐらいおられるのか、正確な数字は知らないが、かなりの人数がおられるようであれば、やはり配慮が必要になってくるかもしれない。 もちろん、一般論として、こういうことで芸術的表現やアニメの制作技法の自由が不当に制限されるようでは困る。ただ、今回の場合、NHKのインタビューなどを聞いていると、一時的ながら意識不明に陥ったり崩れるように倒れた子供もいたということだから、芸術表現の自由では済まされない問題であることは確かである。 これ以外の問題としては、マスコミがどういう取り上げ方をするか、任天堂を目の敵にしている勢力がこの騒動に便乗することはないか、このあたりも様子を見ていきたいと思う。前者に関しては、このTV番組がテレビ東京系の人気番組(関東地区の先月の視聴率18.6%)であったということで、ライバル系列のテレビ局や新聞社がどういう取り上げ方をするのか、見守っていく必要がある。 もうひとつ、私が気になるのは嫌悪条件づけ(恐怖条件づけ)の効果である。上記の恐怖症の特集番組では、他に、観覧車に乗れない男性の事例も紹介されていた。この男性の場合は、昔、友人と一緒に観覧車に乗った時に友人が悪ふざけをして観覧車を揺らせ、そのたった1回の体験の後から、観覧車に乗るだけで恐怖を感じるようになったという。今度の事件以後、病院にかつぎ込まれた子供たちは、同じシーンが現れなくても、関連キャラクターを見ただけで恐怖を感じるようになる恐れがある。また、周りが「ぼくも、私も」と言い出したり、「気分が悪くならないかなあ」など予期しながら番組を見ていると、本当にそういう症状が起こってしまう場合がある。番組のほうは、自社の調査チームが結論を出すまで自粛される方針ということだが、次回の放映時に、こういう学習性の恐怖や集団失神的な現象が起こらないかどうか心配だ。 人間の感覚器官は、あくまで自然との関わりの中で、適応に有利に働くように進化してきた。そういう意味では、光の点滅とか、低周波とか、加速度など、人工的かつ急激な変化に対しては適応するすべをもっていない。これからも思いもよらぬ場面で、同種の事件がおこりそうな気がしてならない。 <本日の執筆量4295バイト> <追記>12/18朝の時点で、上掲のたにかどさん初め、多くの日記作者がいろいろな視点からこの問題を論じている。詳しくは、日記猿人手動新作Top200、ぴったんこさんの裏日記のリストなどを参照されたい。 |
【ちょっと思ったこと】 |
【新しく知ったこと/リンク情報】 |
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【日々の記録】
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【生活記録(翌日朝まで)】 |
【夫婦の会話】
今日は妻が日記の検閲に来たが、特に削除要求は出なかった。そのあと、私がZipディスクにセーブしてきた日記を見せる。妻が好きな日記は、こちら。 |
【親子の会話】
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【新聞記事のメモ】
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【思ったこと】
971216(火) [心理]自分のコピーは作れるか 毎週火曜日は、子供の強い要望があって、「炎のチャレンジャー」(下欄に関連記事あり)と「万物創世紀」(おや?「創世記」だと思っていたが、新聞のテレビ欄では「紀」になっている)を見てしまう。 このうち「創世紀」のほうは、今日はスペシャルの2時間番組になっていた。この番組、1回目を見た時の印象では、話題が続かず数回で打ち切りになるのではと思っていたが、さすが北野氏だ。毎回子供の興味をひく話題で、私までついつい見てしまう。 今日の番組はスペシャルということで内容は少々雑多であるように感じたが、その中では、ネアンデルタール人は現代人の直接の祖先ではなかったということと、コピー人間の話が面白かった。このうちのコピー人間について少々思ったことを書いてみたい。 番組でも指摘していたように、遺伝子だけをコピーしたとしても、じぶんの分身が出来るわけでは決してない。4月10日の朝日新聞で、クローン羊に関連して三菱化学生命科学研究所・室長・米本昌平氏が『エコノミスト』と『ネイチャー』の内容を紹介しておられたが、そこにもあるように仮にクローン人間が誕生しても、それは年齢の違う一卵性双生児が生まれること以上でも以下でもないことというのが、クローン人間の正体である。 脳の神経生理機構とその電気的状態を丸ごとコピーすれば、瞬間的には同一人間が2人存在することになるかもしれない。しかし、その直後からの意識は、個々人と外界との関わりの中で変化していく。複数の人間が、空間内の同一地点に同時に存在することはできないし、個々人をとりまく環境要因の変化は刻々と形を変えていくであろうから、おそらく数秒後には、元祖の脳とコピーされた脳は、異なる状態に移行し、意識も別のものに変わっているものと推定される。 冷凍保存も同じ様なもので、生命維持に必要な器官は保持されたとしても、覚えたこと、学んだことが「解凍」後までそのまま伝わるとの保証はない。おそらく、解凍された人間は全面記憶喪失状態になっており、過去の自分は過去の知人程度の意味しか持たない可能性もある。 こういう問題を突き詰めていくと、「じぶんとは何か」に行き着く。本日の日記で論じるのは余りにも大きすぎるので、またの機会にするが、基本的に私は、「自我」、「超自我」、「無意識」、「潜在意識」といったものを最初から仮定することには反対だ。過去の自分も将来の自分も、本質的には存在しない。それらは現在の自分の行動に影響を与える要因の1つとしてのみ意味をもつ。時間の流れの中で自分が一貫して存在しているように錯覚するのは、(1)過去についての記憶、(2)周囲からの同一視、(3)環境の恒常性、(4)将来の私的環境を整備するための準備行動の有益性、といったものが現在の自分に影響を及ぼすためである。うーむ、収拾がつかなくなってきたので、これで終わり。 <本日の執筆量2516バイト> |
【ちょっと思ったこと】 |
【新しく知ったこと/リンク情報】
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【日々の記録】
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【生活記録(翌日朝まで)】
「ウンナンの炎のチャレンジャー」で「8時間抱き上げ続けて100万円」というコーナーがあった。日記作者の中にも、この番組のあとで、チャレンジしてみた方がおられるのではないかと思う。我が家でも、嫌がる妻を無理矢理抱き上げてチャレンジしてみたが、20秒であえなくダウン。その後も背骨が痛む。そろそろぎっくり腰に気をつけなければ....。 |
【夫婦の会話】
12/16明け方の会話
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【親子の会話】 |
【新聞記事のメモ】
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【思ったこと】
971215(月) [一般]再販問題と新聞報道 週末と日曜日の早朝に、12月11日の日記でふれた再販問題関連のページ(下記の3サイト)から、基本資料を入手することができた。
まず、上記のサイトを教えていただいた某有名日記作者の方も指摘しておられたが、9日の各紙の報道は、行政改革委員会が8日に発表した「著作物の再販価格維持制度の見直し」に関する追加報告書の論点を若干を歪めて報道しているような印象をもった。 上記の1.のサイトから入手した資料によれば、報告書は、最後から1つ前の段落で 以上により、当小委員会が示した、現行再販制度を維持すべき「相当の別な理由」があるとする十分な論拠は見出せないとの認識が、国民に十分に浸透されていくことを期待するとともに、著作物の再販制度について、国民の議論を深め、その理解を踏まえて速やかに適切な措置を講じるべきである。と、述べているが(下線は長谷川による)、新聞は、この記述を省略し、もっぱら「国民の議論を深め」る必要のみが結論されたような印象を与える報道内容になっている。本日図書館で調べたところは各紙の見出しは次のとおり(いずれも12/9付け、大阪本社版)
また、四紙のうち三紙は上記報告書の要旨を掲載していたが、うち毎日の「要旨」では「以上により...講じるべきである」の中から上記下線部分が抜け落ちていた。 他紙の場合も、よほど注意深く読まない限り、この委員会が、「現行再販制度を維持すべき『相当の別な理由』があるとする十分な論拠は見出せないとの認識が、国民に十分に浸透されていくことを期待」していることに気づかない恐れが十分にあるように思う。 新聞各社は、要するに再販制度によって「同一紙ならば全国どこでも同一価格で手に入れることができる」ことが憲法で保障されている「知る権利」と密接にかかわると言いたいようである。しかし、テレビに加えてインターネットが普及しつつある現在、果たして戸別配達費用を上乗せした全国均一料金が「知る権利」に不可欠の要素であるかどうかは、はなはだ疑わしい。また、このコーナーでも指摘しているように(←更新が遅れてすいません)、政府高官の記者会見のような事実の伝達でさえ、記者の選択権がはたらくものは自社の著作物であるというような馬鹿げた主張をし、ネット上での新聞記事に基づく自由な意見交換に著しい制限を与えようとしている一部の新聞関係者がその一方でいくら「知る権利」を口にしても、業界の権益を守るための屁理屈にすぎないと思われるのがオチである。 新聞の再販維持と書籍の再販維持は、しばしばセットにして主張されているようだ。産経新聞の9日の社説でも、最後から2番目の同じ段落のなかで、まず新聞の全国同一価格が「安心感を消費者に与える」とした上で、「...商業ベースに乗らない専門書、少数意見の言論などが葬り去られるおそれもある」と結んでいる。この、専門書の再販の件については、12月9日にも述べたように、インターネットが普及した現在、専門書相当の著作や少数意見は、ホームページ上でも十分に公開できるので、わざわざ製本化したものを出す必要はないというのが私の意見である。 雨の日も風の日も厳冬の日も毎朝6時前にきっちり新聞を配達してくれる方には申し訳ないが、再販制が維持されようとされまいと、印刷され戸別配布されるような形の「新聞」は、いずれ近い将来に消えていく運命にあるような気がしてならない。前にも書いたが、牛乳配達も電報配達も、最近では滅多に見かけなくなった。いくら配達のスピードアップを図っても、テレビの速報性にはかなわないし、資料的価値はインターネット経由で入手する場合より必ずしも優れているとは言えない。生活情報や科学欄、文化欄、読書欄などは、そんなに急いで配達して貰わなくても、週刊誌で十分事足りる。私自身、月ぎめで3000円から5000円も新聞代を支払うよりは、ネットの利用にお金をかけたほうがよいかなあという考えが次第に固まりつつある。 故紙回収でいちばん嵩張るのは何と言っても新聞紙であろう。地球上の森林資源の保護を考えた場合にも、また輸送に際しての二酸化炭素の排出を考えた場合にも、現状のような制度が「知る権利」を守る最適の情報伝達手段であるかどうか、だんだんと疑問を感じるようになってきた。 <本日の執筆量5036バイト←36バイトオーバー> |
【ちょっと思ったこと】 |
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【生活記録(翌日朝まで)】
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【夫婦の会話】
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【親子の会話】 |
【新聞記事のメモ】
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まごちゃんは88歳、58g。喜寿は77歳、白寿は99歳、88歳は何て言ったかなあ。そうそう米寿だ。しかし、どれもこれも文字の形から名づけているというところが興味深い。<執筆量2770バイト>
毎度おさわがせいたしております。こちらは毎度お馴染みのちり紙交換車でございます。ご家庭で御不要になりました古新聞、古雑誌、ボロ布などございましたら、多少に関わらずちり紙とお取り替えいたしておりますだったと思うが、きょうの昼に聞いたアナウンスは、
こちらは故紙回収車です。ちり紙との交換はいたしません。回収のみです。なお、雑誌類は有料です。」つまり、故紙を出す側としては、何の見返りもないし、雑誌類の場合はお金を払って持っていってもらわなければならないことになる。これでも出す人がいるのかと思ったが、軽トラはすでに満杯に近い故紙が積まれていた。まあ、考えてみれば、今までの「ちり紙交換」だって新聞1束でティッシュ1袋だったことがあった。ティッシュ1袋に故紙を渡すという行動を強化する力がないならば、むしろ環境保護を全面に回収活動を行ったほうがインパクトが大きいと言えるのかもしれない。
まごちゃんは87歳、58g。<本日の執筆量3599バイト>
この日記でも何度か話題にした「ちびくろサンボ」と、これを改作した『チビクロさんぽ』について、森まりもさんと「黒人差別をなくす会」との間で、やりとりが続いている。詳しくは、こちらを参照されたい。
年末年始の停止はありません。通常通り24時間運用ですが、年末年始期間中の停止や トラブルに関しては、1月5日以降の対応となりますのでご注意ください。うーむ。これでは、いつ切れるかわからない。で、毎日この日記をお読みいただいている方々にお願い申し上げますが、もし年末年始に更新がなくアクセス不能状態が続いた時は、1月5日までは復旧の見込みがないものとご承知おきください。
まごちゃんは86歳、58g。<本日の執筆量4952バイト>
まごちゃんは86歳、58g。(本日の執筆量4881バイト)