【ちょっと思ったこと(1)】
980303(火) [一般]言葉と文化、どっちが先か(その5)所有の表現(1) 一昨日の日曜日にTVでポルトガルの音楽「ファド」を紹介していた。日本で言えば演歌にあたるような音楽だという。この音楽の心を表す特殊な言葉があると言っていたが、番組が終わって5分もたたないうちに忘れてしまった。意味は「哀愁」「郷愁」を含む言葉らしいが、日本語にはピッタリ対応する訳語がないと言っていた。 さて、今日は、言葉と文化の問題を考える上で面白い題材になりそうなものの1つとして、所有(あるいは私有)の表現について考えてみたい。所有というのは農業、工業、商業の発達の過程でかなり後になってから生まれた概念であろう。それゆえ、すでにある別の意味の言葉を転用・代用・借用する可能性が高く、そうした言葉の元の意味を探ることで文化が言葉をどう変えたかというプロセスがある程度分かるのではないかと思われるのだ。なお、念のためお断りしておくか、このシリーズであれやこれや考えることは、彗星見物と同様で、いわば私の趣味的な思考遊戯にすぎない。専門的立場からの意見表明では決してないということをご理解いただきたい。 ところで、所有とはどのようなことを言うのだろう。一般的に考えられる意味は次の二つである。
所有を表す表現には、次の3種類があるように思う。
きょうは時間がないので、上記の1.についてだけ述べる。たいがいの言語では、必ずしも所有に限定されず、特定の関係性を示す表現として発達しているように思われる。「私の本」では、「私」と「本」は普通は所有者と被所有物との関係を示すが、別の文脈では著者と著作物の関係をを示す場合にも用いられる。このほか、「の」は「私の家族」、「学校の先生」、「世田谷の図書館」というように、必ずしも所有関係を示さない場合にも用いられている。英語でも、ロシア語でもこうした用法は殆ど変わっていない。おそらく所有というルールの発達に伴って、事物間・事象間の特別の関わりを示す表現が所有表現に転用されたということを示しているように思うのだがいかがだろうか。 余談だが、日本語では、「の」よりも「が」のほうが面白いと思う。このことは、日本語文法の本にいろいろと書いてあったと思うが、また別の機会に考えてみたいと思う。 |
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