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昨日の日記

4月18日(土)

【思ったこと】
980418(土)[心理]金属バット長男殺害事件判決で思ったこと(中編): 刑罰、行動の原因をどこに求めるか
 このシリーズは2回で終了する予定であったが、少々考えることがあって3回に延長。今日の日記では、判決自体や、行動の原因の捉え方について意見を述べ、次回で、家庭内暴力の一因として、相互強化による悪循環の問題を考えてみたいと思う。
 まず、今回の事件について、東京地裁は父親に懲役3年の実刑という判決を言い渡した。これについては、殺人を犯したにしては軽すぎるとか、逆に執行猶予つきでもよかったのではないか、といった意見もあるようだが、刑期とか執行猶予の有無は裁判所が十分に事実を認定した上で決められるものだから、状況を十分に把握していない第三者の私としては、特にコメントすべきことはない。

 少々脱線するけれど、そもそも、人間の行為に絶対的に悪とか善とかいったものはあり得ない。同じ結果をもたらす行為であっても、時代的な背景や、前後の文脈の中で、善にも悪にもなりうると私は考えている。

 例えば、親殺し、子殺しは、現代の常識では絶対的に悪であると考えられがちであるが、一昔前の貧しい離島では、赤ちゃんが産まれた時に「間引き」が行われたと聞く。どこまで事実であったのか詳しいことは知らないが、「姨捨」という形で年老いた親を山に置き去りにする山村もあったらしい。余談だが、最近、アフガニスタンのイスラム原理主義者支配地域で「男色」の罪で、ある男性が「生き埋め」により処刑されたというようなニュースも伝えられたが、これなども別の社会では、何ら罪に当たらないとされている。
 いっぱんに、本人が望むような結果が伴うことによって強化・維持されている行動は「自由意志による行動」と考えられ、嫌悪的、特にその個体の維持を危うくするような結果を阻止するための行動は「強制された行動」と考えられる。ある行動が法律に違反する場合、いっぱんに前者では重い刑罰が科せられ、後者では情状が酌量される。これも、ある意味では社会的文脈のなかで決まってくるものだろう。

 以上のような一般論を述べると、何か私が、この父親は何も悪いことをしていないと主張しているように受け止められる方がおられるかもしれないが、決してそういう意味ではない。少なくとも、現代社会において、父親が自分の子供を殺すということは絶対にあってはならないことである。ただ、その問題は、刑期の長さや執行猶予の有無を論じても本質的には何も解決しない。すでに起こってしまった殺害事件と、その後の裁判での量刑も問題は別の次元の議論であることを言いたかっただけである。

 次に、行動の原因の捉え方について。すでに何度も日記で述べたように、複雑な社会の中では、凡そ、1つの原因だけで行動が生じるなどということはまずありえない。今度の場合でも、「長男は幼いころから感受性の強い子供で...」(判決)とか、「被告と妻は、東大闘争の年の1968年6月、東大安田講堂前の集会の後に知り合った」「被告は東大文学部を卒業後...」(朝日 4/16特集記事)というように、過去の経歴がいろいろと云々されているようだ。
 そういうものもあるいは一因になったかもしれないし、場合によっては「東大」に偏見を懐く人が「東大生には異常だ」というレッテルをはることで自分の劣等感をうち消す材料に利用されるかもしれない。また、「医学モデル」や「深層心理」で行動を説明しようとする人もいる。
 しかし、発端はどうあれ、行動に対してある種の結果が伴うことが、それを維持したり増加させたりする。問題行動が多発している時は、その行動に現在どういう結果が伴っているのか、つまりどういう行動随伴性が関与しているのかを見極めなければ、問題は解決しない。時間が無くなったので、明日以降に続く。
 
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