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昨日の日記

5月10日(日)

【思ったこと(1)】
980510(日)[一般]木を植えること、山村の文化を守ること
 きょうは5月10日。夜のTVニュースによれば植樹祭(※)が行われたそうである。植樹祭そのものについては、以前、ある県の植樹祭の時に「会場設営のために自然林を伐採している」といった異論が出るなど、いろいろ考え直すべき点の多い行事であるように思う。
 とはいえ、日本のように国土が狭い島国では、水資源の確保のためにも防災のためにも、また昨今話題となっている地球温暖化防止のためにも、森林の役割を無視することはできない。(国体もそうだが)都道府県持ち回りのセレモニーに終わらせるのではなく、このさい、日本の林業をどうするのか、木を植えるとはどういう意味があるのか、山村の文化から何を学ぶべきかといったことを考え直す機会として取り組みを変えていく必要があるかと思う。

 少々脱線するが、「植樹」ということで思い浮かぶ話を3つほどあげてみたい。
  • まずは宮沢賢治の『虔十公園林』。
  • 『木を植えた男』。これは絵本や文字だけの本もあるけれど、フレデリック・バックのアニメをビデオで見るのがいちばんよいかと思う(パイオニア、バーコード4988102036515)
  • 太平洋から日本海まで、旧国鉄バス名金線の沿線に桜を植えた男性(故人)の実話。この話題は、NHKの地方局(名古屋)制作番組で取り上げられており録画してある。その後映画(たしか『さくら』という題名)にもなったが、主人公を少々美化しすぎたような印象を受けた。

 時間が無いので今日はアウトラインだけを示すことにするが、森林保護が大切といっても狭い国土の日本で、手つかずの森林として残しておける地域はそうは作れない。むしろ、人が森とどう関わるのか、森林をどう活かすのかということが最も重要な課題であろう。
 かつては植樹というと、建築材に使われる針葉樹の植林が主体だったと思う。しかし針葉樹林は山の生態系と大きく変えてしまう。ニホンザルやイノシシが畑を荒らしに来るのも、その根本原因は針葉樹の植林にある。建築材としての杉や檜の需要が減ったいま、むしろ、(日本の気候であれば)広葉樹が主体の混合林を活用することに目を向けていかなければならない。
 ほんとうに森林を活かすためには、森林に隣接した山村を変えていく必要がある。多くの山村では高齢化、過疎化が進み、若者は便利さや物質的な豊富さを求めて町に流れていく。その価値観が続く限り、森林は都会生活者の休養林としての意味しかもたない。それをもっと根元からを変えていくには、山村は実は僻地ではなく、真の生きがいをもたらす労働の楽園であること、真の豊かさは都会ではなく山村にあるのだという、価値観の転換が求められる。こういう価値観が日本の産業の発展にとってプラスに働くのかマイナスに働くのか、いちがいに断定はできないけれど、日本の将来は好むと好まざるとに関わらず、いずれ深刻な少子化に直面し、大規模減税さえ行えば景気が回復するというような構図が成り立たなくなる時代に入るだろう。都市の生活や産業全体の問題を考える際には、山村、それも森林を活かす山村というものが不可欠の要素になってくるだろう。
 この日記で何度かとりあげているが、山村文化の意義を強調している哲学者として、内山節氏がおられる。4月28日の日記でもちょっと取り上げたけれど、ETV特集のタイトルにもなった「ふるさとは華の都にまさりけり」という価値観は、単なる都会生活からの逃避ではなく、労働自体に最高の生きがいを求める者のキーワードとして、今後ますます重みを増してくるような気がする。

(※)5/11の朝日新聞(大阪本社)では、本文12行だけの記事として小さく取り上げられていた。それによれば、第49回全国植樹祭は群馬県の県立森林公園で開かれ、17500人が参加。
【思ったこと(2)】
980510(日)[教育]修学旅行:読者からいただいた御意見へのお返事
 昨日の日記で“事実をありのままに直視することと、都合の悪い事実を覆い隠すことのどちらが「偏った価値観」の形成につながるのか、今後、歴史教育のあり方や全国各地の戦争資料館の展示内容をめぐる論議と合わせてじっくりと考えてみる必要があるように思う。”と書いたところ、ある読者の方から御意見をいただいた。ふだんは種々の御意見に対しては御返事を出せないことが殆どであるが、たまたまメイルをいただいたのが日曜日の昼頃であったこともあり、以下のような御返事を差し上げた。内容が一般的な問題に関することなので、ここに記録として残しておきたい。なお、昨日の日記にも書いたように、私のほんらいの趣旨は、「修学旅行なんぞは親睦旅行程度のものでもよいのでは」というものであったが、以下のお返事は、「仮に教育目的を重視する形で修学旅行を行うのであれば」という前提に立った上での意見である。

いただいたメイル
  現実を直視、とはいいますが、1000ある見方のうちからある思想に都合のいい10だけを見せる、ということが正しいのでしょうか。
 そもそも米軍基地問題を考えるのなら、軍事学的な基礎知識や,中国、韓国、北朝> 鮮だけではないアジア諸国の態度なども含めて生徒に示すべきなのに、「爆音を発する鉄条網の向こう」だけを見せることが正しいことでしょうか。
私からの御返事
 さっそくのご意見をありがとうございます。
 本日の日記の全体の趣旨は「いまの時代に修学旅行は必要なんだろうか。」という問いかけであり、そのあとで、「まあ、親睦旅行ということであればそれもよかろう」と述べる内容になっております。
 最初の段落の部分については、いずれ機会を改めて述べたいと思っておりますが、なにぶん、資料が不足しており、話題に上った中学校のことについてはコメントできる立場にはございません。もし何らかの政治勢力がPTAに影響を与えているようであれば、それも考慮する必要があるかと思います。

 一般論としては、もし沖縄に修学旅行に行くのであれば、リゾート地も、琉球王朝時代の遺跡も、太平洋戦争の戦跡も、そして現在の米軍基地も何でもありのままに見せるべきであろうと思っております。基地だけを除外したコース設定は問題であるし、もちろん基地だけを見せるコースも論外です。

 事実は事実として思想に先行して存在しており、それを見た上でどう解釈するかは(この場合ならば)中学生各自が自分で勉強すればよいのではないでしょうか。

 米軍基地を遠望する場所で、次々と輸送機や戦闘機が発着するという事実を見た後で、ある中学生は、「これだけ戦闘機が離着陸するということは、日本の周囲にはそれ相応の緊張関係があるのだなあ」と実感するでしょうし、別の中学生は「沖縄にこれほど基地が集中している理由はどこにあるだろう」と疑問にもつでしょう。機体のカッコ良さにあこがれる人もいるかもしれませんね。まあ、中学生もそんなにシンプルではないから、基地を見たから反安保の考えをもつということにはならないと思います。

 事前の予備知識がなければ特定の事実を直視できないということは無いと思います。

 以上の内容については、他の読者の方からの反論もあるかと思うが、いちいちご紹介するわけにはいかないので、御自分のホームページにてご意見を表明していただきたいと思う。無料のHPサービス、私の利用しているジャストネット(開設するだけならば毎月500円で10MB)、大学関係者ならば生協ネットなどいろいろ開設できるはずである。
【新しく知ったこと】
  • 「ちょっと一杯行こうか」の「ちょっと」は日本人の場合は平均1時間24分、香港の人の場合には35分[5/10 NHK「クイズ日本人の質問」]
【リンク情報】
【生活記録】
【家族の出来事】
【スクラップブック(翌日朝まで)】
  • 城南電機社長の宮路年雄氏が9日5時10分、肺炎のため死去。69歳。
  • スクールカウンセラー、今年度は1661校に配置。[5/9朝日]
  • 「山村復興」の話題。5/10朝日新聞家庭欄。