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7月15日(水)

【思ったこと】
980715(水)[一般]リーダーシップの神話
 このところ大学審議会の答申を受けて、評議会や教授会の権限を縮小し学長や学部長のリーダーシップを発揮させればという意見が聞かれるようになってきた。4時間も5時間もダラダラと審議を続け、しかもごく一部の人たち(←私自身はこれに含まれる)しか発言しないような場で果たして生産的で創造的な意志決定ができるのか、はなはだ心もとないところがある。建前としては全員参加型の民主的運営を叫ぶ人でも、本音としては、だれかちゃんと決めてくれる人がいるならば自分が損害を被らない限りはもうお任せしますよ、と思ってみたりすることがあるのではないかと思う。
 この問題はいろんな側面から検討する必要があり、私としても軽率に賛成とか反対を表明するわけにはいかないが、きょうのところは、そもそも「リーダーシップ」とはなんだろうということに限って考えてみたいと思う。

 「リーダーシップ」は、指導者(リーダー)を頂点とした指揮系統のある組織において初めて発揮されるものである。スポーツチームの監督や戦場における軍隊の司令官では確かにリーダーシップがものを言う。ところが、政治の世界などでは、必ずしも形式的な「長」が真のリーダーになっていない場合がある。例えば、少し昔の「村山政権」など、どう見ても村山首相の指示で政治が動いているようには思えなかった。今の「橋本政権」も選挙の失敗はすべて橋本首相個人にあったように御本人は表明されているようだが、実際には、橋本氏個人が政策を決定していたわけではない。いま行われている後継総裁選びにしても、形式的には現総裁の橋本氏がリーダーシップを発揮しても良さそうなところだが、全く別のところで意見の集約が行われているのは明白であろう。
 このことに関係して、信州大の守さんが、面白い書評をHPに書いておられる。とりあげた本は、林理(はやし・おさむ)氏の『「しきり」の心理学』(学陽書房 \1900)。こちらの書評に直接アクセスしていただければ幸いだが、一部を引用させていただくと
リーダーには「公式のリーダー」と「非公式のリーダー」とがあり、実際に物事を決めているのは、「非公式のリーダー」であることが述べられる。「非公式のリーダー」こそが、「しきる人」なのである。
ということなのだ。先日発注したものの未だ私の手元には届いていないので、その本自体にはコメントできないけれど、現実の政治の世界など見てみると、公式のリーダーとは別に「しきる人」が居そうな例はいくらでもあがると思う。大学でも同様。企業でもそうではないか。組織内での意志決定プロセスをみていくには、形式的なリーダーによるばかりでなく、「しきる人」がどう機能しているかということにも注意をはらう必要がある。「リーダーシップの発揮」などというキャッチフレーズだけに目を奪われて組織改革を進めてはいけない。

 「しきり人」が機能するのはどんな場合だろうか。政党のように、組織への参加と組織からの離脱の自由が与えられている場合は、いくら指揮系統が明確になっていても、指導者の命令が気に入らない人はいつでも別の組織への鞍替えができる。それゆえ、リーダーの命令とか多数決によるごり押しだけでは組織が維持できない。調整役としての「しきり人」がどうしても必要になってくるだろう。
 種々の意見が対立してどうしてもまとまらない状況でも「しきり人」が重要な役割を果たす場合があるだろう。両者の顔をたてる形での和解案がひらめきやすい人、両者のこだわりは些細なことであって問題の所在が別のところにあることを「うーむ。そんな見方があったのか」という形でコペルニクス的に指摘できる人は「しきり人」になりやすいと思う。

 どこの組織でもリーダーの養成には力を入れていると思うが、Topをどのように入れ替えても組織内がギクシャクしている場合には「しきり人」が足りないということになる。そういう意味では、マル秘「しきり人」養成コースなんていうのがあっても面白いかと思った。
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