じぶん更新日記

1999年5月6日開設
Y.Hasegawa
[今日の写真] 年末に妻が制作した「招福」盆栽の梅の花が満開となった。

1月28日(金)

【思ったこと】
_00128(金)[一般]マニュアル思考からの脱却をめざせ

 中2の息子が宿題として天気図を描いていた。

 その息子、
  • 風力を示す矢羽根が重なってしまう。どうしよう?
  • 風力を示す矢羽根が真横を向いている時は、気温と気圧はどの位置に書くのだろう?
  • 気圧は1000ヘクトパスカルを超えたら2桁だけ書けばよかったんだっけ?
  • 入電無しのところの天気はどうすればよいんだろう?
  • 低気圧は赤で書くんだったかな/
などと細かいことに気にしてなかなか描き終えることができない。

 天気図と言えば私なら大得意。中学時代に「地学・天文・気象」のサークルに所属しており、当時の気象庁まで出向いてラジオの気象通報のナマ原稿を閲覧しながら天気図を描いたことまであるほどの気象マニアであった。そこで私は、何のために天気図を描くのか考えてごらんと言った。いまの時代、テレビやネットを通じて天気図ひまわり画像などは簡単に入手することができる。それでもなおラジオの気象通報を聞きながら天気図を描く必要が生じるとしたら
  • 通信設備の無い山小屋で、携帯ラジオだけを頼りに翌日の登山計画を検討する場合
  • 無人島でキャンプをする人が、翌日の天候を予想する場合
などに限られる。もちろん、ラジオでは天気予報も聞くことはできるけれど、例えば「降水確率40%」と言われた場合、それが、低気圧の接近による雨なのか、冬型気圧配置による時雨なのかによって対応のしかたは著しく異なる。

 とにかくそうしたニーズに基づいて判断するならば、細かい形式に囚われるよりも、等圧線を描きやすいほうに配慮すること、後から見た時にすぐにデータが読みとれるように配慮することが肝心。そのための最小限のルールさえ守っていたら、それ以上の形式はどうでもよいことだ。例えば、黒いペンしか無ければそれでよい。「入電無し」は快晴と区別がつかないと困るから×印をつけておくんだというように...何が必要かを考え、それを満たすためにどう対処したらよいかを柔軟に考えていけばそれでよい。

 そういえば、卒論締め切りを前に、引用文献表の形式について細かい質問をしてくる人もいる。もちろん、学術雑誌に投稿する時にはその雑誌のマニュアル(例えばアメリカの雑誌だったらAPAスタイルというのがある)に従うことが義務づけられているけれど、要は、後から読んだ人が、引用されている文献を入手できるように必要最低限の情報を提供することが本来の目的。指導教官の指示通りにすればそれでよいというものでも無かろう。

 車の運転をするためには、道路交通法を学び筆記試験に合格しなければ免許を得ることができない。しかし実際の運転中は、いちいち道路交通法の条文を思い出しながらそれに合致させるように運転しているわけではない。安全な走行に何が必要かさえ熟知していれば、条文の大部分を忘れても事故を起こすことは無いはずだ。

 パソコンの操作も同様。一度も経験したことの無い人が覚えにくいのは、「何が必要か」を考えず、マニュアルに従って手順だけを身につけようとすることに最大の原因がある。ワープロを全く使ったことの無い人は、個々の手順にどういう意味があるのかがなかなか理解できない。いっぽうワープロをある程度使ったことのある人だったら、「ファイルを保存するにはどういう操作が必要か」、「文字を置換するにはどうすればよいか」というように、必要性に応じて手順を見つけだしていくことができる。外国語の習得にも似たところがあるかなあ。

 少々脱線してしまったけれど、「マニュアルにどう書いてあるか」ではなく、「何が必要か、それを満たすためにはどうすればよいか」に基づいて対処していく姿勢が大切だと思う。
【ちょっと思ったこと】
  •  木曜日の夜のTV番組「週刊ストーリーランド」をビデオで見た。この番組、「TVチャンピオン」の裏番組になっていることもあって、これまで数回しか見たことがないが、最後のどんでん返しに面白味がある。我が家では、途中の伏線を頼りに結末をどう予想するかというところに最大の関心が寄せられている。もともと子供向きの番組ということもあるのだろうが、私の場合は7〜8割は予想通りの結末となる。

     そんななか、1/27分の第二話「一番大きなリンゴ」では少々予想を外してしまった。以下ネタバラしになってしまうが、

     ある国の王子が国中の娘に鉢植えのリンゴの苗木を配布した。期日までに一番大きなリンゴをならせた女性をお妃に選ぶためだ。女たちは競ってリンゴを大きく育てようとするが、そんななか、病床の父を看病している心の優しい娘が居た。この娘も父の薬代を得るために一生懸命リンゴをならせようとする。

     苗木を配布したあと、王子の家来の男が国中をまわって栽培の様子を調べていた。見回りに来た家来の男はこの娘の誠実さに心を打たれ、励ます。娘もその家来のことが好きになる。

     さて、いよいよ期日が到来したが、この娘の苗には結局リンゴは成らなかった。しかし、家来の熱心な勧めにより、とりあえず宮殿に出向く。そこにお出ましになった王子は、大きなリンゴをもってきた女性たちはみなウソツキで、この貧しい女性こそお妃にふさわしいと言う。なぜなら、配布した苗木は本当はリンゴとは異なる苗であって実の成るハズがなかったからだ。女たちは他から調達したリンゴをあたかも自分が成らせたかのようにごまかしていたのである。

     しかしこの娘は、王子からの結婚の申し込みを断った。栽培の様子を見回りに来ていた家来を愛するようになっていたためであった。家に帰ってしばらくすると、家来がやってくる。実は、その家来こそが王子であった。
     私は、家来の男が王子であることは気づいていたけれど、宮殿でカミングアウトするという単純な結末を予想していた。しかしもし宮殿で王子の申し込みを承諾していたとしたら、(王子であったかどうかに関わらず、結果的に正体をあらわした)家来の男を愛していたから受け入れたのか、相手が王子であったが故に富や権力に惹かれて受け入れたのかが証明できない。

     このほか、この娘が宮殿に出向く前に、家来の男のほうが先に結婚を申し込むという展開も考えられる。しかしこの場合は、娘は富や権力に惹かれていたが、どうせ王子との結婚などできないと諦めきっていたので、次善の策としてこの家来と結婚することにしたという可能性が否定できない。

     やはり、娘の誠実さと家来の男への真の愛を証明するためには、王子の結婚申し込みを断るというプロセスが不可欠であったのだ。このことまでは私には考えがまわらなかった。



    ◆1/29追記◆岡山県在住で日記猿人登録番号同期生のともみさんが、1/28の日記でこの話題をとりあげておられた。宮殿で王子は「ここにいる女たちはみなウソツキじゃー!」と言ったが、いちばんウソツキなのは王子ではないか、というご指摘。なるほどそう言われてみればその通り! 確かに、あのストーリーでは、娘さん側を一方的にテストするという発想があって、娘さん側の気持ちを尊重していないというところがありましたなあ。

    このことで反省してみるに、私の視点は「愛や誠実さ」を証明するための科学的方法はどうあるべきかという一点だけにしぼられていた。「真の大うそつきは誰か」という問題意識に欠けていたばかりでなく、お互いの心を尊重するという愛の基本条件についての考慮も欠けていたようだ。反省反省。
【スクラップブック】
【今日の畑仕事】
多忙につき一度も立ち寄れず。