じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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3月10日(金)

【思ったこと】
_60310(金)[心理]冬ソナを振り返る(9)【第2話】ドラマの現実性とリアリティ

 第2話の感想を終える前に
  • チュンサンの父親捜し
  • チュンサンの事故「死」の経緯
の2点についてぜひとも考えておきたいと思う。

 このドラマが放送されていた時には、これら2点について、非現実的すぎるのではないかという批判が寄せられたという(具体的内容については次回以降に述べる)。

 この点について、ユン・ソクホ監督は、
  • リアリティにこだわりすぎると、夢や幻想は表現できません。それに、すべての創造的なものは、とんでもないようなことから始まるんですよ。とくに、ファンタジーなどは。
  • ...リアリティが多少欠けることに目をつぶってでも、ファンタジーを優先しなければならない場合があるのではないかと思っています。
  • ...いつ頃からか、リアリティを追求する気持ちが鈍くなってきました。だって、どうせ両立はできないんですから、一方はあきらめなければならないんです。だったら、リアリティは捨てて、ファンタジーを取ろうと。理屈にあっていたり、データに合った普遍的なものを目指そうとすると、枠にはまったものしかできないと思うのです。
  • ドラマはあくまでドラマ、作り話ですから、現実にスパイスのような楽しさを加えたと思って、味わってみてはいかがでしょうか。
  • 現実の世界では、私たちはなかなか思うようにはいきませんね。現実の世界では、非常に厳しい競争がある中で生きていますから、私たちはあの人に負けてはいけないとか、お金をもつと稼がなければいけないとか、傷つけられないようにしようとか、気を張って生きています。
  • ところが、夢やファンタジーのあるドラマは、人を素直にさせる面があります。見ていると、素直になれる部分があると思います。センチメンタルなドラマは、気持ちが弱くなってしまうと批判的にみる方もいるかもしれませんが、現実の世界では強くならなければならないのですから、ドラマの中でファンタジーを楽しんで、情緒的なカタルシスを得ることは、べつに悪いことではないのではないでしょうか。
  • 私がドラマにおいて目指しているのは、人生は美しい、人は美しい、愛はさらに美しいだろう、ということなんですね。美しさに対する夢や希望を追求していきたいと考えているのです。
『冬のソナタは終わらない』(ユン・ソクホ (著), ビョン ヒジェ ISBN:4331510875) 41〜45頁より抜粋。
 というように書いておられる。私も基本的にはこのお考えに同感であり、例えば、
  • チュンサンが事故「死」した翌日は元日であるはずなのになぜ登校日だったのか
  • チュンサンは本当は死んでいなかったのに、学校はどうして死亡除籍措置がとれたのか
  • ユジンはなぜチュンサンの「お葬式」や墓参りに行こうとしなかったのか
といったツッコミに関しては、「ファンタジー優先」ということで目を瞑ることにしたいと思う。




 もっとも、ユン・ソクホ監督のお言葉の中で「リアリティ vs ファンタジー」というように2つの概念が対置されている点については納得できないところがある。というか、たぶんこれは、監督のお考えの一部だけが伝えられているにすぎない、ということによる私の誤解かもしれない。

 私が考えるリアリティというのは必ずしも、科学的に検証可能な現象ということではない。むしろ、「ある前提のもとで、その行動が起こることに必然性があると感じられるか」という点が最も大切ではないかと思っている。

 この場合の「前提」は必ずしも現実世界を前提とはしていない。例えば、「千と千尋」の世界でも、「ロードオブザリング」の世界でも、「ハリー・ポッター」の世界でも何でもそうだと思うが、魔法が使われるということは必ずしもリアリティを損ねることにはつながらないと思う。重要なのは、その世界における前提条件を受け入れた上で、その世界に登場する人物たちの行動が、現実世界の行動原理でうまく説明できるかどうかという点にある。もちろん、なかには、きわめて予想外の行動をとる人物もいるだろう。しかし、最終的に、予想外の行動を含めてすべてに納得できなければ、作品を観た時の満足感というのは出てこないはずだ。




 そうはいっても、ここでいう「行動原理」は、行動分析学でいう「行動随伴性」のような原理ではなく社会的に構成されたものと考えたほうがよいだろう。だから、何にリアリティを感じるかということも、時代、世代、文化によって当然変化していく。

 例えば、忠臣蔵のドラマのリアリティは、それが史実に近いか、フィクションを含めるかによって決まるものではない。観客が「仇討ち」を正当な行為と認めているかどうか、その目標達成のために力を合わせる行動に必然性があると考えるかどうか、に依存している。

 「冬ソナ」にリアリティを感じるかどうかもまた、時代、世代、文化によって当然変化していくはずである。イ・ミニョンとチュンサンの同一性を確認しようとしたユジンの行動なども、昨日の日記(3/9)で取り上げた、「脱アイデンティティ、モード性格、シゾフレ人間」という多様な視点を受け入れるかどうかによって、必然性があるかどうかの感じ方が変わってくるはずだ。最初に述べた、チュンサンの父親捜しをめぐる一連の行動、あるいは大晦日当日のチュンサンの行動にリアリティを感じるかどうかもまた同様である。