じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
【思ったこと】 _60310(金)[心理]冬ソナを振り返る(9)【第2話】ドラマの現実性とリアリティ 第2話の感想を終える前に
このドラマが放送されていた時には、これら2点について、非現実的すぎるのではないかという批判が寄せられたという(具体的内容については次回以降に述べる)。 この点について、ユン・ソクホ監督は、 というように書いておられる。私も基本的にはこのお考えに同感であり、例えば、
もっとも、ユン・ソクホ監督のお言葉の中で「リアリティ vs ファンタジー」というように2つの概念が対置されている点については納得できないところがある。というか、たぶんこれは、監督のお考えの一部だけが伝えられているにすぎない、ということによる私の誤解かもしれない。 私が考えるリアリティというのは必ずしも、科学的に検証可能な現象ということではない。むしろ、「ある前提のもとで、その行動が起こることに必然性があると感じられるか」という点が最も大切ではないかと思っている。 この場合の「前提」は必ずしも現実世界を前提とはしていない。例えば、「千と千尋」の世界でも、「ロードオブザリング」の世界でも、「ハリー・ポッター」の世界でも何でもそうだと思うが、魔法が使われるということは必ずしもリアリティを損ねることにはつながらないと思う。重要なのは、その世界における前提条件を受け入れた上で、その世界に登場する人物たちの行動が、現実世界の行動原理でうまく説明できるかどうかという点にある。もちろん、なかには、きわめて予想外の行動をとる人物もいるだろう。しかし、最終的に、予想外の行動を含めてすべてに納得できなければ、作品を観た時の満足感というのは出てこないはずだ。 そうはいっても、ここでいう「行動原理」は、行動分析学でいう「行動随伴性」のような原理ではなく社会的に構成されたものと考えたほうがよいだろう。だから、何にリアリティを感じるかということも、時代、世代、文化によって当然変化していく。 例えば、忠臣蔵のドラマのリアリティは、それが史実に近いか、フィクションを含めるかによって決まるものではない。観客が「仇討ち」を正当な行為と認めているかどうか、その目標達成のために力を合わせる行動に必然性があると考えるかどうか、に依存している。 「冬ソナ」にリアリティを感じるかどうかもまた、時代、世代、文化によって当然変化していくはずである。イ・ミニョンとチュンサンの同一性を確認しようとしたユジンの行動なども、昨日の日記(3/9)で取り上げた、「脱アイデンティティ、モード性格、シゾフレ人間」という多様な視点を受け入れるかどうかによって、必然性があるかどうかの感じ方が変わってくるはずだ。最初に述べた、チュンサンの父親捜しをめぐる一連の行動、あるいは大晦日当日のチュンサンの行動にリアリティを感じるかどうかもまた同様である。 |