じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
【思ったこと】 _21124(水)[教育]「学ぶ意欲」再考(1)日本の子どもの勉強時間 11/24の朝日新聞教育欄に「勉強、何のため」という見出しの特集記事があった。その右下に、経済協力開発機構(OECD)が2000年に行った、子どもの勉強時間の比較が引用されていた。この調査は、32カ国の15歳を対象とし、「週あたり、国語、数学、理科の宿題や自分の勉強を平均で何時間しているか」を調べたものであった。 記事によれば、最短は日本で24.9分、2番目に短いのがスウェーデンで28.3分...、最長はギリシャの60分であったという。ここで疑問に思ったのは、勉強の平均時間の算出法である。記事には ....各教科の時間数(1週間あたり)について「0」「週1時間未満」「1〜3時間未満」「3時間以上」のいずれかを選ぶ形で答えさせた。それを、それぞれ「0」「0.5」「2」「4」時間と換算して、全教科を合計した。その数字を、「1日あたり何分か」という単位に計算し直してみたと書かれてあるが、これって随分大ざっぱな「換算」ではないだろうか。全く勉強しない場合が「0時間」となるのはよいが、週1時間未満は週30分と同義、また週3時間以上はどんなに長く勉強しても4時間ジャストとして扱われてしまうのである。順序尺度的にカテゴライズされた選択肢から、むりやり平均時間を算出し分単位で比較しようなどというのは無謀きわまりない。 これと同じようなグラフは、先日NHKスペシャルで放送された教育特集番組でも紹介された(※)。日本の子どもの勉強時間が短くなっているのは確かかもしれないが、結論を急ぐあまり、データをエエ加減に加工してもらっては困る。 このほかこの種の調査では、勉強時間がどの程度正確に自己申告できるかという問題が残る。つまり、
[※追記]NHKスペシャル2002年11/9〜11/10放送:21世紀 日本の課題 「シリーズ 学ぶ意欲を取りもどせ」。1回目は「分かるっておもしろい」、2回目は「あなたの夢は何ですか」 子どもの勉強時間をめぐるもう1つの問題点は、何でもかんでも平均してモノをとらえようとする悪癖である。「日本で24.9分、2番目に短いのがスウェーデンで28.3分...」などとあるが、はっきり言って、スウェーデンより3.4分短いなどというのはどうでもよいことだ。そんなことより、もっと個人を重視し、全然勉強していない生徒は何をして過ごしているのか、またその一方で勉強している生徒は何時間ぐらいしているのか、その違いは何によってもたらされているのかを具体的にとらえることのほうがはるかに大切だ。 ※念のため言っておくが、この記事の中心は、「くもん子ども研」と朝日新聞本社の共同調査の紹介にあり、OECDの結果はそれほど重視されていない。また、生徒たちのナマの声も紹介されている。とはいえ、やはり、「どういう生徒が多かったか」という比率の変化ばかりに目が向けられ、個体本位の学習態度が分析されず、画一的な議論に終わっているような気がした。なお、この話題はさらに続編で取り上げる予定。 |
【思ったこと】 _21125(月)[教育]「学ぶ意欲」再考(2)意欲とアメとムチ 昨日取り上げた「子どもの勉強時間」に関する話題は2回完結とするつもりだったが、元ネタとなっている朝日新聞「学ぶ意欲」の連載に興味深い話題が次々と取り上げられているので、タイトルを変更、もう少し継続的に感想を記していきたいと思う。 ところで、私自身は「意欲」という言葉は、少なくとも教育改善の議論をする場では頻繁に使うべきではないという立場をとっている。そもそも「意欲」というのは、行動が活発に行われている時に、その原因として、からだの内部にわき上がっているエネルギーのような力として仮定されたものである。それゆえ、例えば、A君が算数を一生懸命勉強していれば、 ●A君は算数を学ぶ意欲がある と表現される。いっぽう、算数の勉強をいやがるB君については ●B君は算数を学ぶ意欲が無い。 と表現される。ではB君はどうすればよいか、単に「意欲を高めればよい」というだけでは循環論になってしまうだけだ。何の建設的提案もできない。要するに「意欲」は、現象を分類記述する概念ではあっても説明概念にはなりえないのだ。 「意欲」とはちょっと異なるが、同じように循環論に陥りやすい概念に「意志力」がある。少し古いがSmith, Sarason, & Sarasonの1978年の心理学教科書(←この教科書はその後も改訂版が出ているが、私個人は、この78年版が最も分かりやすい)は、この点について次のように述べている(242頁)。 The concept of willpower is also somewhat troublesome from a scientific point of view, because the only way we can operationally define willpower is in terms of the behavior it is supposed to cause. For example, how do we know if individuals who want to stop smoking have willpower? If they stop or markedly decrease their smoking, of course! But why do they stop smoking? Because of their willpower. This kind of circular reasoning can deceive us into thinking that we have explained something when in fact we have simply used a behavior to "demonstrate" the presence of an internal state (willpower), which we use in turn to explain the behavior.「学ぶ意欲」概念についても循環論に関わる同様の問題がある。せいぜい「学ぶ意欲を高めよう」的なスローガンとして用いるのが賢明である。 では、学ぶという行動を高めるための説明概念にはどういうものがあるか。
さて元の話題に戻るが、連載1回目(11/24)の新聞記事には、和田秀樹氏(精神科医)の次のようなコメントがあった。長谷川のほうで要約引用すると 和田秀樹氏の著作はしばしば引用するが、ここで表明されている内容は、氏の御著書『痛快!心理学』で説かれているようなコフート流精神医学というよりも、いま私が上に述べた行動分析流の随伴性概念の強調であるように思えてならない。つまり、上記の1.や2.は、「何もしなくても平穏」という状況だけでは行動は強化されないこと、行動を増やすためには、少なくとも初期の段階において、アメ(=付加的な好子出現)とムチ(=好子消失阻止の随伴性)による強化が必要であることの指摘であり、3.は確立操作についてのご提案であると言えよう。 但し、念のためお断りしておくが、行動分析は、アメとムチを永続的に使い続けろとは一言も言っていない。それでは子どもは、第三者から調教されているだけのペットになってしまう。必要なことは、第三者から付加的に与えられていた結果を、学ぶこと自体が楽しみとなるような自然の結果(natural contingency、行動内在的随伴性とほぼ同義)にどう置き換えていくかという工夫だ。この部分が欠落すると、教育改善は全く無意味なものになってしまうと言っても過言ではない。 連載1回目(11/24)の新聞記事には、もうお一方、佐藤学・東大教授のコメントがあった。 その中で佐藤学氏は 「どうせ学んでも無駄」「自分には能力がないから無理」というニヒリズム(虚無主義)、シニシズム(冷笑主義)が浸透している。と書いておられたが、虚無主義の本を一冊も読んでいない子どもたちがそんなに簡単に「虚無主義者」になれるわけがない。これは単に、現象を難しい言葉で分類記述しただけであって、何ら説明概念にならない。 コメントの後半の 「勉強」から「学び」へと転換することが必要だ。ひたすら教師の説明を聞き、黒板と教科書を読んで理解する座学の「勉強」から、具体的な道具や素材や人と出会う活動的な「学び」へ。自学自習の「勉強」ではなく、自分のアイデアを惜しみなく提供し、仲間のアイデアから謙虚に学び合う「学び」へ-----。という部分はその通りだと思う。但しそのためには、学校教育の内容を全面的に変え、かつ、入試の方法も改めなければ実現はできない。大学教育なら、いくらか可能だと思うのだが、私のゼミでは、このことで苦労している最中である。次回に続く。 |
【思ったこと】 _21126(火)[教育]「学ぶ意欲」再考(3)行動は永久機関ではない 朝日新聞の連載記事から脱線するが、昨日取り上げた和田秀樹氏のコメントに関連してアメとムチの問題をもう少し考えを述べたいと思う。 昨日の日記では、和田秀樹氏のコメントに関連して、 行動分析は、アメとムチを永続的に使い続けろとは一言も言っていない。それでは子どもは、第三者から調教されているだけのペットになってしまう。必要なことは、第三者から付加的に与えられていた結果を、学ぶこと自体が楽しみとなるような自然の結果(natural contingency、行動内在的随伴性とほぼ同義)にどう置き換えていくかという工夫だ。じつはこのことに関連して、ちょうどいま、講読の授業でマロットの教科書[Malott, R. W., Malott, M. E. & Trojan. E. A.(2000). Elementary principles of behavior (4th ed.). New Jersey: Prentice Hall. ]の中の「行動の維持」という教材を取り上げている。そこでは、人為的に与えられる結果(第三者による付加的強化)が自然に伴う結果(行動内在的随伴性、あるいは「行動の罠」)に置き換えられていく事例として、
もっとも、この教科書にも記されているように、すべてが、行動内在的強化にとって変わるわけではない。その一例がダイエットである。もちろん、体重や体脂肪が正常範囲に収まり健康な生活が保障されること自体はきわめて強化的である。しかし、日々の努力が体重や体脂肪の変化に与える影響はきわめて小さい。反面、自分をとりまく世界は、食べ過ぎが強化されるような様々な誘惑に満ちている。こういうケースでは、自律的にアメとムチを与える行動管理(パフォーマンス・マネジメント)を生涯続ける必要が出てくる。マロットは、この章の最後を Avoid the traditional error that once you've really modified behavior, the behavior will maintain itself. Not true. BEHAVIOR WILL NOT BE MAINTAINED WITHOUT SUPPORTING CONTINGENCIES.と結んでいる。いったん遂行されるようになったからといって、その行動は永久機関のように無限に続けられるわけではない。自然に伴う結果が(大きさや出現確率などの点で)十分な強化力をもたない場合には、それを補う人為的な結果を付加し続けることがどうしても必要である。 |
【思ったこと】 _21128(水)[教育]「学ぶ意欲」再考(4)大学生・大学院生の学ぶ意欲 今回は、朝日新聞連載記事第1回目(11/24)の佐藤学・東大教授のコメントに関連して 「「勉強」から「学び」へと転換することが必要だ。ひたすら教師の説明を聞き、黒板と教科書を読んで理解する座学の「勉強」から、具体的な道具や素材や人と出会う活動的な「学び」へ。自学自習の「勉強」ではなく、自分のアイデアを惜しみなく提供し、仲間のアイデアから謙虚に学び合う「学び」へ-----。」という部分はその通りだと思う。但しそのためには、学校教育の内容を全面的に変え、かつ、入試の方法も改めなければ実現はできない。大学教育なら、いくらか可能だと思うのだが、私のゼミでは、このことで苦労している最中である。と述べたことについて、大学教育との関係をもう少し詳しく考えてみたいと思う。 まず、一般論として、大学の授業は、主体的・能動的に学ぶ者を対象に行われるものであり、1コマ90分に対してその2倍〜3倍の予習・復習が行われることを前提に進められるべきであると思う。 授業の質を高める目的で授業評価アンケートを行う大学が増えてきたが、これは、ベーカリーレストランのアンケートとは根本的に違う。ベーカリーレストランの場合は、お客はただ座っていればよく、出された料理がおいしかったかどうか、サービスが適切であったかどうかを評価する。一方、大学の授業の場合は、ただフラッと教室に入ってきて90分間聴講すれば話が分かるというものではない。事前に予習し、授業後には指示された課題をこなすとか、(私の授業の場合であれば)ネット上の授業サイトを閲覧しながら復習することが前提となっている。何も努力しないで、この授業は分かりにくいとケチをつけるのは自分勝手というものだ。 “「勉強」から「学び」”がどの程度可能かということは、学問分野によって異なる。例えば医療系の学部では技法を伝授する授業が大半を占める。もちろん、マニュアル通りの対応だけでは不十分であろうが、医療現場で自分勝手なアイデアばかり出されていたのでは患者は大迷惑だ。 心理学の場合も、統計解析の技法、それぞれの小分野における基礎的知識の修得が求められているけれども、卒論や修論研究においては、相対的に「学び」が重視されていると思う。 そういう意味では、「何を研究したらいいですか」、「テーマを与えてください」などというのは、卒論生や修論生が指導教員に対して口にすべき質問ではない。そういうものは自分で探し出し、「このテーマでぜひやらせてください!」とアピールすべきものだ。 質問に来ない学生よりは、積極的に質問する学生のほうがいいのは当然だ。しかし、自分で何も調べず、省エネ的に「○○について教えてください」というのは困りものだ。例えば、アクションリサーチについて分からなかった時にとりうる手段としては
数日前に、ゲームソフト大手のエニックスとスクウェアが来年4月に合併するというニュースが伝えられた。そういえば、スーパーファミコン用のファイナルファンタジーIVやドラゴンクエストVが発売されたのは、いまの大学生がちょうど小学生の頃ではなかったかと思う。私自身も息子と一緒に楽しんだことがあるが、ああいうゲームは攻略本無しではなかなか先に進めない。攻略本無しでは、莫大な時間を要するし、ボスと戦ってもなかなか勝てるものではない。そのことが入学後の勉学態度に反映していると考えるのはあまりにも短絡的であるとは思うが(←おそらくこれ以外に、高校や予備校での、攻略本型の進学指導の影響もあるだろう)、どうも最近の傾向を見ていると、「次に何をしてよいか分からない」、「危ない橋は渡りたくない」という学生が多いような気がしてならない。 少し前に自分のゼミでも話したことがあるが、卒論や修論のテーマなどというのは、最初からこれでヨシ!というようなものはありえないと思う。実際に取り組んでみて見通しが立てばさらに進む、どうしても困難があればテーマを変えることもある。そういう失敗の繰り返しの中で焦点を定めていくべきものだ。私自身の修論研究の場合も、1回生の時に取り組んだ10以上の予備実験の中で、見通しが立ったのは2つか3つぐらいだった。 卒論の成績評価や修論の合否は、締め切り前に提出された論文の内容に基づいて判定されるものである。その意味では、指導教員が与えてくれたテーマで、指示された通りの方法に基づいて論文を書くのが最も無難と言える。しかし、卒業・修了後に本当に役立つのは、むしろ、テーマ選びの段階での悪戦苦闘であろう。受身的に与えられたテーマで無難に論文をまとめるより、成功率10%で、いろいろなチャレンジの末に何とか論文をまとめ上げることのほうが、遙かに将来に役立つことになると思う。 |
【思ったこと】 _21130(土)[教育]「学ぶ意欲」再考(5)がんばり度「点だけでは勉強しない」 今回は朝日新聞連載2回目(11/25)の記事“がんばり度「点だけでは勉強しない」”について意見を述べることにしたい。 まずこの記事は
もっとも上記のうち、5番目の学習応援教室はやや性格を異にした総合学習的な内容の紹介になっている。これに対して1.〜4.は、努力に対して結果を与える際の工夫の紹介ということになる。 では、それぞれは、どのような結果を付加しているのだろうか。
このうち1.は、勉強ばかりでなく運動会などの競技でも使えそうなシステムである。そういえば、99年9月19日の日記で運動会に関して 順位ではなく、個々人のタイムで競うというのも一案だろう。順位はいつも最下位であっても、個人記録が伸びたことに得点を与えてやれば、努力に応じた強化が可能となる。と書いたことがあった。もっとも、今回紹介された「次のテストでの各自の予測得点をはじき出す」というルールだけでは、最初から低めに予測得点を出すという行動が強化されないか、ちょっと心配だ。 ほんらい、100点満点のテストにおける得点というのは、出題された内容の何%が解決できたかという指標にすぎない。その増減だけで日々の累積的な努力が強化されないのは当然であり、いろいろな結果を付加するための工夫が求められる。こうして見ていくと、やる気をおこさせるための方策というのは、結局のところ、どういう結果をどういう手順で与えるのか、という強化の問題に帰着可能であることが改めて感じさせられる。 付加的な結果の中でもひときわ価値が高いと思われるのは、目標を設定し、目標自体への確立操作を行うとともに、目標への方向の一致度や達成度を目に見える形で表し、言語的に強化してやることだ。これに関しては、先日のNHKスペシャルで興味深い取り組みが紹介されていた。次回以降に取り上げてみたい。 |
【思ったこと】 _21213(金)[教育]「学ぶ意欲」再考(6)45万人調査「算数・数学低下くっきり」というが 12/14の朝日新聞(大阪本社)一面トップに、文部科学省が今年初めに全国の小学5年から中学3年を対象に実施した5教科学力調査の結果が掲載されていた。約45万人を対象としたもので、記事では、前回調査(1993〜1995)に比べて、算数・数学の基本的学力の低下が目立つと指摘されていた。なお、この調査結果は13日に発表されものであり、14日朝には、国立教育政策研究所のホームページに掲載される予定であるという。 [※12/14追記] 14日朝には調査結果が、こちらに掲載されていた。但しpdf形式のため読み込みに非常に時間がかかり、閲覧できていない。 では、算数・数学の学力は本当に低下しているのか。記事では、問題作成・分析担当者が想定した正答率と実際の結果が比較され、算数・数学で落ち込みが大きいことが指摘されているが、この「想定」とはいったい何なのか。関係者がどうやって正答率なるものを予想できたのか、その根拠を伺いたいところだ。 もちろん、前回と同じ問題に限って比較すると、算数・数学では、正答率が増えた問題数よりも下がった問題数のほうが遙かに多い。科目全体の正答率も、中1のマイナス5.7%を筆頭にすべての学年で減少が見られる。これ自体は、「学力低下」の客観的証拠となりうる。但し、正答率の減少の度合いは、小5から中3の順にそれぞれ、3.6、2.7、5.7、3.7、1.3%にとどまっていた。減少の度合いがおおむね2〜3%程度であったという点は、むしろ、巷で言われているほど低下していないという証拠にもなるかもしれない。 記事では、半径10cmの円の面積を求める問題(円周率は3.14とする)の正答率が53.3%であり、前回より15.8%下がったという結果について、一面記事の見出しに入れられていたほか、35面にも「円面積?つまづく子ら」と強調されていた。そんな簡単なことがどうしてできないのか、という扱いであった。 多少気になったのは、出題された図の説明で、「10cm」が半径ではなく直径のように示されていること。オリジナルではどう表示されていたのだろうか。 円周率をめぐっては、「3.14」を「3」として教えることの是非が議論されることがあるが、私は、そんなことはどうでもよいと思っている。それよりも、どうやったら円周率を近似的に求められるのか、また、そもそも面積とは何か、円の面積はなぜ「半径×半径×円周率」なのか、がちゃんと説明できるかどうかのほうが問題だと思う。 円の面積が「半径×半径×円周率」であることを直感的に理解させるいちばんよい方法は、円を、高さが半径、底辺が弧の一部となるような三角形に分割し、分割された三角形の面積の和として近似することだろう。但し、それを理解するには、三角形の面積が正しく求められることが前提となる。小5に対しては、底辺5cm、高さ4cmの三角形の面積を求める問題が出題されており、その正答率は73.5%、前回よりマイナス11.3%となっていた。ということは、円ではなく三角形の面積が求められないことのほうが根本的であると言えよう。 どっちにしても、「三角形の面積は、底辺×高さ÷2」とか「円の面積は、半径×半径×円周率」などという公式を使えるかどうかなどはどうでもよい。どうしてそうなるのかをちゃんと説明できることのほうが将来の役に立つと思う。余談だが、ピタゴラスの定理をちゃんと証明できる大人って、何%ぐらいいるのだろうか。 このほか、理科や国語の出題例にも若干の疑義がある。 記事に紹介されていた小5理科は、メダカのオスとメスを見分ける問題であった。しかし今やメダカは希少種であり、自然に棲息している場所はきわめて少ない。見分け方を丸暗記することにどういう意味があるのかさっぱり分からない。それを教えるくらいだったら、いろんな動物(昆虫を含む)で、オスとメスの色や形が異なることがどういう意味をもっているのか考えさせることのほうが遙かに勉強になると思う。 小6の国語では、12個の漢字から、5個の熟語を作るという問題が出題されていた。10個の漢字は、 ●備、断、易、告、説、準、富、送、報、豊、貿、判 であり、正解としては、正解率の高い順に ●準備、貿易、判断、報告、豊富 が挙げられていたが、例えば、「易断」と答えたら正解になるのか、疑問に思ってみたりする。例題の「粉、虫、芽、害、花」の場合も、「害虫」と「花粉」が正解とされていたが、「花芽」や「虫害」はどうなんだろうか。 |
【思ったこと】 _21214(土)[教育]「学ぶ意欲」再考(7)あまりにも大ざっぱな「学習意欲」調査 昨日に続いて、文部科学省が今年初めに全国の小学5年から中学3年を対象に実施した5教科学力調査「平成13年度教育課程実施状況調査(小学校・中学校)」について。今回は「学習意欲」に関する結果について感想を述べることにしたい。 なおこの日記は12/14の朝日新聞記事に基づいて書き始めたが、オリジナルのデータが国立教育政策研究所のホームページに掲載されており、その一部を併せて参照した。その中の−児童生徒質問紙共通−資料によれば、学習意欲等に関する調査では以下のような18通りの質問が行われた。回答は、「そう思う」、「どちらかと言えばそう思う」、「どちらかといえばそう思わない」、「そう思わない」、「分からない」の5択であったようだ(無回答も集計)。
資料によれば、「勉強を大切だと思う」に対して「そう思う」あるいは「どちらかと言えばそう思う」と答えた小中学生は、82%〜88%になっていた。いっぽう、「勉強が好き」に対して「そう思う」あるいは「どちらかと言えばそう思う」と答えた子供は、39%(小5)、34%(小6)、19%(中1)、16%(中2)、18%(中3)というように、特に中学生になると激減していた。 「大切だ」と「好きだ」の乖離に対しては「全体的な学習離れを示している」というコメントも寄せられていたが、実際はどんなもんだろうか。もちろん、勉強をすることが生きがいになるかどうかを問題にするのであれば、「勉強が好き」であること、要するに、勉強行動に対して行動内在的な結果が伴うような状況を作ることがぜひとも必要になってくるだろう。しかし、現実の世の中は、好きなことばかりしていてやっていけるほど甘くはない。嫌いでたまらなくても、大切だと思い、やるべきことをこなす習慣が身に付いているならそれでよいのではないか。 ここでもう一度、オリジナルの質問項目を眺めてみたい。まず「勉強は大切だ」というのは、「行動・結果」記述ではなく、確立操作と言える。それ以外を行動随伴性に基づいて分類すると、
ところで私のゼミでは、しばしば、行動随伴性に基づく分析を強調している。そのことによって、複雑な事象を簡潔に分類できるのはもちろんであるが、最大のメリットは、直感や個人体験だけに頼っていたのでは気付かないような別の随伴性の可能性を指摘できるという点にある。 例えば、結果の質という点から勉強する理由を考えてみると、今回の質問項目では、「よい成績をとれる」「受験に役立つよう」「自分の好きな仕事につけるよう」「分からないことでも自分の力で答を見つけられるよう」「ふだんの生活や社会に出て役立つよう」「お父さんやお母さんにほめられるよう」「先生にほめられるよう」というように、すべて、利己的な理由ばかりを尋ねていることが分かる。行動随伴性の視点から、結果の質に注目すれば、「社会の役に立つために、勉強したい」(←「社会に出て役立つよう」とはまるっきり違う)、「病気の人を救うために、勉強したい」、「お父さんやお母さんの恩に報いるために、勉強したい」というような、社会全体を利するような結果というものもありうるはずだということに気づく。 また、随伴性の種類に注意を払うと、「勉強しなければ〜になるから、勉強する」という阻止の随伴性に関わる質問が全く含まれていないことに気づく。例えば、資料によれば、「受験に役立つよう,勉強したい」に対しては、小5で69%、中学生では80%以上が肯定的に回答をしているが、本当は、「勉強しなければ受験で不利になるので、そういうネガティブな結果を阻止するために勉強している」んではないかなあ。そういう質問が欠けていたために、児童・生徒たちが、どれだけ自発的・能動的に勉強しているのか、それとも、阻止の随伴性により義務的に勉強しているのかが分からなくなってしまっている。 それにしても、今回の質問はあまりにも大ざっぱすぎる。さまざまな科目があるにも関わらず、抽象的に「勉強は好きか」とか「〜のために勉強する」などと尋ねることにはどれほどの意味があるのだろうか。じっさい、もし自分が中学生だったらどう答えるだろうか。私の場合、数学や理科は好きだったが、英語と社会は嫌いであり義務的に勉強した。国語は、一部の小説と論説と作文は好きだったが、詩歌は大嫌い。5教科以外の技術、美術、音楽、体育は全部大嫌いだった。こういう時は、いったいどう答えたらよいのだろう。 どうせ聞くのなら、勉強のどういう所が好きかどういう所は嫌いか、どういう時に楽しいと感じるか、他のいろいろな行動と比べた時勉強は何番目ぐらいに好きか、というようにもっと具体的に聞き取ったほうが成果が大きかったのではないかと思う。 大ざっぱな点は勉強の理由に関する問いについても言える。例えば、数学を勉強することはたぶん「私の受験に役立つ」が、「私の好きな仕事につくことに役立つ」かどうかは定かではない。 いろいろ書いてみたが、とにかく、学習意欲に関する質問は大ざっぱすぎて、何に役立つのか分からない。何も45万人ものデータを集める必要は無かろう。人数はもっと少なくてよいから、いろいろなグループに分けて多様な質問をすべきではなかろうか。加えて、質問紙ばかりでなく、面接による聞き取りや、行動観察も加えるべきである。平均値を折れ線グラフや円グラフで比較する程度では、何一つ生産的な議論には発展しない。 それと、過去との比較はほとんど情報的価値がないと思う。「勉強」の概念そのものが変わっているからだ。思い出話に興じる暇があったら、いま何が問題なのかを詳細に検討することに重点を置くべきだ。 |