じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
秋分の日(秋分は9月23日05時44分)は、太陽が真東から昇り真西に沈む日である。日没前に実際の様子を写真で確かめてみた。但し、地平線より上にある太陽は真西より若干南側にずれているため(太陽は右下方向に沈むため)、正確に真西からの光は射し込んでいない。
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【思ったこと】 130924(火)離脱理論型老後の道は容易ではない このところずっと高齢者における選択のパラドックスの話題を取り上げているが、私自身も来月には61歳で、定年まで4年半を切ることとなる。私自身は、以前より、離脱理論型の老後を理想としており、いろいろな役回りから少しずつ撤退し、できるだけ目立たず、定年後は「そんな人、居ったっけ?」と忘れられるような余生を目ざしてソフトランディングにつとめているところではある。 離脱理論型の老後は、現実のローカルな人付き合いを最小限度にとどめることで、ローカルでない普遍的な存在(自然や宇宙)との関わりを最大限に確保できるというメリットがあるが、これは頭の中で考えるほど容易に実現できるものではない。 個人は誰でも、国や地域、家族・親族・近所など、社会的な関係の中で生きており、無人島で自給自足の生活でもしない限りは、その関係を完全に断ち切ることはできない。個人的な関係は、もちろん、愛情や思いやりを前提に成り立つものではあるが、割り切って考えればギブアンドテイクであって、自分から何も提供せずに、一方的に周囲から助けてもらうということはなかなかできるものではない。じゃあ障がい者や病人はどうかという話もあり、すべての人の生きる権利を守るために社会が果たす役割もよく分かるけれども、いざ自分が介護を受けるような立場になった時には、やはり、双方向の関係(互助互酬関係)なしには、離脱重視の生活も成り立たないとは思っている。 人様のお役に立つとか、社会的貢献というと聞こえがよいが、見方を変えれば、要するに、社会に貢献しているということは、その社会の中で、利用価値のある存在として機能しているとも言える。離脱理論型をめざすというのは、要するに、他者からみた自分の利用価値を封印するということでもある。自由主義・個人主義の世界で、利用価値を失った人間はどれだけ相手にしてもらえるだろうか。じっさい私なども、現在は教育や研究、管理運営などいろいろな面で仕事をさせてもらっており、何かの講演に呼ばれれば、センセ、センセと大切に扱って貰えるけれども、これらはすべて、私自身が利用価値のある存在として機能しているからであって、そういう世界から離脱したとたん、もはや誰からも相手にされなくなることは目に見えている(→儀礼的に、やさしい挨拶くらいはしてくれるかもしれないが)。それを承知の上で離脱を進めるためには相当の覚悟が必要である。 けっきょくのところ、最後は老後の資産がモノを言うことになる。これもある意味では利用価値の1つであり、要するにお金持ちは、他者のためにお金を使ってくれるから「利用価値がある存在として機能している」のであって、お金を全く使わずに自給自足している人は、自宅に何億何十億のお金を貯め込んでいてもお金持ちとは言い難い(←ま、それでも、お金を使わないことでインフレ防止に貢献しているかもしれないが)。 この日記で何度も書いているように、お金の究極的な機能は「自分自身のために、人様に働いてもらう(働かせる)」ことにある。しかし、互助互酬が完璧に循環しているムラ社会、あるいはもっと昔の奴隷制社会を別とすれば、人様を働かせて自分だけ楽をするというためには、何らかの格差が必要となる。老後の安定した暮らしを続けるために駐車場経営を始めるというのは、要するに、地球上の一角を占有し、駐車場利用者を働かせることを意味する。駐車場利用者が駐車場所有者のために直接サービスを提供しているわけではないが、それぞれの職場での労働は、まわりまわって最後は、駐車場所有者に戻ることになる。もちろん、そういう仕組みを維持するためには、法律や治安といった国による保護が前提とはなる。であるからして、完全に自給自足を確立できない限り、離脱理論型老後は、格差社会か、社会保障制度が完璧に整った社会でないと実現しえないことになる。また、後者の「社会保障制度が完璧に整った」は聞こえがいいけれども、その制度を守るためには、誰かが働かなければならず、結局、特定の人(個人あるいは国レベルでの格差)を働かせるか、世代ごとの役割に配慮した上での互助互酬でみんなが働くか、何らかの仕掛けが必要になる。 |