じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
センター試験前日の1月17日(金)は、制服を着たたくさんの受験生が会場下見に来ていた。なお、昨年1月19日の日記に、 例年、岡大・南北通りには受験生を応援する先輩たちの吊り下げメッセージが多数取り付けられセンター試験の風物詩のようになっているが(昨年の様子はこちら)、今年は私が通行した範囲では全く見かけなかった。当局により禁止されたのか、出身校の試験会場が例年とは別の場所になったためなのか、出身校の先輩の数が少なくて設置できなかったのか、いずれの原因によるものかは不明。と記したが、今回も、そのようなメッセージ類は前日の時点では見かけていない。 |
【思ったこと】 14018(土)100分 de 幸福論(12)フロイト(5)/まとめ 昨日の続き。なお、この番組は、1月2日にNHKのEテレで放送されていたが、1月25日(土)の15時から16時40分にも再放送があるとのことである。 さて、フロイトの紹介の最後のほうでは、『精神分析入門』序章の中から 言葉はもともと魔術でした。我々は言葉の力によって他人を喜ばせることもできれば絶望の淵に追いやることもできます。 ...という部分が引用され、言葉の大切さが強調された。なお、上掲書の英訳版はbartlebyの こちらの頁から閲覧することができる。【←ここのサイトからは、他にもいろいろな名著が閲覧できるようだ】 このほか、
精神分析が基本的に言葉のやりとりで成り立つことからみて、言葉の大切さを強調された点は理解できる。しかし、私自身は、まずは行動ありき、言葉はそれを補完するものに過ぎないと考えており、このあたりは相容れないところがある。 もう1つ、上掲の「物語」に関しては、ナラティブセラピー (Narrative therapy) があり、その起源の1つにフロイトがあることは存じているが、ウィキペディアリンク先に記されているように、 フロイト派もユング派も、かつての精神療法は、治療者はクライエントの一段上に立っており、間違った物語に囚われている患者を、治療者が正しい物語へと導く、という進展が一般的であった。しかし、社会構成主義によれば、どのような物語になるかは平等な主体どうしの主観の持ち方、すなわち「ものの見方」の問題であり、「正しい」物語も「間違った」物語もなく、ましてやどのような主観にも依拠しない「客観的な」立場から見た解釈や物語も存在しない、ということになる。というのが妥当な見方ではないかと私は考えている。 番組の最後のところでは、4人のゲストによるまとめが行われた。その概略は【←長谷川のメモのため不確か】
ま、居直って言えば、いくら名著であっても、それを読んだだけで幸福になることはありえない。まずは日々の実践が大切であり、それを補完する程度にとどめておいたほうがいいようにも思う。 |