じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 本部棟屋上から昇る太陽。5月に入って方位が北側(左側)に移動してきたため、この光景が私の住んでいる場所から眺められるのはそろそろ終わりとなってきた。これから夏至にかけては、本部棟左にある龍ノ口山からの日の出となる。写真右は4月25日の写真。


2014年5月2日(金)

【思ったこと】
140502(金)長谷川版「行動分析学入門」第5回(1)好子出現の随伴性による強化(1)幸福(生きがい)の本質はここにあり

 前回までのところで、オペラント行動が増えたり減ったりする原因は、基本的に以下の4通りのいずれかに分類できると述べました。
  1. 行動の直後にA(=好子)が出現すると、以後、その行動は増える(もしくは高頻度を保つ)
  2. 行動の直後にB(=嫌子)が消失すると、以後、その行動は増える(もしくは高頻度を保つ)
  3. 行動の直後にC(=嫌子)が出現すると、以後、その行動は減る(もしくは低頻度に抑えられる)
  4. 行動の直後にD(=好子)が消失すると、以後、その行動は減る(もしくは低頻度に抑えられる)
また、
  • 行動およびその直前と直後の環境変化の関係【偶発的な変化を含む】を「行動随伴性」
  • 行動が増えたり高頻度が保たれている状態は「強化」
  • 行動が減ったり低頻度に抑えられている状態は「弱化」
と呼ばれることも説明しました。これらの用語を使うと、上記の1.から4.の分類は以下のようになります。
  1. 好子出現の随伴性による強化(こうし しゅつげんの ずいはんせい による きょうか)
  2. 嫌子消失の随伴性による強化(けんし しょうしつの ずいはんせい による きょうか)
  3. 嫌子出現の随伴性による弱化(けんし しゅつげんの ずいはんせい による じゃっか)
  4. 嫌子消失の随伴性による弱化(こうし しょうしつの ずいはんせい による じゃっか)
聞き慣れない専門用語ばかり出てきますが、行動分析学は、原則としてこの4つの「基本随伴性」だけでオペラント行動の予測や制御をめざしています。

 この4通りの中でも私たちの日常行動に最も関係があるのが、1.の「好子出現の随伴性」です。極言すれば、2.から4.の随伴性が無かったとしても、1.だけがちゃんと機能していれば、私たちはちゃんと生きていくことができます。ちなみに、かつてスキナーが来日講演で説いた「The Non-Punitive Society(罰無き社会)」【こちらから無料で講演録を閲覧できます】も、基本的には、好子出現の随伴性だけで暮らすことのできる社会を提言したものと言うこともできます。また、その講演録の中でスキナーは、幸福(生きがい)について
Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed.
と説いています。佐藤方哉先生によれば【『罰無き社会』の佐藤方哉訳(行動分析学研究、1990, 5)】では、この部分は
幸福とは、正の強化子【=好子】を手にしていることではなく、正の強化子【=好子】が結果としてもたらされたがゆえに行動することなのです。
と訳されていますが(【  】は長谷川による補足)、これをかなり意訳すれば、
好子(positive reinforcers)自体を手にしているだけでは決して幸福にはなれない。好子出現によって強化されているような行動の中にこそ、真の幸福(生きがい)がある。
となり、さらに意訳すれば、
モノをいくら手に入れても幸福にはなれませんよ。幸福というのは、行動することで初めて得られるものです。といっても、徒労や強制労働は含まれません。結果として好子が出現するように強化されている行動の中にこそ真の幸福があります。
とも言えますし、
いくら、好子、好子と追い求めても、真の幸福をもたらす好子など決して存在しません。いっぽう、がむしゃらに行動するだけでも幸福にはなれません。「行動」と「好子出現」がセットになって初めて、真の幸福(生きがい)を実現させることができます。
というようにも解釈できます。

 この考え方が当てはまる事例として、私はしばしば「ザリガニのエピソード」を挙げています。かつて近所で畑を借りていた時の個人体験です。
【私が】畑で草取りをしていたところ、隣の畑との間にある溝に、近所の小さい子がザリガニを釣りにきた。スルメを糸でくくって竹竿でつるした仕掛けだがなかなか釣れない。しばらくして、隣の畑で農作業をしていたおじさんが、「ほれ大きいのを採ってやろうか」といって、水撒き用の柄杓で溝からザリガニをすくい上げる。ところが、その子、少々迷惑な顔をして、再びザリガニを釣り続けた。
要するに、その子どもにとっての生きがいは、自分で能動的にザリガニを釣ることにあったわけです。いくらザリガニをたくさん貰っても、自分の行動が伴ってなければ楽しみにはなりません。

 同じような考え方は、高齢者のQOLにも応用できます。高齢者施設の利用者さんに、いくらモノを提供しても、それだけで満足して貰えることは決してありません。かなりの要介護であっても、利用者さんが自分で能動的に行動し、結果として好子を手に入れるというような環境を保障しませんと、QOLの向上にはつながりません。

 上掲の講義録の中でスキナーは、こういうことも言っています。
What are the rights of a prisoner, for example? A person who has been incarcerated and then given the things he needs to survive is being denied a very basic right. He is being destroyed as a person by having his reinforcing contingencies stripped away. The same thing happensto those on welfare. A humane society will, of course, help those who need help and cannot help themselves, but it is a great mistake to help those who can help themselves. Psychotic or retarded people who in essence earn their own living would be happier and more dignified than those who receive their living free and are then treated punitively because in the absence of reinforcing consequences they behave badly.Those who claim to be defending human rights are overlooking the greatest right of all: the right to reinforcement.
佐藤方哉先生のこの部分の訳。【  】は長谷川による補足。
囚人の権利とは何なのでしょうか。投獄され、そのうえで生きるに必要なものを与えられている人は、実はもっとも基本的な権利を否定されているのです。このような人は、強化随伴性【好子出現の随伴性】を剥取られることによって、人間として抹殺されているのです。同様のことが福祉の対象となっている人にも起こっています。思いやりのある社会は、もちろん、援助が必要で自分ではそれができない人々を援助するでしょうが、自分でできる人々までも援助するのは大きな誤りです。精神病あるいは精神遅滞であっても基本的には自分自身で生計を立てることのできる者は、無償で生活が保証されてはいるものの行動の結果が強化されることがないためによい行動が乏しく、それゆえに罰的に扱われがちな者よりも、はるかに幸せで貴いのです。人権を守るのだと主張している人たちはすべての権利のなかで最大の権利を見逃しています−−−−−それは強化への権利【自らの行動が好子出現によって強化される権利】です。
 「結果として好子が出現するように行動する」機会を大切にしようという考え方は、行動分析学にご縁の無かった介護・福祉の現場でも広く定着しつつあるように思います。私も参加しているダイバージョナルセラピーの活動も基本的にはこの考え方を取り入れていますし、ダイバージョナルセラピーとは異なりますが、先日、ガイアの夜明けで紹介されていた夢のみずうみ村の取り組みも、「結果として好子が出現するように行動する」機会を最大限に尊重しているように思われました。

 もちろん、「結果として好子が出現するように行動する」だけで、100%幸せになれるという保障はありませんが、少なくとも、幸福や生きがいの必要条件(←十分条件かどうかは不明)であることは間違いないと思います。そういう見通しをもって、「好子出現の随伴性による強化」について理解を深めていただければと思います。

次回に続く。