じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
10月20日の岡山は、記録上の降水量は午前07時台の0.5ミリのみであったが、日中なんどか弱い雨が降っていた。最高気温は19.4℃で、この秋になってから初めて20℃を下回った。写真は、紅葉の始まったアメリカフウ(モミジバフウ)を眺める黒正巌先生象。
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【思ったこと】 141020(月)定年後の拡散状態と「ムダな時間」の基準 いつも拝読している某ブログで、定年後の生活について興味深い話題が取り上げられていた。今年の春に定年退職された先生に、「定年で大学を去り、あらゆる雑用から解放され、すべての時間を勉強と執筆に割けるようになると、仕事は怖ろしくはかどるような気がするのですが、そこのところ、どうなんですか?」と尋ねたところ、 ...つまり、定年になったばかりの時は、一心に勉強するのですが、何のノルマもなし、何の締切もなし、という状況に次第に身体が慣れて行くにしたがって、一つの目標に向って何かをする、ということが難しくなると。専門の本を読んでいても、ふと気になって別な本を読みだし、それが面白いとそっちを中心に読んでしまい、さらにそこから別な本へ、また別な本へ、と気が移ってしまって、なかなか元の研究に戻れなくなってしまう。それでも、別に締切があるわけではないので、それでもいいか、ってな気になって、一向に前に進まない...という答えが返ってきた。この状態は「拡散」と表現されていたという。 大学教員の定年退職後の生活は、専門分野によっても、また個々人の健康状態や興味対象、趣味によってもマチマチであるとは思うが、「拡散状態」はありがちなことだと思う。 私自身もまさにそうだが、何かまとまった仕事というのは、「締め切り」や「ノルマ」といった好子出現阻止の随伴性で強化されない限りはなかなか先に進まないものである。別段、怠けていて先延ばしするのではない。よりよいレベルを目ざしていくと、いつまでたっても満足点に到達できず、踏ん切りがつかないことが多い(Schwarzの本で言えば、maximizer的傾向)。 しかし、どっちにしても、定年退職後はしだいに知力も体力も衰えていく。現役時代にできなかった大仕事や、いっそう創造的な仕事を完成させられる人というのはきわめて限られているように思う。むしろ、拡散状態をポジティブにとらえ、これまで培ってきた専門的知識に根ざしながらも全く別の広範囲な領域にチャレンジして、専門一途の人には思いつかないような着想を提案することに貢献したほうが生産的であるようにも思う。 話題は少し変わるが、最近、「ムダな時間を過ごす」とは何かについて考えることが多くなってきた。ネットで検索したところ、こちらとこちらに男女別の「無駄に過ごしてしまったと反省する時間の使い方ランキング」が掲載されており、このうち男性編のTop5は
また、女性編のTop5は
となっていて、男女とも大差が無いように見えた。 若者が「無駄に過ごしてしまった」と考えるのはおそらく、何か別に、発展途上にあるような別の優先課題があって、本来はそれを達成するために費やすべき時間をそうでない時間に使ってしまったことへの後悔が生じるためではないかと思われる。 いっぽう、歳をとってきて余命を意識するようになると、何十年も先に達成目標を掲げること自体は無意味になってくるいっぽう、死ぬまでにこういうことはやっておきたいという意味での優先課題が新たに登場するようになる。そういう課題を持っている人は、その遂行を妨げたり先延ばしするような時間の過ごし方は「無駄な時間」と位置づけるようになる。また、何も優先課題を持たない人の場合は、刹那的に楽しんでいても、ボーッとしているうちに時間が過ぎても何も後悔することはないだろう。 ちなみに私自身はきわめてせっかちなタイプであり、長いすの上でボーッと過ごすことは到底できない。最近は、近隣の健康ランドに全く行かなくなったが、これも、サウナや水風呂につかって数時間を過ごすことがなんだか「無駄な時間」のように思われてきたためである。 とはいえ、「無駄な時間」だと思い込んでいた時間が実は有意義な時間であり、逆に、有意義だと思って取り組んでいた時間が無駄であるという可能性もある。定年までの期間、それ以降の期間それぞれにおいて、無駄な時間とはどういう状態を言うのか、固定観念を捨てて再点検してみる必要がありそうだ。 |