じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 半田山の尾根筋に今年もまた「幻の花園」が出現している。桜がいっぱい咲いているはずだが、じっさいに現場に行ってみると低木に遮られて花が見えないため「幻の花園」と名付けている(2009年4月11日の楽天版ご参照)。

 なお、今年は、この花園より麓に近いところに露頭のようなものが見えていることに気づいた。崖崩れや工事で新たに出現したのか、樹木の葉っぱが落ちて見えるようになったのか、原因は不明。

2016年04月05日(火)


【思ったこと】
160405(火)行動分析学における自己概念と視点取得(19)自然科学における私的な出来事(10)

 『科学と人間行動(Skinner, 1953)』第17章の終わりの部分には、行動分析学の原則に関わるいくつかの論考がある。以下4つの節について、重要と思われる論点を挙げておく。

 まずは、自分自身の私的出来事を分析することについて(「Studying one's own private world」)。この部分は翻訳書に一部分かりにくいところがあるため、私のほうで別の訳を併記することとしたい。
It is true that psychologists sometimes use themselves as subjects successfully, but only when they manipulate external variables precisely as they would in studying the behavior of someone else. The scientist's "observation" of a private event is a response to that event, or perhaps even a response to a response to it. In order to carry out the program of a functional analysis, he must have independent information about the event. 【原書280頁】
心理学者は時々、自分自身を被験者としてうまく用いていることは事実である。しかし外的変数を正確に操作するのは他者の行動を研究するときだけである。私的な出来事についての科学者の“観察”は、その出来事に対する反応であるか、あるいは恐らく、その出来事に対する反応に対する反応でもある。機能分析のプログラムを実行するために、彼はその出来事についての独立した情報を持たねばならない。【翻訳書】
心理学者が自分自身を被験者として研究し成果をあげることもある。但しそれは、他者の行動を研究する時と同じく、外部変数を正確に操作できる場合に限られている。ある私的出来事について科学者が観察するのは、その出来事に対する反応、というか、おそらくその反応に対してさらに行う反応である。機能分析のプログラムを実行していくためには、研究者は、その出来事について独立した情報を把握することが不可欠である。【長谷川訳】


 この原則は、他者の私的出来事を把握する場合にも適用される。
For a similar reason he cannot solve the problem of private events in the behavior of others by asking them to describe such events. It has often been proposed that an objective psychology may substitute the verbal report of a private event for the event itself. But a verbal report is a response of the organism; it is part of the behavior which a science must analyze. The analysis must include an independent treatment of the events of which the report is a function. The report itself is only half the story.【原書280頁】
同じ理由から、他者の行動における私的出来事の問題は、その本人にそれについて記述するようにお願いすることによっては、解決できない。客観的心理学は、私的出来事の言語報告を、その出来事自体に置き換えることをたびたび提案した。しかし、言語的報告は生活体の反応であり、それは科学が分析しなければならない行動の一部である。分析には、報告それ自体はこの事情の半分であるにすぎないので、報告が機能的に関係している出来事の独立した取り扱いも含めなければならない。【翻訳書】
同様の理由により、他者に対して、当人の行動における私的出来事の言語報告を求めるというやり方では、問題を解明することはできない。客観心理学ではしばしば、私的出来事についての言語報告をその出来事自体に置き換えることが提案されている。しかし、言語報告というのは、生活体の反応の1つなのである。(報告された内容は)出来事そのものではなく、行動の一部なのであって、科学はそれ自体を分析対象としなければならない。言語報告というのは、半ば物語に過ぎないのである。【長谷川訳】

 続く「The physiology of sensation(感覚の生理学)」という節では、1950年当時に提唱されていた2つのアプローチについての批判的な論考がある。モノを見る生理学的な仕組みがより詳細に解明されたとしても、見るという行動をコントロールする変数の機能分析にはつながらない。また、「虹を見る」を例にとれば、機能分析上は、虹は「見られている対象」ではない。あくまで、「虹を見る」という行動をコントロールしている変数の一部であると捉えるべきであると論じられている。
If we say that the rainbow (either as an objective event in the environment or as a corresponding pattern within the organism) is not "what is seen" but simply the commonest variable which controls the behavior of seeing, we are much less likely to be surprised when the behavior occurs as a function of other variables.【原書281頁】

 次の「Operational definitions of sensation and image(感覚とイメージの操作的定義)」という節は、方法論的行動主義に対する批判となっている。この部分についても翻訳書では分かりにくい訳があったので、長谷川訳を併記しておきたい。
Another proposed solution to the problem of privacy argues that there are public and private events and that the latter have no place in science because science requires agreement by the members of a community. Far from avoiding the traditional distinction between mind and matter, or between experience and reality, this view actually encourages it. It assumes that there is, in fact, a subjective world, which it places beyond the reach of science. On this assumption the only business of a science of sensation is to examine the public events which may be studied in lieu of the private. 【原書281〜282頁】
感覚とイメージの操作的定義プライバシーの問題について提案された別の解決法では、公的出来事と私的出来事が存在すること、そして私的出来事については科学がコミュニティの同意を要請するので、科学の対象となりえないことを主張する。この見解は、心と物、あるいは経験と現実の伝統的な区別を回避するどころか、この区別を実際に促進する。その見解では、現実に主観的世界(それは科学の手の届かないところに置かれていた)の存在を仮定する。この仮定によると、感覚の科学が実践できることは、私的出来事ではなく、それに代わって研究できる公的出来事を検討することだけである。【翻訳書】

 The present analysis has a very different consequence. It continues to deal with the private event, even if only as an inference. It does not substitute the verbal report from which the inference is made for the event itself. The verbal report is a response to the private event and may be used as a source of information about it. A critical analysis of the validity of this practice is of first importance. But we may avoid the dubious conclusion that, so far as science is concerned, the verbal report or some other discriminative response is the sensation.【原書282頁】
現在の分析は、大きく変化してきた。私的出来事が単に推察されたものであるとしても、分析の対象として取り上げている。しかし、言語報告を、それから推察される私的出来事に置き換えることはしない。言語報告は、私的出来事に対する反応であり、私的出来事についての情報源として用いる。この実践の妥当性についての批判的な分析は、きわめて重要である。しかし、われわれは、科学の枠内で考えるかぎり、言語的報告あるいはその他の弁別的反応が感覚であるとするような、いかがわしい結論はしないであろう。【翻訳書】
(私たちがいま取り組んでいる)行動分析は、上記とは大きく異なる結論を出している。行動分析は、仮に推論に過ぎないことがあったとしても、私的出来事を研究対象とし続ける。しかし、推測によって私的出来事の言語報告を出来事自体に置き換えることはしない。言語報告は私的出来事についての反応の1つでり、その出来事の情報源の1つとして利用されるだろう。こうした作業の妥当性についての批判的分析は最も重要である。しかし、私たちは、科学として研究を進める限りにおいては、言語報告や他の種々の弁別反応が感覚そのものであるといった疑わしい結論を導くことは避けていくだろう。【長谷川訳】

 最後の「The private made public(私的な出来事が公的な出来事を作る)」という節は、見出しだけからは社会構成主義的な論調のように推測してしまうが、ここではそれほど大きなことは言っていない。私的な出来事と公的な出来事の間の明確な境界は存在せず、センサーの開発といった科学技術の進歩によって、その境界は常に移動し、それまで私的出来事としてしか捉えられなかったことが公的出来事化する可能性があるというような内容にとどまっていた。

次回に続く。