じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 半田山植物園中腹から眺める津山線「みまさかノスタルジー号」。写真右は先週撮影の再掲。なお、「みまさかノスタルジー号」は土日のみ2往復の運行となっているが、車両そのものは分割したり他の車両と連結したりして平日も走っているようだ。

2016年04月23日(土)


【思ったこと】
160423(土)トールネケ『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ』(7)プラグマティズムに基づく真理基準からみたABC

 昨日の続き。

 原書19頁以降(翻訳書26頁以降)には、「ABCとは何でないか」についての注意が記されている。少し長くなるが、その部分を引用させていただく。
When we describe a behavioral sequence in the way I have above and assign different terms to the different functions, it is easy to be misled in thinking that we've discovered a mechanical chain of events "out there in reality." But, as mentioned earlier, this is not what is intended. This type of discussion is simply a way of speaking and writing about behavior -a way that is useful for gaining both understanding and influence. In the constant flow of events we face, we can distinguish between different processes because it is useful to us to do so. This applies to all humans at all times, even those engaged in scientific study. Distinguishing between different processes, principles, antecedents and consequences, reinforcement and punishment, and so on is a behavior performed by the behavior analyst. Within this frame of reference, knowledge is seen as a skill for doing certain things; it is not an object that you discover or find yourself in possession of. Analyzing behavior from the perspective of radical behaviorism is not uncovering a hidden reality. Everything we do is acting on reality, or behaving. This means that our activity of performing ABC analyses is operant behavior, as well, governed by the consequences that the behavior analyst has previously met when doing this very activity. We do what we do because we have a history of connections between different antecedents, earlier behaviors, and consequences. We do it because it helps us reach certain goals.【原書19〜20頁】
行動の一連の流れを上記のように記述しで,それぞれの機能にそれぞれの用語を割り当てていくと,ついつい,「リアリティの中に」一連の出来事が機械的に(物理的に〕生じているのを発見したかのように考えてしまいそうにむる。しかし,先に触れたように,私たちが意図していることは,そういうことではない。その方怯は,単に,行動について話したり書いたりするためのやり方のひとつにすぎない。そして,その方法が,行動の理解と影響に役に立つ,ということなのである。私たちは,絶え間なく続く出来事の流れの中で,さまざまなプロセスを区別していく。それというのも,そうすることが自分自身にとって役に立つからである。そして,このように記述していくことは,いつでも誰に対しても適用可能なのである。もちろん,科学研究に従事する人たちも,その例外ではない。つまり,さまざまなプロセス,原理,先行事象と結果,強化と弱化などを区別することも,行動分析家によって遂行される行動として捉えることができる。この枠組みの中では,知識も,何かをするためのスキルと見なされる。つまり,知識は,発見したり,手に入れたりするようなモノではないのである。徹底的行動主義の視点から言えば,行動を分析するということは,隠されたリアリティを発見することを意味していない。私たちがするありとあらゆることは,リアリティに基づいて活動すること,つまりすべては行動なのである。これが意味しているのは,私たちがABC分析を行うといった活動もまたオペラント行動なのであり,そのため行動分析家が以前に同じ活動をしたときに出会った結果に制御されている,ということなのである。私たちはすることをするのである(We do what we do.)。それというのも,私たちは,さまざまな先行事象,以前の行動,そして結果の3つの事象間のつながりについての何らかのヒストリーを持っているからである。そして,それをすることが,特定の目標に到達する上で,有用だからなのである。
 こうした科学観は、今から40年前に刊行された、

●佐藤方哉(1976).行動理論への招待.大修館書店

ですでに示されており、当時大学院生であった私にも大きな影響を与えた。少し前に、佐藤先生追悼企画として掲載された、

●長谷川芳典(2011).『行動理論への招待』に招待された私.行動分析学研究, 26, 28-30.

のなかでも次のように引用させていただいたことがあった。

 「行動理論への招待」は行動分析学の基本概念の習得に大いに役立ったばかりではない。30数年経った今の私を方向付けてくれる重要な視点を少なくとも3つ含んでいた。
 第一の視点は、科学理論とは何かということについての示唆であった。15章「実験行動分析の課題」では、佐藤先生は科学理論について次のように記しておられる。
...科学理論には正しい理論とか誤った理論とかの区別があるわけではなく、有効な理論と有効でない理論の区別があるだけなのです。認識とは常に相対的なものなのです(p238)。
 また、それより少し前の236頁では、科学とは「自然のなかに厳然と存在する秩序を人間が何とかして見つけ出す作業」ではなく、「自然を人間が秩序づける作業である」という考え方を示しておられた。もちろん、自然界には確かに法則のようなものが人間から独立して存在する。それは、人類の誕生前から存在し、人類が滅亡した後でも、宇宙の構造が質的に変わらない限り、同じように存在するだろう。しかし、それを人間が認識するとなると話は違ってくる。科学的認識は、広義の言語行動の形をとるものであり、人間は、普遍的な真理をそっくりそのまま認識するのではなくて、自己の要請に応じて、環境により有効な働きかけを行うために秩序づけていくというのが、行動分析学的な科学認識であると考えてよいだろう。【以下略】

 もとの話に戻るが、脚注にも述べられているように、ABC分析では先行事象(A)や後続事象(結果、C)のすべてを解明し尽くすことは必ずしも必要ではない。
It is also important to remember that within behavior analysis we are aiming at usefulness, not necessarily at covering all possible aspects of an event.【原書18頁】
また忘れではならないのは,行動分析学では,役に立つかどうかが重要なのであり,出来事のすべての側面を網羅することが必ずしも重要ではない,ということである.【翻訳書25頁脚注6】
 そもそも行動の原因を網羅することは不可能であり、敢えて突き詰めていこうとすれば、究極的にはその行動が生じている地球がどのようにして誕生したのか、さらにはこの宇宙がどのようにして形成されていったのかも原因の1つに加えなければならなくなる。そうではなく、どういうニーズ(要請)のもとでその行動に焦点を当てているのか、どのような(操作可能な)要因が当該の行動を増やしたり(もしくは高頻度で継続させたり)減らしたりすることに影響を与えているのかを探り出すことに目を向けなければならない。

 次回に続く。