じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
GW後半、妻の実家に滞在中は、プリペイド型の「Y!モバイル」(旧称:「イーモバイル」)を利用してネットにつないでいたが、市場の変化にともなう利用者減少のため、2016年6月30日をもってサービス提供を終了となるため、今回が最後の利用となった。6月30日までのあいだには短期間の出張の予定もあるが、宿泊先のホテルでもたいがいWi-Fiサービスがあるため、わざわざ有料のプリペイドを利用する必要はない。 以下は記念画像
ただし、パソコン本体を再起動するど画面Eのような接続可能画面となった。この原因は不明。もっともこのエラーに悩まされるのも5月8日で最後となる。 |
【思ったこと】 160507(土)トールネケ『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ』(18)「考える」と人間の言語(4) 5月6日の続き。 第2章35頁以下(翻訳書51頁以下)では、思考をタクトすることをどのようにして学ぶのかが論じられている。その冒頭では、Skinnerの「weaken(弱まる)」が紹介されている。要するに、もともとは本人にとっても周囲の他者の人にとっても観察可能であった行為が、何らかの事情で他者からは観察できないほどに弱まっていくというアイデアである。 その一例として「数える」という行為が挙げられている。数えるというのはおそらくイントラバーバルの連鎖である。我々は普通、多数のモノがいくつあるのかを一目見ただけで言い当てることはできない。そこで順番に、「いち、に、さん、...」というように、ある数を発声したあとに、それを先行事象として、次の数を発声していく。こうすれば、どんなにたくさんのものであっても、直前に発生した数さえ覚えていれば正確に数え上げることができる。そのさい、小声で、もしくは声に出さなくても、数え上げることはできる。これが、思考の始まりということになる。 読書の場合も同様であり、文字を覚えたての子どもはしばしば、声を出して文章を読む。そのことによって、周囲から、読み間違えの指摘がなされ、かつ早く読めるようになっていく。しかし、時と場所によっては、声を出して読むと「ヤカマシイ」と叱られることがある。そうしているうちに、無言で読めるようになっていく。 思考が発声だけを土台にしていると考えると発声器官に障害のある人は全く思考ができないことになってしまうが、実際は、文字を書く、図を描くという行動も思考を支えているものと思われる。将棋や囲碁の棋士は、無言で次の一手を考えるが、覚えたての頃は、盤面で駒をいろいろに動かして(あるいは碁石をいろいろな場所に置き換えたりして)、最善手を探していたにちがいない。 トールネケ自身も述べているように、「もともとは社会的環境によって強化されていた行動の公的部分が徐々に薄れ、私的側面のみが残っていく」というプロセスだけで、「思考」や「考える」が説明できるとは考えにくい。むしろ、「完全に説明することなどできないかもしれない」とも述べられている。とはいえ、それらの行動が、外部から観察可能な諸行動と同じ原理で発せられているとする限りにおいては、「予測と影響(制御)」に有用な方策を提示することはできる。 原書37頁(翻訳書53頁)では、とりあえずの学習の道筋として、 1. We do something.というようにまとめられている。 次回に続く。 |