じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
教育学部構内にあるカイノキが色づき始めている。プレートに和気閑谷高校のお名前があったので検索したところ、こちらに経緯が記されており、岡大創立60周年を記念して岡山県立和気閑谷高校から寄贈されたものであることが分かった。 |
【思ったこと】 161114(月)関係反応についての講義メモ(9)実験による検証方法、あるいは類似した日常場面(7)「同一性」、「同じモノを選ぶ」、「どちらが多い」(2) 昨日に続いて、「同一性」、「同じモノを選ぶ」、「どちらが多い」の話題。 「同じモノを選ぶ」というのは通常、ある基準のもとで事物をいくつかのグループ(=集合)に分けた上で、同じグループに属するモノ(=要素)を選ぶという意味で使われている。昨日も取り上げた、 ▲ ▼ あるいは、 ▲ ▲ という2つの例では、「同じ形(相似形を含む)」、「同じ向き」、「同じ大きさ」というように基準が異なれば、グループの分け方も変わってくる。当然、「同じ」か「違う」かという判断も変わってくる。ちなみに図形の合同という時は「位置や向きといった一部の性質・量は変わるが、距離や角度といった性質・量は変わらないということである。」という基準で判断されている。 昨日も述べたように、ある物体が時間とともに移動していく場合は、位置は変わっても同一であると見なされる。獲物を追う動物にとっても、母親の後をついていく子どもにとっても、同一であると見なしたほうが都合がいいからである。 この同一性の前提がないと手品の魅力は成り立たない。空っぽの箱に玉子を入れてフタをしてから一回転させたらヒヨコが出てきたという手品が成り立つのは、「玉子を箱に入れても同一性は保たれる」という前提があり、それが打ち破られるという驚きをもたらすからにほかならない。但し、玉子の同一性は一定時間内のみで成り立つ。仮にその玉子が有精卵であり、箱が孵卵器であったとすると、産卵後20日くらいで孵化するので、そのあとでヒヨコが出てくることは何ら驚きにはあたらない。(←成体のニワトリが出てきたら驚きをもたらすだろうが。) もし、「同一性」が、「恣意的に設定された」基準もとでしか成り立たないとすると、自分自身の同一性はどうなってしまうのだろうか。「恣意的」であるとするなら、自己の同一性を恣意的に放棄すればその瞬間から別の人間に成り代わることができるはずであるが、多重人格を除けばまず不可能。また、ドラマや映画で使われる「人物の入れ替わり」なども現実には起こりえない。となると、自己の同一性を恣意的に変えられない何らかの要因があるはずで、それを明らかにすれば自分とは何かが分かることになる。 次回に続く。 | tr>