じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 雪と寒風に見舞われた前日とは異なり、1月16日(月)の岡山はよく晴れた。写真は夕日に照らされる黒正巌先生像。南西側から直接射し込む夕日のほか、図書館のガラスとマスカットユニオンのガラスに反射しており、3方向から同時に照らされている様子を眺めることができた。

2017年1月16日(月)




【思ったこと】
170116(月)二人称や三人称の苦悩(5)ルール支配行動と自己(2)

 1月15日の続き。

 トールネケ(2010、翻訳書2013)は、関係フレーム理論の立場から、「自分自身」の重要性を強調している。翻訳書213頁以降から重要と思われる記述を抜き出しておこう。
  • 人間が自分自身を体験すること,そして,自分自身と自分の行動を言語的に弁別する能力を持つことは,より高度なルール支配行動が可能となるための必要条件である。
  • 人間には関係フレームづけをする能力があるため,人間による自己弁別の複雑さは,他種と比べてはるかに大規模である。
  • 私たち人間は,自分の行動を,さまざまに違った関係フレームの中に当てはめることができる。このことは,私たちが,たとえば,「この動を一以前に,または後で」(時間的フレームづけ),「この行動を行わない」(対立のフレームづけ(oppositional framing]),「この行動をさらにもっと」(比較のフレームづけ),あるいは「この行動を,あそこで」(視点のフレームづけ),などに接触できることを意味しているーしかも,どれひとつとして,行動がその場で起きている必要がなく,また以前に起きたことがある必要さえもない。
  • このことに加えて,私たちは,自己の体験についても,それを関係フレームに当てはめることができる。言語行動を通じて,私たちは,「この行動を実行しているのは,私である」と弁別することを学習できる。私たちが,これを言語的視点取得を通じて行うことは,第5章で説明したとおりである。このスキルは,ルール支配行動と組み合わされて,個人が話し手と聞き手の両方を兼ねるような,自己生成(self-generated) ルールを形成する。
  • もしも,思考が関係フレームづけを通じて,基本的にどの方面からも嫌悪性の機能を獲得することができるとしたら,私
  • 自身についての思考もまた,嫌悪性の機能を獲得できる。 まずは直接的な経験を通じて起こることが考えられる。たとえば,私が何か苦痛なことを経験したら,これは直接的に私自身の体験と関係づけられる。
  • それはまた,ほかの人々による私についての話(ナラティブ)を通じて間接的にも,起こり得る。たとえぱ,私が頻繁に,私はあるべき姿をしていない,私は間違ったやり方をしている,私は悪い,あるいは,私はバカである,などと言われることを通じてである。
  • このような直接的方法と間接的方法が組み合わされたとしたら,私が自分自身についてさまざまな意味で苦痛なナラティブを発達させる確率は高くなり,そして,このナラティブを通じて,私は,人生が制約されるリスクを冒すことになる。
  • 人間は,言語的視点取得を通じて,自分自身を対象物として関係づけることを学習するため,次の問いを避けて通ることができない―私は,希求性(appetitive)だろうか,それとも嫌悪性だろうか?もっと日常の言葉で言うなら,この問いは,以下の言い方で表現できるかもしれない一私は,善いか悪いか? 私は,あるべき姿をしているだろうか? 私は,十分に善いだろうか?
 要するに、「自己」はアプリオリに存在するものではない。自分自身と自分の行動を言語的に弁別する能力が発達することで必然的に「自己」が生まれてくる。言語作用がすべてだとは言わないまでも、言語作用が自己の中核部分でありさまざまな自己を作り上げていることは間違いない。

 次回に続く。

 次回に続く。