じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
|
文学部、旧法文学部、旧教養部の石碑周辺のサツキツツジ。サツキは背が低く容易に刈り込みができることから石碑の周りに植えられることが多い。とはいえ、日頃の手入れを怠ると花の数が少なくなるようだ。
寺社の入口にある名前を記した石碑のことは「神社名碑」、「名号碑」などと呼ばれるそうだが、部局の名前だけを彫ったものは何と呼ぶのだろうか。 |
【思ったこと】 170522(月)ボーム『行動主義を理解する』(12)公的事象・私的事象・自然事象・架空事象(3) 5月20日に続いて、 ボーム(著)森山哲美(訳)(2016).『行動主義を理解する―行動・文化・進化―』 二瓶社. の話題。 52頁以降では心理主義に対して、「自律性(autonomy)」と「余計(superfluity)」という2点からの批判が詳しく述べられている。 まず「自律性」だが、単に「オペラント行動は、自発される」という意味での自律性であれば問題ないが、身体の中の隠れた部分に自律性を付与すると、行動の原因探究を阻むことになると論じられている。 これは、行動の原因をホムンクルスに委ねるようなものである。ホムンクルスはカルテジアン劇場として登場し、デカルト由来の概念かと思っていたが、もともとは、伝統的な意識のモデル(意識のホムンクルス・モデル)を批判するために、アメリカの哲学者・認知科学者のダニエル・デネットが提唱した概念だということだ。 もっとも、自己概念がすべてホムンクルスというわけでもないだろう。我々が、視点取りをしたり、自身が体験した過去の出来事と目前の出来事を重ね合わせて行動していく時に生じる独特の感覚を検討することも重要な課題ではある。また、こちらでも論じたように、スキナーはかなりの頁を割いて、自己について論じている。 元の話題に戻るが、「なぜそのようなことをしたのだ」という質問に対して、「そのように思ったからだ」「そういう気持ちにかられたからだ」「魔が差したのだ」といった見せかけの説明は、行動の説明とは言えない。もっともこれは、自律性という点での批判というより、冗長性(余計)という点からの批判に近いようにも思える。 次回に続く。 |